阪神タイガースの背番号7番!歴代7番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、みっつです。

野球での一番バッターというと、どのようなイメージを持ちますか?塁に出る事、ホームインする事が重要になる打順なので、ホームランや打点よりも、足が速くて盗塁が得意な選手といったイメージなのではないでしょうか?

しかし、1985年に日本一に輝いた阪神タイガースの一番バッターは打率.322 34本塁打、84打点をマーク、しかし盗塁はわずか8個。この数字だけを見れば、クリーンアップの選手が残した数字だろうと思いますよね。

従来の一番バッターのイメージを覆すような成績を残したのは、当時背番号7番をつけていた真弓明信選手なのです。

今回は、阪神タイガースの背番号7番を特集します。歴代の7番をつけてきた全選手や特に印象深い3選手、さらに7番をつけた選手の傾向にも迫りますので、楽しみにしてくださいね。




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歴代の背番号7番を背負った選手をご紹介

2020年現在で、のべ16人の選手が阪神タイガースの背番号7番をつけてきました。まずは歴代の全選手をご紹介します。

年  度年 数球 団 名選 手 名
1936年1年大阪タイガース村田重治選手
1937年春~1939年3年大阪タイガース広田修三選手
1940年~1942年3年大阪タイガース~阪神松尾五郎選手
1943年~1945年3年阪神空白
1941年~1943年3年阪神野口昇選手
1944年~1945年2年阪神空白
1946年~1949年4年阪神~大阪タイガース金田正泰選手
1950年1年大阪タイガース塩見栄一選手
1951年~1959年9年大阪タイガース金田正泰選手
1960年~1966年7年大阪タイガース~阪神タイガース並木輝男選手
1967年~1968年2年阪神タイガース西園寺昭夫選手
1969年~1970年3年阪神タイガース鈴木皖武選手
1971年~1978年8年阪神タイガース池田祥浩(純一)選手
1979年~1995年17年阪神タイガース真弓明信選手
1996年1年阪神タイガース空白
1997年~2009年13年阪神タイガース今岡誠選手
2010年~2012年3年阪神タイガース藤川俊介選手
2013年~2016年4年阪神タイガース西岡剛選手
2017年~2022年6年阪神タイガース糸井嘉男選手
2023年~阪神タイガースシェルドン・ノイジー選手

初代・村田重治選手は投手ながら背番号7番を背負いました。もっとも、黎明期のプロ野球では苗字の50音順に背番号を割り振っている例も多く、この村田選手も事務的に割り振られた背番号だと思われます。

2代目・広田修三選手は名古屋金鯱軍から移籍してきた捕手です。タイガースの正捕手・小川年安選手が召集されたため、その穴埋めを期待されての入団でした。引退後は社会人野球に活躍の場を移し、戦後に初めて開催された都市対抗に出場しています。

3代目・松尾五郎選手は戦前のタイガースでプレーした外野手です。戦後は社会人野球でプレーし、都市対抗には2年連続で出場しました。

4代目・金田正泰選手はシーズン18三塁打というプロ野球記録を持つ選手です。後にタイガースの監督を務め、あと一歩のところで優勝を逃し、読売ジャイアンツの9連覇を許してしまいました。

5代目・塩見栄一選手はピッチャーで、背番号3番から7番に変更。1年プレーし引退しました。

6代目は再び金田選手です。塩見選手に7番を譲り21番に変更したものの、7番に戻しました。

7代目・並木輝男選手は高卒ルーキーながら開幕スタメンに起用された選手です。セ・リーグに限ると、高卒で開幕スタメンを勝ち取ったのは並木選手と巨人・王貞治選手、そして中日ドラゴンズ・立浪和義選手の3人だけです。

ちなみにパ・リーグでは2013年の北海道日本ハムファイターズ・大谷翔平選手や昨年の千葉ロッテマリーンズ・藤原恭大選手など11人が抜擢されました。

8代目・西園寺昭夫選手は好打の三塁手です。東映フライヤーズ時代は打率3割を記録したり、22本塁打をマークするなどレギュラーとして活躍。タイガース移籍後は、外野手としてプレーしました。




9代目・鈴木晥武選手は西園寺選手との交換トレードでサンケイスワローズから移籍した投手です。背番号は西園寺選手のものを引き継ぎました。

10代目・池田純一(祥浩)選手は勝負強い打撃と、強肩を活かした守備で活躍した外野手です。しかし、優勝争いの最中に起きたプレーが原因で、ファンから嫌がらせを受けることになってしまいます。詳細はのちほど。

11代目・真弓明信選手は田淵幸一選手らとのトレードでクラウンライターライオンズから移籍した選手です。移籍当初は内野手でしたが、平田勝男選手にポジションを譲り外野手に転向。首位打者を獲得したのは1983年のことでした。

12代目・今岡誠選手も2003年に首位打者を獲得した選手です。2005年には打点王に輝き、両年のリーグ優勝の原動力となりました。

13代目・藤川俊介選手はドラフト会議で「3位指名以内ならプロ入り。それ以下なら社会人入り」と表明していたにも関わらず、タイガースは5位で指名。各所協議の結果、晴れてプロ入りとなり、タイガースは謝罪の意を込めて7番を贈りました。

14代目・西岡剛選手はMLBから日本球界復帰した選手です。千葉ロッテマリーンズ時代はスイッチヒッターとして史上初のシーズン200安打を達成したリードオフマン。ミネソタ・ツインズに移籍するも奮わず、日本へ帰ってきました。

復帰1年目の2013年は打率.290とさすがの活躍でしたが、2年目の巨人戦で福留孝介選手と守備中に激しく衝突、救急車で搬送されるほどの重傷を負ってしまいます。結果的にこのケガが引き金となり、各所に痛みを抱えてプレーせざるを得なくなり、ついにはアキレス腱を切断。2018年限りで退団となりました。

15代目・糸井嘉男選手は「超人」と形容される筋力が魅力の外野手です。元々は投手として北海道日本ハムファイターズに入団したものの芽が出ず打者に転向。すぐさまファームでは結果を出すと、ついには1軍のレギュラーに定着します。

その後、トレードでオリックスバファローズに移ると史上最年長で盗塁王を獲得しました。FAでタイガースに移籍後は毎年高打率をマーク。39歳となった2020年シーズンも3割を超える打率を残し、タイガース打線を牽引しています。

16代目は、アメリカ出身のシェルドン・ノイジー選手です。2016年のMLBドラフトで2巡目でナショナルズに指名されプロ入り。2019年にアスレチックスでメジャーデビューを果たしますが目立った成績はなく、ドジャース、再びアスレチックスを経て、2023年シーズンから阪神タイガースでプレーしています。

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歴代背番号7番のうち、印象深い3選手のご紹介

次に阪神タイガースの背番号7番をつけてきた選手の中で、私が特に印象深く思う池田選手、真弓選手、そして今岡選手をご紹介したいと思います。

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池田純一(祥浩)選手

生年月日  1946年5月15日
出身地   熊本県荒尾市
投/打   右/左
プロ野球歴 阪神タイガース(1965年~1978年)
タイトル等 オールスター出場2回

池田選手は、熊本県出身で、八代東高校時代には投手兼4番打者として甲子園にも出場しています。読売ジャイアンツとの争奪戦の末に、1965年に阪神タイガースに入団しました。

プロ入りしてからは外野手として活躍し、1967年にはセンターのレギュラーを獲得、1972年には規定打席に達し、順調な選手生活を送っていました。

しかし、池田選手の転機が1973年に訪れます。この年の阪神タイガースは8連覇を狙う巨人と熾烈な優勝争いをしていました。

8月5日、甲子園球場で行われた両チームの直接対決での出来事です。9回表、2対1でタイガースがリードし二死一・三塁。黒江透修選手が放った何でもないセンターフライを捕球しようとした中堅手・池田選手が転倒、三塁打となり巨人が逆転します。ゲームはそのまま巨人が勝ちました。

池田選手は2桁本塁打を4回も記録する打力もさることながら、守備にも定評のあった選手です。この試合は守備固めでの起用でした。

試合後、池田選手は金田正泰監督に謝罪に赴きますが、金田監督は無視。一方、マウンドにいた江夏豊投手は「エラーはつきもの。誰も攻めたりはしないよ」と対照的な対応をしてみせました。

さらに「勝てばタイガース優勝」で臨んだ10月20日、ナゴヤ球場での中日ドラゴンズ戦、タイガースの面々が緊張でガチガチになる中、池田選手は同点タイムリーを放つなど一人気を吐きます。

甲子園での転倒以来、チームに流れる微妙な雰囲気を人一倍感じていた池田選手はどうしても優勝したかったのです。

タイムリーを放った次の打席では、ホームラン!と確信する鋭い当たり。しかし、「どうせホームランでしょ」と半ばやけくそ気味に差し出した大島康徳選手のグラブにボールは入っていました。

1973年のタイガースの最終戦は甲子園球場での対巨人戦では、「勝った方が優勝」という試合でタイガースは0対10と完敗し、巨人は9連覇を達成しました。

試合終了後、グラウンドへ大量になだれ込んだ殺気立ったファンは、巨人戦の帽子をかすめ取ったりし、やり場のない怒りをぶちまけました。

そして、8月の池田選手のプレーをぶり返し、「あの試合で勝っていたら、タイガースは優勝していた」と、「世紀の落球」などという大げさな話に仕立て上げてしまったのです。

「世紀の落球」が広がるにつれ、池田選手は誹謗中傷に悩まされるようになりました。1978年に引退後、池田選手は球界とのつながりを一切絶ち、洋品店を営みます。

もし、中日戦の打球がホームランだったら・・・。
もし、黒江選手がぼてぼてのゴロでアウトになっていたら・・・。

球界から足を洗っても、自分の店の名に「ラッキーゾーン」と名付けた池田選手の運命は、劇的に変わっていたことでしょう。

真弓明信選手

生年月日  1953年7月12日
出身地   福岡県大牟田市
投/打   右/右
プロ野球歴
太平洋クラブライオンズ~クラウンライターライオンズ(1973年~1978年)
阪神タイガース(1979年~1995年)
タイトル等 首位打者1回・ベストナイン3回
      オールスター出場9回・サイクル安打達成1回(1979年)

真弓選手というと、阪神タイガースで長く現役生活を送り監督を務めたことからも、タイガース生え抜きのようですが、プロ野球生活は太平洋クラブライオンズからスタートしています。

1973年、太平洋クラブライオンズに入団した当時のポジションは内野手、主にショートでした。当時からハンサムぶりは評判で、女性ファンの人気を集めます。

1978年オフに、田淵幸一選手などとの交換トレードでタイガース移籍が決定しました。高校の同級生で、ライオンズでも一緒だった若菜嘉晴選手らとセ・リーグへやって来ています。

それまで福本豊選手らアベレージヒッターが使ういわゆる「つちのこバット」を使用していた真弓選手でしたが、タイガース移籍を機に飛距離の出やすいタイプのバットに変えます。

すると、それまでシーズン最高8本塁打だった真弓選手が、移籍1年目は13本塁打、翌年の1980年には何と29本塁打を放ちます。

1979年から13年連続で2桁本塁打を放ち、1984年には27本、そして1985年には34本塁打を記録。打率も良く、1983年には打率.353というハイアベレージで首位打者を獲得しました。

移籍後は1番が定位置でしたが、1988年、村山実監督によって俊足の大野久選手が1番に抜擢されると真弓選手はクリーンナップに移ります。

ランディ・バース、掛布雅之両選手が退団・引退する中、岡田彰布選手らと共に打線を牽引しました。かつて「ダイナマイト打線」と恐れられていた頃からは迫力は半減してしまいましたが、貴重な長距離砲として長打を放ちました。

亀新フィーバーに沸いた1992年からは代打に専念します。チャンスでコールされる「代打・真弓」は甲子園のボルテージを最大限に引き上げ、それは他球団にとってこの上ない脅威でした。

1995年限りで引退。その後、近鉄バファローズの打撃コーチに就任しました。タイガースの後輩でもある北川博敏選手の伝説に残る「代打逆転満塁サヨナラ優勝決定ホームラン」のシーンでは、打席に向かう北川選手に一声掛け、見事なアシストを果たしました。

2009年からタイガース監督を3年務めたのちは、解説者として活動しています。67歳となられた現在でも、相変わらずハンサムなままです。

今岡誠選手

生年月日  1974年9月11日
出身地   兵庫県宝塚市
投/打   右/右
プロ野球歴
阪神タイガース(1997年~2009年)
千葉ロッテマリーンズ(2010年~2012年)
タイトル  首位打者1回・打点王1回
      ベストナイン3回・ゴールデングラブ賞1回・オールスター出場5回

今岡選手は、PL学園高から東洋大と進み、1996年のドラフト会議で地元タイガースを逆指名しドラフト1位で入団しました。

ルーキーイヤーの1997年は98試合に出場し、翌1998年は133試合に出場し打率.293を残します。

しかし1999年は不調に終わり、さらに2000年には打撃不振で僅か40試合の出場に終わってしまいました。2001年も平凡な成績に終わり、後に当時の野村克也監督との不仲が原因と語っています。

しかし2002年、星野仙一監督が就任し「1番・セカンド」に固定されると打率.317 15本塁打56打点を記録。翌2003年には打率.340で首位打者を獲得。チームの18年振りリーグ制覇に大きく貢献しました。

赤星憲広選手が1番に固定されると今岡選手はクリーンナップを受け持ち、2005年には打率.279 29本塁打147打点を記録します。打点は1950年に「初代ミスター・タイガース」、藤村冨美男選手が記録した146打点を更新する、球団新記録でした。

しかし、2006年以降は人が変わったかのように打撃不振に陥ります。前年3割を切った反省から打撃フォームを改造したのが裏目に出たうえ、ケガが相次ぎ、成績は急降下。147打点を記録した翌年、2007年の打点は、わずが29まで激減しました。

チームも総力を挙げ、今岡選手をサポートします。ファンも復活を待ち望んでいましたが、ついに2009年、タイガースは今岡選手に戦力外通告を行いました。

2010年からは千葉ロッテマリーンズでプレーするも、往年の勝負強さが蘇ることはなく、2012年限りで引退を決意しました。引退記者会見で「レギュラーとしては短命だったが、山あり谷ありの濃い野球人生だった」と振り返っています。

残した数字もさることながら、インコースのボールを捌き、ホームランにした天才的なバットコントロールは、あの落合博満氏をして「真似したくてもできない」と言わしめたほどです。

引退後はロッテとタイガースでコーチを歴任。2020年シーズンはロッテの二軍監督として指導しています。

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背番号7番をつけた選手の傾向とは?

阪神タイガースの背番号7番の歴史を振り返ってみると金田選手、並木選手、そして池田選手とタイガース球団史に名を残す選手たちがずらり顔をそろえています。さらに、真弓選手、今岡選手、西岡選手、糸井選手と、球界を代表する選手がつけてきました。

他球団の7番の選手も同じような傾向が見られますが、阪神タイガースの歴代の背番号7番の選手は、スター選手、主力選手が付けてきた番号と言えます。




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おわりに

今回は、阪神タイガースの背番号7番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?チームの中心選手がつけてきた傾向があるのもわかりましたね。

現在の7番の糸井選手は40歳となります。決して若いとは言えない年齢になりますが、超人のニックネーム通りに50歳になっても現役で頑張って欲しい、そう願わずにはいられません。

最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。

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