広島東洋カープの背番号7番!歴代7番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

2005年10月12日、広島市民球場での横浜ベイスターズ戦で、広島東洋カープの野村謙二郎選手の引退試合が行われました。

野村選手は走攻守のバランスが良く、颯爽としたプレーぶりで瞬く間にカープの人気選手となります。

特に地元の広島県では絶大な人気を誇り、福岡ソフトバンクホークスの柳田悠岐選手ら広島出身の野球選手にとっては憧れの存在となりました。

引退セレモニーで、野村選手は来場していた未来のプロ野球選手たちに語り掛けます。

「子供たち。野球はいいもんだぞ。野球は楽しいぞ!」

この言葉は、広島県の野球少年たちの心に突き刺さりました。

今回は野村選手がつけていた、広島東洋カープの背番号7番について特集します。歴代の7番の選手や特に印象深い3選手、さらに7番をつけてきた選手の傾向にも触れますので、楽しみにしてくださいね。




歴代の背番号7番を背負った選手をご紹介

まずは、広島東洋カープの背番号7番の歴代の選手を、古い順にご紹介しましょう。

     
年  度年 数球 団 名選 手 名
1950年~1953年4年広島カープ岩本章選手
1954年1年広島カープ山川武範選手
1955年~1956年2年広島カープ銭村健四選手
1957年~1960年4年広島カープ緋本祥好選手
1961年~1975年15年広島カープ~広島東洋カープ山本一義選手
1976年~1979年4年広島東洋カープ佐野嘉幸選手
1980年~1982年3年広島東洋カープ内田順三選手
1983年~1985年3年広島東洋カープ斎藤浩行選手
1986年~1988年3年広島東洋カープ小川達明選手
1989年~2005年17年広島東洋カープ野村謙二郎選手
2006年~2012年7年広島東洋カープ空白
2013年~広島東洋カープ堂林翔太選手

初代・岩本章選手は1リーグ時代に本塁打王を獲得したことのある選手です。1950年、阪急から移籍してきました。カープでは主に3番を打ち、移籍初年度に打率.277 12本塁打を記録します。選手層の薄いカープにあって、貴重な強打者でした。

2代目・山川武範選手は読売ジャイアンツから移籍した選手です。山川選手の入団には、ちょっとしたエピソードがあります。

カープ創立1年目の1950年、21本塁打を記録した樋笠一夫選手が退団しますが、翌1951年6月に巨人入りしたのでカープファンは猛反発しました。

そのため樋笠選手は広島遠征に同行出来ない状態となります。この怒りを鎮めるため、巨人はカープに山川選手を譲渡しました。1952年にはカープ選手として初となるサイクル安打を達成するなど活躍しました。

3代目は、日系人の銭村健四選手です。カープは銭村選手を誘ったものの、当時は選手への給料支払いもままならないという経営状態で、銭村選手の来日費用も払えないほど余裕がありませんでした。

そこで当時のカープ監督・石本秀一氏は何とか銭村選手を来日させようと募金を募ります。その思いは実現し、晴れてカープへ入団を果たします。

ファンの出迎えた広島駅前には6000人、市中パレードには何と10万人もの人が集まりました。これは天皇陛下御巡幸を上回る人出で、いかに広島市民がカープを愛していたかの証左でしょう。

4代目は緋本祥好選手でした。高卒3年目の1956年に1軍デビューするといきなり15本塁打を放ちレギュラーを獲得します。

しかし、1957年に広島市民球場にナイター設備が完成、夜間の試合が増えると視力の悪かった緋本選手の成績は低迷してしまいます。その後8年間現役を続けましたが、その間放った本塁打は9本に終わりました。

5代目は山本一義選手です。地元広島県出身の左打者です。広島商高から法政大へ進学し、卒業後は高校時代から目を掛けてくれていた鶴岡一人選手率いる南海ホークスへ入団するつもりでした。

しかし家族は地元のカープ入団を希望します。カープ後援会幹部の説得もあり地元へ帰ることにしました。

ちなみにこの幹部とは後援会名誉会長を務めていた当時の通産大臣で後の首相・池田勇人氏。プロ野球選手は数あれど、現役閣僚に入団を説得されたのは山本選手だけでしょう。

6代目・佐野嘉幸選手は南海ホークスからの移籍選手です。プロ入りは東映フライヤーズでショート・サードを中心とした内野手でした。南海にトレードされ、古葉竹識コーチと出会ったことでその後の道が開けます。

選手として1975年にカープへ移籍、初優勝の輪に加わると、引退後は古葉監督を支えるコーチ陣の一人として活躍しました。

7代目・内田順三選手も日本ハムからの移籍組です。選手としてはヤクルト、日本ハムを経てカープ入りした左打ちの外野手でした。

その名声が轟いたのは引退後で、打撃コーチとしてカープ・巨人で強力打線を作り上げました。清原和博選手が信頼を置いていたコーチの一人であったことも有名です。

8代目は斉藤浩行選手でした。ファームでは3度の本塁打王を獲得、二軍での通算161本塁打は現在も破られていない最多記録です。

一軍でその長打力がなかなか発揮できなかったのは、プロ2年目のキャンプで打球を右目に受けたため。ナイトゲームが多い一軍戦では実力の半分も見せられませんでした。

9代目は小川達明選手です。広島・崇徳高が全国制覇した時の三番打者でした。エースで四番だった西田真二選手とはカープで再びチームメートとなります。

思い切りのいい打撃と強肩を活かした外野守備で期待されましたが、レギュラー奪取までは至りませんでした。

10代目は野村謙二郎選手です。昭和最後となった1988年のドラフト会議でカープから1位指名を受け入団しました。

1995年にはトリプルスリーを達成しましたが、それ以外の年の本塁打数は30本はおろか、20本も超えたことがありません。しかし、9年連続2桁本塁打を記録、通算打率も.285、盗塁王3回という実績が、優れたリードオフマンであったことを物語っています。

そして11代目は、堂林翔太選手です。愛知・中京大中京高では4番・投手として2009年夏の甲子園で全国制覇を達成しています。

この年、カープから内野手としてドラフト2位指名を受け入団しました。ちなみに、優勝時バッテリーを組んでいた1学年下の磯村嘉孝選手も同じくカープ入りしています。

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歴代背番号7番のうち、印象深い3選手のご紹介

次に、広島東洋カープの背番号7番で、特に印象深い山本選手、野村選手、そして堂林選手をご紹介したいと思います。

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山本一義選手

生年月日  1938年7月22日
出身地   広島県広島市皆実町
投/打   左/左
プロ野球歴 広島カープ~広島東洋カープ(1961年~1975年)
タイトル等 ベストナイン2回・オールスター出場5回

山本選手は、地元広島県出身の選手として、高い人気を誇りました。選手だけではなく、指導者としてもカープに多大な貢献を果たしています。

プロ1年目の1961年、ルーキーながら「5番・ライト」で開幕スタメン入りを果たします。しかし、プロの水は甘くなく、この年は打率.206、翌1962年は打率.194と厳しさを味わいました。

1963年、打率.253で自身初の2桁本塁打となる12本、47打点を記録しきっかけをつかむと、1964年には打率.290 11本44打点の好成績をあげます。3番打者が定位置でしたが時には4番を務めることもありました。

1966年には念願の打率3割を記録しています。翌1967年には自己最高の打率.311をマークしました。打っても打ってもチームはBクラスを脱することなく低空飛行を続けますが、それでも森永勝也選手や藤井弘選手らとクリーンナップを組み、地元広島のためプレーを続けました。

1968年チーム名が「広島東洋カープ」となり、根本陸夫氏が監督に就任します。オーナーとなった松田恒次氏から「全敗してもいいから、チームの基礎を作ってくれ」と依頼された根本監督は衣笠祥雄選手を5番打者に抜擢します。

期待に応え、衣笠選手は21本塁打を放ちました。翌1969年には法政大から後山本浩司(のち浩二。以下浩二選手)選手が入団。1年目からレギュラーとして起用します。

根本監督が思い切って若手を試すことが出来たのは、打線の軸に山本選手がいたからです。1969年には主に4番を打ち、打率.294、自己最高の21本塁打66打点を記録しています。

1970年には浩二選手が3番、衣笠選手が4番を打つ試合も増え始め、更には水谷実雄選手も外野手のレギュラー候補として台頭します。活気づいてきたカープ打線で4番を務めたのは、やはり山本選手でした。

1971年、ついに衣笠選手が全試合4番打者を務め、世代交代の波が加速します。浩二選手は5番打者、水谷選手はトップバッターに定着しました。山本選手は出場試合数が100を割りこみますが、それでも13本塁打を放ち、主軸を務めます。

1972年、打率.282 17本塁打68打点を挙げ気を吐く山本選手ですが、若手の勢いはすさまじく、1973年には新外国人ジム・ヒックス選手が加入したこともあり、出番が減少しました。

1975年、カープ初優勝を見届け引退します。引退後はカープコーチを皮切りに近鉄バファローズでもコーチを歴任。1982年にはロッテオリオンズの監督に就任。この年、史上最年少で三冠王を獲得した落合博満選手をサポートしました。

自身初の3割がかかった1966年。あと1本ヒットを打てば3割に届く、という状況で迎えた最終戦の前日、山本選手は一睡もせずひたすらバットを振り続けました。

「この1スイングが、明日の1安打につながっている」。そう信じた山本選手はひたすらに、一心不乱に素振りを繰り返しました。

巨人・王貞治選手の練習を見学に行き、その凄まじさに圧倒されると「自分はまだまだ練習が足りない」と素振りの数を増やしたといいます。

その一途さはコーチとしても活かされ、力任せにプレーしていただけだったカープ時代の金本知憲選手を4番打者にした他、数々の一流打者を育て上げました。

「練習はうそをつかない」。カープ猛練習の礎は、山本選手が築いたものなのです。




野村謙二郎選手

生年月日  1966年9月19日
出身地   大分県佐伯市
投/打   右/左
プロ野球歴 広島東洋カープ(1989年~2005年)
タイトル等 盗塁王3回・最多安打3回・ベストナイン3回
      ゴールデングラブ賞1回・オールスター出場8回・トリプルスリー達成1回(1995年)

野村選手は叔父に当たる八木孝選手がカープに所属していたということもあり、小学生の頃からカープのキャンプを見学に行っていたといいいます。叔父と同じ大分・佐伯鶴城高では投手、駒沢大に進学後は外野手としてプレーしていました。

大学では東都大学リーグ新記録となる通算52盗塁を達成します。1988年に行われたソウル五輪の野球代表に学生ながら選出され、銀メダルを獲得しました。

ちなみにこの代表チームには野茂英雄投手や古田敦也捕手などがおり、20人中13人が後にプロ入りしています。しかも野村選手を含め8人ものドラフト1位指名選手を輩出しました。

プロ1年目の1989年は主に外野手として88試合に出場しました。その年のオフ、カープの正遊撃手・高橋慶彦選手がロッテオリオンズにトレードされると、後釜のショートに抜擢されます。

1990年、「1番・ショート」としてスタメンに定着すると打率.287 16本塁打44打点を記録。さらに33盗塁をマークし、盗塁王に輝きました。

1991年は初の3割超えとなる打率.324を残します。盗塁数も31を数え、二年連続でタイトルを獲得。5年振りのリーグ制覇に大きく貢献しました。

1994年に再び打率.303を記録。37盗塁で3度目の盗塁王を獲得します。1995年、打率.315で3度目の3割をマークしました。加えて32本塁打30盗塁を記録し、史上6人目、左打者としては初となるトリプルスリーを達成しています。

1996年、緒方孝市選手が台頭し1番を務めるようになると、野村選手は3番を打ち、4番打者の江藤智選手、そして5番には前田智徳選手が座ります。

さらに6番は勝負強さが光るルイス・ロペス選手、7番にはこの年初めて打率3割を記録した金本知憲選手、そして8番にはこれまた初の3割超えとなる打率.314を記録した西山秀二選手がいるという超強力打線が完成。チームは首位を独走していましたが、後半になり失速、読売ジャイアンツの「メークドラマ」を許してしまいました。

1997年オフにFA権を獲得。MLBからもオファーが届く中、カープ残留を決断します。1998年には史上4位の速さで1500安打を達成し、2000本安打も易々と届くと思われていました。しかし、

この年から相次ぎケガに見舞われ、さらに東出輝裕選手らの台頭もあり野村選手は三塁、あるいは一塁手として試合に出場するようになります。

2005年6月23日、対ヤクルトスワローズ戦で悲願の2000本安打を達成。これを花道に同年限りで引退しました。

2010年からは広島東洋カープの監督に就任します。2013年、16年振りのAクラス、3位に入り初のクライマックスシリーズ出場を達成。翌2014年も3位になりますが監督を退任しました。

野村選手は、アマチュア時代からリーダーとしての素質を認められ、プロ入り後も早い段階から監督就任を確実視されていました。日本人選手はもちろん、外国人選手にも「文法がめちゃくちゃな英語」(本人談)で積極的にコミュニケーションを取り、信頼を得ていました。

監督就任時、「優勝を目指しているので、Aクラス入りを目標としないで欲しい」と高い目標を掲げ、優勝したら「当然のことをしたまでです」と答えると語っていました。

カープOBに監督候補は多く、再登板は微妙なところではありますが、ぜひもう一度指揮を執って欲しいと願っているファンは多くいます。

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堂林翔太選手


生年月日  1991年8月17日
出身地   愛知県豊田市
投/打   右/右
プロ野球歴 広島東洋カープ(2010年~)
タイトル他 オールスター出場3回

堂林選手は、愛知・中京大中京高では4番でエースを務め、3年生の春夏甲子園へ連続して出場しました。春はベスト8、夏は決勝戦で新潟・日本文理高の驚異の粘りに苦しみながらも勝利、全国制覇を達成しています。

投手としても評価は高かったのですが、春の大会で打率.584、夏の大会では打率.522を記録した打撃でプロ注目の存在となり、ドラフト会議でカープから内野手として指名を受け入団しました。

当初の背番号の13番は、MLBのスーパースター・アレックス・ロドリゲス選手にあやかってのものです。

プロ1年目の2010年はファームで打率.203 7本塁打、翌2011年もファームで打率.208 1本塁打という成績ながら野村謙二郎監督に抜擢され2012年は1軍で開幕スタメンを果たします。

時期尚早という声もある中辛抱強く起用されるとチーム最多となる14本塁打を記録し、オールスターにも選出されました。

2013年、半永久欠番として長く空き番だった背番号7番を継承します。6月23日のヤクルトスワローズ戦ではサヨナラ本塁打を放ちました。

しかし、総じて成績は不振に終わります。8月20日の中日ドラゴンズ戦で死球を受け骨折。以降のシーズンを棒に振りました。

2014年もサヨナラ本塁打を放ったり、オールスターでもアーチを架けますが、打率.246 8本塁打という成績に終わります。サードに木村昇吾選手が定着したため、堂林選手は外野手として起用されました。

2015年、打撃不振が深刻さを増し、1軍での本塁打は0本に終わります。2016年にはサードの座を争っていた安部友裕選手がレギュラーを完全に奪い、優勝の立役者の一人となる一方、堂林選手の影は薄くなるばかりです。

2017年、2018年もチームはリーグ制覇しますが、そこに堂林選手の活躍はあまりなく、忘れかけられた存在となってしまいました。

2019年、1軍デビュー後最低の28試合出場に留まったことで一念発起します。年下ながら首位打者を獲得した主砲・鈴木誠也選手にアドバイスを求めるなど、復活へ向けなりふり構わぬ姿勢を見せました。

2020年、開幕戦に「7番・ファースト」として名を連ねると打撃好調で、当初7番だった打順はついに3番へ昇格しました。

「鯉のプリンス」がいよいよ覚醒したのか、その打撃に注目せずにはいられません。




背番号7番をつけた選手の傾向とは?

広島東洋カープの背番号7番は、初代の岩本選手から一貫して、背番号7番はチームの主力となる期待が込められている選手や、実績を積んだと認められた選手が手にする番号となっています。

岩本選手や4代目の緋本選手、5代目・山本選手そして野村選手らのように、入団時から背番号7番を贈られている選手や、8代目の斎藤選手、9代目・小川選手のように背番号変更によって飛躍を期待する選手、あるいは6代目・佐野選手ら移籍組の選手など、その経緯は違えど、チームの核となる、と判断された選手が背番号7番でプレーしています。

一方で3代目・銭村選手は入団時の背番号が25番でしたが、初のオールスター出場を果たした翌年から7番に昇格したという例もありました。

いずれにせよ、カープにとって背番号7番は主力選手の番号という認識は球団創立以来変わっていないと言えるでしょう。

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おわりに

今回は、広島東洋カープの背番号7番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?一桁番号である7番、主力級か主力を期待される選手が背負ってきた、そんな傾向もわかりましたね。

かつてカープの背番号7番といえば山本一義選手の代名詞でした。野村選手の登場により背番号7番のシンボルは変わりましたが、その価値は不変です。

山本選手も、野村選手も、広島の野球少年にとって憧れの存在だった選手です。

そんな背番号7番に憧れ、カープ入りを熱望する次世代の主砲候補の少年は、今日も広島県内のどこかで練習に明け暮れているに違いありませんね。

最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。

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