こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
1997年の日本シリーズの第2戦は、私にとって印象深い一戦として心に刻まれています。
6回表、一死後スワローズは三連打で満塁とし、迎えたのはこの年の本塁打王で背番号10番のドゥエイン・ホージー選手です。
西武ライオンズの杉山投手が4球目を投げた次の瞬間、ホージー選手はバットを振りませんでしたが、ボールはなぜかマウンド前にコロコロと転がったのです。それを見て三塁走者・宮本慎也選手は迷いなく本塁へ突入しホームインして同点となりました。
西武の捕手・伊東勤選手は意味が理解できずに、なすすべなく立ちすくみ、杉山選手は苦笑いを浮かべるのみでした。
ホージー選手はスイングをしていません。でもボールは転がったのです。タネを明かせば、ホージー選手のバットのグリップエンドに「偶然」ボールが当たっただけのことなので。
しかし緊迫感のある場面だっただけに、西武ライオンズの選手が戸惑ってしまったのも無理はありません。
この試合は西武が辛くもサヨナラ勝ちしましたが、続く第3戦から一気に三連敗し、シリーズに敗れてしまいます。ホージー選手の「秘打」に調子を狂わされてしまったかのような、西武らしくない脆さが印象的なシリーズでした。
今回はホージー選手がつけていた、東京ヤクルトスワローズの背番号10番の歴史について、お話したいと思います。
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歴代の背番号10番を背負った選手をご紹介
まずは、東京ヤクルトスワローズの背番号10番をつけた全選手を、古い順からご紹介します。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
1950年~1951年 | 2年 | 国鉄スワローズ | 村松昭次郎選手 |
1952年~1954年 | 3年 | 国鉄スワローズ | 辻井弘選手 |
1955年~1958年 | 4年 | 国鉄スワローズ | 大脇照夫選手 |
1959年~1960年 | 2年 | 国鉄スワローズ | 岩下守道選手 |
1961年~1964年 | 4年 | 国鉄スワローズ | 土屋正孝選手 |
1965年 | 1年 | 国鉄スワローズ | 空白 |
1966年 | 1年 | サンケイアトムズ | 麻生実男選手 |
1967年 | 1年 | サンケイアトムズ | 空白 |
1968年~1970年 | 3年 | サンケイアトムズ~アトムズ~ヤクルトアトムズ | 高山忠克選手 |
1971年~1978年 | 8年 | サンケイアトムズ | 山下慶徳選手 |
1979年~1980年 | 2年 | ヤクルトスワローズ | 伊勢孝夫選手 |
1981年~1983年 | 3年 | ヤクルトスワローズ | 佐々木正行選手 |
1984年~1985年 | 2年 | ヤクルトスワローズ | 空白 |
1986年~1995年 | 10年 | ヤクルトスワローズ | 荒井幸雄選手 |
1996年 | 1年 | ヤクルトスワローズ | 空白 |
1997年~1998年 | 2年 | ヤクルトスワローズ | ドゥエイン・ホージー選手 |
1999年 | 1年 | ヤクルトスワローズ | マーク・スミス選手 |
2000年 | 1年 | ヤクルトスワローズ | トーリ・ロブロ選手 |
2001年 | 5年 | ヤクルトスワローズ | 空白 |
2002年~2009年 | 8年 | ヤクルトスワローズ~東京ヤクルトスワローズ | 城石憲之選手 |
2010年~2013年 | 4年 | 東京ヤクルトスワローズ | 藤本敦士選手 |
2014年~2016年 | 3年 | 東京ヤクルトスワローズ | 森岡良介選手 |
2017年~ | 東京ヤクルトスワローズ | 荒木貴裕選手 |
スワローズの背番号10番の歴史は、投手から始まりました。
初代・松村昭次郎投手はスワローズで2年間プレーした後大洋ホエールズへ移籍しました。
二代目・辻井弘選手は広島カープの初代主将を務めた内野手。カープでは4番を務めたこともあり、スワローズでもクリンナップを任されました。
三代目・大脇照夫投手は名古屋鉄道局からの転身組。入団4年目の1956年5月3日、地元名古屋で史上24人目のノーヒットノーランを達成しました。ちなみに、1956年の大脇投手の年度成績は4勝13敗ながら防御率は3.16。強いチームで投げていたらきっと勝ち負けが逆転していたことでしょう。
四代目・岩下守道選手と五代目・土屋正孝選手は共に巨人から移籍してきた内野手です。岩下選手は川上哲治選手の控え一塁手、土屋選手はセカンドのレギュラーを張り、日本シリーズでも活躍しました。
六代目・麻生実男選手は1966年に大洋ホエールズから移籍した選手。1960年の大洋初優勝時には、当時の三原脩監督から「超二流の選手」と重宝された選手で、チャンスでは滅法強く、代打の切り札として活躍しました。
七代目・高山忠克選手は栃木・作新学院高時代に4番打者として春夏連覇を達成しプロ入りしました。プロ入り後も長打力を活かし活躍しますが、後にトラブルを起こし失踪、無期限失格選手として球史に悪名を残してしまいました。
八代目・山下慶徳選手からはドラフト世代になります。山下選手は社会人・河合楽器からドラフト1位指名を受け1971年に入団。翌1972年には外野の定位置を確保し1975年までレギュラーを務めます。
1976年、チャーリー・マニエル選手の入団に伴い、ポジションを譲る形で三塁手へコンバートされますがほどなく外野手に戻りました1979年には南海ホークスへトレード。しかし1年でスワローズへ復帰し、2年間プレーし引退しました。
山下選手の後を継いで10番を背負ったのが伊勢孝夫選手です。近鉄から移籍し3年目に背番号を37番から変更しました。
近鉄時代の1971年、84安打中実に28本が本塁打という神がかり的な長打力を発揮したことから付いたあだ名が「伊勢大明神」。
引退後は名コーチとして近鉄のタフィー・ローズ選手らからの信頼が厚く、ローズ選手は「日本のお父さん」と伊勢コーチを慕っていました。
1981年からは佐々木正行選手が背番号10番をつけています。社会人野球屈指の外野手としてドラフト2位で入団したものの、活躍の場はなく1983年に日本ハムファイターズへトレードとなりました。
1986年からは荒井幸雄選手です。1984年ロサンゼルス五輪の金メダリストである荒井選手は入団2年目の1987年に新人王を獲得。1990年代のスワローズ黄金期には2番打者や下位打線、代打などマルチに活躍。若松勉選手の後継者と目されました。
1997年~1998年はホージー選手、1999年はマーク・スミス選手、そして2000年はトーリ・ロブロ選手と外国人選手が10番を使用した後、2002年からは城石憲之選手が00番から変更して10番を背負います。
城石選手の後は阪神からFA移籍してきた藤本敦士選手が着けます。阪神時代は打率3割をマークしたこともある遊撃手の藤本選手ですが、スワローズでは実力を発揮できず、2013年に引退となりました。
2014年からは森岡良介選手です。元々は中日にドラフト1位で入団した内野手でしたが首脳陣との確執もありスワローズへトライアウトを経て入団。内野手の控えとしていぶし銀の活躍を示し、後に選手会長を務めました。
2017年からは荒木貴裕選手です。2010年にドラフト3位で近畿大から入団すると、スワローズ・アトムズ史上2人目となる新人開幕スタメンを勝ち取ります。当時の背番号は24番でした。
歴代背番号9番のうち、印象深い3選手のご紹介
私が印象に残っている3選手という事で、今回は荒井選手、ホージー選手、そして城石選手についてご紹介したいと思います。
荒井幸雄選手
出身地 横浜市金沢区
投/打 左/左
プロ野球歴
ヤクルトスワローズ(1986年~1995年)
近鉄バファローズ(1996年~1997年)
横浜ベイスターズ(1998年~2000年)
タイトル等 オールスター出場1回
荒井選手は「Y高」の愛称で親しまれた横浜商業高出身の外野手です。
3年生春のセンバツ大会では準決勝でPL学園高に敗れましたが、ベスト4進出の立役者となりました。高校卒業後は社会人野球の名門・日本石油(現JX-ENEOS)に進みます。
1984年に開催されたロサンゼルス五輪では、社会人2年目で野手最年少19歳ながら4番打者に抜擢されます。
他にはプロでチームメイトとなる広沢克己選手(明治大)・秦真司選手(法政大)の他、ロッテオリオンズで4番打者を務めた古川慎一選手(亜細亜大)、阪急ブレーブス入りし新人王を獲得した熊野輝光選手(日本楽器)など錚々たる選手がいる中での起用です。
そうそうたるメンバーを抑えて4番バッターに抜擢されたという事は、荒井選手の評価がいかに素晴らしかったかが伺えます。
ドラフト指名は、PL学園高の「KKコンビ」が注目を集めた1985年です。まずスワローズは、ロス五輪日本代表のエース・伊東昭光選手を3球団競合の末ドラフト1位で獲得しました。
2位指名では同じくロス五輪のメンバーだった日体大・園川一美選手を抽選で外すも4番打者の荒井選手を獲得します。日本代表の投打の柱をゲットしたスワローズの強運としたたかさが大いに評価されたドラフトとなりました。
プロ入り後は2年目の1987年に打率.301 9本塁打38打点で新人王を獲得し、その後も外野手のレギュラーとして活躍。プロでは1・2番を務めることが多くなりました。
1992年7月5日、明治神宮球場で行われた対読売ジャイアンツ戦。代打起用された荒井選手はベンチからのバントというサインの確認を怠り、野村克也監督に頭を叩かれるという「荒井ポカリ事件」に遭います。
当時、巨人・阪神との三つ巴の優勝争いをしており、ついつい野村監督が熱くなってしまっての事件で後に監督が謝罪しました。この出来事を機に荒井選手は発奮し、翌1993年には打率.291を記録しました。
レギュラーに返り咲いた他、初のオールスター出場、そしてチームの日本一に大きく貢献します。
1996年に近鉄へ、1998年には横浜へトレード移籍します。ちょうど1998年は横浜が日本一を達成した年で、優勝争いに慣れていないチームを駒田徳広選手らとともに鼓舞し続けました。
2000年シーズン限りで15年の現役生活を退き、翌年からコーチとしてスワローズに復帰しました。2008年には北海道日本ハムファイターズ、2010年からは巨人でコーチを務め、現在はジャイアンツ・アカデミーでコーチを務めています。
ドゥエイン・ホージー選手
出身地 アメリカ・ペンシルベニア州
投/打 右/両
プロ野球歴 ヤクルトスワローズ(1997年~1998年)
(NPBのみ)
タイトル等 本塁打王1回・ベストナイン1回・オールスター出場1回
長い日本プロ野球の歴史の中、陽気な外国人選手は数多く来日しましたが、その中でもトップクラスの明るさを誇っていたのがホージー選手です。
ただ明るいだけではなく、1年目のシーズンから巨人・松井秀喜選手を抑え本塁打王を獲得します。打率.289 38本塁打100打点に加え20盗塁を記録した機動力を兼ねそろえた、優良助っ人選手でした。
しかし、当初の下馬評は低く、野村監督からは「ただ明るいだけの選手。当時日本ハムに移籍していた落合博満選手からは「史上最低の助っ人」と酷評されましたが、研究熱心なホージー選手の努力が実り、見事低評価を覆してみせました。
来日前年の1996年、ボストン・レッドソックスの1番打者候補として名前の挙がっていただけに、選手紹介欄には「俊足巧打の外野手」とあり、長打力には一切言及されていません。
つまり、本質的には「意外性の長打力を秘めた・核弾頭タイプ」だったのですが、あれよあれよという間に本塁打を量産したのでした。
しかし長打を意識し過ぎ、本来の打撃スタイルを崩したことが翌年の不振につながってしまいます。野村監督もそのことを指摘しており「本塁打王を意識しとったろう」と問われたホージー選手はただただ苦笑いを浮かべるのみでした。
それでも、1997年のスワローズリーグ優勝にホージー選手が果たした役割は大きく、阪神時代を含め6年連続で打率3割をマークしたトム・オマリー選手を切ってまで獲得しただけの価値はあったことは事実です。
さらに、練習用ヘルメットに当時流行していたプリクラをびっしりと張り、ファンとの交流を欠かさなかったホージー選手の姿勢は、後のスワローズのファンサービスに影響を与えたのです。
スワローズの背番号10番と言えば、という質問に未だホージー選手の名前が挙がることこそ、プロ野球選手は成績を残すことが全てではない、という教えではないでしょうか。
1998年限りでスワローズを退団したホージー選手はマイナーリーグで現役を続けたのち、コーチに転身。2017年まではアトランタ・ブレーブス傘下のマイナーチームで打撃・守備を指導していました。
城石憲之選手
出身地 埼玉県大宮市
投/打 右/右
プロ野球歴
日本ハムファイターズ(1995年~1997年)
ヤクルトスワローズ~東京ヤクルトスワローズ(1998年~2009年)
城石選手は、埼玉県・春日部共栄高では遊撃手のレギュラーとして甲子園出場を経験し、卒業後は青山学院大へ進学します。しかし、わずが1週間で退学してしまいました。
以降はどのチームにも属さずガソリンスタンドで働きながらプロ入りのチャンスを伺っていました。
1994年、21歳の時に日本ハムの入団テストに合格、主に守備を評価されての朗報です。その年のドラフト会議で5位指名を受け、ついにプロ野球選手となりました。
ちなみに、日本ハムの入団テストを受ける前に、スワローズのテストも受験しましたが、こちらは不合格でした。そんな城石選手が後にスワローズで活躍するのですから、人生は分からないものですね。
1年目から2試合のみですが一軍戦に出場、初ヒットも打ちます。以降2年目の1996年は3試合、翌1997年は4試合とわずかな出場機会にとどまっていました。
1998年の開幕前日、急遽スワローズ・野口寿浩選手とのトレードが決まり、スワローズへ慌ただしく移籍することとなった城石選手でしたが、結果的にこのトレードが運命を変えます。
スワローズとしては正遊撃手だった宮本慎也選手が脱税事件により出場停止処分を受け、窮余の策としての城石選手獲得でしたが、これが大正解だったのです。
宮本選手復帰後は二塁手のレギュラー候補として土橋勝征選手らと鎬を削り、その一方で一塁以外の内野を守れることから守備固めあるいは戦線離脱した選手の代役として、スワローズでの地位を築きました。
移籍2年目の1999年には土橋選手故障という事情があったものの開幕スタメンの座をゲットします。背番号を10番に変更した2002年には2度目の開幕スタメンに抜擢されました。
2002年に80試合出場したのを皮切りに、2003年には117試合、2004年は119試合と順調に出場機会を増やしていきます。2005年には土橋選手から二塁手レギュラーの座を奪い取り、130試合に出場、打率.256 2本塁打30打点をマークしました。
しかし、2007年に腰痛を患い、以降も苦しめられます。2009年まで現役生活を続けたものの、腰痛に加え、2002年には左肘を脱臼したことにより肘が真っすぐ伸ばせなくなり、さらには右肘にも痛みが発生したことから限界として、引退を表明しました。
2009年10月12日、本拠地明治神宮野球場で行われた対巨人戦でこの年唯一の出場を果たし、越智大佑投手から二塁打を放ち、有終の美を飾りました。
試合終了後は、同じく2009年限りで引退することになった花田真人選手とともに引退セレモニーが行われました。
現役生活15年、うちスワローズで12年を過ごした城石選手は、もはや生え抜き選手と言っても過言ではなく、その人望の厚さから、移籍選手としては珍しい選手会長を務めました。
現役引退後はスワローズでコーチを務めたのち、古巣北海道日本ハムに戻り、2020年シーズンは二軍内野守備コーチとして指導を行うこととなっています。
背番号10番をつけた選手の傾向とは?
東京ヤクルトスワローズに限らず、多くの球団で背番号10番は、方向性が一定ではありません。
永久欠番としている阪神と中日ドラゴンズ、そして東北楽天ゴールデンイーグルス以外では、阿部慎之助選手が着けたことで特別な番号となった読売ジャイアンツ、谷良知選手以降の流れを汲むオリックスバファローズの他はどこかふわふわとした存在の番号です。
東京六大学をはじめとする大学野球界では、背番号10番は主将が着ける番号と決められています。
同じ明治神宮野球場でプレーしているからという訳でもないでしょうが、スワローズの10番も似たような意味合いの番号になってきているように思えます。
スワローズの場合は、城石選手や森岡選手に代表されるように、決してバリバリのレギュラーではなくても選手会長に選出されてきました。それだけ人望があるという証拠であり、そういう形の「リーダー」が背負ってきたのが、東京ヤクルトスワローズの背番号10番の特徴と言えるでしょう。
⇒東京ヤクルトスワローズの話題
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⇒球団別背番号の話題
おわりに
今回は、東京ヤクルトスワローズの背番号10番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?
他球団と違い、リーダーを務めるような選手がつけてきたのが傾向として感じられました。
2017年から10番をつけている荒木選手も、そういった資質を見込まれて10番を着けているのだと思えば、より一層頼もしく見えてきます。
東京ヤクルトスワローズを引っ張るような存在になれるのか、注目していきたいと思います
最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。