日本ハムファイターズの背番号8番!歴代の8番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

2019年現在、北海道日本ハムファイターズの背番号8番は、今や首位打者争いの常連となった近藤健介選手が付けています。

名門・横浜高校から捕手として入団し、プロ1年目の2012年から一軍戦のみならず、日本シリーズにも出場した近藤選手。2015年には初の規定打席に到達、リーグ3位の打率.326を記録します。

その後、膝痛、ヘルニアに苦しめられますが2017年には53試合の出場ながら打率.413という数字をたたき出しました。

2019年からは外野手登録となり、元捕手らしく強肩でチームに貢献。同年行われた国際大会プレミア12でも存在感を出し、サムライジャパン世界一に大いに貢献しました。

今回は近藤選手が背負うファイターズ背番号8番の歴史についてまとめてみました。どうぞ最後までお付き合いください!




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歴代の背番号8番を背負った選手をご紹介

1946年のチーム創設から現在の近藤選手まで、ファイターズとその前身球団で背番号8番を背負った選手は26名います。

では、メンバーを見てみましょう。

年  度年 数球 団 名選 手 名
1946年~1947年1.5年セネタース黒尾重明選手
1947年0.5年東急フライヤーズ太田義次選手
1948年1年急映フライヤーズ谷義夫選手
1949年1年東急フライヤーズ空白
1950年1年東急フライヤーズ山県富人選手
1951年1年東急フライヤーズ伊藤万喜三選手
1952年1年東急フライヤーズ南菊一選手
1953年1年東急フライヤーズ樽井信章選手
1954年~1955年2年東映フライヤーズ水上静哉選手
1956年~1962年7年東映フライヤーズ山本八郎選手
1963年~1964年2年東映フライヤーズ鈴木悳夫選手
1965年1年東映フライヤーズ池沢義行選手
1966年1年東映フライヤーズジマー選手
1967年1年東映フライヤーズ空白
1968年1年東映フライヤーズ二宮忠士選手
1969年~1970年2年東映フライヤーズ中原勝利選手
1971年~1972年2年東映フライヤーズクリスチャン選手
1973年1年日拓ホームフライヤーズレドモン選手
1974年1年日本ハムファイターズ相本和則選手
1975年1年日本ハムファイターズ渋谷通選手
1976年1年日本ハムファイターズ後藤和昭選手
1977年~1979年3年日本ハムファイターズ久保俊巳選手
1980年~1990年11年日本ハムファイターズ島田誠選手
1991年~1992年2年日本ハムファイターズベイス選手
1993年~2001年9年日本ハムファイターズ片岡篤史選手
2002年1年日本ハムファイターズ空白
2003年~2014年12年日本ハムファイターズ金子誠選手
2015年1年北海道日本ハムファイターズ西川遥輝選手
2016年~北海道日本ハムファイターズ近藤健介選手

多くの選手が3年以下となっていて、一桁の背番号にしては変わらいやすいといった特徴がありますね。




歴代背番号8番のうち、印象深い3選手のご紹介

背番号8番を付けてプレーした26名の選手の中から特に印象深い3名の選手を選んで紹介します。

キーワードは「バック転でアピール」・「平成の怪物とともに」・「井端を超える守備力」です。今回のキーワードは簡単かも知れませんね。

島田誠選手

生年月日  1954年9月3日
出身地   福岡県中間市
投/打   左/左
プロ野球歴
日本ハムファイターズ(1977年~1990年)
福岡ダイエーホークス(1991年)
タイトル等 ベストナイン2回・ゴールデングラブ賞6回・オールスター出場6回

島田選手は、大学中退後に入団した社会人野球チームが廃部となるなど、波乱万丈な経緯を経てファイターズへテストを経て入団しました。

168センチという、プロ野球選手となるには背が低いことを懸念した島田選手が行ったアピールが「フライ捕球の直前にバック転をする」というものでした。その姿を見た大沢啓二監督が「面白い奴だから獲れ」の一言でプロテストに合格します。

プロ1年目の1977年から79試合に出場、2年目には外野のレギュラーに定着します。小柄ながら走攻守揃った選手として、1980年代のファイターズを牽引、1981年にはリーグ優勝も経験しました。

1979年には55盗塁を記録するものの、阪急ブレーブスの「世界の盗塁王」福本豊選手が60盗塁しており、タイトルに届きませんでした。

同年6月5日の対西武ライオンズ戦では二盗・三盗・本盗と立て続けに決める「パーフェクトスチール」を達成。相手捕手は現役晩年の野村克也選手でした。この試合後、野村選手からお叱りを受けたというウワサがありましたが、真偽のほどはわかりません。

1985年には18本塁打を記録しますが、翌1986年から緩やかに成績が下降し始めます。やがて新人選手に押し出されるような形で1991年、故郷福岡のホークスに移籍し、現役を引退。

引退後は解説者として「プロ野球ニュース」などに出演。またコーチとしてホークスの日本一に貢献します。井口資仁選手や村松有人選手、そして川崎宗則選手らに走塁のイロハを叩き込みました。

片岡篤史選手

生年月日  1969年6月27日
出身地   京都府久世郡久御山町
投/打   右/左
プロ野球歴
日本ハムファイターズ(1992年~2001年)
阪神タイガース(2002~2006年)        
タイトル他 最高出塁率1回・ベストナイン2回・ゴールデングラブ賞3回・オールスター出場6回

 
PL学園高時代の同学年に立浪和義、橋本清、野村弘樹各選手という後にプロ野球でも活躍する選手が居る中、4番打者を務めていた片岡選手。

三年生となった1987年、甲子園で春夏連覇を達成。2学年上の「KKコンビ」をも凌ぎ、PL最強世代とも言われるチームの一角を担いました。

高校卒業後はプロ入りせず、同志社大に進学。大学でも日本一を経験します。1992年、ドラフト2位でファイターズ入団。入団時の背番号は38番でした。

プロ1年目から125試合に出場、打率.290、10本塁打という成績を挙げるものの、新人王は近鉄バファローズ・高村佑選手が受賞。片岡選手も新人としては素晴らしい成績を残したことから「優秀新人賞」としてリーグ表彰されています。

プロ2年目から背番号を8番に変更。守備では一塁や三塁を守り、打順は主に三番を務め、更には選手会長としてチームを牽引します。

その存在感チームにとって格別だったようで、当時のエース、岩本勉選手は「くじけそうになったとき、いつも片岡さんが励ましてくれた」と語っていました。

1999年、横浜高校から鳴り物入りで西武ライオンズに入団した松坂大輔選手と公式戦で初対戦したのがファイターズでした。その試合で、松坂選手が投じた155キロのストレートを豪快に空振りする映像が気の毒なほど繰り返し使用されます。

片岡選手は「(松坂選手は)俺の空振りを見て自分の投球に自信を持ったことだろう」と本音か自虐かわからないコメントを発していました。

しかし、その後片岡選手は松坂投手を得意とするようになり、2000年には松坂選手のノーヒットノーランを打ち砕くヒットを放っています。

2002年からはFA移籍した阪神タイガースでプレーした片岡選手。移籍初年度は成績が奮いませんでしたが、2003年に復活。要所要所で存在感を発揮しタイガース18年振りの優勝に大きく貢献しました。

2004年以降は成績が尻すぼみ、2006年に現役引退し、野球解説・評論活動の他、タイガースの打撃コーチを務めたり、芦屋大学で客員教授を務めるなど多彩な活動をなさっています。

金子誠選手

生年月日  1975年11月8日
出身地   千葉県我孫子市
投/打   右/右
プロ野球歴 日本ハムファイターズ(1994年~2014年)
タイトル他 新人王(1996年)・ベストナイン1回・ゴールデングラブ賞3回・オールスター出場3回

茨城の名門・常総学院高時代には春夏合わせて3度の甲子園出場を果たした金子選手。

高校時代は遊撃手でしたが、プロ3年目の1996年、長きにわたりセカンドのレギュラーだった白井一幸選手に代わり一軍に抜擢されます。

そのままレギュラーとなった金子選手は新人王を獲得。ちなみに、1996年セ・リーグの新人王は同じ常総学院出身の仁志敏久選手でした。仁志選手の方が4歳上ということで、高校時代の接点はありません。

2001年まではセカンドのレギュラーとして、ゴールデングラブ賞を2度獲得する守備力と下位打線ながら得点圏で勝負強さを見せる打撃でチームを支え続けました。

2002年には正遊撃手だった田中幸雄選手が三塁にコンバートされたことから、慣れ親しんだショートへと守備位置を移します。ここでも堅守を発揮した金子選手は、2009年に自身3度目となるゴールデングラブ賞をショートとして受賞しました。

同じく2002年、タイガースへFA移籍した片岡篤史選手と「打率3割をマークしたら背番号8番を付けてもよい」という約束を交わしました。この年、惜しくも3割に届きませんでしたが、翌2003年から背番号8番を継承します。

さらには2006年から片岡選手も務めた選手会長に、翌2007年には主将に就任。名実ともにチームリーダーとなりました。

2009年、プロ17年目にして初の打率3割をマーク。さらには月間MVP、前述のコンバート後初となるゴールデングラブ賞受賞など充実のシーズンを送った金子選手は、これまた自身初となる年俸1億円越えを果たしました。

2010年以降は相次ぎケガに見舞われ、成績が下降。中島卓也選手ら若手の台頭もあり、2014年、現役を引退します。

引退後はMLBサンディエゴ・パドレスでコーチ研修をしたのち、ファイターズでコーチに就任。また、日本代表チームのヘッドコーチとして、かつてのチームメイトである稲葉篤紀代表監督を補佐。2019年のプレミア12優勝にも大いに貢献しました。

金子コーチの武器は明晰な頭脳。近い将来、ファイターズ監督になることが期待されています。




背番号8番をつけた選手の傾向とは?

プロ野球で背番号8番というと、読売ジャイアンツ原辰徳監督の現役時代を思い浮かべるファンも多いことでしょう。あるいは広島東洋カープのミスター赤ヘル・山本浩二選手でしょうか。

現在では巨人・丸佳浩選手や中日ドラゴンズの大島洋平選手、あるいは千葉ロッテマリーンズ・中村奨吾選手など、主力選手が付ける番号となっています。

ファイターズでの歴史では内野手が付ける機会が多くなっています。近藤選手は前述のとおり2018年までは捕手登録でしたが、背番号8番に変更してからは捕手として1試合にしか出場していません。

球団創設以来、毎年のように持主が変わっていた背番8番。初代の黒尾重明選手のポジションは投手でした。以降付ける選手も、その守備位置もバラバラでしたが、1956年から8番でプレーした山本八郎選手は外野手として7年間過ごします。

この山本選手は闘志あふれるプレーで大変人気があった選手でした。また、入団時は捕手で後に外野手に転向した、という経緯は現在の8番、近藤選手に通ずるものがあり、興味深いです。

山本選手以降は再び持主がコロコロ変わり始め、1966年のジマー選手を始め外国人選手の番号となったりもしましたが、1980年に外野手の島田誠選手が付けて11年プレーしたことで、8番はファイターズの主力選手が付ける番号、というイメージが定着しました。

1993年からは内野手の片岡選手、2002年からはやはり内野手の金子選手と内野手の主力選手が付ける番号となり、2015年には西川遥輝選手が付けるも1年で7に変更。2016年からは近藤選手が付けました。

2019年、近藤選手は86試合で外野、30試合を内野(三塁手)を守っています。2018年限りで人気・実力もあったレアード選手をリリースしたのも近藤選手や大田泰示選手らを競わせて三塁手を育てるためでした。

2019年、ファイターズで三塁を最も多く守ったのは横尾俊健選手の59試合、次いで平沼翔太選手の56試合でした。




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おわりに

今回は、北海道日本ハムファイターズの背番号8番について特集してきましたが、いかがだったでしょうか?

野手がつけるといったイメージですが、近年では内野手の番号といった傾向がありました。

様々なポジションを守れる近藤選手の2020年はどこを守るのか。そして悲願の首位打者獲得はなるのか。背番号8番の伝統の行方とともに、動向にも注目が集まるシーズンとなるでしょう!

最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。