日本ハムファイターズの背番号3番!歴代の3番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

どんなに優秀なプロ野球選手であっても、必ずやってくるのは現役引退ですよね。球団から戦力外と言われて引退するケースや、体力の限界などで自ら引退を決意するケースもあります。

どのようなケースでも、引退する年に発表して引退する事がほとんどですが、2018年の契約更改で翌2019年での引退を表明した、非常に珍しい選手がいます。

その選手とは、北海道日本ハムファイターズの田中賢介選手です。

今回は田中選手もつけていた、北海道日本ハムファイターズの背番号3番の特集です。背番号3番をつけてきた全選手と特に活躍した3選手をご紹介します。さらに3番をつけてきた選手の傾向もご紹介しますので、楽しみにしてくださいね。




歴代の背番号3番を背負った選手をご紹介

2019年のシーズン終了時点で、北海道日本ハムファイターズの背番号3番を背負った選手は15名います。まずは15名を年代の古い順からご紹介していきます。

年  度年 数球 団 名選 手 名
1946年~1951年6年セネターズ~東急フライヤーズ急映フライヤーズ~東急フライヤーズ大下弘選手
1952年~1954年3年東急フライヤーズ~東映フライヤーズ空白
1955年1年東映フライヤーズ常見昇選手
1956年~1960年5年東映フライヤーズ石原照夫選手
1961年~1964年4年東映フライヤーズ緋本祥好選手
1965年~1967年3年東映フライヤーズ坂崎一彦選手
1968年1年東映フライヤーズ大下弘監督
1969年~1971年3年東映フライヤーズ大橋譲選手
1972年1年東映フライヤーズ空白
1973年1年日拓ホームフライヤーズ大杉勝男選手
1974年1年日本ハムファイターズレイ選手
1975年1年日本ハムファイターズジェスター選手
1976年~1980年5年日本ハムファイターズ富田勝選手
1981年1年日本ハムファイターズ空白
1982年~1983年2年日本ハムファイターズ山本桂選手
1984年~1995年12年日本ハムファイターズ白井一幸選手
1996年1年日本ハムファイターズ空白
1997年~1998年2年日本ハムファイターズ落合博満選手
1999年1年日本ハムファイターズ秦真司選手
2000年~2012年13年日本ハムファイターズ~北海道日本ハムファイターズ田中賢介選手
2013年~2014年2年北海道日本ハムファイターズ空白
2015年~2019年5年北海道日本ハムファイターズ田中賢介選手

田中選手の通算18年と、白井選手の12年が目立っていますね。また大下選手が選手だけではなく、監督になった際も背番号3番をつけた事も面白いですね。

背番号3番を背負って活躍した3選手のご紹介

次に、北海道日本ハムファイターズの背番号3番をつけた中から、特に印象深い3名を紹介しますので、ぜひご覧ください。

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田中賢介選手

生年月日  1981年5月20日
出身地   福岡県筑紫野市
投/打   右/左
プロ野球歴 
日本ハムファイターズ(2000年~2012年)
サンフランシスコ・ジャイアンツ(2013年)
北海道日本ハムファイターズ(2015年~2019年)
表彰他   ベストナイン6回 ゴールデングラブ5回
      オールスター出場3回

まずは、最初にご紹介しました田中選手からです。

福岡・東福岡高校時代は春夏合わせて3回甲子園に出場した田中選手。初めて甲子園に出場した2年生の選抜では、1学年上の横浜高校・松坂大輔選手と対戦、チームは残念ですが敗れました。

田中選手は1安打を放ちます。このときエースを務めていたのは後に横浜・巨人で活躍する村田修一選手、捕手はホークスに入団する大野隆治選手です。

1999年のドラフト会議では2位指名ながらファイターズと中日・西武の3球団から指名を受けた田中選手。高校生ルーキーに背番号「3」を与えるほどの期待のルーキーでした。

1年目の2000年シーズンから二軍で打率.313をマークするなど期待通りに成長するかと思われましたがなかなか一軍に定着することができず、レギュラーを獲得したのはプロ7年目の2006年となります。

この年、ファイターズとして初の日本一に輝き、田中選手も一軍で規定打席に到達し、打率.301 リーグトップの34犠打を記録する大活躍でチームを支えました。

以降は「2番・セカンド」を定位置とした田中選手は2011年、2012年は試合中のケガが原因で100試合を割り込みますが、それ以外はほぼフル出場を続けます。

2012年オフ、海外FA権を行使してサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍するも出場機会に恵まれず、MLB2年目の2014年にはテキサス・レンジャースのAAA級でプレー。

2015年には再び、北海道日本ハムファイターズに復帰、そして背番号「3」を再び着用します。

復帰後はセカンドの定位置は変わらないものの、勝負強い打撃を買われ打順は3番を務めることが多くなりました。2016年の日本一にも「3番・セカンド」として貢献しました。

2017年からは成績が下降気味となり、また若手起用の方針により出番が減ります。しかし腐ることなく、むしろ積極的にチームを陰から支え続けます。

2018年オフの契約更改後の会見で2019年シーズン限りでの引退を表明、2019年9月27日、対オリックス戦で引退試合に臨みました。

この試合で4打数2安打を放ち、最後は慣れ親しんだ札幌ドームのセカンドの守備に就き、日米通算19年に渡る現役生活に幕を下ろしました。

2018年のオフに、2019年で現役引退を発表しましたが、本当は2018年での引退を決意していました。しかし周りからの説得を受け入れて、引退を1年間延長したという事です。

それは、2019年までプレーする事によって、応援してくれた方々に対する感謝の気持ちがあったといいます。

一度引退を決意しながら撤回するというのは、気持ちの切り替えという面でも大変な事ではないでしょうか?それでも敢えて実行したのは、『周りの方々に支えられて野球が出来た』といった感謝の表れなのでしょうね。

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大下弘選手


*写真は西鉄ライオンズ時代のものです

生年月日  1922年12月15日~1979年5月23日(没)
出身地   兵庫県神戸市
投/打   左/左
プロ野球歴 東急フライヤーズ(1946年~1951年)
      西鉄ライオンズ(1952年~1959年)
タイトル  首位打者3回、本塁打王3回
表彰他   最優秀選手1回、オールスター6回出場、日本シリーズMVP1回

現在の北海道日本ハムファイターズの祖先を辿ると、戦後間もなくに誕生したセネターズという球団に行き着きます。そのセネターズの看板打者にして、戦後の日本プロ野球に希望の光を灯した選手こそ、大下弘選手なのです。

大下選手の魅力は「ホームラン」でした。終戦からわずか3か月後の1945年11月に開催されたプロ野球東西対抗戦でデビューを果たした大下選手はいきなりさく越えホームランを放ち、ファンばかりか対抗戦に出場していた選手たちの度肝を抜きます。

翌1946年、復活したペナントレースでも大下選手の豪打は爆発、当時としては異次元の20本塁打を達成。プロ野球に空前の「ホームランブーム」を呼びました。

同時期、巨人で4番を務めていた川上哲治選手は「打撃の神様」と呼ばれるほどの打者ですが、典型的な中距離ヒッターでした。

その川上選手ですら大下選手の影響を受け、翌1947年は「赤バット」を手にホームラン狙いのバッティングに徹したほどです。

赤バットの川上選手に対抗し、大下選手は「青バット」を使用します。もっとも、戦後間もない時期のことですので、メーカーが製作したものではなく、青バットは大下選手が自らバットに塗料を塗って作っていました。

色付きバットは1947年シーズン限りで使用禁止となり、使っていたのはわずか1シーズンでしたが、それでも大下選手と言えば青バット、と言われるほどのインパクトを後年まで残していることでも、いかに大下選手が人々に残した印象が鮮烈だったかが伺えます。

1952年シーズンからは西鉄ライオンズに移籍。そこでは中西太・豊田泰光両内野手や稲尾和久投手らと「野武士軍団」と呼ばれる最強軍団を結成。

大下選手は四番打者としてチームの中心にどっかりと座り、1956年から3年連続で巨人を日本シリーズで撃破。1959年に引退するまで、背番号は「3」のままでした。

1968年、セネターズの後身、東映フライヤーズの監督に就任。このときも当然のように背番号は「3」。そのユニフォーム姿は人気を誇りました。

大下選手が愛用した青バット、なぜ1947年に禁止になったのでしょうか?どうも色付きバットでボールを打つと、ボールに色がついてしまうのが原因だったようです。

当時は塗料や塗料を塗る技術が未熟で、禁止されてしまいました。今は一部の色で使用できるようになっています。

白井一幸選手

生年月日  1961年6月7日
出身地   香川県さぬき市
投/打   右/両
プロ野球歴 
日本ハムファイターズ(1984年~1995年)
オリックス・ブルーウェーブ(1996年)
表彰他   最高出塁率1回、パ・リーグ会長特別表彰(1986年、二塁手連続無失策記録達成により) オールスター出場2回

香川県志度東中学・志度商高・そして駒沢大と全てのチームで主将に就任した白井選手。当時の駒大には白井選手の1学年上に広瀬哲朗選手、1学年下には河野博文投手がいました。

1984年のドラフト1位で白井選手がファイターズ入団したのを皮切りに、翌85年には河野投手、その翌年86年は広瀬選手がいずれもファイターズに1位指名で入団するという快挙(?)を成し遂げています。

即戦力との期待から背番号「3」を与えられた白井選手。その期待に応えるかのようにルーキーイヤーの1984年開幕戦からスタメン出場を果たします。初打席で初ヒットを放ちますが、残念ながらレギュラー獲得までは至りませんでした。

プロ2年目から俊足を活かすため左打席に挑戦します。スイッチヒッターとしてレギュラーを獲得するのはプロ4年目の1987年、この年全試合に出場した白井選手は15本塁打21盗塁を記録しました。

1991年には自己最高の打率.311をマークします。しかしケガとの戦いが絶えず、また金子誠選手らの台頭により出場機会が激減した1995年のオフ、唐突に戦力外通告を受てしまいました。

前年の1994年は全試合出場していましたし、当時35歳とまだ引退には早いと白井選手はオリックスへ移籍の道を選びます。

オリックスに移籍した白井選手は13試合の出場に留まり、1996年限りで引退しました。試合出場機会には恵まれませんでしたが、当時オリックスに在籍していた中西太コーチやイチロー選手に出会えたことは貴重だったと後に白井選手は振り返っています。

引退後はファイターズに球団職員として戻り、当時提携していたニューヨーク・ヤンキースへコーチ留学に出かけ、後にファイターズ監督となるトレイ・ヒルマン氏と出会います。

その縁で2003年ヒルマン氏が監督に就任するとヘッドコーチとして入閣。2006年のファイターズ日本一に大いに貢献しました。

白井選手の出身高校である志度商業は、私が高校で野球をしている頃は、強豪校として全国に名が知られていました。無名校の野球部であった私には、憧れの存在でしたね(笑)

今は学校名が志度高校になり、甲子園からも遠ざかっていますが、いつか古豪復活を遂げて欲しいものです。

背番号3番をつけた選手の傾向とは?

巨人の長嶋茂雄選手に代表されるように、日本プロ野球において背番号3番は、主に内野手がつけてきた傾向があります。

北海道日本ハムファイターズの歴代の背番号3番も、ご紹介してきた田中選手、白井選手、他にも大杉勝男選手や富田勝選手、落合博満選手ら内野手が、主に背番号3番をつけてきました。

特に白井、田中両選手のイメージが強く、日本ハムファイターズの背番号3番はセカンドのレギュラー選手の番号、という印象が強いです。

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おわりに

今回は、北海道日本ハムファイターズの背番号3番についてご紹介しましたが、いかがだったでしょうか?ほかの球団と同じように、主に内野手がつけてきた傾向もわかりましたね。

田中選手の引退後の2020年からは、どの選手が背番号3番をつけるのでしょうか?2019年のセカンドのレギュラーである渡邊諒選手になるのか?それとも他の選手がつける事になるのでしょうか?

注目して見守っていきたいと思います。

最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。