こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
1983年当時、広島東洋カープのファンであった私は、大きな衝撃を受けました。それは、我がカープの若手である長嶋清幸選手が、背番号0番をつけたからです。
日本プロ野球界初となる、背番号0番選手が誕生した瞬間でもありました。アメリカでは前例があったものの、まさか日本で0番が見られるとは、変な固定観念があった私には信じられない出来事として刻まれています(^^;)
今回は広島東洋カープの背番号0番について特集します。0番をつけた全選手や特に印象深い3選手、さらに0番をつけた選手の傾向にも触れますので、楽しみにして下さいね。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号0番を背負った選手をご紹介
1983年からスタートした、広島東洋カープの背番号0番の歴史、2020年現在で現在で5人の選手がつけています。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
1950年~1982年 | 33年 | 広島カープ~広島東洋カープ | 空白 |
1983年~1990年 | 8年 | 広島東洋カープ | 長嶋清幸選手 |
1991年~1998年 | 8年 | 広島東洋カープ | 高信二選手 |
1999年~2006年 | 8年 | 広島東洋カープ | 木村拓也選手 |
2007年~2012年 | 6年 | 広島東洋カープ | 井生崇光選手 |
2013年~ | 広島東洋カープ | 上本崇司選手 |
初代は前項でご紹介した長嶋清幸選手です。ドラフト外入団ながら、プロ1年目から1軍戦に登場、本塁打も放っています。
2代目・高信二選手は現役時代、守備の名手として活躍しました。
現役を退いた後はカープの指導者として活躍しいます。野村謙二郎監督時代には出場停止処分を受けた監督に代わり監督代行を2試合務めました。緒方孝市監督時代はヘッドコーチに就任し、リーグ3連覇に貢献しました。
3代目・木村拓也選手はユーティリティープレーヤーのお手本のような選手です。元々捕手として入団したものの、プロで生き抜くために内外野、更にはスイッチヒッターへ挑戦しています。
一人何役もこなせる選手となり、その存在は五輪代表チームなどでも重宝されました。
4代目・井生崇光選手も捕手から内外野を守れるスーパーサブへ転身した選手です。1軍戦初出場はプロ7年目と遅咲きでしたが、マーティー・ブラウン監督時代に貴重な戦力として活躍しました。進学校として名高い福岡県立東筑高出身です。
そして5代目は現役の上本崇司選手です。兄である阪神タイガース・上本博紀選手に続き2013年にカープへ入団した内野手です。
50メートル走5.9秒という俊足を活かすべくスイッチヒッターに挑戦しましたが、2020年シーズンからは右打ち専念となりました。
カープの二遊間は菊池涼介・田中広輔両選手ががっちりとレギュラーを掴んでいるため出番は少ないですが、守備固め、そしてムードメーカーとして貴重な存在となっています。
歴代背番号0番のうち、印象深い3選手のご紹介
次に、広島東洋カープの背番号0番をつけた選手で、私が特に印象深く思う長嶋選手、木村選手、そして上本選手をご紹介したいと思います。
長嶋清幸選手
出身地 静岡県小笠郡浜岡町
投/打 左/左
プロ野球歴
広島東洋カープ(1980年~1990年)
中日ドラゴンズ(1991年~1992年)
千葉ロッテマリーンズ(1993年)
阪神タイガース(1994年~1997年)
タイトル等 ゴールデングラブ賞4回・日本シリーズMVP(1984年)
長嶋選手は、静岡県自動車工業高校(現在の静岡北高校)出身で、1979年のオフにドラフト外で入団しました。プロ1年目の1980年から1軍デビューし、7月17日の対ヤクルトスワローズ戦で尾花高夫投手からプロ初本塁打を放っています。
1982年、79試合に出場し準レギュラーとしての地位を確保すると、1983年には前述の通り日本プロ野球界で初となる背番号0番に変更しました。
それまでカープのセンターは山本浩二選手の定位置でしたが、この年から山本選手はレフトにコンバートされ、長嶋選手が中堅手としてレギュラーを掴みます。全130試合に出場し打率.293 13本塁打57打点という好成績に加え、守備でもゴールデングラブ賞を獲得しました。
勝負強さも長嶋選手の武器で、1984年9月15日の対読売ジャイアンツ戦で西本聖投手から、翌16日は江川卓投手から2日連続でサヨナラホームランを放つという離れ業をやってのけます。
日本シリーズでも神がかり的な勝負強さは健在で、7試合で3本塁打10打点という暴れっぷりでシリーズMVPを獲得。全国のプロ野球ファンに背番号0番を猛アピールすることとなりました。
1986年にもカープは優勝しますが、偵察に訪れたパ・リーグ覇者、西武ライオンズの森祇晶監督の前で満塁本塁打を放ち、「打ち過ぎて参考にならん」と半ば呆れられるほど、ここ一番の強さを発揮。シリーズでは2本塁打を放ちました。
1990年、前田智徳選手らが台頭するとその立場は微妙なものとなります。シーズンオフ、12球団の代表者が集まり、トレードについて話し合うセレクション会議が開催されました。
会議終了後、インタビューを受けた福岡ダイエーホークス・田淵幸一監督が「長嶋選手らがトレードに出されるみたいだ」と口を滑らせたことが決定打となり、中日ドラゴンズへトレードされました。
その後、千葉ロッテマリーンズを経て阪神へ入団。実は長嶋選手は阪神ファンであったため、プロ入り当初の第一希望は阪神だったのです。
中日移籍当初は背番号4番だったものの、翌年からは0番に変更しています。阪神では入団当初から0番を付けるなど長嶋選手と言えば、背番号0番というほどインパクトがありました。
しかし、この制度を悪用して「プロ拒否」の姿勢を見せ指名を断り、後に希望する球団へドラフト外で入団する選手が登場したことにより廃止となりました。
木村拓也選手
出身地 宮崎県宮崎郡田野町
投/打 右/左右
プロ野球歴
日本ハムファイターズ(1991年~1994年)
広島東洋カープ(1995年~2006年)
阪神タイガース(2006年~2009年)
タイトル等 オールスター出場2回
木村選手は、宮崎南高から捕手として1991年に日本ハム入りしました。しかし、当時チームには田村藤夫選手という強打の正捕手がいたため出番はなく、俊足・強肩を買われ外野手へと転向しています。
1994年オフに、長富浩志選手との交換トレードでカープに移籍したことが転機となりました。外野に加え内野の守備練習を始め、更にはスイッチヒッターにも挑戦。プロで生き抜くために次々と技術を習得しようとする意欲と、元来の器用さがミックスされ、1軍出場機会が増えていきます。
1998年には二塁の他、ショートとしても試合に出場し、1999年には捕手に再挑戦。この年、投手と一塁以外の全ポジションで試合に出場しました。
2000年には引退した正田耕三選手に代わりセカンドのレギュラーに定着します。1番打者を務め打率.288 10本塁打38打点という好成績を残し、規定打席に初めて到達します。プロ10年目にしてブレイクしました。
守備力だけでなく打撃にも磨きがかかったことで木村選手の出番はますます増え、4年連続で130試合以上に出場を果たします。その存在が大きくクローズアップされたのは2004年、アテネ五輪代表メンバーに選ばれた時でした。
ペナントレース中に五輪が開催されるということで、各球団の戦力ダウンにならないよう1球団2名以内という縛りの中、カープから選ばれたのはエース・黒田博樹投手と木村選手です。
ベンチ入り出来る人数が限られている中で、捕手を含む複数ポジションを守れ、更にスイッチヒッターという木村選手は貴重な存在でした。
選手として出番は少なかったものの、少ない人数で戦うチームにあってブルペン捕手を務めるなど、率先して裏方の仕事を行う姿勢は、代表チームの長嶋茂雄監督を始め多くのプロ野球ファンにも称賛されたのです。
この年、椎間板ヘルニアを発症してしまい、シーズン終盤に手術を受けます。翌2005年シーズン当初はレギュラーとしてプレーするも、腰痛が再発。この影響もあって2006年は開幕から2軍暮らしが続きました。
6月、出番を求めてトレードを直訴していた木村選手の希望が通り、読売ジャイアンツへトレードが決まります。当初は本人もファンも「よりによって巨人かよ」と思っていましたが、代打にセカンドのスタメンにと大活躍します。原辰徳監督に「いなかったらと思うと、ゾッとする」と言わしめたほどの存在感を示しました。
2009年9月4日には、捕手として10年ぶりに出場します。3人の投手を相手に強気のリードを見せ、見事にピンチを凌ぐと原監督は木村「捕手」を激賞。ファンにも大いに感動を与えてくれました。この年限りで現役を引退し、コーチに就任しました。
コーチ1年目の2010年4月2日、古巣カープの本拠地・MAZDA zoom-zoomスタジアム広島で試合前練習中、突然意識を失って倒れます。診断の結果はくも膜下出血でした。
関係者・ファンの願いも空しく、5日後の4月7日、37歳という若さで旅立ってしまったのです。
同年4月24日。木村コーチ追悼試合としてカープ対巨人戦開催されました。木村コーチと同級生で仲の良かった巨人・谷佳知選手が放った手向けの満塁ホームランは、多くのプロ野球ファンの涙を誘いました。
上本崇司選手
出身地 広島県福山市
投/打 右/右
プロ野球歴 広島東洋カープ(2013年~)
タイトル他 特になし
上本選手は、地元広島に生まれ、広陵高時代には甲子園に出場しました。高校時代の1学年上には現在もチームメートであり、大学の先輩でもある野村祐輔投手と巨人・小林誠二捕手のバッテリーがいて、高校野球史に残る試合と言われる広陵高対佐賀北高戦にも出場しています。
早稲田大に進んだ兄・博紀選手と比較されることを嫌い、明治大に進むと1年春からスタメン出場を果たします。守備力を武器に二塁・遊撃のレギュラーとして活躍し、3年生時には明治神宮大会で優勝に貢献しました。
当時のチームメートには野村選手の他、東北楽天ゴールデンイーグルスで活躍する島内宏明選手がいます。
2012年のドラフト会議でカープから3位指名を受け入団しました。
2013年9月18日の対阪神タイガース戦の7回表、上本選手が守備固めとしてショートのポジションに入ると、兄・博紀選手も7回裏からにセカンドの守備に就きます。二人は5歳差ということもあり、兄弟揃って同じ試合に出場したのは初めてのことでした。
2014年、緒方監督の助言もありスイッチヒッターに挑戦します。俊足を活かすことで菊池・田中両選手の牙城を崩すことを狙いましたが、2020年からは右打ちに専念することとしました。
背番号0番をつけた選手の傾向とは?
初代・長嶋選手はチームが変わっても背番号は0番をつけました。それは長嶋選手が初めて0番を付けた、いわばパイオニアだったという理由もあるでしょうが、やはり日本シリーズで見せた、無類の勝負強さというイメージが長嶋選手の0番にはあるからではないでしょうか。
2代目の高選手は守備力、3代目の木村選手はユーティリティープレーヤーのお手本のような選手でした。その木村選手にあやかって4代目背番号0番を受け継いだのが井生選手です。
カープの背番号0番は、「自分がどうすれば、プロで生き抜けるかを知っている選手の背番号」と言えるのではないでしょうか。
5代目・上本選手もスイッチヒッターに挑戦するなど、レギュラー奪取に向け努力を惜しみませんでした。
結果はどうであれ、自分がやるべきことをやる。
カープの伝統として、練習量の多さがあります。それはやみくもに数をこなしているのではなく、自分がプロとして生き抜くために、どうしたらいいのか、と考えた時に到達する、ある意味「当然のこと」ではありますが。
広島カープに関しての話題はこちらからどうぞ。
⇒広島カープの話題
他にも野球に関する話題を多数お届けしています。
⇒野球に関する話題はこちらからどうぞ
背番号別の特徴に関しての話題を提供しています。
⇒背番号別の特徴
おわりに
今回は、広島東洋カープの背番号0番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?
2020年現在で0番をつける上本選手は、強固なレギュラー陣に加え、小園海斗選手ら下からの突き上げもあり苦しいポジションにあります。しかし、元来の明るさでチームの盛り上げ役として欠かせない存在となっています。
広島での試合が中止となった際は選手のモノマネをしながらグラウンド1周するパフォーマンスでファンを楽しませてくれますが、試合でのさらなる活躍も期待したいですね。
最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。