こんにちは、みっつです。
プロ野球には、素晴らしい記録を作って、その名を後世に残す選手がいます。王貞治さんが代表的な選手かもしれません。
また記録よりも、プレーぶりや言動などでファンの記憶に残る選手も存在します。長嶋茂雄さんは記録よりも記憶に残る選手と呼ばれていますね。とは言っても、素晴らしい記録を残していますが(^^;)
新庄剛志さんも、どちらかと言うと記憶に残る選手と言えるでしょう。
今回は、新庄さんもつけた阪神タイガースの背番号5番を特集します。5番をつけてきた全選手や特に印象深い3選手、さらに5番をつけてきた選手の傾向にも触れますので、楽しみにしてくださいね。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号10番を背負った選手をご紹介
まずは、背番号5番をつけてきた全選手をご紹介します。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
1936年 | 5年 | 大阪タイガース | 渡辺一夫選手 |
1937年春 | 0.5年 | 大阪タイガース | 岩崎利夫選手 |
1937年秋 | 0.5年 | 大阪タイガース | 空白 |
1938年春~1940年 | 3年 | 大阪タイガース~阪神 | 釣常雄選手 |
1941年~1943年 | 3年 | 阪神 | 野口昇選手 |
1944年~1945年 | 2年 | 阪神 | 空白 |
1946年 | 0.5年 | 阪神 | 中村徳二郎選手 |
1946年 | 0.5年 | 阪神 | 宮崎剛選手 |
1947年 | 1年 | 大阪タイガース | 空白 |
1948年~1949年 | 2年 | 大阪タイガース | 塩見栄一選手 |
1950年~1953年 | 4年 | 大阪タイガース | 内山清選手 |
1954年~1956年 | 3年 | 大阪タイガース | 真田重男(重蔵)選手 |
1957年 | 1年 | 大阪タイガース | 空白 |
1958年~1967年 | 10年 | 大阪タイガース~阪神タイガース | 藤本勝巳選手 |
1968年 | 1年 | 阪神タイガース | 空白 |
1969年 | 1年 | 阪神タイガース | 植木一智選手 |
1970年 | 1年 | 阪神タイガース | 葛城隆雄選手 |
1971年~1977年 | 7年 | 阪神タイガース | 末永正昭選手 |
1978年~1979年 | 2年 | 阪神タイガース | 空白 |
1980年~1988年 | 8.5年 | 阪神タイガース | 北村照文選手 |
1988年~1992年 | 3.5年 | 阪神タイガース | 金森永時選手 |
1993年~2000年 | 8年 | 阪神タイガース | 新庄剛志選手 |
2001年 | 1年 | 阪神タイガース | トム・エバンス選手 |
2002年~2005年 | 3.5年 | 阪神タイガース | 沖原佳典選手 |
2005年 | 0.5年 | 阪神タイガース | 前田忠節選手 |
2006年~2007年 | 2年 | 阪神タイガース | 濱中治選手 |
2008年~2012年 | 5年 | 阪神タイガース | 平野恵一選手 |
2013年 | 1年 | 阪神タイガース | 浅井良選手 |
2014年~2016年 | 3年 | 阪神タイガース | マウロ・ゴメス選手 |
2017年~2018年 | 2年 | 阪神タイガース | 西岡剛選手 |
2019年~ | 阪神タイガース | 近本光司選手 |
初代・渡辺一夫選手はピッチャーでした。2代目・岩崎利夫選手のポジションはキャッチャーです。お二人とも、プロ生活は1年のみでした。
3代目・釣常雄選手はピッチャーで、通算2勝を挙げています。戦前はタイガースでプレーし、戦後は「もう一つのプロ野球」として創立された国民リーグに参加しました。
4代目・野口昇選手は4兄弟全てがプロ野球選手という「野口4兄弟」の三男です。長兄・明選手は捕手、次兄・二郎選手はピッチャー、そして昇選手と末っ子の渉選手は内野手でした。
面白いのは明選手と二郎投手がバッテリーを組み、昇選手が打者として対戦した、という経験がある事です。兄弟同士で対戦は何度かありますが、兄弟でバッテリーを組む事も珍しければ、対戦する打者まで兄弟となると恐らく野口兄弟だけでしょう。
5代目・中村徳次郎選手は1年で退団しました。ポジションは内野手です。
6代目・宮崎剛選手は内野手でした。後に大洋ホエールズ監督を務めています。
7代目・塩見栄一選手は左腕投手です。京都・平安高からタイガース入りしたものの活躍できず2年で退団し、社会人野球・鐘紡でプレーしました。その後、東映フライヤーズでプロに復帰しますが、1年で現役を退いています。
8代目・内山清選手は2年連続開幕投手を務めた右腕です。引退後は高校野球の監督に転身しました。埼玉・川口市立高では読売ジャイアンツに入団した斉藤雅樹投手を指導しています。
9代目・真田重蔵(重雄)選手は1リーグ時代最後のノーヒットノーランを達成したピッチャーです。当時は「太陽」という現在の横浜DeNAベイスターズの前身にあたる球団でプレーしていましたが、後にタイガースへ移籍しました。
10代目・藤本勝巳選手は本塁打と打点の2冠王に輝いたこともあるタイガースの4番打者でした。歌手の島倉千代子さんと結婚されたことでも有名です。
11代目・植木一智選手は京都・平安高時代に広島東洋カープの衣笠祥雄選手とバッテリーを組み、甲子園出場を果たしたピッチャーです。龍谷大を経てタイガースへ入団、プロ5年で2勝を挙げました。
12代目・葛城隆雄選手はかつて大毎オリオンズのミサイル打線を構成した一人で、2年連続打点王を獲得した強打者です。
中日ドラゴンズを経てタイガースに移籍しましたが、当時球界を揺るがせていた「黒い霧事件」(プロ野球選手が野球の試合やオートレースで八百長を仕組んだ事件)に関与していることが判明し逮捕され、そのまま退団しました。
13代目・末永正昭選手は俊足好守を買われ、ドラフト2位で入団した三塁手です。プロでは打撃面で伸び悩み、代走や守備固めが主な出番でした。
14代目・北村照文選手は華麗な守備が売りの外野手です。2年連続でゴールデングラブ賞を獲得しました。
15代目・金森永時選手は北村選手と交換トレードで西武ライオンズから移籍した外野手です。
西武時代は死球の多さとパフォーマンスで珍プレー・好プレーなどの番組で良く取り上げられ人気を博しました。引退後はコーチとして数々の打者を指導し、外国人選手にも慕われています。
16代目・新庄剛志選手は言わずと知れたタイガースのスター選手です。MLB移籍を経て入団した北海道日本ハムファイターズでは、チームを根付かせた功労者の一人として高く評価されました。
17代目のトム・エバンス選手はまさかの長打力でファンをアッと言わせた選手です。タイガース在籍時は2本塁打だったのが、橋本武広投手との交換トレードで移籍した西武では何と15本塁打。チームの優勝に貢献しました。
18代目・沖原佳典選手は好守を買われプロ入りした遊撃手です。プロではレギュラー獲得には至りませんでしたが、控えとしてチームを救う存在になりました。
鳥谷敬選手入団を機に移籍した東北楽天ゴールデンイーグルスでも役割は変わらず。規定打席不足ではありますが、打率3割を2度マークするなど、打撃でも活躍しました。
19代目・前田忠節選手は沖原選手との交換トレードで楽天から移籍した遊撃手です。タイガースでは鳥谷選手の控えで選手としての出番は少なかったものの、高校・大学の後輩である今岡誠選手に守備面でのアドバイスを行うなど、陰からチームに貢献しました。
20代目・濱中治選手は長打力が魅力の外野手です。
2003年、開幕から4番に座り本塁打・打点を量産します。しかし、右肩を負傷してしまい戦線離脱してしまいました。このケガが予想以上の重傷で守備に就くことは難しいと判断されトレードに出されました。
21代目・平野恵一選手は濱中選手とのトレードでオリックスバファローズから移籍した内外野を守れる選手です。
2010年には打率.350という高打率を残しながら、首位打者を逃したのは気の毒でした。(首位打者は東京ヤクルトスワローズ・青木宣親選手。打率.358)
22代目・浅井良選手は捕手でプロ入りしたものの、外野手としてプレーする機会の多かった選手です。レギュラーとはいきませんでしたが、控え選手として長くチームを支えました。
23代目のマウロ・ゴメス選手は来日1年目から打点王を獲得した選手です。先にタイガースへ入団していたマット・マートン選手と仲が良く、ゴメス選手が打点王を獲得した2014年、マートン選手は首位打者を獲得。共に研究熱心で日本に溶け込もうという姿勢が印象的でした。
24代目・西岡剛選手は千葉ロッテマリーンズ時代、スイッチヒッターとして史上初となるシーズン200安打を達成した内野手です。
MLB・ミネソタ・ツインズに移籍するも成績は上がらず、タイガースで日本球界に復帰しました。背番号はロッテ時代と同じ7番でしたが、糸井嘉男選手がFA移籍する際に7番を譲り、5番に変更しました。
そして25代目・現役の近本光司選手です。プロ1年目からオールスターでサイクルヒットを達成し、シーズンでは盗塁王を獲得するなど大活躍でした。
その経歴から「赤星二世」との期待を集める近本選手。タイガースの切り込み隊長としてますますの活躍が期待されます!
歴代背番号5番のうち、印象深い3選手のご紹介
次に、阪神タイガースの背番号5番の選手のうち、私が特に印象深く思う北村選手、新庄選手、そして平野選手をご紹介したいと思います。
北村照文選手
出身地 神奈川県横浜市港北区
投/打 右/右
プロ野球歴
阪神タイガース(1980年~1988年)
西武ライオンズ(1988年~1990年)
中日ドラゴンズ(1990年~1992年)
タイトル等 ダイヤモンドグラブ賞2回
北村選手は、神奈川・武相高から社会人野球・三菱名古屋を経て1979年のドラフト会議で3位指名を受けプロ入りしました。俊足好守の外野手として、即戦力との期待がかかっての入団です。
プロ1年目から65試合に出場し、3年目の1982年にはセンターの定位置を獲得します。1983年には「2番・センター」として規定打席に到達し、打率.260 9本塁打29打点、そしてリーグ最多の31犠打を決める活躍を見せました。
1984年、ロッテオリオンズからベテランの弘田澄男選手がトレードで加入すると、北村選手は控えに回ります。さらに吉竹春樹選手、長崎啓二選手らも加わった定位置争いは熾烈を極めました。
そんな中、北村選手は守備力と高い走塁技術でスタメンを奪い返しに行きます。1985年シーズンでは後半戦から吉竹選手と併用でスタメンに復帰。優勝へ向けラストスパートを見せるチームを活気づけました。
1983年以外は規定打席に到達することはありませんでしたが、いずれのシーズンでも出場試合数は100試合前後。どんな使い方をしても期待に応えてくれる便利な選手でした。
1988年シーズン途中に西武ライオンズ、1990年途中では中日ドラゴンズにトレードされます。僅差の試合を落とせない、優勝を狙うチームにとって、北村選手のような試合を引き締める存在はとても貴重だったと言えるでしょう。
1992年限りで引退を表明します。引退試合となったのは、古巣で優勝争いを繰り広げているタイガース戦でした。この試合、中日が1対0で勝利したのですが、この敗戦によりタイガースの優勝は厳しくなってしまい、北村選手は複雑だったそうです。
センター前に転がったゴロを素早く処理して打者走者を1塁でアウトにし、「センターゴロ」を達成する強肩も武器でした。その華麗な守備は「鳥人」というニックネームが付いたほどです。
引退後はコーチ、スカウトを経て2020年からは社会人野球チームのコーチに就任しています。
新庄剛志選手
出身地 長崎県対馬市
投/打 右/右
プロ野球歴
阪神タイガース(1990年~2000年)
ニューヨーク・メッツ(2001年)
サンフランシスコ・ジャイアンツ(2002年)
ニューヨーク・メッツ(2003年)
北海道日本ハムファイターズ(2004年~2006年)
タイトル等 ベストナイン3回・ゴールデングラブ賞10回・オールスター出場7回
新庄選手は、福岡県の西日本短期大学付属高校の出身です。主に守備力や肩の強さが評価されて、1989年のドラフト会議で阪神タイガースに5位指名を受け入団しました。
新庄選手が注目されるようになったのは、1992年です。ライトを守っていた亀山努選手とセンターを守っていた新庄選手が大活躍を見せて、亀新コンビと呼ばれるようになってからです。
亀山努選手はウエスタンリーグで2年連続首位打者を獲得しており、ファンも知る存在でしたが、新庄選手はプロ3年目の若手選手です。前年に一軍昇格を果たし初ヒットを打ってはいたものの、多くのファンにとっては「誰や?」という存在でした。
1992年5月、主砲のトーマス・オマリー選手に代わって一軍登録されると、スタメン起用された試合でいきなりプロ初本塁打を記録。その後もチャンスで打ちまくり、瞬く間にレギュラーに定着しました。
この年、打率.278 11本塁打46打点を記録。当時住んでいた球団寮に帰れないほど女性ファンが殺到するなど、人気を集めました。
二人の頭文字から「亀新フィーバー」と呼ばれたタイガースの躍進はシーズン最終盤まで続きますが、惜しくも優勝はヤクルトスワローズに奪われました。
1993年、背番号をそれまでの63番から5番へ変更した新庄選手は瞬く間にタイガースのスター選手の地位を確立、甲子園球場を沸かせる存在となります。派手な言動から「ただの目立ちがり屋」と思いきや野球に対し真摯に取り組む姿勢が、人々を虜にしました。
この年、打率.257ながら23本塁打62打点を記録します。球団史上最年少で4番を務めたり、ゴールデングラブ賞を初受賞するなど、前年の活躍がフロックではないことを証明してみせました。
しかし、首脳陣との確執から引退騒動が起こってみたり、より高みを目指して行った打撃改造が裏目に出たりと成績が低迷気味になってしまいます。守備ではゴールデングラブ賞の常連にまでなったものの、バッティングでは打率が.250をも下回るシーズンが続きました。
打撃不振に喘いでいた1997年のオールスターでは、ファンに応援をボイコットされてしまいます。この年、4シーズンぶりに本塁打を20本台に乗せたのは新庄選手の意地でした。
1999年、野村克也新監督のアイディアで投手に挑戦し、二刀流と話題を集めました。結局、ヒザを痛めたことで挑戦はオープン戦で終了しましたが、この年は敬遠球を打ってサヨナラヒットにするなど、話題には事欠きませんでした。
2000年、打率.278 28本塁打85打点を記録します。いよいよ覚醒かと思われた矢先、MLB移籍を表明しニューヨーク・メッツへ入団しました。
MLBでは気難しいと言われるバリー・ボンズ選手と打ち解けるなど、その魅力は計り知れなかった新庄選手。派手な言動で誤解されがちですが、根底にあるのは「野球が大好き」という少年のような純粋さがあり、それが人々を惹きつけたのではないでしょうか。
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平野恵一選手
出身地 神奈川県川崎市多摩区
投/打 右/左
プロ野球歴
オリックスブルーウェーブ~オリックスバファローズ(2002年~2007年)
阪神タイガース(2008年~2012年)
オリックスバファローズ(2013年~2015年)
タイトル他 ベストナイン2回・ゴールデングラブ賞2回・オールスター出場4回
オリックスで二塁手、あるいは中堅手として活躍していた平野選手がタイガースにトレードされたのは2007年オフのことでした。「(4番打者を務めた)濱中を出すのだから、交換相手は平野でお願いしたい」という、当時の岡田彰布監督の強い要望によって実現したトレードです。
2006年、強風の千葉マリンスタジアムでフライを追いかけフェンスに激突、大ケガを負って以降、不振に喘いでいた平野選手にとっても心機一転が期待されました。
2008年、打率.263、リーグ最多の47犠打に加え、守備でも二塁と外野を兼任し復活を果たします。見事カムバック賞を受賞しました。
タイガース首脳陣は平野選手を二塁手として起用したかったものの、なかなかセンターのレギュラーを張れる選手が現れず、結局平野選手が兼任する形が続きました。
2010年からは2年連続で二塁手としてベストナインとゴールデングラブ賞を受賞。2010年には打率.350というハイアベレージを記録する一方で59犠打をマークするなど、攻守で大活躍を見せています。
左打者でありながら、左投手を苦にしなかったのも平野選手の特徴で、対右打率よりも対左投手の打率が高いという傾向にありました。
2012年まで内外野兼任でタイガースを支え続けた平野選手でしたが、シーズンオフ、福留孝介、西岡剛両選手のタイガース入団が確実視されるとFA宣言。古巣のオリックスへ復帰しました。
公称169センチとプロ野球選手としては非常に小柄ながら、ケガを恐れぬガッツ溢れるプレーでチームを鼓舞し続けた平野選手、現役引退後はコーチとしてタイガースに戻り、2020年は二軍の内野守備コーチを担当されています。
背番号5番をつけた選手の傾向とは?
新庄選手がタイガースを退団したのが2000年。もう20年も前だと言うのに未だにタイガースの背番号5番と言えば新庄選手を思い浮かべるファンが多いです。
それだけ新庄選手の活躍はインパクトがあったということですね。
戦前から戦後まもなくまでは投手の背番号という歴史を刻んだ5番ですが、10代目の藤本選手が活躍したことで野手の背番号と認知され、以降は主に野手が付けています。
さらに北村選手、新庄選手と強肩のセンターが続いたことで、すっかりタイガースの5番は外野手の番号というイメージとなりました。
平野選手も外野を守る際は主にセンターでしたし、現在の近本選手の定位置はセンター。2019年シーズンではリーグトップの10補殺を記録する強肩の持ち主でもあります。
近本選手は北村選手から始まった新しい背番号5番の歴史の継承者としてこれ以上ない適任者と言えるでしょう。
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⇒背番号別の特徴
おわりに
今回は、阪神タイガースの背番号5番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?近年では外野手がつける番号という傾向もわかりました。
2019年から5番をつける近本選手は、新人選手としての最多安打記録や、プロ1年目の盗塁王、そしてオールスターでのサイクルヒットなど新庄選手にも劣らない派手な活躍を見せてくれました。
2020年も大活躍して、阪神タイガースの顔に成長しつつあります。
「タイガースの背番号5番?そら近本やがな」と20年後のファンが語るような、新庄選手を超える活躍を期待せずにはいられませんね。
最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。