巨人軍の背番号3番!ミスターもつけた歴代の3番の選手とその傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

我が巨人軍は永久に不滅です!

という言葉を最後に、現役を引退したミスタープロ野球こと長嶋茂雄さん。引退して45年が経ちましたが、未だに特別な存在としてプロ野球ファンの心に存在していますね。

記録より記憶に残る選手とは言われましたが、6回の首位打者をはじめホームラン王や打点王にも輝いていて、決して記憶だけの選手ではありませんでした。

長嶋選手がつけた事によって永久欠番となった巨人の背番号3番を、今回は特集したいと思います。背番号3番を背負った全ての選手のご紹介や、選手の傾向について触れていきますので、楽しみにしてくださいね。




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歴代の背番号3番を背負った選手をご紹介

これまでに読売ジャイアンツの背番号3番を背負った選手は、合計4名になります。まずは読売ジャイアンツの背番号3番を背負った歴代の選手を古い順番にご紹介します。

年  度年 数球 団 名選 手 名
1935年1年大日本東京野球倶楽部田部武雄選手
1936年~1942年7年東京巨人軍中島治康選手
1943年~1945年3年東京巨人軍空白
1946年~1957年12年東京巨人軍~読売ジャイアンツ千葉茂選手
1958年~1974年17年読売ジャイアンツ長嶋茂雄選手
1975年~1999年25年読売ジャイアンツ空白(永久欠番)
2000年~2001年2年読売ジャイアンツ長嶋茂雄監督
2002年~読売ジャイアンツ空白(永久欠番)

背番号3番を背負った選手の経歴をご紹介

次に、3番を背負った選手の経歴を、古い順からご紹介していきます。

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田部武雄選手

生年月日  1906年3月28日
出身地   広島県広島市
投/打   右/右
プロ野球歴 大日本東京野球倶楽部(1935年~1936年)
タイトル  特になし

田部選手は、巨人の前身である大日本東京野球倶楽部で背番号3番をつけ活躍しました。

1935年当時の大日本東京野球倶楽部は、今の日本プロ野球のようなチームではなく、日本代表としてアメリカに遠征、109試合を戦い75勝33敗1引き分けという好成績を残しています。

これはアメリカのチームがメジャークラスではなく、マイナークラスだった事も影響したようです。

この遠征で田部選手は109試合で105個もの盗塁を決め、本場アメリカのファンの度肝を抜きました。

翌1936年にもアメリカへの遠征では、ピッチャーとしても大活躍して、沢村栄治選手とともにメジャーリーグから誘いを受けたといいます。

素晴らしい活躍をみせた田部選手でしたが、帰国後に選手生命を絶たれるような重大な問題に直面してしまいます。

2代目の主将に任命されていた田部選手は、選手の球団への不満を上層部にぶつけて衝突、結果として巨人軍を去る事となってしまいました。

そこで阪急軍に移籍を試みましたが、巨人軍との契約書に移籍は認めないという文言があったため断念、大日本東京野球倶楽部に入団前に所属していた満州の大連実業に復帰し、野球を続けたのです。

日本のプロ野球のリーグ戦には出場できなかった田部選手ですが、日本の野球に対する功績が認められて、1969年には野球殿堂入りを果たしました。

中島治康選手

生年月日  1909年6月28日
出身地   長野県松本市
投/打   右/右
プロ野球歴 
読売ジャイアンツ (1934年~1943年、1946年?1949年)
大洋ホエールズ(1950年~1951年)
タイトル  首位打者:2回、本塁打王:2回、打点王:4回、最多安打:3回
表彰    ベストナイン:1回、MVP:1回

田部選手が1936年から背番号1番に変更になった後を受けて、背番号3番をつけたのが中島選手です。

中島選手は、長野県の名門松本商業(現松商学園)で4番のエースとして1928年の夏の甲子園に出場し優勝を果たしました。その後、早稲田大学、藤倉電線を経て、巨人軍の前身となる大日本東京野球倶楽部に入団します。

1936年からプロ野球としてのリーグ戦が始まると、1936年秋に38試合で打率.361、10本塁打、38打点を記録し、日本プロ野球史上初の三冠王に輝きました。

その後も打撃の神様こと川上哲治選手らと中軸を担い、選手兼任監督としても1943年にチームを5連覇に導きました。しかし、1944年には戦争による応召のため、チームを退団することとなります。

戦後の1946年に選手兼任監督としてチームに復帰しますが、選手としても監督としても思うような結果が残せず、1950年に大洋ホエールズに移籍し翌年に引退しました。

中島選手は、当時としては桁外れのパワーの持ち主として知られています。巨人の球団通算第1号の本塁打を放ったのは中島選手です。
また、1948年に39歳の時に打った満塁ホームランは、2018年に阿部慎之介選手が更新するまで70年に渡り球団最年長記録として残っていました。

1963年には、日本プロ野球史上初の三冠王にも輝いた実績が評価されて、野球殿堂入りを果たしています。

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千葉茂選手

生年月日  1919年5月10日
出身地   愛媛県西条市
投/打   右/右
プロ野球歴 読売ジャイアンツ (1938年~1941年、1946年~1956年)
タイトル  ベストナイン:7回

千葉選手は、中島選手の後の3年間の空白期間を経て、1946年より3代目の背番号3番をつけた選手となりました。

千葉選手は、愛媛の名門松山商業学校(現在の松山商業高校)に入学から1938年に東京巨人軍に入団します。2年目に二塁手のレギュラーを獲得すると、川上哲治選手や青田昇選手らと共に活躍しました。

千葉選手は、右打ちや巧打の名手として知られ、現役通算96本塁打のうち81本がライト方向だったそうです。また、「バットにとりもちが付いている」と呼ばれるほどファールで粘った末に四球を選んで出塁するなど、チームバッティングに徹した選手でした。

現役引退後は、1958年に近鉄パールスの監督に就任しますが、その際、千葉選手の現役時代の愛称である「猛牛」から、近鉄バファロー(後にバファローズに変更)にチーム名が変更されました。

そしてチームのマークは、千葉選手の友人だった岡本太郎さんのデザインだったそうです。

また、千葉選手が行きつけだった洋食店にカレーライスの上にカツレツを乗せて欲しいとお願いして食べ始め、カツカレーが生まれたとされています。

これには別の説があり、大正時代に丼の上にトンカツをのせてカレーをかけた河金丼なるメニューがありました。しかし、カツカレーと名乗ったのは千葉選手行きつけの洋食店が最初である事は間違いなさそうです。

千葉選手の功績が評価されて、1980年には野球殿堂入りを果たしています。

長嶋茂雄選手

生年月日  1936年2月20日
出身地   千葉県佐倉市
投/打   右/右
プロ野球歴 読売ジャイアンツ (1958年~1974年)
タイトル  首位打者:6回、本塁打王:2回、打点王:5回、最多安打:10回
表彰    最優秀選手:5回、新人王:1回、ベストナイン:17回、ダイヤモンドグラブ賞:2回

1958年からは、いよいよミスタープロ野球の長嶋選手が背番号3番をつけました。

長嶋選手は、「ミスタープロ野球」の他にも「ミスタージャイアンツ」の愛称で多くのファンに愛され、日本プロ野球史上、最も人気のあった選手の1人です。

佐倉第一高校(現佐倉高校)時代はそこまで有名な選手とは言えませんでしたが、立教大学に進学すると、首位打者や5シーズン連続でベストナインに選出されるなど六大学野球のスター選手となりました。

当然多くの球団の目に止まり、南海ホークスへの入団が有力視されていましたが、読売ジャイアンツの熱心により巨人に入団することとなります。

鳴り物入りで入団した長嶋選手でしたが、デビュー戦で金田正一選手から4打席連続でフルスイングの三振を喫したことは、後に語り継がれる伝説の1つとなっています。

それでも1年目から4番に座ると、2019年に阪神の近本選手に破られるまでセ・リーグ記録として残る年間153安打を放ち新人王を獲得するなど、大活躍しました。

その後も、王貞治選手らと共にV9や黄金期と称される時代を築き、日本球界一のスター選手としてプロ野球人気の獲得に貢献します。

選手として、通算打率.305、2471安打、444本塁打などの記録のほか、入団から引退まで17年連続でベストナイン選出をはじめとする数多くのタイトルを獲得するなど堂々たる成績を残しました。

記録だけでなく、天覧試合や大一番での活躍、ライバル選手との名勝負、そのキャラクターなど、記憶にも残る選手でしたが、1974年に「我が巨人軍は永久に不滅です!」の名言を残して引退しました。

監督としても通算15年に渡って読売ジャイアンツを率い、5度のリーグ優勝と2度の日本一に輝いています。

1975年以降は永久欠番となっていましたが、2001年から2年間、監督として復帰した際に3番をつけて采配を振るいました。

長嶋選手もまた、1988年に野球殿堂入りを果たしました。

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背番号3番をつけた選手の傾向とは?

現在、読売ジャイアンツの背番号3番は、長嶋選手の功績により永久欠番となっています。他の球団でも、広島の衣笠選手、メジャーリーグでもヤンキースのベーブ・ルース選手の背番号3番が永久欠番となっています。

永久欠番とはなっていませんが、西武時代の清原選手、中日の立浪選手、福岡ダイエーホークスの松中選手など各球団の顔とも言える強打の内野手が背番号3番を背負ってきました。

現役の選手では、楽天の浅村選手や中日の髙橋選手など、各球団から大きな期待がかけられている選手が背番号3番を背負っています。

また、過去にソフトバンクの松田選手が、成績に納得いかずに背番号3番を返上するなど、非常に重みのある背番号です。

このように、日本のプロ野球では野手が主につける番号となっていて、ご紹介した通り巨人でも全員がチームを代表する内野手がつけてきました。

巨人軍の背番号3番をつけた選手は数少ないとはいえ、全員が野球殿堂入りを果たしていまます。それだけ日本のプロ野球に貢献してきた選手ばかりであると言えますね。
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おわりに

今回は、巨人軍の背番号3番について特集してきましたが、いかがだったでしょうか?巨人ではチームの主力となる内野手がつけてきた傾向があるのがわかりましたね。

巨人の背番号3番は永久欠番なので、もう他の選手がつける事はないと思います。しかし、長嶋選手のような誰からも愛されるような新たなスーパースターが生まれることを期待したいですね。

最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。