阪神タイガースの背番号2番!歴代2番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、みっつです。

プロ野球の阪神タイガース、読売ジャイアンツに次ぐ歴史を誇る球団として知られています。また主催ゲームの観客動員数も、常に1,2を争っていて、人気球団としての地位も築いています。

今回はそんな阪神タイガースの背番号2番についての特集です。歴代の2番をつけてきた全選手や、特に印象深い3選手、さらに2番をつけてきた選手の傾向にも触れますので、楽しみにしてくださいね。




歴代の背番号2番を背負った選手をご紹介

阪神タイガース背番号2番は、2020年現在で24代目という歴史を誇ります。さっそく歴代の選手をご紹介しましょう。

年  度年 数球 団 名選 手 名
1936年1年大阪タイガース小川年安選手
1937年春~1940年4年大阪タイガース~阪神空白
1941年1年阪神村瀬一三選手
1942年~1943年2年阪神乾国雄選手
1944年~1945年2年阪神空白
1946年~1948年3年阪神~大阪タイガース小林英一選手
1949年1年大阪タイガース空白
1950年~1956年7年大阪タイガース藤村隆男選手
1957年~1958年2年大阪タイガース宮崎逸人選手
1959年~1961年3年大阪タイガース~阪神タイガース柴山宗守選手
1962年~1963年2年阪神タイガース中島広喜選手
1964年~1969年6年阪神タイガース本屋敷錦吾選手
1970年~1975年6年阪神タイガース野田征稔選手
1976年~1977年2年阪神タイガース東田正義選手
1978年1年阪神タイガース空白
1979年~1982年4年阪神タイガース竹之内雅史選手
1983年1年阪神タイガース空白
1984年~1985年2年阪神タイガース岡義朗選手
1986年~1988年3年阪神タイガース柏原純一選手
1989年~1990年2年阪神タイガース大野久選手
1991年~1992年2年阪神タイガース高橋慶彦選手
1993年1年阪神タイガース松永浩美選手
1994年~1999年6年阪神タイガース平尾博司選手
2000年~2001年2年阪神タイガース的場寛壱選手
2002年~2004年3年阪神タイガース藤原通選手
2005年~2008年4年阪神タイガース野口寿浩選手
2009年1年阪神タイガース柴田講平選手
2010年~2012年3年阪神タイガース城島健司選手
2013年~阪神タイガース北條史也選手

初代・小川年安選手はタイガース創立時の正捕手にして3番打者です。プロ生活は1936年の春・秋シーズンのみで召集され、1944年に散ってしまいました。戦場では偶然に読売巨人軍のエース・沢村栄治投手と遭遇し、お二人で写った写真が残されています。

2代目・村瀬一三選手は、好守の内野手として名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)で活躍しました。1941年途中に阪神軍へ移籍したものの1942年シーズン開幕前に召集、その後、戦地で散りました。

3代目・乾国雄選手は一旦プロから身を引き、その後復帰した内野手です。1942年に阪神軍へ入団し、1943年に退団するも1946年に大阪タイガースとなったチームに復帰しました。

4代目・小林英一選手は内野手ながら捕手もこなせるユーティリティープレーヤーです。打撃は苦手で、守備でチームに貢献しました。

5代目・藤村隆男選手はタイガースのスーパースター・藤村冨美男選手の弟です。戦前から阪神軍で活躍していたものの、肩を痛めて一時は社会人野球に籍を置きました。しかし、そこで肩を休めたことで回復、兄と同じタイガースへ復帰を果たします。

復帰後は主戦投手として6年連続2桁勝利を含む通算135勝。ちなみに兄・冨美男選手も投手経験があり、通算で34勝をマークしています。

6代目・宮崎逸人選手は高卒プロ2年目で初勝利を挙げた右腕投手です。ファームでは防御率のタイトルを取るなど期待されましたが、この勝ち星だけでした。

7代目・柴山宗守選手もポジションは投手です。プロ生活は3年で退団しました。

8代目・中島広喜選手も投手ながら背番号2番を背負いました。背番号2番に投手が続くのは5代目の藤村選手の影響でしょうか。中島選手は投手として1試合に登板、その後野手に転向しました。

9代目・本屋敷錦吾選手は長嶋茂雄・杉浦忠両選手とともに「立教大三羽カラス」と評判の高かった内野手です。阪急ブレーブスに入団後タイガースへトレードされました。

通算13本塁打という本屋敷選手ですが、あの金田正一投手から2打席連続本塁打を記録するなど、随所で活躍しています。

10代目・野田征稔選手はPL学園出身のプロ野球選手第1号となった内野手です。二塁手のレギュラーを確保したものの、鳴り物入りで入団した中村勝広選手にポジションを譲る形で引退しました。

その後フロント入りし、村山実監督専属マネージャーなどを務めています。

11代目・東田正義選手は西鉄ライオンズ最後の4番打者です。1971年には23本塁打を放った強打者でしたが、日本ハムファイターズにトレードされ、1976年にタイガース入りしました。この年は12本塁打を記録しています。

12代目・竹之内雅史選手も西鉄ライオンズ出身の選手です。実は11代目の東田選手とは1967年のドラフト同期で、東田選手が2位、竹之内選手が3位指名で入団しました。

西鉄在籍時は「トンタケコンビ」として強打を競っています。特徴的なバッティングフォームをいくつも編み出す一方、死球を恐れず踏み込んでいく姿勢で通算死球は166個です。引退の原因となったのは、デッドボールによる握力の低下でした。

13代目・岡義朗選手は「守備の切り札」との異名を取った名手です。内外野とも守れましたが、特に外野守備に定評があり、引退後は指導者としてひっぱりだこでした。

14代目・柏原純一選手はタイガースファンにとっては「新庄剛志選手のお師匠」として有名です。選手としても素晴らしく、タイガース移籍1年目の1986年、打率.313 17本塁打を記録しています。勝負強さと男気溢れる言動で一躍人気選手となりました。

15代目・大野久選手は俊足を武器に活躍した外野手です。レギュラーを掴んだものの、1990年オフに4対5という大型トレードで福岡ダイエーホークスに移籍し、盗塁王に輝きました。

16代目・高橋慶彦選手は言わずと知れた、かつての広島東洋カープのスター選手です。ロッテオリオンズを経てタイガースに入団したものの、選手としては晩年を迎えており、ひっそりと引退しました。

17代目・松永浩美選手は「史上最強のスイッチヒッター」と言われた三塁手です。野田浩司投手との交換トレードでオリックスブルーウエーブから移籍したもののケガが相次ぎ、ゲン直しに背番号を02番へ変更。しかし、結局は在籍1年でダイエーへFA移籍しました。

18代目・平尾博司選手は超高校級と評価の高かった内野手です。タイガース時代はケガが多く、期待通りの成績を挙げれず西武ライオンズへトレードされます。ムードメーカーとして人気を集めました。

19代目・的場寛壱選手は九州共立大からドラフト1位で入団した遊撃手です。プロ入り後は相次いでケガに見舞われ、プロ生活は5年で終わりました。

20代目・藤原通選手は長打力を期待された一塁手です。プロ入り後はあらゆるポジションに挑戦、ユーティリティープレーヤーとしての実力を付けたもののケガが原因で引退となりました。

21代目・野口寿浩選手は強打の捕手です。日本ハムファイターズ時代は「ビッグバン打線」の一員として活躍しました。タイガース移籍後は矢野輝弘選手の控えとして、存在感を示しています。

22代目・柴田講平選手は「赤星二世」と期待された外野手です。城島健司選手の入団が決まると背番号2番を譲り、自らは00番を背負いました。

23代目・城島健司選手はMLB・シアトルマリナーズから復帰した捕手です。初年度は打率.303 28本塁打91打点を記録、さすがの活躍ぶりでしたが、実は左ひざ半月板を痛めており、その影響で肘を痛めるなどケガの連鎖に見舞われました。

結局、4年契約を1年残して引退する事に。会見で見せた男泣きは、多くのファンの涙を誘いました。

そして24代目・現役の北條史也選手です。青森・光星学院高時代は田村龍弘選手らと甲子園で3期連続準優勝を記録したものの、惜しくも東北勢初の頂点を逃しました。

プロ入り後はショートのポジションを鳥谷敬選手らと争い、レギュラーに一番近い存在となっていました。しかし、2019年、高校時代からのライバル・木浪聖也選手が入団してきます。木浪選手は開幕スタメンを勝ち取るなど、ウカウカしていられなくなりました。

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歴代背番号2番のうち、印象深い3選手のご紹介

次に、歴代の阪神タイガースの背番号2番の選手のうち、私が特に印象深く思う、大野選手、平尾選手、そして北條選手をご紹介したいと思います。

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大野久選手


*写真は、ダイエーホークス時代となります。

生年月日  1960年8月15日
出身地   茨城県取手市
投/打   右/左右
プロ野球歴
阪神タイガース(1985年~1990年)
福岡ダイエーホークス(1991年~1994年)
中日ドラゴンズ(1995年)
タイトル等 盗塁王1回

大野選手は、茨城・取手二高から東洋大、そして社会人野球の強豪・日産自動車を経て1984年のドラフト会議でタイガースから5位指名され、プロ入りを果たします。俊足が武器の外野手でした。

プロ1年目の1985年はタイガース日本一になった年です。外野陣はライト・真弓明信、レフト・佐野仙好両選手は不動で、センターも吉竹春樹、弘田澄男、長崎啓二の各選手らがひしめき合い、ルーキーに出る幕はありませんでした。

転機は1988年です。前年の1987年、最下位に沈んでしまったタイガースを立て直すべく就任した村山実監督によって開幕からセンターのレギュラー、さらに真弓選手に代わりトップバッターに抜擢されます。

この年、全130試合に出場、打率は.254でしたが、24盗塁を記録しました。それまでのタイガースになかった「機動力」という新風を吹き込みます。

背番号を2番に変更した1989年は、打率.304を記録し盗塁も22個決め、チームは3年連続最下位を免れ5位に浮上しました。

1990年も117試合に出場し、レギュラーとしてプレーしていた同年オフ、まさかのダイエーへのトレード通告を受けます。

タイガースからは大野選手の他、エース格だった池田親興投手ら4選手が移籍。ダイエーからはかつてのエース・藤本修二投手、正捕手に近い存在だった吉田博之捕手ら5選手が放出。4対5というトレードでした。

大野選手は移籍1年目に盗塁王を獲得します。近年の不振からストッパーとして復活した池田投手など元タイガース組は活躍したのに対し、ダイエーから移籍した5選手は軒並み期待外れな成績に終わり、「大野選手を出す必要があったのか」とファンから不満の声があがりました。

大野選手は1995年に引退後、教員に転身。地元茨城の東洋大牛久高で2003年から2013年まで野球部監督を務めていたことは有名です。

その後、オーストラリアで野球指導のライセンスを取得。少年野球を中心に指導に当たっています。




平尾博司選手

生年月日  1975年12月31日
出身地   埼玉県浦和市
投/打   右/右
プロ野球歴
阪神タイガース(1994年~2001年)
西武ライオンズ~埼玉西武ライオンズ(2001年~2012年)
タイトル等 特になし 

平尾選手は、埼玉県立大宮東高時代は通算68本塁打を記録しています。176センチと野球選手としては体は大きくないものの、抜群のパンチ力に加えセンス溢れる走塁も評価が高く、「超高校級内野手」としてプロ注目の存在となりました。

ドラフト前、平尾選手はタイガース志望であることを暗にほのめかし、球団もドラフト2位という高評価で応えます。入団時に与えられた背番号は2番。前評判に負けない活躍が期待されました。

プロ2年目の1995年に初本塁打、3年目には76試合に出場と順調に力を付けていた平尾選手でしたが、1997年に今岡誠選手が入団するとその立場が微妙となります。

両選手ともにセカンドを主戦場としていました。1998年シーズン、今岡選手が3割近い打率を残したのに対し、平尾選手の成績は伸びません。

今岡選手の不調で出番が回ってきても、平尾選手もヘルニアを始め故障持ちだったため万全な状態で試合に臨めず、ますます出番が減る一方になります。

ついに2001年シーズン途中、西武・谷中真二投手との交換トレードが決定しました。移籍会見ではタイガースを離れることへの辛さから、涙を流しました。

西武では守備固め、不振の選手のバックアップ、そしてムードメーカーとして活躍。特に左投手相手に強く、2003年にはキャリアハイとなる7本塁打をマークしました。

西武では2001年途中から2012年まで、延べ12年間プレーし、その間一度もレギュラーとして活躍したシーズンはありませんが、逆に言えばそれだけ重宝された選手だった、と言えるでしょう。

西武時代には、茶髪のロン毛やひょうきんな言動から「チャラ尾」の愛称で親しまれました。引退後は西武で球団職員に転身しチームを支えました。2019年からは二軍コーチに就任。指導者としての道を歩んでいます。




北條史也選手

生年月日  1994年7月29日
出身地   大阪府堺市南区
投/打   右/右
プロ野球歴 阪神タイガース(2013年~)
タイトル他 特になし   

北條選手は、青森・光星学院高時代に2年生夏の甲子園から3期連続で準優勝を果たしています。小学生の頃からのチームメイト・田村龍弘捕手とともにチームを牽引しました。

高校通算本塁打は25本ながら、甲子園通算29打点はあの清原和博選手と並ぶ史上最多記録です。北條選手は1年生の夏に甲子園でプレーしていないことを考えると、その勝負強さがよく分かります。

2012年のドラフト会議でタイガースからドラフト2巡目指名を受けプロ入りしました。ちなみに同期1巡目指名は高校3年の選抜大会で敗れた、大阪桐蔭高・藤浪晋太郎投手です。

そして、長年のチームメート・田村捕手も千葉ロッテマリーンズから3巡目指名を受けました。

高校時代はクリーンアップを任され、長打を期待されていましたが、木製バットへの対応に苦労したこともあり、プロ入り後は自ら「長打を捨てる」ことを決断します。

これに対し、金本知憲監督在任中はスケール感のない、こぢんまりとまとまってしまうことを危惧し、長打力を伸ばす方向で指導しました。

2018年、62試合出場ながら打率.322を記録します。本塁打は1本に終わりましたが、20打点と勝負強さは相変わらず健在を見せつけました。

2019年は82試合に出場、打率は.247と下げたものの、5本塁打を記録しました。この2年の成績を見ても北條選手がどこへ向かおうとしているのか、まだ定まっていないことが伺えます。

現役の北條選手は2013年に入団し、2020年で8年目です。実は歴代24選手のうち、最も長く背番号2番を付けているのは、北條選手なのです。さらなる活躍に期待が持たれます。

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背番号2番をつけた選手の傾向とは?

背番号2番は、他球団では俊足巧打の選手や、捕手が付けることの多いといえます。

阪神タイガースの場合、5代目の藤村投手が活躍したこともあり、投手の番号としての歴史も持っています。9代目・本屋敷選手以降は移籍してきた野手に多く使用されているのも特徴です。

その流れは昭和から平成になっても続き、18代目・平尾選手が生え抜き野手としては初となる入団時から背番号2番を背負い、新たな歴史を作ってくれるかと期待しましたが、大活躍できずにトレードされてしまいます。

そして前述の通り、竹之内選手に始まり松永選手や的場選手、そして藤原選手に城島選手とケガに泣かされた選手が多いというのも気になるところです。

しかし、阪神タイガースの背番号2番を付けた選手はトレードに出されたり、ケガなどで活躍期間が短かかったりということで、ファンの間では「呪われた背番号」と言われています。

平成に入ってからの選手で言えば松永浩美選手、高橋慶彦選手そして城島健司選手など活躍が期待される選手が背負うものの、選手生活がハッピーエンドに終ることはなく、呪われているというウワサも強くは否定できません。

やはり、タイガース背番号2番は呪われている、のかもしれません。

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おわりに

今回は、阪神タイガースの背番号2番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?呪われている番号であるとのうわさがある事もわかりましたね。

現在の背番号2番、北條史也選手はショートのレギュラーまであと一歩、というレベルまで成長しています。北條選手がレギュラー争いを制したその時、背番号2番の歴史は新たなステージに突入することでしょう。

北條選手がライバルに打ち勝ち、「背番号2番の呪い」を解くことをタイガースファンは待っています。

最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。

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