こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
ゼロからのスタート
この言葉を聞いた事がある方は、少なくないと思います。意味は色々とあるようですが、今までうまくいかなくて新たなスタート切る場合に使われる事もありますね。
プロ野球の世界でも、成績不振が続いた選手が文字通り「ゼロからのスタート」として背番号0番に変更する例もあります。阪急ブレーブスの初代0番・野中徹博選手もそんな一人でした。
愛知・中京高ではエースとして甲子園で活躍し、1984年、ドラフト1位で阪急へ入団を果たしました。高校時代の控え投手が後に広島東洋カープの主戦投手・紀藤真琴選手だったことからも、野中選手の実力のほどがお分かりいただけるかと思います。
故障なども重なりプロでは投手として実績を残せず、1989年に野手転向しました。そのタイミングで背番号0番に変更したのです。
今回は、オリックスバファローズの背番号0番について特集します。前身球団からの歴代の0番の選手や、特に印象深い3選手、さらに0番をつけてきた選手の傾向にも迫りますので、楽しみにしてくださいね。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号0番を背負った選手をご紹介
旧阪急 | |||
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年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
1936年~1988年 | 53年 | 阪急軍~阪急ベアーズ~阪急ブレーブス | 空白 |
1989年 | 1年 | オリックスブレーブス | 野中崇博選手 |
1990年~1991年 | 1.5年 | オリックスブレーブス~オリックスブルーウェーブ | 南牟礼豊蔵選手 |
1991年~1992年 | 1.5年 | オリックスブルーウェーブ | 川畑泰博選手 |
1993年~1997年 | 5年 | オリックスブルーウェーブ | 本西厚博選手 |
1998年 | 1年 | オリックスブルーウェーブ | 空白 |
1999年~2001年 | 3年 | オリックスブルーウェーブ | 松元秀一郎選手 |
2002年~2004年 | 3年 | オリックスブルーウェーブ | 空白 |
旧近鉄 | |||
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
1950年~1990年 | 51年 | 近鉄パールス~近鉄バファロー~近鉄バファローズ | 空白 |
1991年~1993年 | 3年 | 近鉄バファローズ | 吉田剛選手 |
1994年~1996年 | 3年 | 近鉄バファローズ | 空白 |
1997年~1999年 | 3年 | 近鉄バファローズ~大阪近鉄バファローズ | 勝呂壽統選手 |
2000年 | 1年 | 大阪近鉄バファローズ | 代田健紀選手 |
2001年~2004年 | 4年 | 大阪近鉄バファローズ | 益田大介選手 |
統合後 | |||
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
2005年 | 1年 | オリックスバファローズ | 福留宏紀選手 |
2006年~2012年 | 7年 | オリックスバファローズ | 森山周選手 |
2013年 | 1年 | オリックスバファローズ | 梶本勇介選手 |
2014年~2015年 | 2年 | オリックスバファローズ | 鉄平選手 |
2016年~2017年 | 2年 | オリックスバファローズ | 空白 |
2018年~2019年 | 2年 | オリックスバファローズ | 山﨑福也選手 |
2020年~2021年 | 2年 | オリックスバファローズ | 勝俣翔貴選手 |
2022年~ | オリックスバファローズ | 渡部遼人選手 |
まずは阪急~ブルーウェーブ時代の選手をご紹介します。
初代は前段でご紹介した野中選手です。1983年のドラフトで阪急ブレーブスに指名され、1988年と1989年に背番号0番をつけました。
1989年いっぱいで一旦引退し、台湾球界で実績を積み、1994年にNPBに復帰しました。1997年5月27日、プロ入りから13年を経て念願の初勝利を挙げています。
2代目・南牟礼豊蔵選手はガッツあふれるプレーが持ち味の外野手です。阪神大震災の際はいち早く被災地に救援物資を届けました。引退後は解説者の傍ら接骨院を開業しています。
3代目・川畑泰博選手は南牟礼選手との交換トレードで移籍した右腕です。移籍2年目の1992年にリリーフで5勝をマークしています。
その後入団テストを経て古巣に復帰し引退しました。現在はバファローズでスコアラーを務めています。
4代目・本西厚博選手は守備の名人として知られていました。イチロー選手のプレーを「基本から外れている」と厳しく叱責できたのは、それだけの信頼関係にあったからこそです。MLB中継の解説者としてもお馴染みですね。
そして5代目・松元秀一郎選手はヤクルトから移籍した俊足の外野手でした。移籍1年目の1999年は故障したイチロー選手の代役として90試合に出場します。しかし翌年以降は出場機会が減り、2001年限りで引退しました。
続きまして近鉄バファローズの背番号0番選手をご紹介しましょう。
初代は吉田剛選手です。取手二高ではKKコンビ擁するPL学園高を破り全国制覇を達成。吉田選手は遊撃手で出場していました。
プロ入り後も内野手として活躍。また応援歌「スカイキッド」はゲームのBGMとして人気の曲で、ファミコンゲーム内の吉田選手の打席でも使用されたほどです。
2代目・勝呂壽統選手は読売ジャイアンツでレギュラー候補だった遊撃手です。1992年にオリックスへ移籍、レギュラーを掴みました。
1997年に近鉄へ金銭トレードされると守備固めとして重宝されました。引退後は独立リーグを中心に指導者として活躍中です。
3代目・代田健紀選手は足のスペシャリストでした。入団3年目の2000年、それまでの背番号33番から0番に変更が決まったものの、開幕直前にヤクルトへ移籍が決まってしまい、公式戦の出場はありませんでした。
そして4代目・益田大介選手は中日ドラゴンズでキャリアをスタートさせた外野手です。2001年、近鉄へ移籍し、背番号0番をつけました。
その年の9月26日、球史に残る北川博敏選手の「代打逆転満塁サヨナラ優勝決定ホームラン」では、四球を選び満塁の場面をお膳立てした選手です。
最後は統合後の背番号0番選手をご紹介しましょう。
初代は福留宏紀選手でした。プロ入り初打席初本塁打を記録した内野手です。オリックスでは大島公一選手ら内野手が多くいる中、11年プロ生活を続けました。
2代目・森山周選手は俊足と内外野全てを守れる守備力が魅力の選手です。背番号0番には「ベースをたくさん『周れる』ように」という名前にひっかけた思いが隠されていました。
引退後はコーチに就任して背番号は84番をつけましたが、そのココロは8・4・0で「走れ!」というゴロ合わせです。
3代目・梶本勇介選手はヤクルトから移籍した選手です。プロ入りする際は投手としても評価が高かったのですが、俊足強肩を活かすべく野手に転向しました。
引退後は7人制ラグビーにスカウトされますが、米独立リーグで野球を続けました。
4代目・鉄平選手は首位打者経験者です。元々は中日ドラゴンズの選手でしたが、出場機会を与えるという名目で東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍すると才能が開花し、2009年にタイトルを獲得しました。
2015年、後藤光尊選手との交換トレードでオリックスに移籍。しかし、往年の力はもう残ってはいませんでした。
5代目・山崎福也選手はドラフト1位左腕です。入団当時の背番号は17番でしたがFA移籍した増井浩俊選手に背番号を譲り、0番を使用しました。
2020年からは11番を使用しています。ちなみに、山﨑選手のお父様は元巨人の選手です。
そして6代目は勝俣翔貴選手です。東海大菅生高時代にもプロ志望届を出したものの指名されませんでした。
その後、国際武道大に進学し、打者として実績を積み2019年のドラフト会議でバファローズから5位指名を受け念願のプロ入りを果たしています。
7代目は渡部遼人選手です。神奈川・桐光学園高校には甲子園出場はありませんでしたが、慶應義塾大に進学すると、1年春から六大学リーグ戦に出場。
4年秋には打率.359、6盗塁をマークしました。何より特筆すべきは50m5.9秒の俊足で、大学4年間で24盗塁を決め、失敗が0だったということです。
歴代背番号0番のうち、印象深い3選手のご紹介
オリックスバファローズの背番号0番をつけた選手のなかで、私が特に印象深く思う、吉田選手、益田選手、そして森山選手をご紹介したいと思います。
吉田剛選手
出身地 茨城県取手市
投/打 右/右
プロ野球歴
近鉄バファローズ~大阪近鉄バファローズ(1985年~2000年)
阪神タイガース(2000年~2001年)
吉田選手は茨城県の取手二高の出身です。1984年の3年生の夏の甲子園では、茨城県勢初の全国制覇を成し遂げています。
当時の高校野球界の王者といえば、大阪・PL学園高でした。清原和博選手が4番を打ち、マウンドには桑田真澄投手です。後にプロでも大活躍する「KKコンビ」と呼ばれた二人がいるのですから強くないはずがありません。
そのPL学園高を真っ向勝負で倒し、全国制覇を成し遂げたのが茨城・取手二高です。エース・石田文也投手、吉田選手は遊撃手・主将としてチームを引っ張っりました。
更に「木内マジック」と称された名将・木内幸男監督の采配が融合され、普通の高校生でもKKコンビを倒せるんだという「事実」は当時の高校球児を大いに勇気づけたのです。
吉田選手は明治大に進学を予定していましたが、1984年のドラフト会議で近鉄から2位指名を受け、熟考の末プロ入りを表明します。入団発表した時にはすでにキャンプが始まっていました。
高卒ルーキーながら、1年目から23試合に出場を果たします。当初は守備要員でしたが徐々に力を付け、プロ7年目の1991年に打率.255、プロ初を含む4本塁打23打点14盗塁を記録し、レギュラーを掴みました。翌1992年は打率.257 3本塁打30打点27盗塁をマークします。
1993年まではレギュラーを維持しますが、水口栄二・武藤孝司両選手の台頭で競争が激化しました。それでも1996年には107試合に出場、1998年は85試合、1999年には90試合に出場と準レギュラーをキープし続けます。
2000年シーズン途中で阪神タイガースへトレードされました。同年7月29日の甲子園球場での対読売ジャイアンツ戦ではかつて戦った桑田投手からサヨナラヒットを放ち、「16年前の再現」と話題になりました。
吉田選手が率いる取手二高が全国制覇した1984年夏、甲子園で敗れた理由を知りたいと一人茨城を訪れた桑田投手を、吉田選手は自宅に泊め、じっくりと語り合いました。
その内容は一学年下のライバルへ「いろいろ教えてやった」と吉田選手が言うように、二人だけの思い出となっていて詳細は語っていません。
高校時代、実はヤンチャだったという吉田選手が、同じく高校生の頃からストイックだった桑田投手にどんな話をしたのか。翌年、桑田投手が全国制覇を成し遂げたことに吉田選手の助言の効果はあったのか・・・。
機会があればじっくりと聞いてみたいものですね。
益田大介選手
出身地 兵庫県明石市
投/打 右/左
プロ野球歴
中日ドラゴンズ(1996年~2001年)
大阪近鉄バファローズ(2002年~2004年)
東北楽天ゴールデンイーグルス(2005年~2006年)
益田選手は、兵庫・滝川二高から龍谷大へ進んでいます。関西六大学リーグで通算打率.311を残し、シュアな打撃を買われ1995年のドラフト会議で中日ドラゴンズから6位指名され、プロ入りしました。
プロ1年目の1996年、49試合に出場し打率.301を記録します。翌1997年には規定打席に到達し、「1番・センター」としてリーグ最多の8三塁打をマークしました。
しかし1998年、阪神から関川浩一選手がトレードで加入すると出番を失い、2001年シーズン途中で近鉄へトレードされてしまいます。
外野守備にやや難があったことに加え、右肩を故障したこともあり、近鉄移籍後は代打を中心としました。長打力はないものの、打率.340、出塁率は.466という高い数字を残し、一躍左の代打の切り札的存在となります。
その存在を見せつけたのはやはり同年9月26日、対オリックスブルーウェーブ戦でしょう。近鉄バファローズは、この試合前でマジック1としていました。本拠地・大阪ドームでの試合で観客は超満員。球場は熱気に包まれます。
試合は9回表終了時点で2対5と、3点ビハインドで最終回の攻撃を迎えました。オリックスのマウンドには、抑えのエース・大久保勝信投手があがります。
しかし、近鉄ナイン・球場のファンとも「何か起こるで」との期待を受け打席に向かった吉岡雄二選手が、口火のヒットをレフト前に放ちます。
続く川口憲史選手が二塁打を放つとボルテージは最高潮に達しました。無死二・三塁で増田選手は、ショーン・ギルバート選手の代打として代打に立ちました。
オリックスバッテリーは敬遠せず、益田選手と勝負します。冷静にボールを見極める益田選手に根負けしたかのようにカウント1-3から投じたフォークボールはあからさまなボールとなりフォアボール。益田選手が出塁し、ノーアウト満塁となりました。
続く北川博敏選手が球史に残る「代打逆転満塁サヨナラ優勝決定ホームラン」を放ち、試合は決着します。もし、フォアボールを選んでいなかったら・・・と考えると、益田選手の選球眼も球史の1ページを彩りました。
その後の益田選手は打撃を活かしてDHでも活躍します。2005年の分配ドラフトで東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍、2006年で現役を引退しました。
森山周選手
出身地 兵庫県明石市
投/打 右/左
プロ野球歴
オリックスバファローズ(2006年~2012年)
東北楽天ゴールデンイーグルス(2013年~2015年)
森山選手は、高校野球の強豪、兵庫・報徳学園高出身です。高校在籍中にチームは春夏合わせて3度甲子園へ出場しますが、森山選手はベンチ入りできませんでした。
当時から俊足として鳴らし、高校卒業時に立命館大アメフト部からスカウトされるほどでしたが、プロ野球選手になりたいという夢を追い大阪産業大へ進学します。
その後、社会人野球・ヤマハを経て2005年の大学・社会人ドラフト会議でオリックスから指名を受け、念願のプロ入りを果たしました。
俊足左打ちの選手に見られるように、森山選手も左方向へゴロを転がし、足でヒットを稼ぐ打撃で、プロ1年目の2006年は打率.356を記録します。2年目からは外野手の練習を始めます。
2009年には内外野全てのポジションに就く万能ぶりを示し、翌2010年には「2番・レフト」としてレギュラー格になるなど、チームにとって頼りになる「万能選手」として存在感を増していきまいた。
2012年シーズンオフに戦力外通告を受けると、東北楽天ゴールデンイーグルスが獲得します。意気に感じた森山選手は代走に守備固めに活躍し、自己最多の89試合に出場しました。
翌2013年、イーグルスにとっても森山選手にとっても初出場となった日本シリーズで、東京ドームのフェンスをよじ登ったり、第5戦のスーパーキャッチなどチームの日本一に貢献します。
日本シリーズ以降は代走で登場するだけで球場が盛り上がる存在でした。代走で登場するやいなや、当然のように盗塁を決められ、プレッシャーをかけられるのですから、相手チームにとってはとても厄介な自チームにいればこれほど頼りになる存在はいません。
その後も衰えを知らない脚力と確かな守備力を武器にプレーを続け、2015年に現役を引退しました。そのままチームに残り、外野守備走塁コーチに就任しています。
背番号0番をつけた選手の傾向とは?
ここで、オリックスバファローズの背番号0番をつけた選手の傾向を探ってみます。
阪急~オリックス、そして近鉄と球団統合される前の背番号0番は移籍選手の番号であったり、生え抜き選手の場合は「現状をリセットしたい」という希望を持つ選手の番号でした。
吉田選手は入団時の背番号48番から0番を経て、8番を手に入れたように、言葉は悪いですが「とりあえずの番号」というイメージもあります。
球団統合後の歴史を見てもその傾向に変わりはなく、移籍選手の背番号や、山﨑選手のように他の選手へ番号を譲るために変更したりということで、自ら進んで背番号0番を着けた選手は森山選手だけと言えます。
オリックスバファローズの背番号0番をつけた選手の傾向は、意外にも自ら希望した選手が少ないという結論になりました。
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