中日ドラゴンズの背番号2番!歴代2番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

2017年6月3日、ナゴヤドームで開催された中日ドラゴンズ対東北楽天ゴールデンイーグルスとの試合で、ドラゴンズの荒木雅博選手が通算2000本安打を達成したのです。

ドラゴンズファンは大喜び、ナゴヤドームは祝福ムードに包まれました。その試合の後に、対戦相手であるイーグルスの応援団からも荒木コールが起こり、彼の応援ソングを演奏して偉業を讃えたのです。

この光景を見た時に、野球小僧だった私は

『やっぱえり野球っていいなぁ!』

などと思ったものです(^-^;

今回は、荒木選手も付けた中日ドラゴンズの背番号2番を特集します。歴代の2番の全選手と、特に印象深い3選手、さらに2番を付けた選手の傾向にも迫りますので、楽しみにしてくださいね。




歴代の背番号2番を背負った選手をご紹介!

中日ドラゴンズの背番号2番は、2020年のドラフト1位ルーキー・石川昴弥選手で実に24代目となります。まずは2番の全選手をご紹介していきます。

    
年  度年 数球 団 名選 手 名
1936年1年名古屋軍牧野潔選手
1937年春~1937年秋1年名古屋軍志手清彦選手
1938年春~1938年秋1年名古屋軍石丸藤吉選手
1939年0.5年名古屋軍鈴木秀雄選手
1939年~1940年1.5年名古屋軍高木茂選手
1941年1年中日ドラゴンズ空白
1942年1年中日ドラゴンズ山下実選手
1943年~1945年3年名古屋軍~産業空白
1946年1年中部日本鈴木秀雄選手
1947年~1948年2年中日ドラゴンズ水野良一選手
1949年1年中日ドラゴンズ空白
1950年~1955年6年中日ドラゴンズ~名古屋ドラゴンズ~中日ドラゴンズ土屋亨選手
1956年1年中日ドラゴンズ川崎啓之介選手
1957年1年中日ドラゴンズ早川真次選手
1958年~1960年3年中日ドラゴンズ原田亨選手
1961年~1963年3年中日ドラゴンズ前田益穂選手
1964年1年中日ドラゴンズ今津光男選手
1965年~1971年7年中日ドラゴンズ一枝修平選手
1972年1年中日ドラゴンズバード・シャーリー選手
1973年~1975年3年中日ドラゴンズ広瀬宰選手
1976年~1984年9年中日ドラゴンズ田尾安志選手
1985年~1987年3年中日ドラゴンズ尾上旭選手
1988年~1989年2年中日ドラゴンズ岩本好広選手
1990年1年中日ドラゴンズバンスロー選手
1991年~1995年5年中日ドラゴンズ矢野輝弘選手
1996年~2018年23年中日ドラゴンズ荒木雅博選手
2019年1年中日ドラゴンズ空白
2020年~中日ドラゴンズ石川昴弥選手

初代・牧野潔選手は歴史的な試合に先発した右腕です。1936年4月29日、プロ野球初のリーグ戦となる名古屋軍対大東京軍が開催されました。この試合で名古屋軍の先発を務めたのが牧野選手です。

2代目・志手清彦選手は阪急軍から移籍した外野手です。在籍したのは1年のみで引退となりました。

3代目・石丸藤吉選手は社会人野球からプロ入りした内野手です。石丸選手の弟・進一選手も後に名古屋軍へ入団し、兄弟で二遊間を組んだ事も。しかし息が合わず、試合中にケンカをしていたこともあったそうです。

4代目・鈴木秀雄選手は捕手で、名古屋軍から他チームに移籍し、再び古巣に戻った選手です。戻ったタイミングで内野手に転向しました。

5代目・高木茂選手は名古屋軍、そして創立間もない広島カープにも在籍した外野手です。広島では6・7番を打ち、ポジションはレフトを守ることが多かった右打者でした。

6代目・山下実選手は阪急軍から移籍してきた選手です。慶応大出身で兼任監督を務めたこともある強打者で、プロ野球で初めてオーバーフェンスの本塁打を放った選手として知られています。名古屋軍には1942年の1年間だけ在籍しました。

7代目は鈴木秀雄選手。ライオン軍というチームから古巣に復帰しました。

8代目・水野良一選手は選抜甲子園大会優勝投手です。プロでは外野手としてプレーしました。現役生活は短く2年間で引退しています。




9代目・土屋亨選手は明治大卒の内野手です。1948年に南海ホークスへ入団するも翌年にはドラゴンズへ移籍しました。引退後は中日新聞社で記者を務めたのち野球解説者として活動しました。

10代目・川崎啓之介選手は4番打者を務めたこともある左打者です。背番号66番から2番に変更したものの、翌年には22番へ再変更しました。

11代目・早川真次選手は内野手です。背番号48番から21番、そして1957年に2番へと変更してきましたが、同年に引退しました。

12代目・原田享選手は右打ちの内野手です。1958年に関西大からプロ入りし、1960年には投手として2試合に登板しました。

13代目・前田益穂選手は選手は高卒2年目でショートのレギュラーに抜擢された選手です。後にロッテオリオンズにトレードされ、1974年の日本シリーズでは古巣と対戦します。第3戦では本塁打を放ち、チームの日本一に貢献しました。

14代目・今津光男選手もショートのレギュラーだった選手です。前田選手が台頭しレギュラーを奪われますが、控えとして活躍します。後に広島へ移籍しました。

15代目・一枝修平選手もショートまたまたショートのレギュラーを掴んだ選手です。前田選手がトレードされた1964年に入団し。1966年にはベストナインに選出されました。

近鉄バファローズにトレードされ現役を終えようとしていたところ、阪神タイガースから誘われ現役を続行します。そのまま阪神に残り、1985年の日本一にヘッドコーチとして貢献しました。

16代目のバート・シャーリー選手もショートを守った選手です。2年間在籍しましたが、両年とも打率は1割台に終わったものの、守備は素晴らしく、1972年に制定されたダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)の初代受賞者として名を残しています。




17代目・広瀬宰選手はロッテからの移籍選手でポジションはショートです。前述の前田選手同様、1974年の日本シリーズでは古巣と対戦、広瀬選手は第2戦に本塁打を放ちました。

18代目・田尾安志選手は「安打製造機」と呼ばれたヒットメーカーです。その実力もさることながら、爽やかなルックスで絶大な人気を誇りました。

1985年に田尾選手のトレードが発表されると抗議の声が挙がり、果ては中日新聞不買運動にまで発展してしまいました。

19代目・尾上旭選手はドラフト1位で入団した内野手です。中央大時代には日本代表にも選ばれたほどの強打者でしたがプロでは伸び悩みました。

20代目・岩本好広選手は「乱闘要員」とまで言われた熱血漢で、当時のファンにはお馴染みだった選手です。実は岩本選手、阪急ブレーブスからの移籍組であり、ドラゴンズ首脳陣にチーム愛をアピールするため先陣を切っていました。

引退後は愛知県大治町議会議員をへて市長選に出馬し見事当選。しかし、自らの不祥事(飲酒運転)で辞職しています。

21代目はバンスロー選手です。本名は「バンス・ロー」なのですが、日本での登録名はフルネームとなりました。

来日前年もMLBで130試合に出場したほどの実力で、日本でも打率.313 29本塁打78打点と素晴らしい成績を挙げたものの、当時の星野仙一監督による「鉄拳制裁」に異を唱え、1年で退団。敬虔なモルモン教徒だったバンスロー選手には許せないものでした。

22代目・矢野輝弘選手は、東北福祉大からドラフト2位でドラゴンズ入りしましたが伸び悩みます。しかし阪神への移籍をきっかけに捕手として急成長。引退後はコーチを経て同窓・金本知憲監督の後任監督に就任しました。

23代目は前段でご紹介した荒木雅博選手です。荒木選手は古豪・熊本工業高の出身。川上哲治氏を始め、多くのプロ野球選手を輩出している熊工ですが、盗塁王を獲得したOBは荒木選手を含め4人います。

そして24代目は現役の石川昴弥選手です。地元・東邦高出身ということもありファンの期待を集めています。

ドラフトでは3球団競合からドラゴンズの指名を勝ち取り、プロ初打席ではいきなり二塁打を放つなど「持ってる選手」として今後が注目されています。

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歴代背番号2番のうち、印象深い3選手のご紹介

中日ドラゴンズの背番号2番の選手の中で、私が特に印象深く感じる田尾選手、矢野選手、そして荒木選手をご紹介したいと思います。

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田尾安志選手

生年月日  1954年1月8日
出身地   大阪府大阪市西区
投/打   左/左
プロ野球歴
中日ドラゴンズ(1976年~1984年)
西武ライオンズ(1985年~1986年)
阪神タイガース(1987年~1991年)
タイトル等 新人王(1976年)・最多出塁数1回・最多安打3回
      ベストナイン3回・オールスター出場7回

田尾選手は、大阪市の出身です。同志社大時代はエースで4番、そしてリーグ戦で首位打者に輝くほどの打力でした。

ルーキーイヤーの1976年のシーズン前半から1軍で活躍したものの、学生時代から本格的に守備には就いておらず、自ら志願して2軍で守備と走塁を鍛えました。

シーズン後半から1軍に復帰すると、打率.277 3本塁打21打点で新人王を獲得。以降は外野のレギュラーとして活躍します。

1980年、打率.299とわずかに3割を逃した悔しさをバネに、翌1981年からは4年連続で3割をマークしました。1982年からは3年連続でリーグ最多安打を達成しています。

1982年はドラゴンズは8年ぶりのリーグ優勝を巨人・広島と、そして田尾選手は大洋ホエールズ・長崎慶一選手と激しく首位打者を争いました。

決着はリーグ最終戦までもつれ、ドラゴンズの相手は大洋です。リーグ優勝が決まる大一番にも関わらず、大洋は1厘差で首位打者の長崎選手を出場させず、そして田尾選手は全打席敬遠という策に出ます。

当然のようにファンから非難を轟々と浴びたのは言うまでもありません。ドラゴンズはこの試合に勝ち、リーグ優勝を決めたものの、非常に後味の悪い試合となってしまいました。

1984年、ドラゴンズは再び広島・巨人と優勝を争う展開となります。選手会長として優勝したら年俸アップを、と掛け合った田尾選手に球団は色よい返事をしません。

「優勝すると年俸を上げざるを得ない。そこそこ惜しいところまで行き、最終的には2位になるのがいい」という球団の本音を見透かした田尾選手は同年オフ、2位に終わったことを踏まえ「お望み通り2位になりましたよ」と契約更改の席で球団に痛烈な皮肉を浴びせます。

この一言が決定打となり、契約を更改したにも関わらず翌1985年のキャンプイン直前、西武ライオンズへトレードされてしまいました。

西武でも、その後移籍した阪神タイガースでも「言うべきことは言う」とどんどん意見し、首脳陣に疎まれることなどお構いなし。

阪神時代、意見が衝突した村山実監督の在任中はクビになるものか、とファームでも結果を出し、1軍に呼ばれれば決して多くない出番の中、サヨナラ本塁打を3本も打ちました。

ドラゴンズでスタートした現役時代、3割を4回も達成した実力と、シャンプーのCMにも起用された爽やかなルックスで絶大な人気を誇る一方、「言うべきことは言う」一言居士の性格で、煙たがれる存在でもありました。

言うべきことは言うが、増してやるべきことはやる。今なお人気を誇る理由は、ここにあるのです。

矢野輝弘選手

生年月日  1968年12月6日
出身地   大阪府大阪市東住吉区
投/打   右/右
プロ野球歴
中日ドラゴンズ(1991年~1997年)
阪神タイガース(1998年~2010年)
タイトル等 ベストナイン3回・ゴールデングラブ賞2回・オールスター出場7回
      最優秀バッテリー賞2回(2003年・井川慶投手、2005年・藤川球児投手)

矢野選手は大阪・桜宮高出身ですが、同校の伊藤義博監督が東北福祉大へと移ると、後を追い進学しました。

矢野選手在学時は1学年上に佐々木主浩、大塚光二両選手、同学年にはプロでもチームメートになった吉田太選手、そして1学年下に斉藤隆投手や金本知憲選手、浜名千広選手らがいるという黄金期でした。

1990年のドラフト会議では2位指名でドラゴンズと巨人が重複します。抽選の結果、ドラゴンズが矢野選手との交渉権を得ました。

プロ1年目の1991年、矢野選手加入に刺激を受けた正捕手の中村武志選手は奮発し、シーズン20本塁打を記録します。その後も打力と強肩を武器にレギュラーに君臨した中村選手は、矢野選手にとって超えたくても超えられない存在でした。

1996年8月11日の対巨人戦では、野口茂樹投手とのバッテリーでノーヒット・ノーランを達成したりもしましたが、やはり中村選手の壁は厚く、第2捕手を務めつつ、打力を活かすべく外野手としても試合に出場し、打率.346 7本塁打を記録。

同年限りで本拠地としての役目を終えたナゴヤ球場で公式戦最後のホームランを放ったのは、矢野選手でした。

1997年は捕手として中村選手と交互にスタメン捕手として起用されていましたが、同年オフ、ナゴヤドーム対策として阪神から関川浩一・久慈照嘉両選手を獲得するため、大豊泰昭選手とともに阪神へトレードされます。

当初このトレードで阪神へ移籍するのは、中村選手の予定でした。しかし、矢野選手が大阪出身ということもあり、矢野選手がドラゴンズを出ることになったのです。

結果として矢野選手にとってこの移籍は大正解となりました。移籍1年目から110試合に出場すると、2年目の1999年には阪神の捕手としては20年振りとなる打率3割(.301)を記録。がっちりと正捕手の座を射止めたのです。

2003年には同窓の金本選手がFA移籍したことに刺激を受け、7番打者ながら打率.328 14本塁打79打点を記録。MVP級の活躍を示し優勝に寄与ました。

2005年、打率.272 自己最高の19本塁打そして71打点を挙げチームの再び優勝に貢献しています。

2010年、プロ20年目にして引退を表明しました。ドラゴンズでは7年、阪神では倍近い13年プレーし、すっかり「阪神の人」とというイメージでしたね。金本選手が監督に就任するとコーチとして阪神に復帰しました。

金本監督の退任後は後を継いで監督に就任し、2005年以来の優勝を目指し、奮闘しています。

荒木雅博選手

生年月日  1977年9月13日
出身地   熊本県菊池郡菊陽町
投/打   右/右
プロ野球歴 中日ドラゴンズ(1996年~2018年)   
タイトル等 盗塁王1回・ベストナイン3回
      ゴールデングラブ賞6回・オールスター出場5回・セ・リーグ特別表彰(功労賞・2018年)

荒木選手は、名門の熊本工業出身で、1995年のドラフトで中日ドラゴンズから指名されました。

プロ入り後5年間の通算安打数は12本。高卒でプロ入りし名球会入りした仲間である中村紀洋選手は280本、チームメートでもあった谷繁元信選手は187本ものヒットを5年間で積み上げていることと比較すると、荒木選手は大器晩成型と言えるかもしれません。

プロ6年目の2001年、突如として打撃開眼し、1番打者に定着します。同年は規定打席不足ながら打率.338をマークしました。盗塁は13個を記録しています。以降14年連続で2桁盗塁を達成しました。

時同じく2001年からはドラゴンズのショートに井端弘和選手が定着します。この時点でアライバコンビが結成されました。

2002年までは荒木選手が外野手も兼ねていましたが、2003年からはセカンド1本となり、同年オフに就任した落合監督に鍛えられ、名コンビは球史に名を残すことになりました。

2004年から打率は.292、.291、そして2006年に初の3割(.300)を記録します。2007年には盗塁王に輝き、守備だけでなく走攻でも存在感を増していきました。

2004年から6年連続で井端選手と揃ってゴールデングラブ賞を獲得しましたが、同年から3年連続でベストナインにも選出されています。

2010年、落合監督の意向により、アライバコンビはポジションを入れ替えました。ショートに移っても、そつなくこなしていた荒木選手でしたが、2012年、井端選手の意向を受け入れ再コンバート。以降引退までセカンドを中心に出場します。

2014年、ドラゴンズでは高木守道氏以来となる通算350盗塁を達成しました。2016年には高木氏の球団記録を更新する370盗塁をマークし、最終的に378盗塁を積み重ねました。これは歴代11位の記録に相当します。

2018年、41歳で引退しました。プロ生活22年、守備の名手として鳴らし、名球会入りも果たした荒木選手の功績を2018年にセ・リーグが表彰しています。

引退後はチームに残りコーチに就任しました。「第2の荒木」を育てるべく、指導に励まれています。

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背番号2番をつけた選手の傾向とは?

中日ドラゴンズの背番号2番は、13代目の益田選手から5代続けてショートの選手が着けたことから、ショートというイメージが定着しつつありました。

しかし、18代目・田尾選手が人気・実力とも飛びぬけた存在となり、ドラゴンズの背番号2番と言えば田尾選手、という印象が昭和後半には定着しています。

田尾選手の後を受けた尾上選手で再び内野手の番号に戻り、岩本選手そしてバンスロー選手と受け継がれた後の矢野選手が捕手、ということで歴史的にはイレギュラーな展開となったものの、23代目・荒木選手が22年間背負い続け、背番号2番を格式高い番号に昇華させました。

という事で、中日ドラゴンズの背番号2番は、昭和は田尾選手、平成は荒木選手の番号と言えるのではないでしょうか。




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背番号別の特徴

おわりに

今回は、中日ドラゴンズの背番号2番について特集してきましたが、いかがだったでしょうか?

昭和は田尾選手、平成に入ってからは荒木選手の番号と言ったイメージが強い事もわかりましたね。

2020年現在の2番の石川選手は、田尾選手や荒木選手のような中日ドラゴンズの引っ張る背番号2番として輝けるのか、注目していきたいと思います。

最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。

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