東北楽天ゴールデンイーグルスの背番号8番!歴代8番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

『似合っているな!』

この言葉は、東北楽天ゴールデンイーグルスのある選手が、新入団会見で自分の背番号7番のユニフォームに袖を通した際に、感想を求められて発した言葉です。

この選手は、2018年のドラフト1位で指名された辰巳亮介選手です。

似合っていた背番号7番でしたが、千葉ロッテマリーンズから移籍してきた鈴木大地に譲る形で、わずか1年で背番号8番へと変更しました。

今回は辰巳選手がつけている、東北楽天ゴールデンイーグルスの背番号8番を特集します。歴代の背番号8番の選手や特に印象深い3選手の紹介、さらに背番号8番をつけてきた選手の傾向にも触れますので、楽しみにしてくださいね。




歴代の背番号8番を背負った選手をご紹介

まずは、東北楽天ゴールデンイーグルスの背番号8番をつけてきた選手を、古い順にご紹介したいと思います。

年  度年 数球 団 名選 手 名
2005年~2009年5年東北楽天ゴールデンイーグルス 磯部公一選手
2010年~2013年4年東北楽天ゴールデンイーグルス 中島俊哉選手
2014年~2015年2年東北楽天ゴールデンイーグルス 内田靖人選手
2016年~2019年4年東北楽天ゴールデンイーグルス 今江敏晃選手
2020年~東北楽天ゴールデンイーグルス 辰己涼介選手

2004年6月、唐突に表面化した大阪近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブの合併報道に端を発した球界再編騒動。

多くのプロ野球ファンが近鉄の存続と12球団での2リーグ制維持を求める中、その声を無視するかのように球団経営者たちは1リーグ制、あるいは球団削減へと動き、ついには史上初のストライキへと突入してしまいました。

その騒動の渦中で、近鉄球団存続を求め、矢面に立ち続けたのが当時近鉄選手会会長だった磯部公一選手です。

最後の最後まで抵抗を試みたものの近鉄球団消滅が決定すると合併球団への入団を拒否、イーグルス入りを果たします。近鉄時代に引き続き背番号8番を着け初代選手会長、そして主将を務めました。

イーグルス初年度の2005年、シーズン100敗に迫ろうかというチームを文字通り体を張って支えた磯部選手。そんな磯部選手をファンはこう呼んで称えました。

ミスターイーグルス。

初代の磯部選手引退後に8番を引き継いだのは中島俊哉選手です。

2008年に81試合出場で打率.315の好成績を残したことから期待を込めて2010年、それまでの背番号64番から8番に変更します。

しかし、自身のケガや、同じく右打ちの外野手である牧田明久選手の活躍もあり、思うように成績が残せませんでした。2013年には背番号を8番から52番へ再変更、翌2014年に引退しました。

中島選手は球団合併による選手分配ドラフトでオリックスブルーウェーブからイーグルスへ移籍した選手でしたが、その中で最後まで現役を続けた選手が、中島選手でした。

三代目は内田靖人選手です。

茨城・常総学院高時代には強打の捕手または三塁手として3度甲子園に出場。高校全日本では4番を務め、イーグルスへは2014年ドラフト2位で入団。高卒ルーキーながら8番を与えられました。

2015年、千葉ロッテマリーンズから今江敏晃選手がFA移籍することになり内田選手は8番を譲り36番へ変更しました。

2017年にイースタンリーグで本塁打王と打点王の二冠に輝くと翌2018年には一軍で12本塁打を記録。イーグルスの高卒選手としては初の二桁本塁打を達成しています。

更なる飛躍が期待された2019年シーズンはまさかの本塁打0終わりました。チームにとって貴重な右の長距離砲候補ですので2020年シーズンでの復活を期待しましょう!

四代目は今江敏晃選手です。

ロッテ時代、二度出場した日本シリーズでどちらもシリーズMVPを獲得した驚異の勝負強さを誇りました。シーズン3度の打率3割を達成、守備では4年連続でゴールデングラブ賞を受賞するなど走攻守揃った選手でした。

イーグルス移籍後もコンスタントな成績を残していましたが、右目の病気により惜しまれつつ2019年限りで引退。来シーズンからはイーグルスの育成コーチに就任されます。

そして2020年。五代目として辰己選手が背番号8番を引き継ぎました。




歴代背番号8番のうち、印象深い3選手のご紹介

次に、東北楽天ゴールデンイーグルスの背番号8番を背負った5選手の中で、私が特に印象深かった磯部選手、中島選手、そして今江選手についてご紹介したいと思います。

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磯部公一選手

生年月日  1974年3月12日
出身地   広島県東広島市
投/打   右/左
プロ野球歴
近鉄バファローズ(1997年~2004年)
東北楽天ゴールデンイーグルス(2005年~2009年)
タイトル等 ベストナイン1回・オールスター出場3回

広島・西条農高時代から捕手を務めていた磯部選手、3年夏には主将・4番打者としてチームを甲子園に導き、1勝を挙げています。

卒業後も地元広島に残り、三菱重工広島へ入社。都市対抗で準優勝するなどチームの主軸として活躍しました。

1996年のドラフト会議で近鉄からドラフト3位指名を受けます。しかし、当時の磯部選手はオリックス入りを希望しており、近鉄入団にやや難色を示していました。

そこで、当時の監督だった佐々木恭介氏はヘリコプターを使い真っ先に磯部選手の元へ訪問。説得に応じた磯部選手は入団を受諾します。入団時の背番号は22番でした。

ちなみに1996年の近鉄ドラフト指名選手は1位・前川勝彦選手、2位・大塚晶史選手、3位に磯部選手とプロで実績を残した選手が名を連ねています。

さらに6位では元慶応大監督で現在はJX-ENEOS監督を務める大久保秀昭選手、そして7位ではヤクルトスワローズ・岩村明憲選手の実兄・岩村敬士選手を指名するなど、話題を集めた顔ぶれでした。

捕手としての使命ではあるものの、磯部選手の打力を見込んだ佐々木監督は磯部選手を外野手として起用します。プロ入り2年目の1998年には118試合に出場し打率.291を記録しました。

しかし、当時の正捕手・的山哲也選手の打率が1割台から2割台前半ということもあり、新たに就任した梨田昌孝監督は磯部選手を捕手に戻すことにしました。

2000年、主に捕手として起用された磯部選手は94試合に出場、打率.311をマークしますが盗塁阻止率は.109という当時のプロ野球ワースト記録を残してしまいました。

これは磯部選手が外野手としてプレーしている中で、送球の際に付いてしまった癖が原因によるもので、磯部選手の肩は弱いわけではありませんでした。

翌2001年、梨田監督は期待を込めて自身も現役時代に背負った8番を磯部選手に与え、何とか捕手として一本立ちさせようとしますが癖は中々治らず、結局はこの年から外野手に専念することになります。

2001年、磯部選手は打率.320 17本塁打 95打点という素晴らしい成績を残し、「いてまえ打線」の5番打者として優勝に大きく貢献します。

ですが、日本シリーズでは徹底的に研究され、5試合にスタメン出場するもノーヒットに終わりました。不振は翌2002年のシーズンまで影響を与え、このシーズンの本塁打はわずか3本に終わり、契約更改の席では厳しい言葉をフロントから投げかけられます。

2003年には復調した磯部選手。この年から選手会長を務めます。

そして2004年。球界再編騒動の最中、打率.309、自己最高の26本塁打を放ち、意地を見せます。しかし奮闘むなしく近鉄球団消滅が決定してしまいます。そして合併球団のプロテクトを拒否、イーグルス入りしました。

2005年、イーグルス記念すべき開幕戦に6番・ライトで出場しましたが、17打席連続ノーヒットと不振に陥ります。

何とかキッカケを掴んで欲しいという田尾安志監督の計らいによって1番打者として起用された磯部選手。ついに4月1日。対西武ライオンズ戦で記念すべきイーグルス初本塁打を、本拠地で放ちました。

この年、打率.264ながら16本塁打51打点を記録。シーズン中盤からは5番打者に定着、オールスターにもイーグルスから唯一出場しました。

2006年以降、徐々に成績が下降してきたものの、選手層が薄く試合に出場し続けていた磯部選手でしたが、鉄平選手や草野大輔選手、さらに聖澤諒選手らが台頭し出場試合数が激減してしまいます。

ついに2009年、チームが初のAクラス入りを果たしたそのシーズンオフに戦力外通告を受けました。

現役続行に意欲を示したものの他球団からのオファーはなく、現役引退を決断。2010年から2017年までコーチを務めたのち、2018年からはイーグルスの地元仙台の放送局で野球解説者として活動されています。

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中島俊哉選手

生年月日  1980年6月10日
出身地   福岡県筑後市
投/打   右/右
プロ野球歴
オリックスブルーウェーブ(2003~2004年)
東北楽天ゴールデンイーグルス(2005年~2014年)

2000年のドラフト会議から当時のオリックスブルーウェーブは「契約金ゼロ制度」というものを採用しました。

これはプロ入りボーダーライン上の選手を対象に、入団時の契約金を支払わないという条件で入団させ、一軍で一定数の試合に出場した場合には契約金に相当する金銭を支払う、というもので、簡単に言えばプロへ入団しやすくする、チャンスを与えるというものでした。

現在の育成枠制度のはしりと言えなくもないですが、育成枠は高校生が多く指名されるのに対し、契約金ゼロ制度は社会人や大卒選手といった即戦力候補が対象でした。

故に戦力となるかの判定はシビアで、この制度を使って3年間で10名の選手が入団しましたが、3年現役を続けられた選手はわずか2名、5年以上プレーした選手はたった1名だけでした。

この1名こそ、中島選手だったのです。

福岡工大附高時代には甲子園へ、九州国際大時代には明治神宮大会に4番打者としてチームを牽引した中島選手でしたが、2002年のドラフト指名は契約金ゼロ制度枠によるものでした。

2003年から2年間はオリックスでプレー。2005年からは選手分配ドラフトでイーグルス入りしましたが、2007年までのプロ入り後5年間で一軍戦出場はわずか14試合、7安打を放ったのみでした。

2008年、「左投手キラー」として81試合に出場、打率.315 5本塁打を放ちます。打撃好調につき左投手だけでなく右投手が先発の試合でもスタメン出場するなど、準レギュラーとして活躍します。

2009年、左手骨折により前年より成績は下がりましたが、それでもクライマックスシリーズでは当時福岡ソフトバンクホークスに在籍していた杉内俊哉選手から本塁打を放つなど、左キラーぶりは健在でした。

2010年以降、同じ右打ちの外野手である牧田明久選手が台頭し、中島選手の出番は徐々に少なくなっていきます。そんな中、2012年5月30日、対読売ジャイアンツ戦で中島選手の名が久々にクローズアップされます。

この試合、巨人に移籍した杉内選手が先発、26人の打者を完全に封じ、完全試合達成にリーチを掛けていました。そこへ27人目の打者として打席に入った中島選手。

フルカウントまでもつれたこの打席、最後は中島選手が四球を選び、完全試合は幻に終わりました。

最後のボールもストライクと言ってもいいのでは、というほど微妙なボールでしたが、杉内選手側からすると2009年のCSを思い出し、今一つ攻め切れなかったのではないでしょうか。

ホームランやヒットを打つだけが「左キラー」ではない。そんなことを思い知らされた中島選手の打席でした。

2014年限りで現役を引退。現在はイーグルス球団職員をされています。

今江敏晃選手

生年月日  1983年8月26日
出身地   京都府日向市
投/打   右/右
プロ野球歴 
千葉ロッテマリーンズ(2002年~2015年)
東北楽天ゴールデンイーグルス(2016年~2019年)
タイトル等 ベストナイン1回・ゴールデングラブ賞4回・オールスター出場3回・日本シリーズMVP2回  

高校野球屈指の名門・PL学園高出身の今江選手。エースに元近鉄・巨人の朝井秀樹、3番打者は元阪神タイガースの桜井広大両選手がおり、4番を務めていた今江選手とプロに進んだ選手がいましたが、甲子園出場は果たせませんでした。

2001年のドラフト会議でロッテから3巡目指名を受け入団。当初は遊撃手でした。しかし、ロッテには守備の名手にして盗塁王の小坂誠選手という正遊撃手がいたため三塁手へ転向します。

プロ4年目、2005年シーズンからは背番号を8に変更しました。すると一気にレギュラーを獲得、132試合に出場し打率.310 8本塁打71打点という成績を残し、ロッテの優勝に大きく貢献します。

阪神との日本シリーズでは第1戦から第2戦にかけて8打席連続ヒット、シリーズの打率.667という圧倒的な数字をのこしMVPを獲得しました。

2008年に続き3度目の打率3割を記録したのは2010年。この年の打率は自己最高となる.331を記録。10本塁打に打点も自己最多の77打点をマークします。

好調な今江選手の打撃は「史上最大の下克上」と言われたシーズン3位からの日本シリーズ出場に大いに貢献しました。

中日ドラゴンズとの日本シリーズでも率.444と打ちまくり、再びシリーズMVPを獲得します。

決して日本シリーズの常連とは言えないロッテにあって、出場したシリーズのどちらでもMVPを獲得した今江選手の驚異の勝負強さは伝説となりました。

2013年に4度目の打率3割を記録した今江選手でしたが、翌2014年からはケガや死球で戦線離脱することが増えます。

2015年で2年契約が満了したことを機にFA宣言。2016年シーズンからはイーグルスでプレーすることが決まりました。背番号は今江選手の代名詞となった8番に決定。イーグルスファンの歓迎を受けます。

しかし、イーグルス移籍後もケガが相次ぎ、移籍初年度の2016年は89試合、翌2017年には51試合の出場に留まってしまいます。

2018年には127試合に出場、規定打席にも到達し10本塁打を記録したことから復活が期待された2019年シーズンでしたが、今度は右目の病気を患ってしまいます。「ボールが二重に見える」という症状は中々改善されず、チームは現役引退、コーチ転身を勧めました。

今江選手としては不完全燃焼のまま現役を終えたくないと現役続行の道を探りましたが、やはり右目の症状は如何ともしがたく、現役引退を決断しました。

2020年からはイーグルスのコーチとして、三木肇新監督を支えることになります。




背番号8をつけた選手の傾向とは?

東北楽天ゴールデンイーグルスの背番号8番をつけてきた選手の傾向は、他の球団と同じように野手がつけてきたという事になります。

実は、磯部選手と三代目内田選手は「元捕手」です。しかし2選手ともバッティングを買われて野手に転向しました。

内田選手に背番号8番を渡すとき、捕手から外野手へ転向し名を成した磯部選手のように、という願いが込められていたのではないでしょうか。

今は36番を付けてプレーしている内田選手ですがいずれまた、ひと桁の番号を背負えるように、その長打力に磨きをかけて欲しいです。それだけの魅力が、内田選手にはありますし、2018年の成績が可能性を示しています。

今江選手はロッテ時代、「ミスターオリオンズ」と呼ばれ、監督も務めた有藤通世選手のようになれということで8番を背負い、イーグルス移籍後もその意志を貫き通しました。

2000本安打を目指していた今江選手でしたが、何ともしがたい目の不調で現役を終えなければならなかったというのは、本人にとっても悔いが残ることでしょう。

しかし、名球会入りした有藤選手には数字では届かなかった今江選手ですが、やはり日本シリーズのインパクトでその存在は長く語り継がれることになりそうです。




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おわりに

今回は、東北楽天ゴールデンイーグルスの背番号8番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?

2020年からは、イーグルスの主力選手として更なる期待がかかる辰己選手が背負うこととなりました。入団会見で「イーグルスを代表するような選手となる」と宣言した辰己選手。プロ1年目からその片鱗は十分に見せてくれました。

辰己選手にとっても、石井GM主導で選手を補強したチームにとっても真価が問われる今シーズン。重圧を跳ねのけた先、辰己選手はきっとこう呼ばれるでしょう。

ミスターイーグルス。

最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。