広島東洋カープの背番号2番!歴代2番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

広島東洋カープは、1950年の2リーグ制導入に際し、新規加入した球団です。

チーム名の「カープ(鯉)」は地元・広島城の別名「鯉城」から取ったものとされています。鯉の滝登りということわざのように、原爆投下という悲劇から復興を目指す広島の象徴として、これ以上ないニックネームとして採用されました。

ちなみに、カープは単複同形名詞といって、複数であっても「~s」は付きません。戦争でしばらく英語が禁止されていたせいでしょうか、球団お披露目会のプラカードには「広島カープス」と書かれていました。

今回は、そんな広島東洋カープの背番号2番について特集します。歴代の2番をつけてきた選手や、特に印象深い3選手、さらに2番をつけてきた選手の傾向にも触れますので、楽しみにしてください。




■目次(クリックすると飛びます)

歴代の背番号2番を背負った選手をご紹介

まずは、広島東洋カープの背番号2番をつけてきた、13人の選手をご紹介します。

年  度年 数球 団 名選 手 名
1950年~1951年2年広島カープ阪田清春選手
1952年~1954年3年広島カープ藤原鉄之助選手
1955年~1957年3年広島カープ小谷信雄選手
1958年1年広島カープ新田幸男選手
1959年1年広島カープ山口慶一選手
1960年~1974年15年広島カープ~広島東洋カープ宮川孝雄選手
1975年~1977年3年広島東洋カープ苑田聡彦選手
1978年~1989年12年広島東洋カープ高橋慶彦選手
1990年1年広島東洋カープ空白
1991年~1995年5年広島東洋カープ瀬戸輝信選手
1996年~1997年2年広島東洋カープルイス・ロペス選手
1998年1年広島東洋カープ空白
1999年1年広島東洋カープエディ・ディアス選手
2000年~2015年16年広島東洋カープ東出輝裕選手
2016年~広島東洋カープ田中広輔選手

初代・阪田清春選手は阪急、南海で活躍した捕手、創立初年度の正捕手を務めました。1950年4月11日の対阪神タイガース戦で、広島球団としては初となる、満塁本塁打を放った選手としてその名を残しています。

2代目・藤原鉄之助選手は中日、急映フライヤーズを経て巨人から移籍してきた捕手です。3代目・小谷信雄選手もキャッチャーです。1955年に入団、プロ生活は3年間でした。

4代目・新田幸男選手はわずか1年でプロから身を引いた内野手です。5代目・山口慶一選手は西鉄ライオンズから移籍してきた内野手です。1年で背番号は38番へと変更されました。

6代目・宮川孝雄選手は代打の切り札だった選手です。1972年に代打のみで、何と52打数21安打、打率.404をマークしました。

1シーズンで50打席以上に立ち、打率4割以上を残した史上初の記録です。通算代打安打186本は現在でもプロ野球記録となっています。

引退後はスカウトとして北別府学投手や緒方孝市・前田智徳両選手ら主に九州地区の好選手を獲得しました。

7代目は苑田聡彦選手がつけました。巨人・原辰徳監督の実父・原貢氏が監督を務めていた福岡・三池工高出身です。

地元・西鉄ライオンズの強打者「中西太二世」とまで言われたスラッガー外野手でしたが、山本浩司(浩二)選手の入団を機に内野手へのコンバートを命じられます。

転向当初は全く使い物にならず、整理選手の候補として名前が挙がりましたが、当時広島で内野守備コーチを務めていた広岡達朗氏が辛抱強く指導し、ついに内野手としての才能が開花します。選手層が厚い広島にあって、複数ポジションを守れるスーパーサブとして貴重な存在となりました。

広岡氏は「プロに入る選手は誰でも才能がある。花開かないのは、開かせ方を知らないだけ。指導者が一生懸命指導すれば、選手は必ず答えを出してくれる」と話し、「このことは、苑田選手から教わった」と後年まで述懐。「指導者として今があるのは、苑田選手のおかげ」とまで話されています。

8代目は高橋慶彦選手、主にショートを守りました。対戦する投手に合わせて打席を切り替えるスイッチヒッターです。その元祖と言われているのが、読売ジャイアンツの柴田勲選手です。

1978年、打率.302をマーク、翌1979年にも打率.304を記録しました。失敗を恐れない果敢な走塁、俊足、そして何より端正な顔立ちで一躍人気者になります。

その後、広島は山崎隆造、正田耕三両選手もスイッチヒッターとして成功させ、一時期は1番から3番までが全て両打ちという、何ともいやらしい打線を完成させたのでした。

9代目・瀬戸輝信選手はドラフト1位指名された捕手です。法政大から1990年のドラフト会議で指名を受け入団しました。

現役晩年だった達川光男捕手に代わる正捕手として期待されますが、時期を同じく南海ホークスからトレードで入団した西山秀二捕手の控えに甘んじることが多くなりました。

10代目はルイス・ロペス選手です。1996年に広島入りすると打率.312 25本塁打109打点で打点王を獲得しました。翌1997年も打点王に輝いたものの契約更改がこじれ、福岡ダイエーホークスへ移籍してしまいました。

2000年に広島へ復帰。好成績を収めていたものの、2002年、ロペス選手がヒットを打ったのに前田選手が全力疾走せずに、ホームインしなかったことで巡り争いになります。実は前田選手は、足に故障を抱え、慎重に走塁をする必要があったのです。

以降成績が低下してしまい、このシーズンを最後に日本を離れました。

11代目はエディ・ディアス選手です。1999年に広島へ入団した内野手です。来日1年目・2年目とも本塁打は8本と外国人選手としては物足りなかったものの、2001年に突如打撃開眼。打率.302 本塁打は32本を記録し、ロペス選手との3割30本塁打コンビは各球団の脅威となりました。

12代目は東出輝裕選手です。長年広島の正二塁手だった正田耕三選手の引退翌年、1999年にプロ入りしました。

高卒1年目から78試合に出場を果たします。ショートにコンバートされたものの、梵英心選手の入団を機にセカンドへ戻り、以降菊池涼介選手の台頭まで二塁を守り続けました。

そして13代目は現役の田中広輔選手です。プロ1年目の2014年からいきなりショートのレギュラーを獲得。打率.292 8本塁打34打点という好成績を残しました。

2017年には盗塁王を獲得します。リーグ3連覇した2016年から2018年は全試合に出場を果たしました。先頭打者として、またショートとして大活躍を見せました。




歴代背番号2番のうち、印象深い3選手のご紹介

次に、広島東洋カープの背番号2番の選手のうち、特に印象深い宮川選手、高橋選手、そして東出選手をご紹介したいと思います。

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宮川孝雄選手

生年月日  1936年1月31日
出身地   福岡県
投/打   左/左
プロ野球歴 広島カープ~広島東洋カープ(1960年~1974年)
タイトル等 通算代打安打最多記録保持者(186本)

宮川選手は、社会人野球・門司鉄道管理局(現在のJR九州)時代、あまり打つので業を煮やしたライバルチーム・八幡製鐵の加藤喜作監督が広島球団に獲得を持ちかけた、という逸話があるほどの強打者でした。1960年、広島に入団しています。

ちなみに、八幡製鐵・加藤監督は元南海軍の監督兼選手だった方で、社会人野球で「史上最強のチーム」とも言われる別府星野組の監督として都市対抗優勝の経験もあります。この別府星野組からは荒巻淳投手や西本幸雄選手らがプロ入りしており、その伝手で広島に話をしたのです。

さて、広島入りした宮川選手ですが、通算15年プレーした中で1度も出場試合数が100を超えたことがありません。逆に言えばそれだけの試合数ながら、15年もプレーできたのは宮川選手が「代打の切り札」だったからなのです。

プロ入り5年目の1964年、60試合に出場で打率.337を記録。翌1965年にも打率.307を残しています。極めつけは1972年です。代打として66試合に登場、52打数21安打、打率は驚異の.404をマークしました。

1シーズンで50打席以上こなし、かつ打率4割以上を残したのは宮川選手が史上初の快挙です。他には2017年に北海道日本ハムファイターズ・近藤健介選手が記録しているのみとなっています。

1974年に現役を引退。代打として通算186本の安打を記録していますが、これは現在もプロ野球記録として残っています。ちなみに代打通算安打記録2位は阪神タイガース・桧山進次郎選手の158本。3位には広島の後輩・浅井樹選手が154本で続いています。

引退後はスカウトに転身。地元・九州を拠点とし、宮崎・都城農高の北別府学投手をドラフト1位指名しエースとさせたのを始め、佐賀・鳥栖高の緒方孝市選手、熊本工高・前田智徳選手らを獲得します。

意中の球団から指名されず、失意のあまり頑なにプロ入りを拒否していた前田選手を厳しく、そして訥々と諭し、プロ入りを決意させたのは宮川スカウトです。前田選手は「宮川スカウトだから広島に入団した」と語り、後年まで慕っていました。

1989年に南海が福岡に移転、ダイエーホークスが誕生すると、アマチュア選手たちはダイエー入りを希望するようになります。また、1993年からは逆指名制度が開始。宮川スカウトの活動に逆風が吹き始めます。

逆指名で選手たちは契約金を上限まで出してくれる球団を選び、資金力に劣る広島は苦境に立ちますが、宮川スカウトら広島球団は即戦力ではなく将来性のある選手の獲得に注力する方針に変えます。

そのスカウト方針に沿って獲得した丸佳浩、鈴木誠也両選手に代表される高卒ルーキーや、菊池涼介、田中広輔両選手のように注目度はさほどではないが、確実に使える選手を獲得したことで、強い広島東洋カープの基礎を作ったのです。

高橋慶彦選手

生年月日  1957年3月13日
出身地   北海道江別市
投/打   右/両
プロ野球歴
広島東洋カープ(1975年~1989年)
ロッテオリオンズ(1990年)
阪神タイガーズ(1991年~1992年)
タイトル等 盗塁王3回・ベストナイン5回
       オールスター出場6回・33試合連続安打(日本記録)

高橋選手は、北海道江別市の出身です。スキー選手だった父・慶喜さんが東京・芝浦工業大のスキー部監督に就任したのを機に東京へ転居します。当時髙橋選手は4歳でした。

城西高時代は4番でエースとして活躍しました。1974年のドラフト会議では投手として3位指名を受け入団すると、すぐに野手転向、さらに当時の古葉竹識監督から俊足を見込まれスイッチヒッター挑戦を命じられます。

この時高橋選手は「右打者として10年間練習してきた量を左打者として1年間でこなせばいい」と考え、さっそく練習に打ち込みます。それは壮絶なもので、バットスイングをするあまりマメが潰れ、それでも素振りを繰り返し、ついにはバットから手が離れない(離せない)という状態になるほどのものでした。

プロ3年目のプロ3年目の1977年、58試合に出場し打率.292と結果を残す、と翌1978年に背番号をそれまでの40番から2番に変更となりました。この年、初の規定打席到達でいきなり打率.302と3割越えを達成します。

1979年には33試合連続安打の日本記録を樹立しました。この記録はオリックス時代のイチロー選手も破れなかったもので、現在でもプロ野球記録です。

スイッチ転向当時の左打席は、ボールを叩きつけるようなダウンスイングで、打球が高く跳ねている間に俊足を飛ばし一塁を駆け抜けるというもので、ぎこちないスイングでした。

1983年、広島OBでもある山内一弘コーチが就任すると打撃フォームを改造。スイングのぎこちなさは消え、左打席でも本塁打を打てるようになり、前年まで5本前後だった本塁打数が一気に24本まで増加します。

この頃には「スイッチヒッター2号」・山崎隆造選手が1番を打ち、高橋選手は3番を任されるようになりました。この年は打率.302に加え70盗塁も記録しています。広島機動力野球の象徴として主砲の山本浩二・衣笠祥雄両選手に匹敵する人気を獲得しました。

1985年には73盗塁で3度目の盗塁王を獲得しています。

1987年、開幕2日前に行われる激励会を「時期が悪い」と批判。球団から2週間の謹慎を言い渡されます。元々思ったことは口にせずにはいられない性格ゆえ、球団や同僚選手らとの仲が良好と言えませんでした。

ついに1989年オフ、高沢秀昭選手らとの交換トレードでロッテオリオンズに放出されてしまいます。

ロッテでは外野手として起用されるものの、選手としての峠はすでに超えており、1年で阪神タイガースにトレードされました。

阪神では本来の遊撃手としてもスタメン起用されますが、打率は2割そこそこと低迷。移籍2年目の1992年、18年にわたる現役生活に別れを告げます。

引退後はダイエー、ロッテなどで打撃コーチ、二軍監督を歴任しました。ロッテコーチ時代は自身と同じスイッチヒッターである西岡剛選手を指導し、見事に一人前の選手に育て上げました。

ハツラツとしたプレーぶりと、自由奔放なプライベート。明るく人懐っこい性格でファンからも愛された高橋選手。小説家の村上龍氏が高橋選手を主人公に書いた小説「走れ!タカハシ」はベストセラーとなるなど、その人気ぶりは凄まじいものがありました。。

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東出輝裕選手

生年月日  1980年8月21日
出身地   福井県鯖江市
投/打   右/左
プロ野球歴 広島東洋カープ(1999年~2015年)
タイトル他 ベストナイン2回・オールスター出場4回

東出選手は、福井県・敦賀気比高時代に甲子園へ3回出場を果たしています。その甲子園でのプレーぶりを見た広島・高代延博コーチが「内野手として使える」と球団へ獲得を働きかけました。

現役時代には新人ながらダイヤモンドグラブ賞に選出、守備コーチとして多くのプロ選手に接してきた高代コーチからの進言だったこと、長年広島の正二塁手だった正田耕三選手が引退したことなどもあって、球団は東出選手をドラフト1位で指名します。

1998年のドラフト会議は、いわゆる「松坂世代」で金の卵がゴロゴロいた中、迷うことなく単独指名となりました。

プロ1年目の1999年5月には早くも1軍デビューを果たしました。初打席はどん詰まりのゴロでしたが、俊足を飛ばし内野安打になります。このプレーだけで広島伝統の機動力野球の後継者が現れた!とファンは歓喜しました。

2000年、由緒ある背番号2番を受け継いだ東出選手はショートのレギュラーに抜擢されます。20歳で初の規定打席に到達し、打率.262 3本塁打28打点に17盗塁と及第点の成績を残す一方、守備ではリーグ最多の25失策を記録してしまいました。

2001年も27失策で2年連続最多失策となってしまいますが、一方で捕殺機会(ゴロ・フライを捌いた機会)はショートしてはリーグ3位の成績を残し、守備での評価も上昇しました。

2002年~2005年までは木村拓也選手やエディ・ディアス選手ら打力で勝る選手が入団し、東出選手の出番が減ります。しかし、2006年にセカンドのレギュラーに復帰、ルーキーながらショートに抜擢された梵英心選手との同級生コンビで二遊間を守りました。

2008年、自身初となる3割超えの打率.310を記録します。この頃には守備も安定し、失策数は10前後となりました。この年はベストナインにも選出されています。

2009年も打率.294をマークし2年連続のベストナインに選出されました。2010年4月23日の対読売ジャイアンツ戦では実に5年振りとなる本塁打を放ちます。この間記録した連続2393打席無本塁打はプロ野球史上3位の記録でした。(1位は阪神・赤星憲広選手の2528打席)

2011年までレギュラーを務め2012年も開幕スタメンだったものの、ゴロを捕球しようとして指を骨折し戦線離脱。その間にルーキー・菊池涼介選手が一気に台頭します。

2013年、紅白戦で左ひざ前十字靭帯断絶という大けがを負ってしまい、1年を棒に振ってしまいます。一軍では菊池選手が完全にレギュラーとして一本立ちしました。

2014年にウエスタンリーグで復帰するものの一軍戦は2年連続で未出場となりました。コーチ兼任となった2015年、ヒザの状態は上向きになったにも関わらずついに一軍に呼ばれなかったことから引退を決意します。35歳という、若すぎる引退でした。

正田選手と菊池選手の間をつないだ東出選手、カープ3連覇はコーチとして経験しましたが、ケガさえなければ現役選手としてプレーしていたはずだけに惜しまれました。

コーチとして担当したのは打撃部門。石井琢朗コーチらと連携し、強力打線をサポートしてきました。2020年からは2軍打撃コーチに就任。次世代の広島を担う打者育成へ手腕が大いに期待されています。




背番号2番をつけた選手の傾向とは?

球団創立当初は捕手の番号でしたが、高橋選手の大活躍を受けすっかり内野手の番号として定着していきます。高橋選手だけでなく、東出選手そして現在の田中選手も活躍していることで、内野手がつける番号という傾向がはっきりしました。

高橋選手は背番号2番の選手としてはカープ8代目の選手ですが、多くのプロ野球ファンは広島の2番と言えば高橋選手、というように強烈な印象を残しました。

その原点ともいえる高橋選手と共通項の多い田中選手が、背番号2番を着けていることを喜んでいるファンはたくさんいらっしゃいます。

ちなみに広島は背番号を大切にする球団で、その番号に相応しい選手が現れない限り、易々と番号を渡しません。

2019年の鈴木誠也選手の背番号1番への変更にしても、十分に1番を背負えると判断してからの変更でしたし、9番への変更が噂されていた野間峻介選手に関しては時期尚早と判断して見送りとなりました。

一方で野村謙二郎選手が着用し、永久欠番も検討されていた背番号7番を堂林翔太選手に渡したときは議論を呼びましたが、「何としても堂林選手を一人前にするんだ」という決意表明と「自覚を持て!」というハッパの意味が込められていると解釈されています。




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おわりに

今回は、広島東洋カープの背番号2番について特集してきましたが、いかがだったでしょうか?高橋選手など、内野手がつける傾向がある事もわかりましたね。

田中選手は、近年はケガや小園海斗選手の頑張りで出番が減少してしまいました。しかし、選手としてはまだまだこれからです。

かつて高橋選手はその人気のあまり、小説にまでなりました。そのタイトルにあやかり、田中選手にエールを送りたいと思います。

走れ!コースケ。

最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。

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