東京ヤクルトスワローズの背番号8番!歴代の選手や傾向をご紹介!

背番号の意味

こんにちは、みっつです。

縁起が良いと言われ、プロ野球でも人気のある番号となっている8番、東京ヤクルトスワローズでも中心選手や期待されている選手がつけるケースが多いようです。

お読みいただいている方も、東京ヤクルトスワローズの背番号8番をつけていた選手を、1人はご存知かもしれませんね!元高校球児である私も2人の選手が思い浮かびます(笑)

でも、歴代の全ての選手はご存じないかと思うので、今回は東京ヤクルトスワローズの歴代の背番号8番の選手をご紹介します。東京ヤクルトスワローズにおける、背番号8番の傾向もご紹介しますので、楽しみにしていてくださいね。

ご注意
ご紹介する内容は、筆者の思いや推測が含まれています。また正確さを保証している訳ではありませんので、御理解の上お読みください。

■目次(クリックすると飛びます)

歴代の背番号8番を背負った選手をご紹介

2018年のシーズン終了時点で、東京ヤクルトスワローズの背番号8番を背負った選手は、合計で11名になります。まずは、東京ヤクルトスワローズの背番号8番をつけた、歴代の選手を一挙にご紹介していきますね。

年 度年 数球 団 名選 手 名
1950年~1953年4年国鉄スワローズ福田勇一選手
1954年1年国鉄スワローズ千原雅生選手
1955年~1959年5年国鉄スワローズ鵜飼勝美選手
1960年~1963年4年国鉄スワローズ小西秀朗選手
1964年~1971年8年国鉄スワローズ・サンケイスワローズ・サンケイアトムズ・アトムズ・ヤクルトアトムズ丸山完二選手
1972年~1974年3年ヤクルトアトムズ・ヤクルトスワローズ内田順三選手
1975年~1983年9年ヤクルトスワローズ大杉勝男選手
1984年1年ヤクルトスワローズ空白
1985年~1994年10年ヤクルトスワローズ広沢克己選手
1995年1年ヤクルトスワローズ空白
1996年~ 1999年4年ヤクルトスワローズ辻発彦選手
2000年~2005年5年ヤクルトスワローズ佐藤真一選手
2006 ~2018年13年東京ヤクルトスワローズ武内晋一選手
2019年~東京ヤクルトスワローズ中山翔太選手

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東京ヤクルトスワローズの背番号8番の意味とは?

数字の8は、日本では末広がりの縁起の良い数字として扱われ、野球選手にとっても人気の番号です。そんな背番号8番、東京ヤクルトスワローズの歴代選手を見てみると、長打力のある選手がつけていた事が多いです。

1990年の東京ヤクルトスワローズの全盛時代、野村監督のID野球のもとで活躍をした広沢選手は、背番号8番のイメージが強くあります。また、期待の高い移籍組みにも背番号8番を与える傾向があり、そのなかには優勝に大きく貢献をした選手もいます。

背番号8番を背負って活躍した3選手をご紹介

東京ヤクルトスワローズの背番号8番のなかでも、チームの優勝等に大きく貢献した選手等、3人の選手をピックアップし、経歴ご紹介していきます。

*経歴については、日本プロ野球機構のホームページを参考にしました。

大杉勝男選手

生年月日  1945年3月5日 
出身地   岡山県勝田郡
投/打   右/右
プロ野球歴 日本ハムファイターズ(1965年~1974年)
      ヤクルトスワローズ(1975~1983年)
タイトル  本塁打王2回、打点王2回
表彰    ベストナイン5回、ダイヤモンドグラブ賞1回

大杉選手は、1965年にテスト入団で日本ハムファイターズ(当時の東映フライヤーズ)に入団をしました。月に向かって打てを合言葉に練習を重ね、入団4年目(1968年)に開花をすると、3年連続で30本塁打を記録します。

1970年には44本の本塁打を放って、本塁打王のタイトルを獲得すると、翌年も41本を放って連続でタイトルを獲得しました。1975年に、チームの若返り策から、ヤクルトスワローズへ移籍をします。

移籍後はスランプに陥りますが、その後の努力を重ねることで、1978年のリーグ優勝には大きな貢献をいたしました。

私が大杉選手の現役生活の中で、最も印象に残っているのは、引退試合のセレモニーでの挨拶です。セリーグ、パ・リーグ両リーグでの200本ホームランにあと1本と迫りながら、不整脈や奥様が入院生活を送っていた事で引退に追い込まれてしまった大杉選手は、

最後に、わがまま気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、この1本をファンの皆様の夢の中で打たして頂きますれば、これにすぐる喜びはございません

引用元:wikipedia  

という言葉を残しました。高校球児だった私は、夢の中でうたせてくれという言葉に、とても感動した記憶があります(^_^;)

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広澤克己(克実)選手

生年月日  1962年4月10日 
出身地   茨城県結城市
投/打   右/右
プロ野球歴 ヤクルトスワローズ(1985~1994年)
      読売ジャイアンツ(1995年~1999年)
      阪神タイガース(2000年~2003年)
タイトル  打点王2回
表彰    最多勝利打点2回、ベストナイン4回

ドラフト1位でヤクルトスワローズに入団した広沢選手は、大杉勝男選手が引退して空白になっていた背番号8番を受け継ぎました。1年目から即レギュラーの座をつかみ取り、パンチ力のあるバッティングで活躍をいたします。

バットが短く見えるほど、リーチを活かしたスイングで、特にセンターから右方向への本塁打を多く放ちました。また、ケガにも強かった広沢選手は、1987年から9年連続でフル出場を果たし、チームの優勝にも大きく貢献をしています。

当時、野村監督のID野球の下で、豪快なプレーの4番打者としてチームを支え、特に池山選手との「イケトラコンビ」は、ファンからも抜群の人気を得ていました。

ヤクルトスワローズ、読売ジャイアンツ、阪神タイガースの3球団で4番打者を勤めた、まさに和製大砲といえる選手でした。しかし、広澤選手が最も輝いていたのは、ヤクルトスワローズで過ごした10年間ではなかったかと思います。

10年間全てで年間100試合以上出場して、2回の打点王に輝く反面、3回の三振王にもなっているのが、豪快なバッティングの広澤選手らしいです(^_^;)

武内晋一選手

生年月日  1983年12月10日 
出身地   兵庫県神戸市
投/打   左/左
プロ野球歴 東京ヤクルトスワローズ(2006年~2018年)
タイトル  特になし

武内選手は早稲田大学野球部時に、大学リーグ4年間で通算102安打を放ち、4年生の時は主将として、首位打者と打点王の2冠に輝きました。

ドラフトでは希望枠選手として、ヤクルトスワローズに入団をすると、その期待の高さから、当時、準永久欠番になっていた背番号8が与えられました。

2007年、入団1年目の開幕から一軍選手として登録されると、プロ初安打で3ランホームランを放つなど、勝負強いバッティングで活躍を見せます。その一方で、本来内野手の武内選手でしたが、チーム事情から外野守備を任される機会が多くなります。すると、中々、守備が安定せずに、一軍と二軍を往復することが多くなります。

2010年には、外野手登録から内野手登録へと変更されるものの、やはり外野手としての出場が多くなりました。2012年度には、ヤクルトの選手会長に就任しています。

2018年のシーズンを最後に現役を引退した武内選手、ツイッターには惜しむような投稿が多く寄せられていました。

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当ブログでは、他にも東京ヤクルトスワローズや球団別の背番号に関しての話題を提供しています。よろしければご覧になってみてくださいね。
東京ヤクルトスワローズの話題
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まとめ

今回は、東京ヤクルトスワローズの背番号8番について特集してきましたが、いかがだったでしょうか?

東京ヤクルトスワローズの背番号8番をつけた選手は、長打力が売り物の選手が多いという傾向がありました。代表格が、大杉勝男選手と広澤克実選手ですが、個人的に体型やプレースタイルが似ていると思っています(^_^;)

2019年より東京ヤクルトスワローズの背番号8番をつける中山翔太選手、そろそろ勝負の年齢となってきました。今後どのような活躍を見せてくれるか、注目していきたいと思います。

最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。

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