阪神タイガースの背番号9番!歴代9番の選手と傾向を紹介

こんにちは、みっつです。

阪神タイガースの中心選手として活躍して、ミスタータイガースとも呼ばれていた掛布雅之選手。チーム内でのライバルと言えば、多くのプロ野球ファンは岡田彰布選手を思い浮かべることでしょう。

しかし、実はもう一人、掛布選手に対し並々ならぬ対抗心を燃やしていた選手がいました。その選手の名は、佐野仙好選手です。

1985年に猛威を振るったダイナマイト打線の6番打者は、掛布選手と三塁のポジションを争って敗れ、外野手に転向した選手でした。

引退会見で掛布選手の名を挙げ「あいつに負けたくないと思ってやってきた。だから必死になれた。あいつのおかげ」と語ったほど、掛布選手にライバル心を燃やしていたのです。

現役16年で通算144本塁打と数字だけを見ればライバルとしては物足りないと感じるかも知れませんが、勝負強い打撃と守備で見せたガッツは、ファンの脳裏に強い印象を残しました。

今回は、そんな佐野選手もつけた阪神タイガース背番号9番について特集します。歴代の9番の選手や特に印象深い3選手、さらに9番をつけたきた選手の傾向にも触れますので、楽しみにしてくださいね。




歴代の背番号9番を背負った選手をご紹介

2020年現在で、のべ18人の選手が阪神タイガースの背番号9番を背負ってきました。まずは、歴代の全選手をご紹介していきます。

年  度年 数球 団 名選 手 名
1936年~1939年4年大阪タイガース松木謙治郎選手
1940年~1942年3年大阪タイガース~阪神藤村隆男選手
1943年1年阪神中原宏選手
1944年~1945年2年阪神空白
1946年~1949年3年阪神~大阪タイガース長谷川善三選手
1950年1年大阪タイガース松木謙治郎選手
1951年~1953年3年大阪タイガース西村修選手
1954年~1955年2年大阪タイガース栄屋悦男選手
1956年1年大阪タイガース空白
1957年1年大阪タイガース河津憲一選手
1958年~1959年2年大阪タイガース大西正昭選手
1960年~1961年2年大阪タイガース~阪神タイガース後藤正美選手
1962年~1973年12年阪神タイガース安藤統夫選手
1974年~1989年16年阪神タイガース佐野仙好選手
1990年~1994年5年阪神タイガース岡本圭司選手
1995年~2000年6年阪神タイガース北川博敏選手
2001年1年阪神タイガースエドワード・ペレス選手
2002年~2009年8年阪神タイガース藤本敦士選手
2010年~2015年6年阪神タイガースマット・マートン選手
2016年~阪神タイガース髙山俊選手

初代・松木謙治郎選手は兼任監督を務めた一塁手です。戦前のタイガースを支えた存在でしたが、戦局が緊迫した1941年に引退しました。

戦後の1951年に監督兼選手として復帰するも1年で退団します。その後、東映フライヤーズの監督に就任しました。ルーキーだった張本勲選手に「率も残し、本塁打も打ち、走れる選手を目指せ」と指導したことでも有名です。

2代目・藤村隆男選手は兄の富美男選手を追いかけ、タイガースに入団した投手です。戦後の一時期パ・リーグに移籍していましたが、後に復帰。主力打者の兄と共に、エース級の活躍を示し、チームに貢献しました。

3代目・中原宏選手は1943年に阪神軍へ入団するも召集され、1年で退団した投手です。戦後は南海ホークスに移り、2桁勝利を4回記録するなど活躍しました。

4代目・長谷川善三選手は打撃が不得意ながら守備では活躍した選手です。南海軍を皮切りに、延べ5球団を渡り歩きましたが、守備の上手い選手が重宝されるのは今も昔も変わりないようです。

5代目は初代の松木選手が監督兼選手として復帰し、再び9番を背負いました。

6代目・西村修選手は高卒1年目に4勝を挙げた投手です。しかし、肩を痛め野手に転向するも3年でプロの世界から退きました。

7代目・栄屋悦男選手は都市対抗優勝投手です。プロ1年目から7勝を記録しますが、打球を眼に当ててしまったことで成績は急降下。わずか2年で退団、広島カープに移籍しました。

8代目・河津憲一選手は内野の控え選手です。名手と言われた吉田義男、三宅秀史両選手がレギュラーとあっては、出場機会が限られてしまったのも無理はありません。

9代目・大西正昭選手はがっしりとした体格が特徴の捕手です。しかし、プロでは1軍戦出場機会のないまま、2年で退団しました。

10代目・後藤正美選手は早稲田大出身の外野手です。卒業後、家業を継いでいたものの野球への未練断ちがたくタイガースの練習に参加し入団を認められたものの、プロ生活は2年間でした。

11代目・安藤統夫選手は慶応大出身の内野手で、後に監督を務めました。元々タイガースファンだった安藤選手は、巨人から入団を勧誘されたものの、川上哲治監督に対し「私は強い巨人と闘う側に回る」と宣言し阪神に入団しました。

川上監督は怒るどころか安藤選手を気にかけ、監督となってバッシングにさらされた時も励ましの言葉を掛けたといいます。

12代目は前段でご紹介した佐野選手です。佐野選手と掛布選手はともに1973年のドラフトで指名された同期生です。佐野選手は大卒で1位指名だっただけに、6位で高卒だった掛布選手に負けるものかと一層思ったのでしょうね。

13代目・岡本圭治選手は近畿大からドラフト2位で入団した外野手です。俊足が武器のスイッチヒッターでしたが、ケガをしやすい体質で最後は肩を壊し、プロ生活は5年で引退となりました。

14代目・北川博敏選手はプロ野球史に名を残すホームランを放った選手です。大阪近鉄バファローズに移籍後の2001年、「代打逆転満塁サヨナラ優勝決定ホームラン」をかっ飛ばしたシーンは近鉄ファンのみならず、プロ野球ファンの記憶に深く残りました。

15代目のエドワード・ペレス選手はわずか3本塁打に終わり、1年で退団した選手です。しかし、中日ドラゴンズの岩瀬仁紀投手と相性が良く、3本のうちの1本は岩瀬投手から放ったものでした。

16代目・藤本敦士選手はドラフト7位から這い上がった内野手です。ショートのレギュラーを掴みましたが、翌年に鳥谷敬選手が入団し、レギュラーを奪われてしまいます。しかし腐ることなくセカンドに移り2005年の優勝に貢献して意地を見せました。

17代目はマット・マートン選手です。来日1年目の2010年にシーズン214安打を記録しました。これは当時のNPB記録で、現在もセ・リーグ記録として残っています。

ちなみにこの年マートン選手は首位打者にはなっていません。(タイトルを獲ったのは東京ヤクルトスワローズ・青木宣親選手)

そして18代目は現役の髙山俊選手です。2016年、坪井智哉選手が持っていた球団新人最多安打記録を更新し、新人王を獲得しました。

華々しいデビューを飾ったものの、成績は尻すぼみ気味になってしまっています。

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歴代背番号9番のうち、印象深い3選手のご紹介

阪神タイガースの背番号9番をつけてきた選手のうち、私が印象深く感じる佐野選手、藤本選手、そしてマートン選手をご紹介したいと思います。

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各選手の紹介に合わせて、楽天市場で販売されている写真を添えています。販売ページへのリンクが入っていますので、詳しく見てみたい場合はカードをクリック・タップしてみてください

佐野仙好選手

生年月日  1951年8月27日
出身地   群馬県高崎市
投/打   右/右
プロ野球歴 阪神タイガース(1974年~1989年)
タイトル等 最多勝利打点1回

佐野選手は、前橋工業高時代には甲子園へ出場し、中央大に進んでからは1年生で首位打者を獲得する活躍を見せていました。1973年のドラフト会議で、タイガースから1位指名されてのプロ入りです。

プロ1年目の1974年、学生時代からのポジションであるサードで64試合に出場します。ドラフト同期入団の掛布選手と激しくポジションを争い、2年目の1975年は佐野選手が82試合、掛布選手は、106試合に出場。下位打線で激しく火花を散らします。

1976年、掛布選手が打率.325 27本塁打を記録しブレイク。シーズン後半には「2番・サード」でポジションをがっちりと掴みました。一方の佐野選手は打率.241で4本塁打。外野手へと転向します。

外野手登録となった佐野選手がアクシデントに見舞われたのが1977年の4月29日、大洋ホエールズ戦です。

9回裏1死1塁。相手選手が放ったフライを追いかけた佐野選手はコンクリートむき出しの外野フェンスに激突。その場で気を失ってしまいます。頭蓋骨陥没骨折の重傷でした。

この時、当然ながらタイガースの面々は佐野選手の元に集まりましたが、大洋の1塁走者はタッチアップを敢行しホームインします。

佐野選手が負傷し、担架で運び出されようとしているのですからボールデッド(プレー中断)と思っていたタイガース・吉田義男監督は「得点は認められない」と抗議しました。

しかし、当時のルールではプレイ中にタイムをかけてはならない、と記載されていたため、吉田監督の抗議は退けられてしまったのです。

この佐野選手の一件を期にルール改正が行われ、プレイ中であってもタイムはかけられると改められました。そしてもう一つ、外野フェンスにはラバーシートを張ることが義務付けられます。

佐野選手はケガから約2か月後の7月3日、対ヤクルトスワローズ戦でスタメンに復帰しました。この年、欠場期間もあり67試合の出場でしたが打率.305を記録しています。「負けてたまるか」という意地をまざまざと見せつけました。

1979年には規定打席に到達して打率.300を記録し、1984年にも打率.305をマークしました。1981年には新設された最多勝利打点の初代タイトルホルダーとなっています。

ライバル・掛布選手には数字では及びませんでしたが、随所で見せる「負けてたまるか」という熱いプレーぶりは多くのタイガースファンの記憶に残りました。

1992年、石川・星稜高の松井秀喜選手を、スカウトに転身した佐野選手が指名あいさつに訪問します。その際「佐野さんですよ、佐野さん!プレーぶりなんか全然覚えていますもんね」と松井選手が興奮気味に話していました。

大人びた言動で話題だった松井選手が相好を崩すほど、佐野選手はファンにとって憧れだったのです。

藤本敦士選手

生年月日  1977年10月4日
出身地   兵庫県明石市
投/打   右/左
プロ野球歴
阪神タイガース(2001年~2009年)
東京ヤクルトスワローズ(2010年~2013年)
タイトル等 オールスター出場3回

藤本選手は兵庫県出身ということもあり、少年時代からタイガースファンでした。

兵庫の育英高から亜細亜大に進みますが、椎間板ヘルニアを患い1年で退学します。症状は「もうスポーツは無理」と言われるほどの重傷でしたが、懸命のリハビリで再び野球を出来るまでに回復を遂げました。甲賀総合科学専門学校から社会人野球・デュプロでプレーを続けます。

2000年のドラフト会議でタイガースから7位指名を受け、念願のプロ入りを果たしました。もし、指名が無い場合は入団テストを受けるつもりだったという事です。

プロ1年目の2001年から75試合に出場し、ポジションはショートでした。プロ入り当初は小柄な体格、左打ち、そしてバッティングフォームも似ていたことから赤星憲広選手としばしば間違えられることがありました。

2003年、「8番・ショート」としてレギュラーを掴み、規定打席に到達し打率.301を残します。「恐怖の8番打者」として7番を打っていた矢野輝弘捕手とともに息の抜けない下位打線を形成し、チームの18年振りの優勝に大いに貢献しました。

2004年、前年の活躍に加えオープン戦も好調だったにも関わらず、開幕スタメンをルーキーの鳥谷敬選手に奪われ、藤本選手はベンチスタートとなります。この年から就任した岡田彰布監督は鳥谷選手と同じ早稲田大出身ということもあり、憶測を呼びました。

2005年からはショートのレギュラーに鳥谷選手が固定されたことを受け、セカンドにコンバート、関本賢太郎選手と併用されます。

2008年にトレードで平野恵一選手が加入、さらに大和選手の台頭も重なりセカンドのポジション争いは大激戦となりました。藤本選手の出番はどんどん失われていきます。

2010年には出番を求め、東京ヤクルトスワローズへFAで移籍しました。しかし、そのタイミングで椎間板ヘルニアが再発してしまいます。

腰への負担を考慮し代打での出場が多くなりましたが、元来打力で勝負するタイプでない藤本選手は苦戦を強いられます。腰痛も症状が酷くなる一方でついに2013年、引退を決意しました。

マット・マートン選手

生年月日  1981年10月3日
出身地   米国フロリダ州
投/打   右/右
プロ野球歴
シカゴ・カブス(2005年~2008年)
オークランド・アスレチックス(2008年)
コロラド・ロッキーズ(2009年)
阪神タイガース(2010年~2015年)
タイトル他 首位打者1回・最多安打3回・ベストナイン4回・オールスター出場4回

マートン選手はシカゴ・カブスではレギュラーを掴むも、FA選手獲得で出番を失ってしまい、その後2球団を渡り歩きますが、メジャーには定着できませんでした。

2010年、日本に新天地を求めて阪神タイガースへ入団します。オープン戦で打率.352を残すとそのままレギュラーに定着し、前年限りで引退した赤星憲広選手に代わり1番打者を務めました。

シーズンでも打撃は好調で、コンスタントに安打を量産します。9月23日の対中日戦で200本目の安打を本塁打で飾ると、10月5日の東京ヤクルト戦でイチロー選手の記録を超える211安打となり、NPB新記録を達成します。最終的に214安打まで記録を伸ばしました。

2015年、埼玉西武ライオンズの秋山翔吾選手が216安打を放ち、NPB記録は更新されましたが、現在でもセ・リーグ記録として、また右打者最多安打記録として名前が残っています。

2011年も180安打を放ち2年連続で最多安打のタイトルを獲得しました。しかし、2012年は開幕当初から不振が続き、マートン選手もイライラが募ります。

そして6月5日の対オリックスバファローズ戦で、緩慢な守備から失点を許したことを指摘されると「アイドントライクノウミサン」とこの日の先発・能見篤史投手を嫌っているかのような発言をし、物議を醸しました。

2013年には2012年の不振から抜け出して、再び打率3割を記録、3度目の最多安打のタイトルを獲得しています。そして2014年には打率.338で念願の首位打者に輝きました。

2015年も打率.276を残しますが、チームはマートン選手との契約更新を見送ります。タイガース在籍は6年、これはウィリー・カークランド選手、そしてランディ・バース選手と並び、野手としては最長の記録でした。

マートン選手は、敬虔なクリスチャンとして真面目に野球を愛し、そして日本を愛してくれました。帰国後の2018年、地震と台風によって関西地方が被害を受けた、という報道を見るや来日し、少年野球教室に参加するなど、日本のことを気にかけてくれています。

「日本との絆を忘れたことはない」。マートン選手の言葉に、嘘はありません。

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背番号9番をつけた選手の傾向とは?

歴代の阪神タイガースの背番号9番の選手を見てみると、7代目の栄屋選手までは比較的投手がつけてきました。しかし、8代目の河津選手からは全て野手がつけていて、野手の番号である傾向がわかります。

そして、背番号9番を付ける選手は比較的長い間活躍する傾向にあると言えるでしょう。

また、後藤選手以降の背番号9番を付けた日本人選手は、皆大学野球経験者(藤本選手は亜細亜大学に入学するもヘルニアを患い中退)という面白い傾向も発見できました。




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おわりに

今回は、阪神タイガースの背番号9番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?主に野手が長くつけてきた番号という傾向もわかりましたね。

現役の髙山選手は新人王を獲得して以降、やや成績が下降気味となっています。近本光司選手らと争う外野の定位置争いは熾烈ですが、そこは東京六大学リーグで通算最多安打をマークしている選手だけに、必ずレギュラーとして復活することを願ってやみんません。

最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。

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