広島東洋カープの背番号4番!歴代4番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

広島東洋カープは、広島県広島市に本拠を置くプロ野球チームです。球団が創設されてから25年程度は弱く、お荷物球団などと呼ばれることもしばしばでした。

しかし、1975年の初優勝あたりからチーム力が増し、強くなるにつれ人気球団としての地位も確立していますね。

今回は、広島東洋カープの背番号4番について特集します。歴代の4番の全選手や特に印象深い3選手、さらに4番をつけてきた選手の傾向にも触れますので、楽しみにして下さいね。




歴代の背番号4番を背負った選手をご紹介

まずは、広島東洋カープの背番号4番をつけてきた16人選手をご紹介します。

     
年  度年 数球 団 名選 手 名
1950年1年広島カープ山口政信選手
1951年~1952年2年広島カープ空白
1953年1年広島カープ菊地博仁選手
1954年1年広島カープ杉浦竜太郎選手
1955年1年広島カープ三村勇夫選手
1956年1年広島カープ小野拓選手
1957年1年広島カープ藤村隆男選手
1958年~1965年8年広島カープ小坂佳隆選手
1966年~1969年4年広島カープ~広島東洋カープ佐野真樹夫選手
1970年1年広島東洋カープ朝井茂治選手
1971年~1982年12年広島東洋カープ水谷実雄選手
1983年~1984年2年広島東洋カープティム・アイルランド選手
1985年~1998年14年広島東洋カープ正田耕三選手
1999年~2002年4年広島東洋カープ兵動秀治選手
2003年~2004年2年広島東洋カープアンディ・シーツ選手
2005年~2009年5年広島東洋カープ尾形佳紀選手
2010年~広島東洋カープ小窪哲也選手

初代・山口政信選手は1リーグ時代の阪神軍で活躍した外野手です。しかし、戦争から復員後は精彩を欠き1947年限りで退団しました。
しかし1950年には、広島・石本秀一監督に誘われプロに復帰を果たします。石本監督は元阪神軍の監督でもありその人脈でのカムバックでした。

2代目・菊地博仁選手は1年限りで引退した内野手です。

3代目・杉浦竜太郎選手は27歳でプロ入りした投手です。1951年の開幕戦で新人ながら先発を任され、見事完投勝利を収めました。背番号をそれまでの38番から4番へと変更した1954年を最後に大洋ホエールズへ移籍します。引退後は故郷・茨城県へ帰り市議会議員となりました。

4代目・三村勇夫(勲)選手は初代セ・リーグ覇者、松竹ロビンスの2番打者だった選手です。松竹時代のチームメート・小鶴誠、金山次郎両選手と共に1952年に広島へ移籍しました。

5代目・小野拓選手は東映フライヤーズから移籍した内野手。広島では公式戦出場はなりませんでした。

6代目・藤村隆男選手は阪神で活躍した投手です。現役晩年に広島へ移籍しましたが、1勝を挙げたのみで引退しました。ちなみに、藤村選手の兄は阪神のスーパースター・藤村冨美男選手です。

7代目・小坂佳隆選手は法政大時代に「戦後最大の二塁手」とまで称された東京六大学のスター選手です。大きな期待を受けての入団で、小坂選手もそれに応えるプレーを披露していましたが、故障が原因で30歳という若さで引退となりました。

8代目の佐野真樹夫選手は、1965年に導入されたドラフト会議で広島が1位で指名した選手です。専修大時代にはベストナイン三塁手に選ばれるなど活躍しましたが、プロ生活はわずか4年で終わりました。

1991年のドラフト会議では佐野選手の息子・心選手が中日ドラゴンズから6位指名を受けます。親子でドラフト指名を受けたのは史上初の出来事でした。

9代目・朝井茂治選手は阪神からの移籍選手です。名手・三宅秀史選手が目にボールが当たるアクシデントで出場機会が減ると、代わりにレギュラーとなりました。

1968年、三塁手不足のカープへ移籍します。2年間レギュラーとしてプレーした後、国貞泰汎選手らにポジションを譲り引退しました。

10代目は水谷実雄選手です。広島時代はレフトが定位置でしたが、元々は投手としての入団でした。

11代目はティム・アイルランド選手です。ガッツあふれるプレーが売りの二塁手でした。

隠し球の名手でもあり、広島時代にも数回成功させています。あまりに隠し球をするので警戒されていると見るや、両手を差し出しボールを持っていないことをアピール。しかし、ボールはしっかりと脇に挟んでいたのでした。

12代目は正田耕三選手です。公称170cmという小兵ながら、人一倍の練習量で首位打者を2回も獲得した努力の人。プロ入り後にスイッチヒッターへ転向しました。

13代目は兵動秀治選手です。正田選手引退後、後継者と期待され背番号を引き継ぎましたが東出輝裕、木村拓也、笘篠賢治各選手らライバルは多く競争から脱落してしまいます。引退後は競輪選手に転向しました。

14代目はアンディ・シーツ選手です。2003年、タンパベイ・デビルレイズから金銭トレードでカープへ入団しました。1年目から打率.313 25本塁打85打点を記録し、新井貴浩選手が不振となるや代役で4番を務めました。

2005年には阪神タイガースへ移籍。リーグ優勝に大きく貢献しました。

15代目は尾形佳紀選手です。俊足巧打の遊撃手として2004年にプロ入りしました。1年目から存在感を示しますが、プロ2年目の2005年、右ひざ前十字靭帯が断裂します。大学時代にも同じ個所を切っており、古傷が再発してしまいました。

その後、外野手に転向するもヒザの不安は最後まで抜けきれず、2009年限りで引退します。引退後はスカウトとして優れた手腕を発揮しており、鈴木誠也、田中広輔両選手を担当しました。

そして現役の小窪哲也選手が16代目の背番号4番選手です。2019年までのプロ生活12年で出場試合数が100試合を超えたことは1度もありませんが、チームになくてはならない存在となっています。

まさに「スーパーサブ」という表現がぴったりです。2016年からは選手会長としてチームを牽引、リーグ優勝の影の功労者と言えるでしょう。

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歴代背番号4番のうち、印象深い3選手のご紹介

次に広島東洋カープの背番号4番の選手のうち、私が印象深く思う水谷選手、正田選手、そして小窪選手をご紹介したいと思います。

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水谷実雄選手

生年月日  1947年11月19日
出身地   宮崎県串間市
投/打   右/右
プロ野球歴
広島カープ~広島東洋カープ(1966年~1982年)
阪急ブレーブス(1983年~1985年)
タイトル等 首位打者1回・打点王1回・ベストナイン1回
      オールスター出場1回

水谷選手は、宮崎商業出身です。1年の夏、チームは甲子園へ出場しましたが水谷選手の出番は無く敗退します。2年生の夏はエース・4番打者として甲子園に出場し、準決勝まで駒を進めました。

1965年11月に行われた第1回ドラフト会議で、カープから4位指名を受け投手としてプロ入りを果たします。しかし腎臓を患い、プロ1年目の春季キャンプは不参加となりました。

ちなみに、水谷選手の愛称である「ジンちゃん」はこのアクシデントが由来です。

プロ2年目の1967年に打者へ転向します。この年の10月に、プロ初安打を記録。初本塁打は2年後の1969年8月、巨人戦で放ちました。

1970年後半にはスタメンに定着、106試合に出場し7本塁打を記録し自信を深めます。背番号をそれまでの38番から4番へ変更した1971年、1番打者として打率.283 9本塁打45打点をマークします。ベストナインに選出され主力打者の仲間入りを果たしました。

1975年、カープ初優勝のシーズンでは7番・レフトとして打率.285 13本塁打37打点を記録します。10月15日、後楽園球場での対読売ジャイアンツ戦、優勝決定のウイニングボールを掴んだのは、水谷選手でした。

1976年は自身初の3割超え、本塁打20本超えとなる打率.308 26本塁打73打点をマークします。主に7番打者としての26本塁打は驚異的な数字です。この年から3年連続で3割を達成しました。1978年には打率.348で首位打者のタイトルを獲得しています。

1979年からのカープ2年連続日本一には5番打者として貢献。5年連続20本塁打以上を記録するなど山本浩二・衣笠祥雄両選手らとともに、カープ強力打線を形成しました。

1981年、首位打者を獲得した1978年以来の3割となる打率.337に加え、自己最高となる82打点を記録します。翌1982年は2年連続3割となる打率.308をマークし、打率ベストテン8位にランクイン。この年、35歳になったとはいえまだまだカープの主力打者として活躍が期待されていました。

しかし、シーズンオフに阪急ブレーブスの主砲・加藤秀司選手と1対1で交換トレードが決定。結果を残していただけに、水谷選手は「なぜ、俺がトレードに?」と不満を露わにしました。

1983年、阪急に移籍した水谷選手のバットは、何かに取りつかれたように大爆発します。打率こそ.290と惜しくも3割を逃しましたが、自己最高を大きく上回る36本塁打114打点を記録しました。自身を放出したカープを見事に見返します。

しかし、1984年の開幕戦でのアクシデントに見舞われ、豪打は見る影もなくなりました。

1984年3月31日、西宮球場で行われたパ・リーグ開幕戦、阪急ブレーブス対ロッテオリオンズです。阪急の5番打者で前年の打点王、水谷実雄選手はいつものようにバットの先を投手に向ける独特の構えで打席に入りました。

広島東洋カープの主力打者として、1979年からの2年連続日本一に貢献した水谷選手でしたが、1983年に阪急へトレード。リーグが変われどその強打は健在で、移籍1年目にしてタイトルを獲得しました。

マウンドにいたのは土屋正勝投手です。開幕投手を務めたロッテの先発・水谷則博投手が早々にノックアウトされたことを受け登板します。投球練習を終え、土屋投手が投じた初球は水谷選手の頭部を直撃しました。

デッドボールは体に当たった後、遠くへボールが跳ね返れば跳ね返るほど選手への衝撃は少ないと言われています。しかし、右打者の水谷選手に当たったボールは、ポトリという不気味な音を残して左打席に落ちました。

左側頭部骨折、三半規管損傷という重傷を負いながら、死球を受けてからわずか3か月後の6月10日に水谷選手は戦列復帰します。しかし、頭痛・吐き気・めまいなどの後遺症が容赦なく襲い、打撃成績は別人のように低迷。前年36本放っていた本塁打は1984年はわずか3本止まりに。

後遺症の治療を受け臨んだ1985年のシーズンではついに1本のホームランも打つことなく現役生活を終えました。

野球にタラ・レバはありませんが、もしあの死球がなかったら、と嫌でも考えてしまいます。

水谷選手だけではありません。デッドボールを与えてしまった土屋投手も元々は千葉・銚子商高のエースで甲子園の優勝投手。1975年に中日ドラゴンズへドラフト1位入団後、1984年からはロッテに移籍。つまり、あの1球はパ・リーグで初めて投げたボールだったのです。

もし、土屋投手が移籍していなかったら。もし、水谷選手が途中で交代していたらば。

考えたらキリがありませんね。

引退後は打撃コーチとして引く手あまたとなります。コーチ生活は29年間、休むことなく続きました。

がっしりとした体形、バットの先を矢のように投手へ向け、威嚇するような構え。そして思い切りのいい豪快なスイング。それでいて三振は少なく、シーズン80三振以上を記録したのはわずか1シーズンのみでした。

もし、ケガなく現役生活を終えていたら。244本に終わった本塁打数は、300を超えていたことでしょう。




正田耕三選手

生年月日  1962年1月2日
出身地   和歌山県和歌山市
投/打   右/両
プロ野球歴 広島東洋カープ(1985年~1998年)
タイトル等 首位打者2回・盗塁王1回・ベストナイン2回
      ゴールデングラブ賞5回・オールスター出場5回

正田選手は、和歌山商高を卒業後、社会人野球・新日鉄広畑でプレーしています。1984年、ロサンゼルス五輪の野球日本代表チームに選出され、「1番・セカンド」として金メダル獲得に貢献しました。その年のドラフト会議でカープから2位指名を受けます。

しかし、正田選手は小さい時から阪神タイガースの大ファン。タテジマを着てプレーすることを夢見ていただけにショックを受け、指名後の記者会見もキャンセルしてしまいました。

その後、「俺は広島に野球をしに行く」と割り切ってカープへ入団しましたが、プロのスピードに戸惑い、自信を失いかけます。その時、古葉竹識監督からスイッチヒッター転向を打診され、プロで生き抜くために承諾しました。

カープには高橋慶彦、山崎隆造両選手というスイッチの先輩がいましたが、「二人をマネしたってプロで飯は食えない。自分のスタイルを作れ」と内田順三コーチから助言を受けた正田選手は高橋、山崎両選手とは違う、ゴロを打つ打撃と自分の意図した方向にバントを転がせる技術を身に着けました。

練習の虫と言われた高橋選手が2万回素振りしていると聞けば、4万回スイングすると決め、実践します。あまりに過酷な練習ゆえ、首脳陣から練習禁止を言い渡されることもありました。

努力は身を結び、プロ3年目の1987年に打率.333で首位打者を獲得します。巨人・篠塚利夫選手と同率でのタイトルでした。あと1本ヒットを打たないと篠塚選手に並べないという局面で、練習過多により満足にバットスイングできなかった正田選手が選んだのは練習を積んでいたセーフティバント。見事、内野安打にしてみせました。

1988年も打率.340で2年連続首位打者を獲得します。1989年は打率.323を記録したものの、首位打者は巨人・ウォーレン・クロマティ選手が獲り(打率.369)、正田選手はベストテン3位をマークします。

3年連続の首位打者はならなかったものの、初の盗塁王に輝きました。トップを走っていたヤクルトスワローズ・笘篠賢治選手を、最後の最後で追い抜いた10月15日の中日ドラゴンズ戦で決めた1試合6盗塁は、現在もプロ野球タイ記録です。ちなみに、6盗塁のうち、5盗塁を許したのが当時若手捕手だった山崎武司選手でした。

打撃だけではなく、守備でも二塁手として1987年から5年連続ゴールデングラブ賞を獲得しています。カープ不動のセカンドとしてレギュラーを守り続けてきました。

1998年、かつて盗塁王を争った笘篠選手がカープに移籍。今度はポジションを競います。そんな中、110試合に出場し、規定打席にも到達し打率.274を残しましたが、若手に出番を譲るとしてこの年限りで引退されました。

練習は嘘をつかない。引退後、打撃コーチとしてオリックスバファローズ・T-岡田選手の「ノーステップ打法」を考案するなど数々の実績を残されました。

現役時代の成績からしても、その指導方法に説得力があったことは言うまでもありません。




小窪哲也選手

生年月日  1985年4月12日
出身地   奈良県葛城市
投/打   右/右
プロ野球歴 広島東洋カープ(2008年~)
タイトル他 特になし  

小窪選手は、小学校から大学まで、所属した全てのチームで主将を務めた経歴を持っています。高校は大阪・PL学園高、大学は青山学院大と名門チームでのキャプテンだけにその人望・リーダーシップの強さが伺えます。

プロ1年目の2008年から98試合に出場を果たしました。小窪選手の本職であるショートに梵英心選手がいたため、アマ時代に経験のあるセカンド、そして未経験のサードでも試合に出場します。その貪欲な姿勢は高く評価されました。

2009年、大ベテランの石井琢朗選手が横浜ベイスターズから移籍してきます。梵選手に加え、百戦錬磨の石井選手も参戦したカープの遊撃手争いからいち早く脱落したのは、残念ながら小窪選手でした。

三塁手として活路を見出そうとするも新外国人選手や栗原健太選手ら一・三塁を掛け持ちで守る選手の調子に左右され、なかなか定位置確保とはなりませんでした。

2012年は「鯉のプリンス」・堂林翔太選手が三塁手として固定され、小窪選手は公式戦出場の機会すらままならなくなります。プロ入り後、毎年70試合以上は出場していましたが、この年はわずか25試合に終わります。

2013年も堂林選手の陰に隠れた存在に甘んじていましたが、9月に堂林選手が骨折で戦線離脱すると木村昇吾選手と併用ながらサードとして出場の機会を得ます。チーム初となるクライマックスシリーズ出場に大きく貢献しました。

2014年、前年に続き左投手対策としてのサードスタメンだけでなく、ファーストでも出場します。さらに代打成功率.389 代打で打点15という無類の勝負強さを発揮、代打の切り札としてブレイクしました。

2015年も代打成功率.380と相変わらずの勝負強さを発揮します。5月2日の東京ヤクルトスワローズ戦では自身初となる満塁ホームランを放ちました。

2016年に田中広輔選手が入団、そして2017年には安部友裕選手が三塁手としてブレイクし、小窪選手の出番は再び減少気味になっていきます。しかし、2014・2015年の神がかり的活躍の印象があり、対戦相手にとってはピンチの場面で出てくる小窪選手は、脅威の存在となっていました。

2016年には選手会長へ就任し、25年振りのリーグ制覇へ向かうチームをまとめ、見事悲願を達成しました。続く2017年もチームは優勝。最高の形で会長の任期である2年を終え、大役を會澤翼選手へと引き継ぎました。

大学の先輩で元近鉄バファローズの高須洋介選手に憧れ、背番号4番を選んだ小窪選手。「新・必殺仕事人」として、まだまだその勝負強さを発揮してもらいましょう!

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背番号4番をつけた選手の傾向とは?

広島東洋カープのの背番号4番といえば、水谷選手や正田耕三選手のように長期間使用する選手が多い印象があります。現役の小窪哲也選手も背番号12番から4番に変更したのが2010年。今年で11シーズン目になります。

水谷選手がカープを去った後はアイルランド選手が着用し、内野手の番号というイメージに変えると、正田選手が背番号4番の価値を大きく向上させました。

正田選手引退後、兵動選手が引き継いだように、内野のレギュラーとして期待される選手へと渡されてきました。

もう1つ、広島東洋カープの背番号4番の傾向として、比較的日本人選手がつけてきた傾向もあります。4という数字は日本ではあまり好まれないので、プロ野球でも外国人選手がつける傾向があります。

しかし、広島東洋カープの場合は外国人選手が2人と少ないのです。意識して日本人選手につけさせた訳ではなく、内野手がつけてきたら、たまたま日本人選手が多かった、という事ではないでしょうか。




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おわりに

今回は、広島東洋カープの背番号4番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?

主に内野手がつけてきて、他のチームの4番と異なり、外国人選手がつける事も少なかった傾向がわかりましたね。

現役の小窪選手は2020年で35歳。これからレギュラーを!というのはいささか酷です。しかし、小窪選手はレギュラーはつかめませんでしたが、新たな背番号4番像を見せてくれました。

それは「チームから信頼される選手」です。

「小窪選手なら何かやってくれる」、「誰かがケガをしても、控えには小窪選手がいる」。こういう選手がいるチームが下位に低迷するはずがありません。

小窪選手おて好き好んで控え選手に甘んじているわけではないでしょう。野球選手ならば、誰だってレギュラーとして毎日試合に出たいです。しかし、そこをグッと我慢してチームを支えた小窪選手は、やはり3連覇に無くてはならない選手だったのです。

小窪選手はこれからも、広島東洋カープになくてはならない存在として、輝きていくことでしょう。

最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。

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