オリックスバファローズの背番号7番!不滅の大記録を作ったあの選手もつけた歴代7番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

国民栄誉賞と言えば、日本人にとって最高に栄誉である賞である事は間違いないと思います。過去の受賞者をみても、素晴らしい方々の名前が連なっています。

そんな国民栄誉賞を、受賞すると「立小便できなくなるから」と断ったプロ野球がいます。その選手とは、現オリックスバファローズ(元阪急ブレーブス)の福本豊選手です。

そんな理由で辞退するなんて、勿体ないと思うのはわたしだけでしょうか(^^;)

今回は、福本選手もつけたオリックスバファローズの背番号7番を特集しますので、楽しみにしてくださいね。




■目次(クリックすると飛びます)

歴代の背番号7番を背負った選手をご紹介

まずは、オリックスバファローズ歴代の背番号7番を着けた選手を、「阪急~統合前まで」・「近鉄~統合前まで」そして「統合後」と3ブロックに分けてご紹介します。

旧阪急
年  度年 数球 団 名選 手 名
1936年1年阪急軍中村一雄選手
1937年春~1937年秋1年阪急軍野上清光選手
1938年春~1940年3年阪急軍下村豊選手
1941年~1942年1.5年阪急軍江口行男選手
1942年0.5年阪急軍加納靖介選手
1943年1年阪急軍伊藤健一選手
1944年~1945年2年阪急軍空白
1946年~1947年1.5年阪急軍~阪急ベアーズ~阪急ブレーブス三木久一選手
1947年0.5年阪急ブレーブス岩崎久太郎選手
1948年~1949年2年阪急ブレーブス宮崎剛選手
1950年~1959年10年阪急ブレーブス川合幸三選手
1960年~1966年7年阪急ブレーブス衆樹資宏選手
1967年~1971年5年阪急ブレーブス平林二郎選手
1972年~1991年20年阪急ブレーブス~オリックスブレーブス~オリックスブルーウェーブ福本豊選手
1992年~2000年9年オリックスブルーウェーブ空白
2001年~2003年3年オリックスブルーウェーブ進藤達哉選手
2004年2年オリックスブルーウェーブ日高剛選手
旧近鉄
年  度年 数球 団 名選 手 名
1950年~1951年2年近鉄パールス永田隆次選手
1952年~1953年2年近鉄パールス奥田元選手
1954年~1960年6.5年近鉄パールス~近鉄バファロー鈴木武選手
1960年~1962年1.5年近鉄バファロー~近鉄バファローズ東田巍選手
1963年~1967年5年近鉄バファローズ木村軍治選手
1968年~1984年17年近鉄バファローズ小川亨選手
1985年1年近鉄バファローズ空白
1986年~1989年4年近鉄バファローズ淡口憲治選手
1990年~1993年4年近鉄バファローズ畑山俊二選手
1994年~1997年4年近鉄バファローズ中根仁選手
1998年1年近鉄バファローズ空白
1999年~2004年6年大阪近鉄バファローズ大村直之選手
統合後
年  度年 数球 団 名選 手 名
2005年~2007年3年オリックスバファローズ水口栄二選手
2008年~2010年3年オリックスバファローズ濱中治選手
2011年1年オリックスバファローズ空白
2012年1年オリックスバファローズ赤田将吾選手
2013年~2016年4年オリックスバファローズ糸井嘉男選手
2017年~2021年5年オリックスバファローズ空白
2022年~オリックスバファローズ吉田正尚選手

旧阪急の選手からご紹介します。背番号7番を背負った選手の歴史は15代に渡ります。

初代・中村一雄選手は1年でプロを引退した内野手です。2代目・野上清光選手は左打ちの遊撃手でした。プロ入り時は背番号7番でしたが後に6番へと変更しています。

3代目・下村豊選手は三塁を守った右打者です。下位打線を務めることが多かったようです。4代目・江口行雄選手は日本最初のプロ野球球団である大日本東京野球倶楽部の創立メンバーでした。後に名古屋金鯱軍へ移りますが、これはプロ野球初の移籍と言われています。

5代目・加納靖介選手は1年で引退した外野手でした。6代目・伊藤健一選手は2年でプロ野球から身を引いた内野手です。

7代目・三木久一選手も短いプロ生活に終わった内野手です。8代目・岩崎久太郎選手はプロ入り後すぐに太陽ロビンスへ移籍した外野手。現役生活は2年で終わりました。

9代目・宮崎剛選手は後に大洋ホエールズの監督を務めます。「湘南カラー」と言われた、緑とオレンジのユニフォームを採用したのは、宮崎監督時代のことでした。

10代目・川合幸三選手は俊足を武器に活躍した、左打ちの一塁手です。通算284盗塁は阪急球団史上4位の記録となっています。

11代目・衆樹資宏選手は明治大時代に戦後初の三冠王を獲得した選手です。大毎オリオンズから阪急へ移籍後は4番打者を務め、プロでも打力を武器に活躍されました。

12代目・平林二郎選手はレギュラーとはいきませんでしたが、代走・守備固めで活躍しました。プロ14年目にしてスイッチヒッターに挑戦したのは話題となりました。

13代目・福本豊選手は入団当初の背番号40番を平林選手と交換し、7番に変更しています。7番初年度の1972年、史上唯一のシーズン100盗塁超えとなる、106盗塁を記録。プロ入り4年目で早くも3度目の盗塁王獲得となりました。

9年の空白を経て2001年に背番号7番を背負ったのは、横浜ベイスターズから移籍してきた進藤達哉選手です。その人選には賛否両論がありました。

そして15代目・ブルーウエーブ最後の7番を背負ったのは日高剛選手です。背番号47番からの大昇格でしたが、球団合併の余波で1年で27番に再変更しました。パンチ力を秘めた、左打ちの捕手でした。後にFAで阪神タイガースへ移籍します。

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続きまして旧近鉄編です。近鉄の背番号7番はちょうど10代続きました。

初代・永田隆次選手は2年間のプロ生活で引退した内野手です。2代目・奥田元選手は毎日オリオンズからの移籍してきた遊撃手です。毎日時代に1イニング3盗塁を記録したこともある俊足の選手でした。

3代目・鈴木武選手も俊足のショートで、盗塁王を獲得したこともある選手だったのですが、ケガをして以降は首脳陣とトラブルが増え、大洋ホエールズへ移籍します。ショートのレギュラー不在に悩んでいた大洋最後のピースを見事に埋め、初優勝に大きく貢献しました。

4代目・東田巍選手は関西六大学リーグで首位打者を獲得した経験を持つ捕手です。引退後は地元京都でリトルシニアチーム「京都北リトルシニア」の監督に就任しました。1995年の全国大会では松坂大輔選手のいた「江戸川南リトルシニア」を破り、リトルシニア日本一を達成しています。

5代目・木村軍治選手は東映フライヤーズから移籍した遊撃手です。高卒1年目から55試合に出場するなど守備を高く評価された選手でした。

6代目・小川亨選手は一塁手と外野を兼任した左打者です。17年間第一線でプレーし続け、大きなケガもなく安定した成績を残し続けました。

7代目・淡口憲治選手は読売ジャイアンツから移籍した外野手です。当初は近鉄・有田修三捕手と巨人・定岡正二投手の交換トレードで話がまとまったのですが、定岡選手がトレードを拒否、引退したため淡口選手が近鉄へ移籍することになりました。

「コンコルド打法」と呼ばれた鋭いスイングと、打席で腰を振るしぐさで人気の高かった選手でした。

8代目・畑山俊二選手は、左利きの外野手です。近鉄に7年間在籍した後に1997年に阪神タイガースへと移籍、同年引退しました。

9代目・中根仁選手は宮城・東北高出身の外野手です。1法政大を経てドラフト2位で近鉄入りしました。ケガが多くレギュラーは掴めませんでしたが、近鉄そして1998年に移籍した横浜ベイスターズでは準レギュラーとして貴重な存在だった選手です。

そして10代目、近鉄最後の背番号7番は大村直之選手です。兵庫・育英高で夏の甲子園全国制覇を達成しプロ入りしました。

2年目には早くもレギュラーを掴んだ外野手です。FA移籍し2005年からは福岡ソフトバンクホークスでプレーしています。1・2番を務めることの多かった走攻守揃った好選手でした。

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最後は統合後に背番号7番を着けた選手を紹介しましょう。

初代は水口栄二選手です。近鉄では正二塁手でしたが、オリックス移籍後は平野恵一選手に押されてしまいました。

2代目は濱中治選手です。阪神タイガースでは4番打者を務め、人気も高かっただけにトレードとなったのは意外でしたが、肩のケガを考慮されDHのあるパ・リーグに移籍したのでした。しかし、期待されたほどの成績は残せませんでした。

3代目・赤田将吾選手も移籍組です。松坂大輔選手と同期入団で西武ライオンズ入りした内外野守れるスイッチヒッターです。貴重な存在として重宝されました。

4代目・糸井嘉男選手もまたまた移籍組です。赤田選手らとの交換トレードで北海道日本ハムファイターズから移籍。糸井選手移籍を知ったダルビッシュ有投手がツイッターで「ありえへん」とつぶやいたほどの衝撃でした。

オリックスでは盗塁王に輝いたものの、FAで阪神タイガースへ移籍しました。

2022年からは、5代目・吉田正尚選手が背番号7番を受け継ぎました。

怪我がちな部分を除けば、言うことのないくらい素晴らしい打者で、小柄な体格からのフルスイングは多くの野球ファンの心を魅了しています。久しぶりに現れたと言ってもいいオリックスのスター選手です。




歴代背番号7番のうち、印象深い3選手のご紹介

次に、オリックスバファローズの背番号7番をつけてきた選手のうち、私が印象深く思う福本選手、小川選手、そして大村選手をご紹介したいと思います。

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福本豊選手

生年月日  1947年11月7日
出身地    大阪市生野区
投/打    左/左
プロ野球歴 阪急ブレーブス(1969年~1988年)
タイトル等  盗塁王13回・最多安打4回・ベストナイン10回
       ダイヤモンドグラブ賞12回・オールスター出場17回

1983年6月3日、福本選手は対西武ライオンズ戦で三盗を決め、ルー・ブロック選手が持つMLB通算盗塁記録を更新し、「世界の盗塁王」となりました。そのプロ入りは偶然がもたらしたものです。

社会人野球・松下電器のチームメート・加藤秀司選手を視察に訪れていた阪急スカウトの前で、「たまたまいいプレーができた」(本人談)ところ、加藤選手のついでにドラフト指名されたのです。

ちなみに、1968年のドラフト会議で阪急は1位・山田久志投手、2位・加藤選手、そして7位で福本選手を獲得。つまり、黄金時代の1番打者と3番打者、そしてエースを一挙に獲得するという、とんでもない成功を収めました。

さらに、ドラフト12位ではクラレ岡山・門田博光選手を指名しています。門田選手は指名を拒否し、後年ドラフト2位で南海ホークスに入団しました。

もし、福本選手らと同時に門田選手が阪急入りしていたら・・・、間違いなく、読売ジャイアンツのV9はなかったことでしょう。

盗塁だけがクローズアップされがちな福本選手ですが、通算安打2543本は衣笠祥雄選手と並んでNPB史上5位、通算二塁打449本は立浪和義選手に次ぐ2位、そして通算三塁打115本は1位の記録です。

20年間の現役生活で出場試合数が100試合を割ったのはルーキーイヤーと現役最終年だけ、またこの2年を除く18年連続でシーズン100安打以上をマークしました。

本塁打は20年間連続で記録し、通算208本塁打。1980年には自己最高となる21本塁打を記録しました。この年は打率も.321という高打率をマークしています。

現役通算打率は.291。1978年には首位打者獲得のチャンスが巡って来ましたが、「覆面パトカーのように現れた」(福本選手談)、近鉄バファローズ佐々木恭介選手がタイトルを獲得、惜しくも福本選手は2位に終わりました。

守備の面ではプロ入団前から肘を痛めていたのでスローイングの不安定さは俊足を活かした守備範囲の広さで補って余りあるほどです。守備機会(簡単に言えば守備でボールに触った回数)5272回、刺殺数(フライを掴むなど、守備でアウトにした回数)5102回はいずれもNPB記録です。

福本選手の引退は1989年です。翌年からチームは「オリックス・ブレーブス」としてスタートすることが決まり、同期の山田投手が阪急とともに身を引くことを決意する中、福本選手はまだまだ現役を続けるつもりでした。

しかし、阪急ブレーブスとして西宮球場最後の試合後、あいさつに立った当時の上田利治監督が「去る山田、残る福本」と言うべきところを「去る山田、そして福本」と言ってしまったことにより、急遽引退を決意しました。

引退後はオリックス二軍監督・阪神タイガース打撃コーチを務めたのち、野球解説者に転身しています。0が並ぶスコアボードを「タコ焼きみたいやね」と表現するなどユーモアあふれる解説はすっかりおなじみとなりました。

一方でスライディング技術にはさすがの一家言を持ち、特にヘッドスライディングに関しては「ケガをするだけ」、「到達するまでのスピードは変わらない」と語るなど、厳しい見解を示し、「真のプロ」としての見解を示しています。     




小川亨選手

生年月日  1945年8月1日
出身地    宮崎県宮崎市
投/打    左/左
プロ野球歴 近鉄バファローズ(1968年~1984年)
タイトル等  最高出塁数1回・ダイヤモンドグラブ賞1回・オールスター出場2回

昭和の近鉄選手の打法と言えば、梨田昌崇選手の「こんにゃく打法」が有名ですが、小川選手のフォームも個性的でした。

173cmという、野球選手としては大柄ではない体躯を腰を丸めるように屈め、バットの先端は投手に向けて構える。かつて千葉ロッテマリーンズでプレーしたフリオ・フランコ選手が腰を屈めたフォームと言えばイメージしやすいでしょうか。

17年近鉄一筋でプレーし、通算打率.284、通算安打1634本が示すように、毎年コンスタントな成績は残すものの、守備位置が一塁と外野ということもあり、外国人選手の好不調に左右されることが多かったのが惜しまれます。

立教大から近鉄入りした1968年、早くも95試合に出場しました。翌1969年から5年連続で2桁本塁打を記録、1971年には打率.315でベストテン5位にランクイン。この年、主に2番打者ながら20本塁打を記録しています。

1974年にはベストテン8位、そして1980年、プロ13年目35歳にして自己最高打率.323をマークします。これは打撃ベストテン6位の好成績でした。加えて15本塁打55打点と2番打者としては十分過ぎる成績を残し、ダイヤモンドグラブ賞も受賞しました。

17年の現役生活中、ルーキーイヤーと現役最終年を除いた15年間で出場試合数が100を割ったのはわずかに1年のみです。大きなケガもなく無事これ名馬を地で行くような選手生活でした。

同じパ・リーグで何度も対戦した阪急ブレーブスのエース・山田久志投手が「もーやん(小川選手の愛称)がバッターボックスでニコニコしながらうんうんとうなずかれると、たまらなかった」と後に述懐しています。

これは、朴訥とした風貌だった小川選手だからこそなせる業です。その特徴を活かし、家電メーカーのCMに農夫役で出演されたこともあります。

現役引退後は野球解説者をへて近鉄打撃コーチに就任。1989年の近鉄優勝に大いに貢献しました。

2003年には保護観察処分を受けた方を論説する保護司を委託され、活動を開始。保護司となる条件の一つとして「人格及び行動について、社会的信望を有すること」というものがあります。

山田投手の闘争心をも削いでしまったあの優しい微笑みは、きっと多くの方の更生のキッカケとなることでしょう。




大村直之選手

生年月日  1976年2月13日
出身地    兵庫県西宮市
投/打    右/右
プロ野球歴
近鉄バファローズ~大阪近鉄バファローズ(1994年~2004年)
福岡ソフトバンクホークス(2005年~2008年)
オリックスバファローズ(2009年~2010年)
タイトル等  最多安打1回・ゴールデングラブ賞3回・オールスター出場5回

大村選手は、兵庫・育英高3年時の1993年、夏の甲子園大会で「3番・センター」として全国制覇を成し遂げています。その年のドラフト会議で高校の先輩にあたる鈴木啓示監督率いる近鉄バファローズに3位指名を受け入団しました。当時の背番号は60番です。

プロ2年目の1995年には早くもスタメンに定着します。長年近鉄の1番打者を務めてきた大石大二郎選手に代わる1番打者として110試合に出場、規定打席には到達しませんでしたが、打率.270 15盗塁を決め、次世代の近鉄を担うホープとして注目を集めます。

プロ5年目の1998年に初の規定打席到達にして3割をクリアしました。打率.310はリーグ6位の好成績です。この年はベストナイン、ゴールデングラブ賞にも選出。オールスターにも初出場しました。また、この年から10年連続で規定打席をクリアします。

2001年は1番打者ながら自己最多となる16本塁打を記録し、「いてまえ打線」の切り込み隊長として活躍します。チーム防御率は12球団ワーストながら強力打線が打ちまくり、チームは1989年以来の優勝を果たしました。

2003年、首脳陣の方針で、減少気味だった盗塁を積極的に試みるようになり、前年はわずか1個だった盗塁が27個にまで増え、打率も5年ぶりに3割を超えます。

翌2004年も打率3割と20盗塁をクリア。しかし、降ってわいてきた球団の合併話により、選手会副会長だった大村選手も否応なしに野球以外の活動に追われることになります。

結局球団は合併し近鉄球団消滅が決まると、大村選手はFA権行使を表明します。福岡ソフトバンクホークスへと移籍しました。

移籍1年目の2005年には3度目となるゴールデングラブ賞、2006年には最多安打のタイトル、そして2007年には自己最高打率となる.319を記録する活躍ぶりでしたが、この2007年に足を故障したことが以後の現役生活にジワリと影を落とします。

2007年シーズン、大村選手が選んだ四球は9個。対し死球は10個という大変珍しい記録を残します。これは1リーグ時代に1人が記録しているだけで、2リーグ分裂以降は大村選手しかマークしていないという貴重な(?)記録といえるでしょう。

2008年は故障の影響で打率を落とし、守備でも定位置だったセンターを離れ、ライトあるいはレフトでの出場となります。ゴールデングラブ賞3度の名手が守備固めを送られるという憂き目にも遭いました。

2009年、村松有人選手との交換トレードでオリックスに移籍。FAで移籍した選手同士の交換トレードも珍しいですが、双方とも古巣に復帰トレードというのもレアケースでした。(大村選手の場合、古巣は近鉄バファローズなので、厳密にいえば「古巣に近い場所」に復帰した、ということになるのでしょうか)

2009年は打率.291を記録し、さすがの貫録を見せた大村選手でしたが、2010年は2軍暮らしが続きそのまま戦力外通告。トライアウトを受験せずオファーを待ちましたが連絡は来ませんでした。

19歳でレギュラーを掴み、30歳で通算1500安打を達成。2000本どころか2500本安打も視野にあったはずの大村選手ですが、結局は通算1865本でユニフォームを脱ぎました。




背番号7番をつけた選手の傾向とは?

阪急では福本選手、近鉄では小川選手の印象が強く、「左打の俊足選手」の番号というイメージが固まった印象があります。

オリックスブルーウェーブ時代には進藤選手や日高選手など内野手や捕手、そして濱中治外野手が着けてみたりとその歴史に反して雑に扱われている印象すらありました。

しかし、2013年糸井選手が移籍し、背番号7番を着けるとピタリとハマります。やはりオリックスの背番号7番は、福本選手や小川選手のように、「俊足で左打、そして外野手」の番号、ということなのでしょう。

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なぜ7番は永久欠番にならなかったのか?

私をはじめ、多くのプロ野球ファンが疑問に思っている事を話題にしたいと思います。それは、なぜ福本選手の背番号7番は永久欠番ではないのか、という事です。

前述した通り、福本選手の記録は他の永久欠番の選手と比較しても、劣るどころか勝っているケースが多いと感じます。

言わずと知れた「世界の盗塁王」にして通算1065盗塁はNPB記録。王貞治選手の通算868本塁打、衣笠祥雄選手の2215試合連続試合出場と並ぶ、今後破られることは無いであろう打者部門不滅の大記録です。

真意はわかりませんが、個人的には、福本選手が引退した翌年から、球団の母体が阪急からオリックスに移った事も、影響しているのではないかと思います。オリックスは、永久欠番について無関心だったのではないかと、勝手に考えてしまいます。

ちなみに福本選手とは同期入団で、下手投げ投手として歴代最多の284勝を挙げ、3年連続MVPに輝いた阪急黄金期のエース・山田久志投手の背番号17番も永久欠番となっていません。

しつこいようですが、福本選手が残した成績は、走攻守にわたりいくつもNPB記録があります。それはただ長く現役生活を続けていたから達成できたものではなく、福本選手の才能と、そしてなにより福本選手のたゆまぬ努力、向上心、そしてストイックさが生んだ、空前絶後の記録ばかり。

その福本選手を称える意味でも、ぜひ永久欠番に認定していただきたいのです。

山田投手の17番も永久欠番の価値が大いにありますし、加藤選手の10番も永久欠番となっても何の不思議もありません。さらに言えば、長池徳士選手の3番も・・・と言い出したらキリがなくなるので止めておきますが(笑)

2012年5月1日、埼玉西武ライオンズはその前身球団である西鉄ライオンズのエース・稲尾和久投手の背番号24番を永久欠番とする、と発表しました。しかし、稲尾氏はその5年前、2007年にお亡くなりになられており、その栄誉は見ることができませんでした。

プロ野球に偉大な功績を残された選手を称えるならば、その方がご存命のうちに意を示さなれば意味がない。国民栄誉賞を「立小便できなくなるから」と断った福本選手だからこそ、余計にその思いが強くなるのです。




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