こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
ジーン・マーチン、ケン・モッカ。ゲーリー・レーシッチにレオ・ゴメス。そしてアレックス・オチョア。
ドラゴンズファンには懐かしい名前のオンパレードですが、この5選手には2つの共通項があります。
1つめはリーグ優勝に貢献した外国人選手であること。そしてもう一つは、5選手とも優勝したシーズンは背番号4番でプレーしていることです。
今回はそんな中日ドラゴンズ背番号4番について特集したいと思います。歴代の4番をつけてきた全選手と、特に印象深い3選手、さらに4番をつけてきた選手の傾向にも迫りますので、楽しみにして下さいね。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号4番を背負った選手をご紹介!
中日ドラゴンズの背番号4番は、2008年から藤井淳志選手が29代目となっています。まずは4番をつけてきた全選手をご紹介します。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
1937年春 | 0.5年 | 名古屋軍 | 前田喜代士選手 |
1937年秋 | 0.5年 | 名古屋軍 | 空白 |
1938年春~1941年 | 4年 | 名古屋軍 | 大沢清選手 |
1942年~1945年 | 4年 | 名古屋軍~産業 | 空白 |
1939年~1940年 | 1.5年 | 名古屋軍 | 高木茂選手 |
1941年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 空白 |
1942年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 山下実選手 |
1943年~1945年 | 3年 | 名古屋軍~産業 | 空白 |
1946年~1948年 | 3年 | 中部日本~中日ドラゴンズ | 大沢清選手 |
1949年~1950年 | 2年 | 中日ドラゴンズ | 空白 |
1951年~1956年 | 6年 | 名古屋ドラゴンズ~中日ドラゴンズ | 杉山悟選手 |
1957年~1959年 | 3年 | 中日ドラゴンズ | 酒井敏明選手 |
1960年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 空白 |
1961年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 酒井敏明選手 |
1962年~1963年 | 2年 | 中日ドラゴンズ | 今津光男選手 |
1964年 | 0.5年 | 中日ドラゴンズ | 山本久夫選手 |
1964年~1965年 | 1.5年 | 中日ドラゴンズ | ケン・アスプロモンテ選手 |
1966年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | ジェイ・ワード選手 |
1967年~1968年 | 2年 | 中日ドラゴンズ | 浜中祥和選手 |
1969年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | スティーブ・フォックス選手 |
1970年~1972年 | 3年 | 中日ドラゴンズ | ジョン・ミラー選手 |
1973年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | ボビー・テーラー選手 |
1974年~1978年 | 5年 | 中日ドラゴンズ | ジーン・マーチン選手 |
1979年~1980年 | 2年 | 中日ドラゴンズ | ボビー・ジョーンズ選手 |
1981年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | レイ・コージ選手 |
1982年~1985年 | 4年 | 中日ドラゴンズ | ケン・モッカ選手 |
1986年~1988年 | 3年 | 中日ドラゴンズ | ゲーリー・レーシッチ選手 |
1989年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 清水雅治選手 |
1990年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 岩本好広選手 |
1991年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 長嶋清幸選手 |
1992年~1994年 | 3年 | 中日ドラゴンズ | 佐野心選手 |
1995年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 清水雅治選手 |
1996年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | ダネル・コールズ選手 |
1997年 | 0年 | 中日ドラゴンズ | 筒井壮選手 |
1997年~2002年 | 6年 | 中日ドラゴンズ | レオ・ゴメス選手 |
2003年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 酒井忠晴選手 |
2004年~2006年 | 3年 | 中日ドラゴンズ | アレックス・オチョア選手 |
2007年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | ジョー・バレンタイン選手 |
2008年~ | 中日ドラゴンズ | 藤井淳志選手 |
初代・前田喜代士選手は球団初の本塁打を放った強打者です。また、プロ野球初の代打本塁打も記録していますが、残念ながら戦争で帰らぬ人となってしまいました。
2代目・大沢清選手は名古屋軍・大洋ホエールズそして広島カープで活躍した一塁手です。引退後は国学院大野球部監督を務めました。
3代目・杉山悟選手は本塁打王に輝いたスラッガーです。戦後間もない時期としては珍しい、180センチの長身から「デカちゃん」という愛称がありました。通算209本塁打を記録しています。
4代目・酒井敏明選手は早稲田大出身の捕手です。レギュラーは獲得できず、現役生活は6年でした。引退後は中日新聞で記者から編集委員まで務めました。
5代目・今津光男選手はドラゴンズと広島でプレーした遊撃手です。広島時代は後の監督・古葉毅(竹識)選手と二遊間を組みました。
6代目・山本久夫選手は東映フライヤーズから移籍した内野手です。アスプロ選手入団に伴い、背番号を4番から37番に変更しました。
7代目のケン・アスプロモンテ選手はMLBで501安打を放っている選手です。1964年にドラゴンズへ入団し、主にショートを守りました。日本での登録名は「アスプロ」。後に大洋でもプレーしました。
8代目はジェイ・ワード選手です。満塁本塁打2本を含む14本塁打を記録しましたが、ドラゴンズを1年で去りました。
9代目・浜中祥和選手は大洋の日本一に守備で貢献した遊撃手です。ボールを右目に当て、眼球が思うように動かせないハンディの中、守備固めで活躍しました。
打力はあるものの守備に難がある麻生実男選手と「打の麻生、守備の浜中」として日本一に貢献しています。後にドラゴンズへ移籍し、3年間プレーしました。
10代目はスティーブ・フォックス選手です。日本でプロ野球選手になることを希望し、23歳でドラゴンズに入団するも1年で退団しました。
11代目のジョン・ミラー選手はMLBで初打席本塁打を達成している選手です。1970年にドラゴンズ入りすると、いきなり24本塁打を記録、その後28本、27本を記録しますが現役引退し退団しました。
12代目のボビー・テーラー選手はドラゴンズと阪神タイガースに在籍した選手です。ドラゴンズでは大振りが目立ち1年で退団しますが、阪神に移籍すると1番打者として活躍します。オールスターにも出場しました。
13代目のジーン・マーチン選手はドラゴンズ優勝に貢献した左打者です。1974年にドラゴンズ入りすると35本塁打87打点を記録し、読売ジャイアンツのV10を阻止する立役者の一人となります。
1976年には40本塁打をマークしました。この年残した1試合2本塁打を10試合は王貞治、ランディ・バース両選手と並ぶプロ野球記録です。
14代目のボビー・ジョーンズ選手は1979年に入団した外野手です。来日1年目は16本塁打したものの、2年目は4本塁打に終わり退団しました。
15代目のジム・コージ選手は28歳でドラゴンズ入りした外野手です。かつてドラゴンズでプレーしたジム・マーシャル氏の推薦で入団したものの1年で退団しました。
ちなみに本来の名前の発音は「コーズィー」が近いのですが、広島・山本浩二選手にあやかり「コージ」という登録名になりました。
16代目のケン・モッカ選手はファンに愛された外国人選手です。ドラゴンズでは4年プレー、最終年も打率3割を記録しましたが、惜しまれつつ退団しました。
17代目のゲーリー・レーシッチ選手は落合流神主打法を採用した左打者です。来日1年目は打率.251だったものの、移籍してきた落合博満選手を参考に打撃フォームを変えると何と打率.317を記録しました。
1988年の優勝に3番打者として貢献しましたが、ケガもありこの年で退団となっています。
18代目・清水雅治選手は俊足巧打の外野手です。1992年にはレギュラーに定着し14盗塁を記録しました。同年の「10・8決戦」にも1番・レフトでスタメン出場しています。
19代目・岩本好広選手は「好プレー・珍プレー」の番組でお馴染みだった選手です。乱闘となると率先してベンチを飛び出していきました。引退後は政治家に転身しています。
20代目・長嶋清幸選手は広島で背番号0番選手として知られた外野手です。ドラゴンズ移籍に際し、心機一転背番号を4番にしましたが、翌年にはなじみ深い0番へ変更しました。
21代目・佐野心選手は史上初となる親子でドラフト指名された選手です。父・真樹夫さんは1965年の第1回ドラフト会議で広島から1位指名を受けました。心選手は1991年の会議で6位で指名されています。
22代目は、18代目の清水選手が、再び背番号4番を使用しました。
23代目はダネル・コールズ選手です。ナゴヤ球場最終年の1996年にドラゴンズへ入団しました。
1番打者として打率.302 29本塁打79打点と素晴らしい成績を残すものの守備に難があり、ナゴヤドームには不向きと判断され退団。翌年は阪神でプレーしました。
24代目は筒井壮選手です。叔父の星野仙一監督率いるドラゴンズに指名された選手で、入団会見では背番号4番と発表されました。
しかし、レオ・ゴメス選手入団に伴い37番へ変更となっています。よって、公式戦では背番号4番ではプレーしていません。
25代目、レオ・ゴメス選手は6年ドラゴンズでプレーした内野手です。
1997年に入団。広いナゴヤドームに負けない長距離砲として活躍し、1999年のリーグ制覇には4番打者としてチームを牽引。2000年限りで退団しますが、2001年シーズン途中に復帰しました。
26代目・酒井忠晴選手は千葉ロッテマリーンズから古巣ドラゴンズに復帰した内野手です。1995年オフ、前田幸長投手らとの交換トレードで移籍、2002年に帰ってきた守備の名手でした。
27代目、アレックス・オチョア選手は強肩と勝負強いバッティングで活躍した外野手です。来日当初は4番を打ち、ウッズ選手加入後は6・7番を務めました。
ドラゴンズ退団後は広島でもプレーしています。最終年も打率3割を記録するなど打撃は健在でしたが、肩の衰えを理由に現役を引退しました。
28代目・ジョー・バレンタイン選手は当時の森繁和ヘッドコーチがドミニカウインターリーグでスカウトした右腕です。残念ながら1軍での登板はありませんでした。
そして29代目は現役の藤井淳志選手です。強肩で鳴らしたアレックス選手や蔵本英智選手にも引けを取らぬ力を持つ、外野の準レギュラー選手。スイッチヒッターということで代打での出場も多いです。
歴代背番号4番のうち、印象深い3選手のご紹介
中日ドラゴンズの背番号4番をつけてきた選手のうち、私が印象深く思うモッカ選手、ゴメス選手、そして藤井選手をご紹介したいと思います。
ケン・モッカ選手
出身地 米国ペンシルベニア州レゲーニー郡
投/打 右/右
プロ野球歴
ピッツバーグ・パイレーツ(1974年、1977年~1978年)
モントリオール・エクスポズ(1979年~1980年)
トロント・ブルージェイズ(1981年)
中日ドラゴンズ(1982年~1985年)
タイトル等 オールスター出場1回(日本)
メジャーリーグでは6年プレーし、1本塁打のみという実績のモッカ選手がドラゴンズへ入団したのは1982年です。
「MACHA」というスペルからわかる通り、モッカというよりは「マッカ」が本来の発音に近いのですが、「真っ赤」と揶揄されることを嫌った球団が本人と相談し、登録名を決めました。
1年目から全130試合に出場し打率.311 23本塁打76打点をマークします。三塁の守備はお世辞にも上手とは言えませんでしたが、それを補って余りある打撃がウリでした。
1982年の優勝争いの最中で「絶対に諦めるな」とチームを鼓舞し続けた人柄や、さらに巨人戦に強く、同年9月28日の対戦では9回裏に江川卓投手から4点差をひっくり返す口火の本塁打を放つなどの活躍で、瞬く間に人気選手の仲間入りをしています。
モッカ在籍時のドラゴンズは田尾安志、谷沢健一、大島康徳、宇野勝、そして中尾孝義の各選手が脂の乗りきっている時期で、モッカ選手も含め「強竜打線」と恐れられていました。
翌1983年は打率.283と3割を切りますが、1984年には打率.316 31本塁打93打点を記録します。
1985年、モッカ選手はこの年も打率3割をキープするものの、球団はモッカ選手と同じ三塁手の甲子園のスターである藤王選手を育てる方針を決め、モッカ選手に9月上旬、戦力外通告を行います。
他の外国人選手であればすぐさま帰国するところですが、モッカ選手は「退団は了承する。その代わり次の巨人戦までチームに置いてくれ」と懇願します。
球団としては断る理由はなく、9月19日の地元・ナゴヤ球場での巨人戦はモッカ選手の引退試合となりました。
7回裏、代打で登場したモッカ選手は西本聖投手にボテボテのサードゴロに打ち取られ、これでお役御免、の予定でした。しかし、モッカ選手との別れを惜しんだファンはモッカ選手がベンチに下がることを許さず、急遽サードのポジションに就きます。
最終回、篠塚利夫選手のゴロをお手玉。それすらファンから大歓声を浴びました。試合終了後、ナイン一人ひとりと握手を交わし、それが終わるとナインはモッカ選手を胴上げし、引退試合は幕を閉じました。
去り行く外国人選手が引退試合を行うことも異例ならば、胴上げも異例のことです。最後までファンに愛され続け、モッカ選手は名古屋を去りました。
引退後はMLB2球団で監督を歴任しています。2003年と2006年にはオークランド・アスレチックスを地区優勝へ導きました。
レオ・ゴメス選手
出身地 プエルトリコ自治連邦区カナバナス
投/打 右/右
プロ野球歴
ボルチモア・オリオールズ(1990年~1995年)
シカゴ・カブス(1996年)
中日ドラゴンズ(1997年~2000年、2001年~2002年)
タイトル等 ベストナイン2回(日本)
ゴメス選手は、来日前年の1996年にMLBシカゴ・カブスで136試合に出場し、17本塁打を放っていました。
ドラゴンズ1年目の1997年に打率.315 31本塁打81打点をマークます。メジャーでの実績が伊達ではないことを証明してくれました。
2年目は打率も下がり、本塁打も26本に終わります。しかし、1999年は好調で、打率.297 36本塁打109打点を記録し、リーグ優勝に大いに貢献しました。
この年のドラゴンズはゴメス選手の他、李鍾範選手、サムソン・リー投手そして「韓国の至宝」宣銅烈投手の外国人4選手がそれぞれ活躍しています。優勝後のビールかけ会場では仲良く4人で記念撮影を行っていました。
同年ゴメス選手が記録した本塁打36本と109打点はドラゴンズの外国人選手としては球団最多記録です。(2006年にタイロン・ウッズ選手が47本塁打144打点で更新)
2000年も打率.289 25本塁打79打点とまずまずの成績でしたが、「家族との時間を過ごしたい」という理由で惜しまれつつ退団しました。
しかし2001年、ゴメス選手に代わり入団したティム・アンロー、オジー・ティモンズ両選手が揃って不振。アンロー選手はわずか4試合で見切られ、急遽ゴメス選手が再入団することになります。
再入団後も安定した成績を残したゴメス選手でしたが、ヒザをケガしたこともあり、2002年限りで退団しました。ドラゴンズでプレーしたのは6年に及び、通算打率は.293、通算本塁打は153本を記録を残しました。
藤井淳志選手
出身地 愛知県豊橋市
投/打 右/左右
プロ野球歴 中日ドラゴンズ(2006年~)
藤井選手は、2005年の大学生・社会人ドラフト会議でドラゴンズから3巡目指名され、入団しました。筑波大から社会人野球・NTT西日本を経てのプロ入りです。
プロ1年目の2006年、オープン戦での活躍が認められ「2番・センター」で開幕スタメンを勝ち取ります。しかし、プロの壁は厚く、レギュラー奪取とはいきませんでした。
2009年、オープン戦好調だった藤井選手は開幕後も調子を維持し、センターのレギュラーを確保します。打順は主に7番を打ち、打率.299 10本塁打49打点15盗塁をマークしました。
2010年、ルーキー大島洋平選手や2年目の野本圭選手らとのポジション争いとなり出番が減少します。大島選手がセンターのレギュラーに定着しました。
2013年、大島選手と併用されるような形で103試合に出場を果たします。規定打席には到達していませんが打率.303を記録しました。
2015年にも118試合に出場し打率.295を記録するなど、レギュラーまであと一歩、というポジションまでいきます。
2017年には自己最多の128試合に出場したものの規定打席には達しないなど、スタメンというよりは代打や守備固めでの出場が多くなってきました。
2018年7月29日の対巨人戦で通算1000試合出場を果たしています。
50メートル5秒8、遠投125メートルという身体能力は、持って生まれたものもあるでしょうが社会人時代に取り組んだウエイトトレーニングの成果でもあります。
また、落合監督時代に1日1500スイングをした努力家である一方、優勝時のビールかけやファン感謝祭ではファンを楽しませるアイディアを披露してくれる一面も。
背番号4番をつけた選手の傾向とは?
最初にもお話したように、ドラゴンズ優勝の際には背番号4番の外国人選手が活躍する、ということでドラゴンズの背番号4番、と言えば外国人選手の番号、というイメージを持たれているプロ野球ファンが多いです。
平成からのドラゴンズファンに限れば、地元愛知出身でファンサービスにも熱心な藤井選手の番号、というイメージでしょう。
歴々の外国人選手にしろ、藤井選手にしても「ファンに親しまれる選手」ということは共通しており、世代によって印象に残る選手が違う、というのもこの番号の特徴と言えるでしょう。
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⇒背番号別の特徴
おわりに
今回は、中日ドラゴンズの背番号4番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?
他の球団の4番と同じように、外国人選手が多くつけてきた事と、藤井選手の番号というドラゴンズ独自の傾向もわかりましたね。
藤井選手もベテランの域となり。そろそろ引退という寂しいニュースが聞こえてくるかも知れません。
スタメンは厳しいかも知れませんが、ここぞの場面で発揮されるベテランの力は、まだまだドラゴンズには必要です。
まだまだ、藤井選手の活躍に期待したいですね。