こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
日本人初のメジャーリーガー
今でこそ日本人のメジャーリーガーは珍しくなくなったものの、50年以上前となると憧れのアメリカで憧れのメジャーリーガーに日本人がなるなんて、夢のような事だったでしょう。
そんな夢をかなえたのが村上雅則選手です。村上選手は20歳という若さでメジャーリーグに初出場を果たしました。
今回は、福岡ソフトバンクホークスの背番号10番を特集します。村上選手もつけていた前身球団を含めて全ての背番号10番の選手をご紹介します。
そして、10番をつけて活躍した選手や傾向といった事にも触れていきますので、楽しみにしてくださいね。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号10番を背負った選手をご紹介
2019年のシーズン開幕時点で、これまでにソフトバンクホークスの背番号10番を背負った選手は、合計で25名になります。まずは、ソフトバンクホークスの背番号10番を背負った歴代の選手を、古い順から一挙ご紹介します。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
1938年 | 1年 | 南海軍 | 西端利郎選手 |
1939年~1940年 | 2年 | 南海軍 | 戸田与三郎選手 |
1941年~1943年 | 3年 | 南海軍 | 猪子利男選手 |
1944年~1945年 | 2年 | 近畿日本軍 | 空白 |
1946年 | 1年 | 近畿グレートリング | 阪本政数選手 |
1947年 | 1年 | 南海ホークス | 阪田清春選手 |
1948年 | 1年 | 南海ホークス | 三村正選手 |
1949年~1953年 | 5年 | 南海ホークス | 江藤正選手 |
1954年~1957年 | 4年 | 南海ホークス | 大戸雄記選手 |
1958年~1959年 | 2年 | 南海ホークス | 空白 |
1960年~1961年 | 2年 | 南海ホークス | 東実選手 |
1962 | 0.5年 | 南海ホークス | 新山彰忠選手 |
1962年~1963年 | 1.5年 | 南海ホークス | 村上雅則選手 |
1964年~1965年 | 2年 | 南海ホークス | 空白 |
1966年~1968年 | 2.5年 | 南海ホークス | 田坂正明選手 |
1968年~1975年 | 6.5年 | 南海ホークス | 島野育夫選手 |
1976年~1977年 | 2年 | 南海ホークス | 望月充選手 |
1978年~1985年 | 8年 | 南海ホークス | 中出謙二選手 |
1986年~1989年 | 3.5年 | 南海ホークス~福岡ダイエーホークス | 中村弘道選手 |
1989年 | 0.5年 | 福岡ダイエーホークス | 西村英嗣選手 |
1990年 | 1年 | 福岡ダイエーホークス | 西俊児選手 |
1991年 | 1年 | 福岡ダイエーホークス | エディ・ウィリアムス選手 |
1992年~1993年 | 2年 | 福岡ダイエーホークス | 作山和英選手 |
1994年 | 1年 | 福岡ダイエーホークス | ケビン・ライマー選手 |
1995年~2009年 | 15年 | 福岡ダイエーホークス~福岡ソフトバンクホークス | 本間満選手 |
2010年~2013年 | 4年 | 福岡ソフトバンクホークス | 中原恵司選手 |
2014年~2015年 | 2年 | 福岡ソフトバンクホークス | 李大浩選手 |
2016年~2017年 | 2年 | 福岡ソフトバンクホークス | 空白 |
2018年~ | 福岡ソフトバンクホークス | 大竹耕太郎選手 |
25名という、比較的短い期間で選手が変わっているのが特徴と言えますね。その中で、15年つけていた本間選手が際立って長くなっています。
背番号10番を背負って活躍した3選手のご紹介
次に、これぞソフトバンクホークスの背番号10番と呼べる3名をピックアップし、経歴をご紹介いたしますので、是非参考にしてください。
村上雅則選手
出身地 山梨県北都留郡
投/打 左/左
プロ野球歴
南海ホークス(1962年~1963年)
サンフランシスコ・ジャイアンツ(1964年~1965年)
南海ホークス(1966年~1974年)
阪神タイガース(1975年)
日本ハムファイターズ(1976年~1982年)
タイトル 最高勝率:1回
村上選手は1962年9月、法政二高に在学したままで、南海ホークスに入団しました。そして、3年目となる1964年には、アメリカ大リーグのサンフランシスコ・ジャイアンツのマイナーチームに野球留学をするなど、異色の経歴を辿ります。
当初、マイナーチームでプレイをしていた村上選手でしたが、同年8月末には日本人初のメジャー・リーガーとしてマウンドに立ちました。主にセットアッパーとして活躍を見せた村上選手は、日本人メジャー・リーガーの先駆者と言われています。
この1964年にはリリーフでメジャー初勝利もあげましたが、日本では東京オリンピックの話題で持ちきりで、大きく取り上げられる事はなかったといいます。
その後、1966年に南海ホークスに復帰した村上選手は、起用法の違いから球団と衝突し、思うような記録が残せませんでした。しかし、帰国3年目の1968年のシーズンには18勝を挙げて、チームに大きく貢献するとともに、日本人初のメジャー・リーガーとしてのプライドを保ちました。
実は村上選手のアメリカ行きは、南海ホークスに入団する条件だったのです。
大学進学を決めていた村上選手でしたが、当時の南海ホークスの鶴岡一人監督の目にとまります。そしてアメリカに行かせるという条件をつけて村上選手を説得、これを受けた村上選手の南海ホークスの入団が決まりました。
村上選手がメジャーリーガーになった後、日本人2人目のメジャーリーガーは野茂秀雄選手となります。しかし村上選手から30年後という事を考えると、もうレジェンドという言葉がピッタリかなと感じてしまいますね。
そんな村上選手のプレーを、私は1度だけ観た事があります。それは1976年の後楽園球場での試合でした。日本ハムファイターズに所属していた村上選手がリリーフピッチャーとして登板してきました。
もう古い話で、対戦相手や投球内容は覚えていません。唯一鮮明に覚えているのが、投球練習中に流れてきた歌が研ナオコさんの『LA-LA-LA(ラ-ラ-ラ)』という歌だったという事です。
今でこそ選手の登場に合わせて音楽が流れるのは当たり前になりましたが、当時は珍しかったと記憶しています。そして、なぜ研ナオコさんだったのか?日本ハムファイターズが用意した歌だったのか?村上選手の趣味だったのか?
色々と疑問が出てきますが、今となっては知る由もないですね(^_^;)
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島野育夫選手
出身地 栃木県宇都宮市
投/打 左/左
プロ野球歴 中日ドラゴンズ(1963年~1968年)
南海ホークス(1968年~1975年)
阪神タイガース(1976年~1980年)
タイトル ダイヤモンドグラブ賞:3回
島野選手は1963年に中日ドラゴンズへ入団をしますが、外野の厚い選手層から、中々試合出場の機会が得られませんでした。しかし、入団5年目の1968年のシーズン途中に南海ホークスに移籍すると、出場機会にも恵まれ一気に頭角を現します。
移籍の翌年の1969年には初めて規定打席にも達し、俊足好打の外野手として活躍します。主に、チームのリードオフマンとして、1973年には1番打者として61盗塁を記録、ダイヤモンドグラブ賞を受賞しました。
選手としても活躍を見せた島野選手でしたが、引退後にコーチとして就任をすると、更にその能力を発揮します。相手の癖を見つけることに長けていた島野選手は、「クセ盗みの名人」と称されるほどでした。
特に、島野選手は星野仙一監督との相性が良く、星野監督が中日ドラゴンズと阪神タイガースに監督として就任をすると、作戦参謀としてチームを躍進させました。
闘将と呼ばれた星野監督よりも、島野コーチは「100倍怖かった」と、当時の選手からは恐れられていたエピソードが残っています。
私の島野選手の思い出というと、南海ホークスから阪神タイガースへの移籍が決まった大型トレードです。当時は小学生だった私は、トレードというと1対1であるとばかり思っていました。
ところが、島野選手を含め南海ホークスからは4選手、阪神タイガースからは2選手という想像していなかったトレードにビックリして、その晩はなかなか寝付けませんでした。
寝付けないなんてオーバーに聞こえるかもしれませんが、当時の私はまだ小学生で感受性がまだまだ豊かだったんです(^_^;)
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本間満選手
出身地 北海道留萌市
投/打 右/左
プロ野球歴 福岡ソフトバンクホークス(1995年~2009年)
タイトル 特になし
本間選手は、南海時代から80年を超える歴史の中で、最も長く(15年間)背番号10番を背負った選手です。
しかし、本間選手は、強力な内野陣に阻まれて、中々出場機会に恵まれず、2軍で規定打席に達したのは入団5年目のシーズンでした。それでも、内野のユーティリティー・プレーヤーとして重宝され、1軍選手が故障の時などは攻守に渡って貢献します。
また、打撃面では、入団2年目に右打ちから左打ちにコンバートします。さらに王貞治監督の直接の指導により、バットを短く持つスタイルに変更をし、結果が残せるようになりました。
王貞治監督に気に入られていた本間選手は、監督が指揮を執った14年間をともにした唯一の選手でもあります。
本間選手は規定打席に達した事はありませんでしたが、内野ならどこでも守れる選手という事でチームにとって非常に貴重な存在だったに違いありません。苦楽を共にした王監督も、本間選手の存在は頼もしかったのではないでしょうか。
また本間選手にとっても、どこでも守れるというのが強みになって、長い選手生活を送れた一因と言えるでしょうね!
背番号10番を付けた選手の傾向とは?
日本プロ野球界においても、最も傾向が見られない背番号が10番になります。
過去の歴史を紐解いてみますと、背番号10番を背負った名選手は、投手や野手に関係なく存在します。また、背番号10番を永久欠番とする球団は3球団存在しますが、その背景もまちまちです。
投手として輝かしい成績を残した阪神タイガースの村山選手、戦争を挟んで復帰し活躍が認められた中日ドラゴンズの服部選手、そして10人目の野手としてファンを永久欠番とした楽天イーグルスになります。
ソフトバンクホークスのこれまでの歴史を見ても、投手から捕手、内野手、外野手が背番号10番を付けており、その傾向は見られません。
また、これまでに背番号10番を付けた選手が、2019年にシーズン開始時点で25人目もいることから、中々、選手に定着をしないことが背番号10番の傾向ともいえます。
福岡ソフトバンクホークスに関しての話題はこちらからどうぞ。
⇒ソフトバンクホークスの話題
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背番号別の特徴に関しての話題を提供しています。
⇒背番号別の特徴
おわりに
今回は、福岡ソフトバンクホークスの背番号10番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?
背番号10番は、多くのプロ野球の球団でつけてきた選手の傾向が見られない番号です。ソフトバンクホークスでも、全てのポジションの選手がつけてきました。
2018年からは、ピッチャーの大竹耕太郎選手がソフトバンクホークスの背番号10番を背負っています。本間選手のように長くソフトバンクホークスの背番号10番をつけて活躍できるのか、注目していきたいと思います。
最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。