こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
2005年、球界再編騒動の末、新球団として誕生した東北楽天ゴールデンイーグルス。日本のプロ野球では、最も新しい球団です。
宮城県の仙台市に本拠を置いていますが、名前の通りに他の東北地方でも試合やイベントを行うなど、東北地方全般に根付くような活動をしています。
今回は、東北楽天ゴールデンイーグルスの背番号3番について特集します。歴代の3番をつけた選手や印象深い3選手、3番をつけた選手の傾向をご紹介しますので、楽しみにしてくださいね。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号3を背負った選手をご紹介
まずは、東北楽天ゴールデンイーグルスの背番号3番をつけた全選手を、ご紹介したいと思います。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
2005年~2008年 | 4年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 吉岡雄二選手 |
2009年~2010年 | 2年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | リンデン選手 |
2011年 | 1年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | ルイーズ選手 |
2012年 | 1年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | フェルナンデス選手 |
2013年 | 1年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | マギー選手 |
2014年 | 1年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | エバンス選手 |
2015年 | 1年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | サンチェス選手 |
2016年 | 1年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | ゴームズ選手 |
2017年~2018年 | 2年 | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 空白 |
2019年~ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 浅村栄斗選手 |
2020年現在で、9人の選手が背番号3番をつけてきました。
イーグルスの初代背番号3番、吉岡雄二選手は2004年にアキレス腱切断という大けがを負ってしまいましたが、2005年、イーグルス初年度に見事復活。以降、2008年まで4年間、イーグルスでプレーしました。
吉岡選手退団後の3番は外国人選手の番号となります。2009年~2010年はリンデン選手が背負いました。リンデン選手は1年目は及第点の活躍をしましたが、それ以上に悪い意味で名前を憶えている方も多いのではないでしょうか。
2009年、当時の野村克也監督の選手起用に反発。せっかくチームはリーグ2位という好成績でCSに挑もうとしていたシーズン終盤での造反劇にチームの勢いに水を差された、という声が多き聞かれました。
リンデン選手は野村選手に謝罪したものの服装や態度に問題があり監督は謝罪を受け入れず、リンデン選手はCSファーストステージに出場できませんでした。
チームはセカンドステージに進出。再度謝罪したリンデン選手はセカンドステージの出場を許されましたがチームは敗退。せっかく好成績だったシーズンなのに監督の交代劇もあり後味の悪いシーズンとなってしまいました。
2010年、ブラウン新監督のもとプレーしたリンデン選手でしたが、簡単に態度は変わるはずもなく度々監督と衝突、成績も下降したことからこの年限りで退団となりました。
2011年はルイーズ選手。イーグルスで1年プレーしたのちアメリカへ帰国、マイナーリーグを経て翌シーズン途中、横浜DeNAベイスターズへ入団しています。
2012年はフェルナンデス選手が3番をつけました。
2003年に千葉ロッテマリーンズでNPBのキャリアをスタートしたのを皮切りに2004年~2005年はライオンズ、2006年~2008年イーグルス(背番号42・1)、2009年はバファローズ、2010年~2011年ライオンズに復帰しました。
そして2012年にはイーグルスに復帰、2013年バファローズ復帰と実に11年も日本でプレーした選手です。
好調な年は3割25本90打点という堅実な成績を残しますが、守備は対照的でした。
イーグルス時代、野村監督がリスクを覚悟で三塁守備に就かせたところ、期待通り(?)にエラーを連発。「期待した俺がバカだった」と試合後にボヤいていたのが印象的でした。
その一方で、ヒーローインタビューでは哲学的なコメントをすることでも話題となりました。本人は周囲を元気づけようとしていたそうです。
2013年、初優勝の使者となったマギー選手。2014年からはエバンス、サンチェス、ゴームズ各選手が1年ずつ使用し、2年の空き番を経て2019年からは浅村選手が使用しています。
歴代背番号3番のうち印象深い3選手のご紹介
次に、東北楽天ゴールデンイーグルスの背番号3番をつけた9選手のうち、印象深い3選手をご紹介します。
浅村栄斗選手
出身地 大阪市東淀川区
投/打 右/右
プロ野球歴
埼玉西武ライオンズ(2009年~2018年)
東北楽天ゴールデンイーグルス(2019年~)
タイトル他 打点王2回
ベストナイン5回
ゴールデングラブ賞2回
オールスター出場7回
近年、高校野球界最強の学校として真っ先に名前の挙がる大阪桐蔭高校、1991年夏の甲子園では初出場で初優勝を遂げました。
その後、甲子園には出場するものの優勝には手が届かない時期が続きましたが2008年、2回目の全国制覇を達成します。この時、1番・遊撃手としてチームを牽引していたのが浅村選手でした。
高校通算22本塁打に加え、プロのコーチをも唸らせた守備の上手さを兼ね備えた浅村選手は、憧れの松井稼頭央選手が在籍していたライオンズからドラフト3位指名を受け入団します。
入団時の背番号は、松井選手がライオンズ入団時に使用していたものと同じ32番でした。
プロ2年目の2010年には早くも一軍で30試合に出場、翌2011年にはレギュラーに定着して、2013年には23歳という若さでシーズン100打点を達成しています。
これは2013年時点では浅村選手でプロ野球史上4人目という快挙でした。ちなみに、浅村選手以外のメンバーは王貞治、門田博光、松井秀喜各氏いう錚々たる顔ぶれです。
最終的に110打点を記録した浅村選手は高卒5年目、しかも平成生まれのプロ野球選手としては初の打点王を獲得しました。
2014年からは二塁手をメインとするようになった浅村選手、それまではチーム事情や、故障者の穴埋めとして内野は遊撃手以外の3つのポジションを守り、時には外野を守ったりといったこともありました。
2017年シーズンからは背番号を念願の3番に変更しました。2012年オフに中島裕之選手が退団して以降、着用を球団に願い出ていましたが、ようやく球団も認めた格好となりました。
その2017年シーズン、またも平成生まれ初となる通算1000本安打を達成し、2018年には2度目の打点王を獲得、打率.312 32本塁打127打点という素晴らしい成績を残しました。
シーズンオフ、FA宣言をし2019年からはイーグルスでプレーすることになりました。
埼玉西武ライオンズ時代には二度の打点王に輝いた浅村選手。28歳という若さでFA権を取得し、他球団移籍を前提として権利を行使すると表明した時には大きな話題となりました。
ライオンズは残留を願い、その他に福岡ソフトバンクホークス・オリックスバファローズ、そしてイーグルスが獲得の意思を表明。当初はホークス移籍が濃厚とみられていましたが、浅村選手が選んだのはイーグルスでした。
2019年、3番セカンドという大きな柱を得たイーグルスは2017年以来のAクラスとなる3位になったのも浅村選手加入効果と言えるでしょう。
2019年、イーグルスでも勝負強い打撃は変わらず、33本塁打92打点を記録。打率は3割を割りましたが、イーグルス打線の核としてすっかり定着しました。
2020年・2023年にはホームラン王に輝き、改めて日本プロ野球界を背負うスーパースターである事を証明しています。
頼りになる主砲としてますます杜の都を熱くしてくれることでしょう!
ケーシー・マギー選手
出身地 アメリカ・カルフォルニア州
投/打 右/右
プロ野球歴(NPB)
東北楽天ゴールデンイーグルス(2013年)
読売ジャイアンツ(2017年~2018年)
記録他 ベストナイン1回
オールスター出場1回
マギー選手は、イーグルス初の日本一の立役者としてファンの記憶に残っている選手です。
2003年にプロ入りするも、メジャーデビューは2008年と遅咲きでした。
翌2009年にミルウォーキーブリュワーズでケン・モッカ監督(元中日ドラゴンズ)に抜擢され三塁手のレギュラーを獲得し、2010年シーズンには23本塁打を放つも、2011年からは徐々に成績が下降していきます。
2013年、ニューヨークヤンキースに所属していたマギー選手はチームメイトでメジャー通算434本塁打を誇るアンドリュー・ジョーンズ選手とともにイーグルスに入団しました。
この年、4割近い出塁率を記録したジョーンズ選手の後を打つ5番打者として打率.292 28本塁打 93打点をマークして、銀次選手や鉄平選手、岡嶋豪郎選手らと粘り強い打線を形成しました。
投げては新人ながら開幕投手を務めた則本昂大投手や24勝0敗という伝説を残した田中将大投手らの活躍もあり球団創立9年目の初優勝・日本一を達成、マギー選手はベストナインに選出されます。
翌年、長男が病気を患っていることもあり、悩みながらもイーグルスを退団、MLBに復帰しました。しかし、思うように長打は打てず成績はジリ貧になっていきます。
2017年、巨人に入団。NPBに復帰します。かつての長打力はやや影を潜めましたが打率.315をマーク、これはリーグ2位の成績でした。2018年も巨人でプレーし、CS敗退後に現役引退を示唆するコメントを残しました。
マギー選手のような経歴を辿った選手にはファンの非難を浴びそうなものですが、マギー選手に関してはそういった類の声は上がりませんでした。
退団の原因が子供の病気だったこともあるのでしょうが、何よりマギー選手がイーグルス時代にどれだけ愛されていたかの証左でした。
ジョーンズ選手とともに、マギー選手の名は、永遠にイーグルスファンに語り継いで欲しい、いや語り継がなければならない存在でしょう。
吉岡雄二選手
出身地 東京都足立区
投/打 右/右
プロ野球歴
読売ジャイアンツ(1990年~1996年)
近鉄バファローズ(1997年~2004年)
東北楽天ゴールデンイーグルス(2005年~2008年)
タイトル等 オールスター出場1回
吉岡選手は、東京・帝京高3年生時、夏の甲子園全国制覇した時のエースで4番でした。仙台育英高校との決勝戦は大越基選手(元ホークス)との息詰まる投手戦でした。
「優勝旗がついに白河の関を超えるか」と大きな話題となりましたが、吉岡選手がそれを阻止し、東北の高校野球ファンを落胆させてしまいます。
投手としても評価は高かったのですが、野手としての評価も高く、巨人にドラフト3位に指名された時もポジションは投手でしたが、いずれ打者に転向するだろうと見られていました。
ケガもありプロ入り3年目の1992年オフに正式に打者転向します。1994年にはファームで本塁打・打点の2冠を獲得しますが、当時の巨人はFA乱獲期です。
当時の巨人の4番を打っていたのは巨人が初めてFA制度を使って獲得した落合博満選手でした。、翌1995年にはヤクルトからハウエル、広沢克己両選手が加入するなどし、吉岡選手の出場機会はどんどん奪われていきます。
そして1996年オフ、吉岡選手は契約問題で球団と対立した近鉄の4番打者・石井浩郎選手との交換トレードで、石毛博史選手と共に巨人から放出されてしまいました。
しかし、これが結果として大正解だったのです。
近鉄移籍2年目の1998年に自己最多の13本塁打を放った吉岡選手は翌1999年から5年連続で規定打席に到達。2001年には打率.265ながら26本塁打85打点という堂々たる成績で「いてまえ打線」の一員としてリーグ優勝に大いに貢献しました。
2003年には打率3割もクリアし脂の乗り切っていた2004年。オープン戦でアキレス腱切断という大けがを負い、このシーズンを棒に振ります。
2005年、自ら志願しイーグルスに移籍した吉岡選手は貴重な日本人長距離砲として期待を集め、背番号も2001年以来の相棒となる3番を付けました。
イーグルス1年目の2005年、前年の大けがを踏まえ長打よりも広角に打ち分けることを意識したバッティングで、打率.282をマークします。本塁打は10本でしたがチャンスメイクに徹し、3番打者として活躍しました。
しかし、2006年以降はケガとの戦いにとなり、徐々に出場機会が減り、ついに2008年戦力外通告を受けます。
2009年はメキシコに渡り、現役続行の道を探りますが、2010年に現役を引退。引退後は独立リーグでコーチ・監督を務めたのち、2018年シーズンから北海道日本ハムファイターズの二軍打撃コーチに就任しました。
また、バラエティー番組では実際にバッティングを披露し、金属バット使用ながら現役時代と変わらぬ豪快な打撃でお茶の間を楽しませています。