こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
2013年9月15日。この日、日本プロ野球史上語り継がれるであろう、偉大な記録が誕生しました。
東京ヤクルトスワローズのバレンティン選手が、あの王貞治選手の持つ年間最多ホームラン記録の55本を超えて56本目を放ったのです。
1964年に王貞治選手が記録したシーズン最多本塁打記録、55本。
1985年に阪神タイガーズ・バース選手が54本と迫り、2001年には大阪近鉄バファローズのローズ選手、翌2002年には西武ライオンズ・カブレラ選手がタイ記録を樹立したものの更新は出来ませんでした。
バレンティン選手は、実に49年もの間プロ野球記録として残っていた55本を更新したのです。
今回は、そのバレンティン選手がつけていた、東京ヤクルトスワローズの背番号4番について特集します。
歴代の4番をつけてきた全選手や、特に印象深い3選手の紹介、さらに背番号4番をつけてきた選手の傾向にも触れますので、楽しみにしてくださいね。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号4番を背負った選手をご紹介
まずは、東京ヤクルトスワローズの背番号4番をつけてきた全選手をご紹介します。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
1950年 | 1年 | 国鉄スワローズ | 森谷良平選手 |
1951年~1953年 | 3年 | 国鉄スワローズ | 空白 |
1954年~1958年 | 5年 | 国鉄スワローズ | 佐竹一雄選手 |
1959年~1961年 | 3年 | 国鉄スワローズ | 空白 |
1962年 | 1年 | 国鉄スワローズ | 太田文高選手 |
1963年~1964年 | 2年 | 国鉄スワローズ | 松本雄作選手 |
1965年 | 1年 | 国鉄スワローズ | 空白 |
1966年 | 1年 | サンケイアトムズ | マヒナス選手 |
1967年 | 1年 | サンケイアトムズ | ロバーツ選手 |
1968年 | 1年 | サンケイアトムズ | 空白 |
1969年~1970年 | 2年 | アトムズ | 西園寺昭夫選手 |
1971年 | 1年 | ヤクルトアトムズ | テータム選手 |
1972年 | 1年 | ヤクルトアトムズ | ロペス選手 |
1973年~1975年 | 3年 | ヤクルトアトムズ | 空白 |
1976年~1978年 | 3年 | ヤクルトスワローズ | マニエル選手 |
1979年~1981年 | 3年 | ヤクルトスワローズ | スコット選手 |
1982年~1983年 | 2年 | ヤクルトスワローズ | ブリッグス選手 |
1984年 | 1年 | ヤクルトスワローズ | 空白 |
1985年~1989年 | 5年 | ヤクルトスワローズ | 青島健太選手 |
1990年 | 1年 | ヤクルトスワローズ | 栗山英樹選手 |
1991年~1997年 | 7年 | ヤクルトスワローズ | 笘篠賢治選手 |
1998年~2000年 | 3年 | ヤクルトスワローズ | 馬場敏史選手 |
2001年~2008年 | 8年 | ヤクルトスワローズ | 渡会博文選手 |
2009年~2010年 | 2年 | 東京ヤクルトスワローズ | デントナ選手 |
2011年~2019年 | 9年 | 東京ヤクルトスワローズ | バレンティン選手 |
2020年~2021年 | 2年 | 東京ヤクルトスワローズ | 空白 |
2022年~ | 東京ヤクルトスワローズ | 丸山和郁選手 |
設立からしばらくは、日本人選手がつけていましたが、1966年に入団したマヒナス選手以降、外国人選手がつけることが主流となります。
その中で、1976年に入団した、ちょうど背番号4番の10代目・マニエル選手が豪打を爆発させ、スワローズ26年目にして初のリーグ優勝へと導いたことであまりいいイメージのなかった4番が輝きました。
1979年に入団したスコット選手も素晴らしい選手でした。1年目からいきなり28本塁打を記録した打撃もさることながらその真骨頂は快速を活かした外野守備です。
入団から2年連続でゴールデングラブ賞を受賞しましたが、皮肉にも守備中のケガが原因で退団することになってしまいました。
1982年シーズン途中入団したブリックス選手は4番を任されましたが成績が伴わず1983年いっぱいで退団しました。
1984年には大物ルーキーと話題になった青島健太選手が4番を着用します。初打席初ホームランを記録した青島選手でしたが、以降は活躍の場が見られず1990年に退団してしまいます。
1991年からは栗山英樹選手が46番から昇格し4番を引き継ぎます。苦労の末外野手レギュラーを掴みかけましたがメニエール病を患い、29歳という若さで引退しました。
1992年からは笘篠賢治選手が背負いました。1989年の新人王ですが野村克也監督となった1990年以降出場機会が減少してしまいます。
そんな中奮起を促す意味で25番からの背番号変更でしたが状況は変わらず1997年限りでスワローズを退団し広島東洋カープへ移籍しました。
1998年にはオリックスブルーウェーブから移籍してきた馬場敏史選手、2001年にはスーパーサブ・度会博文選手と受け継がれ、2009年からはデントナ選手が着用、再び外国人選手の番号となりました。
そして2011年、バレンティン選手が入団し、背番号4番をつけました。
歴代背番号4番のうち、印象深い3選手のご紹介
次に、私が印象深く感じる3選手である、マニエル選手、度会選手、そしてバレンティン選手についてご紹介したいと思います。
マニエル選手
出身地 米国ウェストバージニア州
投/打 右/左
プロ野球歴
ミネソタ・ツインズ(1969年~1972年)
ロサンゼルス・ドジャース(1973年~1975年)
ヤクルトスワローズ(1976年~1978年)
近鉄バファローズ(1979年~1980年)
ヤクルトスワローズ(1981年)
タイトル等 MVP1回・本塁打王2回・打点王1回
平成のプロ野球ファンにはMLBクリーブランド・インディアンズ他の監督として存在を知られているマニエル選手。かつてスワローズを初の日本一へ、そして近鉄移籍後も2年連続優勝へ導いた「赤鬼」と呼ばれた豪打の選手でした。
マニエル選手がNPB入りした経緯は、他の外国人選手のそれとは一味違っていました。
1973年、当時のヤクルトアトムズにペピトーンという選手が入団。この選手はヤンキースでもプレーしたスター選手でしたが同時に素行不良もスター級で、アトムズはそのことについて知らずに契約してしまいます。
案の定、試合放棄などのトラブルを起こし、最後は三行半を突き付けて解雇となりましたが、このペピトーン選手の印象があまりにも悪すぎたため、当時の日本球界では「外国人選手を排除すべき」という空気が充満していました。
それはアメリカ球界にも伝わり、危機感を募らせたドジャースのオマリーオーナーは事態を打開すべく、信頼を取り戻す任務を一人の選手に託します。
それが、マニエル選手でした。
来日1年目は不振に終わりましたが2年目の1977年に打率.316 42本塁打、翌1978年には打率.312で39本塁打でスワローズを日本一に導き、見事ミッションを果たします。
優勝に貢献したにも関わらず、当時の広岡達郎監督に「守れない・走れない」と言われ近鉄へトレードされてしまいます。
しかし腐るどころかその打棒は破壊力を増し、1979年シーズンは48試合で24本塁打という、とんでもないペースで本塁打を量産します。
ところが、6月9日の対ロッテオリオンズ戦であごに死球を受け戦線離脱。近鉄初優勝がかかっていたので復帰を急いだマニエル選手はアメフト用のガードを付けて復帰します。
結局は97試合に出場で37本塁打をマークし本塁打王、MVPを獲得。リーグ優勝の原動力となりました。
1980年は打率.325 49本塁打129打点で二冠王、チームは連覇を果たします。この時36歳と当時の基準としては高齢選手だったマニエル選手に対し近鉄は単年契約を用意。複数年契約を要求したマニエル選手と折り合わずマニエル選手は退団、スワローズへ復帰します。
結果として近鉄球団の目論見は正しく、打率.260 12本塁打という成績に終わり1年で退団となりました。
退団後はアメリカに戻り、インディアンズのコーチから監督へ昇格します。
2008年にはフィラデルフィア・フィリーズを率いてワールドシリーズを制覇。日本でプレーしたことのある選手で、ワールドシリーズを制した2人目の監督となりました。
度会博文選手
出身地 千葉県船橋市
投/打 右/右
プロ野球歴 ヤクルトスワローズ(1994年~2008年)
タイトル等 特になし
度会選手は、千葉県の八千代松陰高から中央学院大を経て1993年のドラフト3位指名を受け入団しました。
アマチュア時代には特に注目される選手ではなく、同じ千葉大学野球リーグの千葉工業大・西澤洋介選手が横浜ベイスターズから指名されるらしいという話を聞き「うらやましいなぁ」と思ったそうです。
そんな度会選手がプロ入りしたきっかけは、何と「草野球」でした。
ある日、神宮外苑で草野球を楽しんでいた度会選手を「ちょっと見てくれよ」と言われ視察に行ったのがスワローズの名スカウト・片岡宏雄氏です。その元気の良さが気に入った片岡スカウトは後日千葉へ行き、大学での練習を見て獲得を決めました。
当時のプロ野球ファンも驚いた度会選手の指名ですが、一番びっくりしたのは本人だったのです。
指名後の記者会見では、度会選手の部屋に飾ってあった「念ずれば花開く 野村克也」という色紙に「監督と付け足しておきます」と語るなどその明るいキャラクターで指名度を一気に上げました。
プロ入り後は二軍戦では活躍するものの肝心の一軍では声がかからず、デビューはプロ5年目の開幕戦、対読売ジャイアンツ戦に「8番・サード」でスタメン起用されます。けが人が続出したことでの窮余の策ではありましたが、最高の一軍デビューを飾りました。
1999年にはファームで首位打者を獲得したのに加え、内野手として複数ポジションを守れることもあって一軍ベンチ入りを果たします。
守備要員から対サウスポー用の代打まで、幅広く役割をこなす「スーパーサブ」として2000年代のスワローズを支えます。特に2006年は代打を中心に打率.357を記録。前年に引退した土橋勝征選手に代わり「代打の切り札」として活躍しました。
2008年シーズンをもって現役を引退。プロ生活15年、一軍でプレーしたのは11年でした。
一度も出場試合数が100試合を超えたシーズンはありませんでしたが、その存在はどれだけ首脳陣にとってチームにとって助かる存在だったかは、度会選手の引退試合が開催されたことからもお分かりいただけるかと思います。
バレンティン選手
出身地 オランダ王国キュラソー島
投/打 右/右
プロ野球歴
シアトル・マリナーズ(2007年~2009年)
シンシナティ・レッズ(2009年)
東京ヤクルトスワローズ(2011年~2019年)
福岡ソフトバンクホークス(2020年~)
タイトル等 MVP1回・本塁打王3回・打点王1回・ベストナイン2回・オールスター出場6回
シーズン最多本塁打数日本記録保持者(2019年末現在・60本)
2020年で、バレンティン選手は日本で10年目のシーズンを迎えます。スワローズを離れてしまったのは寂しい限りですが、日本一のホークスにあってどのようなプレーを見せてくれるのかを楽しみにしているファンも多いのも事実です。
バレンティン選手はオランダ領キュラソー島出身のオランダ人ですが、実はバレンティン選手以前に同じキュラソー島出身の選手がスワローズでプレーしていたことをご存知ですか?
その選手の名は、ミューレン選手です。1994年に千葉ロッテマリーンズに入団し1995年スワローズに移籍しました。主に8番を打ち、打率.244ながら29本塁打を放ち、日本一に貢献した外野手です。
他に東北楽天ゴールデンイーグルスを日本一に導いたアンドリュー・ジョーンズ選手もキュラソー島の出身です。2013年WBCではオランダ代表チームでプレーしました。
ちなみにバレンティン選手のスワローズ時代の応援歌は元々ミューレン選手のために作られたものを継承しています。スワローズファンのこうした心遣いは素晴らしいですね!
2011年にスワローズへ入団したバレンティン選手ですが、最大のセールスポイントと当時言われたのが打撃ではなく守備・特に強肩でした。
スワローズ入団前年の2010年は3Aでプレーし打率.282、25本塁打とまずまずの成績だったので打撃は期待出来ないというわけではありませんでしたが、走攻守揃った選手、特に守備がいい、と当時の選手名鑑にも紹介されています。
スワローズの9年間で放った本塁打は288本。一年平均32本です。2015年はケガでほぼシーズンを棒に振ったため、本塁打は1本に終わりましたが、そんな年があるにも関わらず一年平均で32本も打った計算になるのです。
ちなみにその年を抜いて計算すると平均約36本。2015年を除く8年間でシーズン30本塁打を下回った年はありません。
改めてバレンティン選手の成績を眺めていると、本当に平均的に、しかも長く活躍したんだなぁと改めてその凄さが分かります。
2020年からは福岡ソフトバンクホークスでプレーすることになりました。選手層の厚いホークスで、しかもデスパイネ・グラシアル両選手との兼ね合いの中どんなプレーを見せてくれるのでしょう。
元近鉄等のローズ選手が残した外国人最多本塁打記録464本を更新するような、息の長い活躍を期待します!
背番号4をつけた選手の傾向とは?
背番号4番は一般的に「死に番」として、日本人選手には敬遠されがちです。
スワローズにおいても例外ではなく、背番号4番を着けプレーした選手は全部で19人のうち外国人は9人と、日本人選手と併用している番号となっているのが特徴といえる番号です。
他球団の歴史を見ても、レギュラーを張った選手があまり思い浮かばない背番号4番の選手。それだけにバレンティン選手のインパクトは絶大ですし、背番号4番の代表的選手として長く語り継がれることになりそうです。
プロ野球の歴史に「もし・・・」はたくさんありますが、もし、栗山選手が病気にならなかったらば、スワローズの4番の歴史は変わっていたはずです。
引退の2年前、1988年に打率.331を記録。規定打席に33打席足りませんでしたが、特例で首位打者獲得か、と話題になったシーズンでした。
栗山選手の例で言えば33打席全て凡退したとして計算し、それでも打率1位だった場合は首位打者として表彰。ちなみに1988年の首位打者は広島東洋カープ・正田耕三選手で打率.340
当時のチームメイト、「ギャオス」こと内藤尚行選手は号泣しながら栗山選手の引退を留意させようとしましたが、メニエール病はめまいを伴うので野球どころか日常生活もままならない中での苦渋の決断でした。
他チームを含めて背番号4番の歴史を見てみると、度会選手のような目立つ活躍は出来なくてもチームには欠かせない存在という選手が着用することが多いように感じます。
度会選手の前任者、馬場選手はオリックス時代から守備の達人として2年連続でゴールデングラブ賞を獲得した選手でした。
その守備力でスワローズと対戦した1995年の日本シリーズでは大いに活躍。出番が少なくなった1997年に野村監督が準主力投手の小倉恒選手を放出してまでトレードで獲得したことが、馬場選手がどれだけ素晴らしい選手だったのかの証です。
「あそこに飛んだら地獄」。野村監督にそこまで言わせた馬場選手の守備力。スワローズでは岩村明憲選手がレギュラーとなるまでの期間、チームを救い続けました。
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