オリックスバファローズの背番号9番!イチローの名づけの親もつけた歴代9番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

日本だけではなく、アメリカメジャーリーグでも輝かしい活躍をみせた、ご存じイチロー選手。元々は本名の鈴木一朗で登録されていましたが、1994年にイチローと変えてから大ブレイクを果たしました。

鈴木一朗選手をイチロー選手と名付けたのが、当時の一軍総合コーチの新井宏昌さんです。

今回は新井さんもつけていた、オリックスバファローズの背番号9番を特集します。前身球団を含め背番号9番をつけた全選手や、特に印象深い3選手、さらにオリックスバファローズの背番号9番つけた選手の傾向にも触れますので、楽しみにしてくださいね。




歴代の背番号9番を背負った選手をご紹介

それでは、オリックスバファローズ歴代の背番号9番を着けた選手を「阪急~統合前まで」・「近鉄~統合前まで」そして「統合後」と3ブロックに分けてご紹介します。

旧阪急   
年  度年 数球 団 名選 手 名
1936年~1941年6年阪急軍山田勝三郎選手
1942年1年阪急軍空白
1943年1年阪急軍義川泰造選手
1944年~1945年2年阪急軍空白
1946年0.5年阪急軍尾西信一選手
1946年~1947年1.5年阪急軍~阪急ベアーズ~阪急ブレーブス田中幸男選手
1948年1年阪急ブレーブス明石武選手
1949年~1954年6年阪急ブレーブス中谷順次選手
1955年1年阪急ブレーブスアルビン・スピアマン選手
1956年~1960年5年阪急ブレーブス増田浩選手
1961年1年阪急ブレーブス空白
1962年1年阪急ブレーブスラリー・レインズ選手
1963年1年阪急ブレーブス空白
1964年~1966年3年阪急ブレーブス石川進選手
1967年~1976年10年阪急ブレーブス森本潔選手
1977年~1985年9年阪急ブレーブス吉沢俊幸選手
1986年1年阪急ブレーブス空白
1987年~1992年6年阪急ブレーブス~オリックスブレーブス~オリックスブルーウェーブ本西厚博選手
1993年1年オリックスブルーウェーブ空白
1994年1年オリックスブルーウェーブフランシスコ・キャブレラ選手
1995年~2000年6年オリックスブルーウェーブ嘉勢敏弘選手
2001年1年オリックスブルーウェーブ五十嵐章人選手
2002年~2004年3年オリックスブルーウェーブ平野恵一選手
旧近鉄
年  度年 数球 団 名選 手 名
1950年~1957年2年近鉄パールス山本静雄選手
1958年~1959年2年近鉄パールス~近鉄バファロー佃明忠選手
1960年~1962年3年近鉄バファロー~近鉄バファローズ矢ノ浦国満選手
1963年~1968年6年近鉄バファローズ吉沢岳男選手
1969年~1976年8年近鉄バファローズ伊勢孝夫選手
1977年~1985年9年近鉄バファローズ平野光泰選手
1986年~1992年7年近鉄バファローズ新井宏昌選手
1993年~1999年7年近鉄バファローズ~大阪近鉄バファローズ内匠政博選手
2000年~2004年5年大阪近鉄バファローズ鷹野史寿選手
統合後
年  度年 数球 団 名選 手 名
2005年~2007年3年オリックスバファローズ平野恵一選手
2008年~2009年2年オリックスバファローズ空白
2010年~2015年6年オリックスバファローズ坂口智隆選手
2016年1年オリックスバファローズ空白
2017年~2019年3年オリックスバファローズステフェン・ロメロ選手
2020年~オリックスバファローズ大城滉二選手

まずは阪急編。背番号9番を背負った選手の歴史17代に渡ります。

初代は山田勝三郎選手です。選手もそれほど多くなかった1リーグ時代、投手と野手を兼任。投手ではノーヒット・ノーランを達成しました。野手としては史上初・左投げでセカンドを守った選手として名を残しています。

2代目・義川泰造投手は背番号6番からの変更です。3代目・尾西信一選手は1946年に入団した内野手。1年でプロから身を引きました。

4代目・田中幸男選手は戦前の阪急でプレーした内野手です。戦後は3チームを移籍し、最後は「田中成豪」という登録名で広島カープでプレーしました。

5代目・明石武選手はプロで内野手に転向した元捕手です。1試合投手を務めた経験を持ちます。6代目・中谷順次選手は大陽ロビンズから移籍した三塁手、4番打者も務めています。

7代目・アルビン・スピアマン投手は1年だけ阪急でプレーしました。8代目・増田浩選手は主にサードを守った三塁手。後に読売ジャイアンツへ移籍しました。

9代目はラリー・レインズ選手です。1953年に盗塁王を獲得した選手が再び阪急と契約し、背番号9番を着けたのが1962年です。しかし、往年のプレーが蘇えらず、1年で解雇となりました。

10代目・石川進選手は大毎オリオンズから移籍してきた左打ちの外野手です。長池徳士選手の入団以降は代打として活躍しました。

11代目は森本潔選手です。168cmという、プロ野球選手としては小柄な部類の選手でありながら、通算146本塁打を放った三塁手です。

1976年、第一次長嶋監督時代の読売ジャイアンツとの日本シリーズで第7戦に決勝の勝ち越しホームランを放ち、飛び上がるようにグラウンドを回ってきました。

しかし、このシリーズ前に森本選手は中日ドラゴンズへのトレードが決定しており、当時の上田利治監督は喜色満面の森本選手を見て涙をこらえたそうです。

ヘルメットから垣間見えるパーマのかかった長髪に口ひげ、そしてサングラスという一見コワモテないでたちでプレーしていたのも印象的でした。

12代目は吉沢俊幸選手です。早稲田大時代は強打の1番打者として怖れられた存在でしたが、プロでは守備の人でした。

13代目は本西厚博選手です。NHKの大リーグ中継でもおなじみですが、現役時代は阪急の外野手でした。あのイチロー選手の守備にダメ出しを出来る関係性にある存在にあります。

14代目はフランシスコ・キャブレラ選手です。強打を期待されたものの、11本塁打に終わり1年で退団しました。

15代目は嘉勢敏弘選手です。二刀流に挑戦した外野手でしたが、打撃では伸び悩み投手に専念。2001年にはリーグ最多となる70試合に登板しました。

16代目は五十嵐章人選手です。全ポジションで出場経験があり、かつ全打順で本塁打を記録したという究極のユーティリティープレーヤーでした。元巨人の木田優夫選手といとこであることも有名です。

17代目は平野恵一選手です。169cmというプロ野球選手としては小柄でしたが、ケガをも恐れぬガッツあふれるプレーを見せてくれました。

後に岡田彰布監督直々の指名により濱中治選手らと交換で阪神タイガースへ移籍します。さらにFAで古巣へ復帰しました。

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続きまして近鉄編です。近鉄の背番号9番は9代続きました。

初代の山本静雄選手は中日から移籍した二塁手です。中日時代に引き続き、近鉄でもレギュラーとして活躍します。引退後はコーチに転身しましたが37歳という若さでお亡くなりになられました。

2代目・佃明忠選手も毎日オリオンズから移籍してきた捕手です。毎日時代にはオールスター出場経験もありますが、早稲田実業高の後輩・醍醐猛夫捕手の入団を機に近鉄へ移籍しました。

3代目・矢ノ浦国満選手は、高卒ルーキーながら開幕スタメンを果たした遊撃手です。

正遊撃手・鈴木武選手が首脳陣と対立しトレードに出されたという事情はあるものの、見事開幕戦で2安打を放ち、レギュラーを務め上げました。その守備力は近鉄球団史に残ると称賛されています。

4代目・吉沢岳男選手はインサイドワークに長けた捕手です。中日でプレーしていたものの、首脳陣と揉め近鉄へトレードされてしまいます。それを知った巨人・水原茂監督が「吉沢捕手の放出はセ・リーグの損失だ」とまで嘆いた存在でした。

5代目は「伊勢大明神」こと伊勢孝夫選手です。現役時代は勝負強い打撃が持ち味の一塁手でした。

引退翌年の1981年から29年間、一度もユニフォームを脱ぐことなくコーチを歴任しました。外国人選手の指導には定評があり、特にタフィ・ローズ選手は「日本のお父さん」と慕っています。

6代目は平野光泰選手、社会人野球・クラレ岡山から1972年に近鉄へ入団した外野手です。

5年間はパッとしない成績でしたが1977年に一軍へ定着するや12本塁打を放ち、翌1978年からはトップバッターに定着。1979年には前期優勝がかかった試合でピンチを救う好返球、「執念のバックホーム」と語り草になるプレーを披露しました。

1980年には1番打者ながら23本塁打を記録します。「ガッツマン」というあだ名のとおり、闘志あふれるプレーでファンの人気も高い選手でした。

7代目は、イチロー選手の名付け親である新井宏昌選手です。大卒で2000本安打を達成した外野手でした。コーチとしても各チームから声が掛かる存在です。

8代目は内匠政博選手です。PL学園高時代は「K・Kコンビ」と同級生です。1番・センターとして黄金時代を作り上げました。

1996年5月25日のオリックス戦では満塁本塁打を記録します。この試合ではイチロー、中村紀洋両選手も満塁弾を放っており、プロ野球史上唯一の1試合で3本の満塁本塁打という記録に名を残しています。

そして近鉄最後の背番号9番は鷹野史寿選手は、2000年、ドラフト6位で日産自動車から入団した外野手です。

1試合3本塁打を記録するなど強打を武器に活躍しました。ちなみに、3打席連続本塁打を放った2003年7月14日の対日本ハムファイターズ戦、第4打席はフェンス直撃の二塁打。あと少しでプロ野球記録に並ぶところでした。

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最後は統合後に背番号9番を着けた選手を紹介しましょう。

初代は平野恵一選手です。旧阪急ブレーブス時代から、引き続き背番号9番をつけました。

2代目は坂口智隆選手です。俊足強肩の外野手としてトップバッターを務めていましたが、試合中にダイビングキャッチを試みて右肩を強打してしまいます。

以降は不振に陥り野球協定越えの減俸を提示されたことを機に、自由契約となり東京ヤクルトスワローズに移籍します。ヤクルトで大活躍し見事復活を果たしました。

3代目はステフェン・ロメロ選手です。2017年にオリックス入り、4番打者として3年間で69本塁打を放つもケガが多く、2019年限りでオリックスを自由契約。2020年シーズンからは東北楽天ゴールデンイーグルスでプレーしています。

そして現役の4代目は大城滉二選手です。正遊撃手の安達了一選手が戦列を離れた際、見事に穴を埋めたのが大城選手でした。安達選手復帰後もセカンドのレギュラーとしてスタメンに名を連ねています。




歴代背番号9番のうち、印象深い3選手のご紹介

次に、オリックスバファローズの背番号9番のうち、私が印象深く思う新井選手、本西選手、そして平野恵一選手をご紹介したいと思います。

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新井宏昌選手

生年月日  1952年4月26日
出身地   大阪市東成区
投/打   右/左
プロ野球歴
南海ホークス(1975年~1985年)
近鉄バファローズ(1986年~1992年)
タイトル等 首位打者1回・ベストナイン4回
      ゴールデングラブ賞1回・オールスター出場4回

新井選手は、1975年、ドラフト2位で法政大から南海入りしました。1年目こそ50試合の出場に留まったものの、プロ2年目の1976年には開幕から「2番・センター」に定着します。規定打席にも到達し、打率.271を残しました。

以降南海の2番打者として、長打力はないものの堅実なバッティングを披露します。1979年には打率.358をマークするも惜しくもベストテン2位でした(首位打者は阪急ブレーブス・加藤秀司選手。打率.364)。

1982年に再びベストテン2位の打率.315を記録します。ちなみにこの年はロッテオリオンズ・落合博満選手が初の三冠王を獲得したシーズンでした。(打率.325 32本塁打99打点)

ホークス入りして11年目の1985年、117試合に出場し打率.262を記録した新井選手を、南海は戦力外と判断します。

来季は34歳という年齢に加え、高卒2年目の佐々木誠選手に手ごたえを感じ、同じ外野手である新井選手を切って佐々木選手にポジションを与えたい、という意図が背景にありました。

新井選手は近鉄への移籍が内定しましたが、当初は交換トレードではなく無償の移籍という形でした。しかし、南海側からバリバリのレギュラーだった選手を単独譲渡、しかも同一リーグのライバル球団にみすみす移籍させては格好がつかないと申し入れがあります。

結局は山口哲治投手との交換トレードとなりましたが、山口投手は肩を壊していて満足に投げられる状態ではなく、形ばかりの移籍劇でした。

近鉄入りした新井選手の打力は全く衰えておらず、むしろ成績は向上していきます。移籍1年目は打率.288、そして2年目の1987年には打率. 366で念願の首位打者を獲得しました。

この年に新井選手の放った1シーズン184安打は当時のプロ野球記録です。130試合制に限って言えばイチロー選手の210安打(1994年)、193安打(1996年)に次ぐ、第3位の記録となります。

近鉄では7シーズンプレーし、最後の年を除けば打率は.280以上を記録しました。南海時代には一度も記録したことのなかった2桁本塁打も近鉄では2度達成しています。1992年、2000本安打を三塁打で飾り、40歳となったことで引退を表明しました。

引退後は仰木彬監督に請われオリックスの打撃コーチに就任。佐藤和弘選手を「パンチ」、鈴木一朗選手を「イチロー」と登録名変更させたのは新井コーチのアイディアでした。

そして、福岡ダイエーホークス、広島東洋カープでもコーチを務め、強力打線を作り上げています。特に広島3連覇に貢献した丸佳浩・菊池涼介・松山竜平各選手の基礎を作り上げたのは、新井コーチでした。

2019年からはソフトバンクホークスに復帰。常勝軍団を支えています。




本西厚博選手


*背番号0番の時代の写真となります。

生年月日  1962年5月15日
出身地   長崎県長崎市
投/打   右/右
プロ野球歴 
阪急ブレーブス~オリックスブレーブス~オリックスブルーウェーブ(1987年~1997年)
阪神タイガース(1997年~1998年)
日本ハムファイターズ(1999年)
千葉ロッテマリーンズ(2000年~2001年)
タイトル等 ゴールデングラブ賞1回

本西選手は、長崎・瓊浦高から社会人野球・三菱重工長崎を経て1985年のドラフト会議で阪急ブレーブスからドラフト4位で指名されました。入団したのは1年遅れの1987年です。

ルーキーイヤーから117試合に出場を果たしました。定評のあった外野守備だけでなく、正三塁手の松永浩美選手が戦線離脱した時はその穴埋めでサードを守るなど、ユーティリティープレーヤーとしても重宝されます。

プロ3年目の1989年、規定打席には惜しくも届かなかったものの打率.302を記録します。「ブルーサンダー打線」の名脇役として6番打者、シーズン後半からは2番打者を務めました。

また守備では外野手部門でゴールデングラブ賞を獲得し、「守備の名手」として広く認知されました。

1991年、門田博光選手がホークスへ復帰し、石嶺和彦選手がDHに専念したことで「9番・センター」の定位置を確保します。規定打席に到達し、高橋智、藤井康雄両選手らとともに「新・ブルーサンダー打線」を形成しました。

1992年、土井正三監督に交代すると外野を守れる外国人選手が入団するようになり、本西選手のスタメン機会は少なくなっていきます。

1994年にはイチロー選手が210安打を放ちブレイクします。1995年には内野から正式コンバートされた田口壮選手が外野手としてスタメン入りしました。この両選手に外野手としてのイロハを叩き込んだのが、本西選手でした。

言わばイチロー選手らの「師匠」である本西選手だけに、「魅せるプレーばかりで基本から外れている」と厳しくイチロー選手の守備について評することが出来るのです。

1997年に阪神へトレードされた後は日本ハムを経て千葉ロッテでプレーしました。

引退後に担当していた週刊ベースボールの連載で、読者から「千葉マリンスタジアムは風が強い。守っていていて大変だったのでは?」と問われ、「全く大変なんてことは無い。むしろ風を読んでプレーするほうが楽しかった」といかにも職人気質らしいコメントを残しています。




平野恵一選手

生年月日  1979年4月7日
出身地   神奈川県川崎市多摩区
投/打   右/左
プロ野球歴 
オリックスブルーウェーブ~オリックスバファローズ(2002年~2007年)
阪神タイガース(2008年~2012年)
オリックスバファローズ(2013年~2015年)
タイトル他 ベストナイン2回・ゴールデングラブ賞2回
       オールスター出場4回・カムバック賞(2008年)

平野選手は、東海大時代は遊撃手として軽快な動きを見せ「平成の牛若丸」という異名を取りました。ちなみに、プロ野球における元祖牛若丸は大阪タイガースの名手・吉田義男選手です。

2002年、当時あった自由獲得枠(ドラフトの指名前に希望球団を宣言できる制度)を利用しオリックスへ入団しました。

プロでもショートとして期待されますが、1年目はわずか7試合の出場、プロ2年目の2003年はショートで37試合で6失策、セカンドでは16試合の出場で6失策とその実力を発揮できずにいました。

2004年は好調な打撃と相まって守備も安定します。正式にセカンドへコンバートされたことで迷いも吹っ切れたのか、74試合で2失策と本来の守備力を発揮しました。また、外野手としても44試合に出場しています。

2005年の球団合併で近鉄の正二塁手だった水口栄二選手と同じチームとなりますが、レギュラーは平野選手に変わりありませんでした。二塁手としては115試合、外野手としても11試合に出場します。打率もここまでで自己最高となる.285を記録しました。

2006年5月6日、強風の千葉マリンスタジアムでの対ロッテ戦でファウルフライを追いかけフェンスに頭から激突してしまいます。

胸部軟骨損傷などの重傷を負い、このシーズンを棒に振ったばかりか翌2007年までケガの影響は残り、阿部真宏選手らにセカンドのポジションを奪われてしまいました。

2007年シーズンオフ、阪神の4番打者・濱中治選手が肩のケガを理由にDHのあるパ・リーグへ移籍が検討されると、当時の岡田彰布監督は「(4番打者の)濱中を出すのだから、交換相手は平野しかいない」と直々に平野選手獲得を球団に要望します。2対2の交換トレードが成立しました。

移籍1年目から二塁・外野兼任で115試合に出場し見事カムバック賞を受賞しました。2010年には首位打者になった、東京ヤクルトスワローズの青木宣親選手に次ぐ打率.350を記録します。

2011年も打率.295でベストテン8位と活躍。この2年は二塁手としてベストナインとゴールデングラブ賞を獲得しました。

2013年、FA権を行使し古巣オリックスに復帰するもふくらはぎの肉離れが原因で出遅れ、復帰2年目以降もケガの影響は付きまといます。

2015年、自身のケガが癒えないこと、ルーキー・西野真弘選手らが台頭してきたことから引退を決意しました。

翌2016年からは阪神で共にプレーした金本知憲監督を支えるべく、阪神のコーチに就任。2020年シーズンは二軍内野守備コーチを務めておられます。

2006年、大けがを負ったシーズンオフの練習見学会で「ボクのように背が低くてもプロを目指しているちびっ子に一言言いたいと思います・・・そんな甘かねぇぞ!!」と話し、爆笑をさらった平野選手。

しかしそこには「生半可な気持ちじゃプロでは「活躍」できないよ」という、苦労に苦労を重ねた平野選手らしい、言葉の重みを感じずにはいられません。




背番号9番をつけた選手の傾向とは?

近鉄そして阪急系(阪急~統合前オリックス)でも主力選手の背番号であり続けた背番号9番。近鉄では伊勢選手が着けた1969年以降、近鉄最後を飾った鷹野選手まで外野手が使用し、阪急系でも平野選手が内野を守りましたが、多くの選手は外野手の番号となっています。

2020年、MLB通算282本塁打を誇るアダム・ジョーンズ選手が入団し、背番号10番をつける事により、背番号9番を引き継ぐことになった大城滉二選手は二塁手です。平野選手以来、久々の背番号9番内野手が誕生しました。

という事で、オリックスバファローズの背番号9番は、はっきりとした傾向がないものの、どちらかと言うと外野手がつける傾向がある事がわかります。




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おわりに

今回は、オリックスバファローズの背番号9番を特集しましたが、いかがだったでしょうか?

2020年からは、大城選手が背番号9番をつけて奮闘しています。

球界一のショート、読売ジャイアンツ・坂本勇人選手に匹敵するほどのスペックを持つ、という身体能力もさることながら、叱責されても「今に見ていろ!」と言わんばかりに結果を出す。

その姿勢は近鉄の9番の大先輩・ガッツマン平野選手や、「選手としては限界」と言われチームから放り出されたにも関わらず首位打者を獲得した新井選手、そして環境を変えて見事に蘇った坂口選手ら歴々の9番の方々に通じる「根性」を感じずにはいられません。

背番号を10番から9番に変更して心機一転、どのような活躍を見せてくれるのか、注目したいと思います。

最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。

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