中日ドラゴンズの背番号6番!【オレ流】選手もつけた歴代6番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

1986年、ロッテオリオンズに激震が走りました。2年連続3回目の三冠王に輝いた落合博満選手が、稲尾和久監督の解任を理由にトレードを志願したのです。

一時は読売ジャイアンツ入りが決定的となるも交換要員の調整に手間取っていると、中日ドラゴンズの星野仙一新監督がロッテ側へリリーフエース・牛島和彦投手ら4選手を提示。大逆転で落合選手はドラゴンズ入りしました。

「アイツ(落合)だけは巨人に持っていかれたくなかった」と落合選手の入団会見で語った当時39歳の星野仙一監督は、現役時代の「燃える魂」そのままに、とトレードでも打倒巨人を果たしたのです。

今回は、落合選手も付けた中日ドラゴンズ背番号6番を特集します。6番をつけてきた歴代の全選手や、特に印象深い3選手、さらに6番をつけてきた選手の傾向にも迫りますので、楽しみにしてくださいね。




歴代の背番号6番を背負った選手をご紹介!

2020年の時点で、中日ドラゴンズの背番号6番は、20人の選手がつけてきました。まずは20人全ての選手を、古い順からご紹介したいと思います。

    
年  度年 数球 団 名選 手 名
1936年1年名古屋軍バッキー・ハリス選手
1937年春~1937年秋1年名古屋軍芳賀直一選手
1938年春0.5年名古屋軍空白
1938年秋~1943年5.5年名古屋軍芳賀直一選手
1944年~1945年2年産業空白
1946年~1948年3年中部日本~中日ドラゴンズ山本尚敏選手
1949年~1954年6年中日ドラゴンズ~名古屋ドラゴンズ~中日ドラゴンズ野口明選手
1955年~1956年2年中日ドラゴンズ空白
1957年~1958年2年中日ドラゴンズ河合保彦選手
1959年~1961年2.5年中日ドラゴンズ今津光男選手
1961年~1962年1.5年中日ドラゴンズ高木時夫選手
1963年~1965年3年中日ドラゴンズジム・マーシャル選手
1966年~1967年2年中日ドラゴンズ広野功選手
1968年~1970年3年中日ドラゴンズ日野茂選手
1971年1年中日ドラゴンズバート・シャーリー選手
1972年1年中日ドラゴンズ江島巧選手
1973年~1980年8年中日ドラゴンズ井上弘昭選手
1981年~1984年4年中日ドラゴンズ正岡真二選手
1985年~1986年2年中日ドラゴンズ上川誠二選手
1987年~1993年7年中日ドラゴンズ落合博満選手
1994年1年中日ドラゴンズ空白
1995年~1997年3年中日ドラゴンズ金村義明選手
1998年~2002年5年中日ドラゴンズ久慈照嘉選手
2003年~2013年11年中日ドラゴンズ井端弘和選手
2014年~中日ドラゴンズ平田良介選手

初代はバッキー・ハリス選手です。1936年、名古屋軍創立時に入団した捕手です。こっそりと日本語を勉強していて、ある試合中にいきなりマスク越しに「桃太郎の唄」を歌いだすなど、ユニークな選手として知られていました。

日本でのプレーを続けようとしたものの、戦争による日米関係の悪化で、退団を余儀なくされてしまったようです。

2代目・芳賀直一選手も、名古屋軍創立時からのメンバーです。主に三塁を守った内野手で、打順は7・8番を打つことが多かった選手でした。

3代目・山本尚敏選手は一旦プロから身を引き。のちに復帰した外野手です。1940年限りでライオン軍を退団しましたが、1946年にドラゴンズでプロに復帰し3年プレーしました。

4代目・野口明選手は1954年のドラゴンズ日本一に正捕手として貢献しています。戦前は投手として活躍。最多勝を獲得したほどの力量でした。

5代目・河合保彦選手は高卒ルーキーながら公式戦出場を果たした捕手です。正捕手・野口選手の控えとして1954年の優勝にも貢献しています。

6代目・今津光男選手はドラゴンズを皮切りに広島カープ、阪急ブレーブス、そして日本ハムファイターズと渡り歩いた内野手です。引退後はコーチとして長く活動しました。

7代目・高木時夫選手は日本大から入団した捕手です。1年目から起用されますが、木俣達彦選手の入団により控えに回りました。

引退後はスカウトとして活躍しています。日大進学が決まっていた山本昌広(山本昌)投手を大学側と上手く話しをつけ、すんなりと入団させました。

その恩義から、山本投手はナゴヤドーム登板時は必ず高木スカウトのお墓参りを欠かさなかったそうです。

8代目のジム・マーシャル選手は3年連続オールスターに出場した一塁手です。来日1年目から28本塁打を放つと翌年には31本塁打をマーク。

巨人戦に強く、人気を集めました。退団後は近藤貞雄監督に招聘されコーチとしてドラゴンズに復帰し、1982年の優勝に大きく貢献しています。

9代目・広野功選手は慶応大出身の外野手です。第1回ドラフト会議でドラゴンズから3位指名され入団しました。

ドラフト同期の巨人・堀内恒夫投手からサヨナラホームランを放ったことがありますが、「年下のくせに生意気だったから鼻をへし折ってやった」と語る、熱いプレーヤーでした。

10代目・日野茂選手はドラフト外入団ながら背番号6番を贈られた期待の内野手です。現役生活は控えの域を脱しませんでしたが、コーチとして長く活躍しました。




11代目のバート・シャーリー選手は栄えある第1回ダイヤモンドグラブ受賞者です。名手・高木守道選手と組んだ二遊間は、素晴らしいものがありました。

12代目・江島巧選手は高卒ルーキーで5本塁打を放った外野手です。2年目は13本塁打を放ち期待されましたが伸び悩み、ロッテへトレードされてしまいます。

移籍後は準レギュラーとして長く活躍しました。1974年には古巣ドラゴンズと日本シリーズで対戦しています。

13代目・井上弘昭選手は広島カープからの移籍組です。山本浩二、水谷実雄両選手が台頭したことを受けドラゴンズにトレードされました。

1975年には山本選手と激しく首位打者を争うも二位となります。1981年に日本ハムへ移籍すると、勝負強い打撃でチームの優勝に貢献しました。

14代目・正岡真二選手の武器は抜群の守備力です。宇野勝選手の後を受けショートの守備固めとして起用されることが多く、その守りはドラゴンズの応援歌「燃えよドラゴンズ」にも採用されるほどでした。

15代目・上川誠二選手はドラフト外入団から這い上がった、ガッツ溢れる二塁手です。「ピラニア」とあだ名されるほどのしぶとい打撃で、入団3年目には打率3割を達成しています。

レギュラーを獲得した矢先、落合選手の交換要員に指名され、ロッテへ移籍しました。

16代目・落合博満選手は説明不要のプロ野球を代表する強打者です。セ・リーグでは本塁打王と打点王は獲得しましたが、ついに首位打者だけは取れずじまいでした。

17代目・金村義明選手は近鉄バファローズのレギュラー三塁手で、FAでドラゴンズへ入団を果たしています。期待を集めましたが、近鉄時代のバッティングは披露できませんでした、

18代目・久慈照喜選手は阪神タイガース時代に新人王を獲った遊撃手です。ドラゴンズ移籍後もレギュラーとして活躍していましたが、福留孝介選手の入団、荒木選手や井端選手の台頭もあり出番が減少しました。

ドラゴンズで5年プレーした後、阪神に復帰し現役を退いています。

19代目・井端弘和選手は荒木雅博選手との二遊間、アライバコンビとして名を残す名内野手です。WBCでは起死回生のタイムリーを放つなど、勝負強い打撃も魅力でした。

そして20代目、現役の平田良介選手です。大阪桐蔭高時代から強打者として注目を集め、2005年の高校生ドラフトでドラゴンズが1位指名しました。

レギュラー定着はプロ6年目と時間はかかったものの、その後は安定した成績を残し、ドラゴンズの主力打者として活躍しています。

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歴代背番号6番のうち、印象深い3選手のご紹介

中日ドラゴンズの背番号6番をつけてきた選手のうち、私が特に印象深く思う落合選手、井端選手、そして平田選手をご紹介したいと思います。

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落合博満選手

生年月日  1953年12月9日
出身地   秋田県南秋田郡若美町
投/打   右/右
プロ野球歴
ロッテオリオンズ(1979年~1986年)
中日ドラゴンズ(1987年~1993年)
読売ジャイアンツ(1994年~1996年)
日本ハムファイターズ(1997年~1998年)
タイトル等 三冠王3回・MVP2回・首位打者5回・本塁打王5回・打点王5回
       最高出塁率7回・最多勝利打点5回・最多安打1回(タイトル制定前)
       ベストナイン10回・オールスター出場15回

秋田県出身の落合選手は、秋田工業高校から東洋大学に進学しました。しかし、先輩後輩の関係に疑問を持ち、またケガをした事もあって半年で退学してしまいます。

秋田に戻ってしばらく生活しますが、社会人野球チームがある東芝府中に入社して頭角を現します。そして1978年のドラフト会議でロッテに指名され、プロ野球人生をスタートさせました。

入団3年目からブレークして、1985年から2年連続で三冠王を獲得し、前述の通りに中日ドラゴンズに移籍してきました。

1987年シーズン、星野仙一新監督の船出に合わせるかのように、ロサンゼルス・ドジャースそっくりに改められたユニフォームに身を包んだ落合選手は、開幕戦で対戦した巨人・西本聖投手のシュート攻めに面喰らいました。

それでも打率.331を残したのはさすがですが、本塁打はほぼ半減の28本、打点も前年の116から大きく減らして85打点となるなど苦しいセ・リーグデビューの1年となりました。

移籍2年目の1988年にはチームを優勝に導きますが、打率は3割を切り.293 32本塁打95打点に終わります。ドラゴンズへの入団会見で「セ・リーグでも三冠王を獲る」という意気込みとはうらはらな2年を過ごしました。

しかし1989年にセ・リーグでは初タイトルとなる打点王、1990年には本塁打王と打点王の二冠に輝き、本領を発揮しはじめます。

そして迎えた1991年、一時期は打撃三部門でトップに立ったものの、最終的には本塁打王のみ獲得します。特に惜しかったのは打率争いで、プロ2年目だったヤクルトスワローズ・古田敦也選手と激しく競いました。

古田選手に差をつけられた終盤戦、「6打数5安打打てば逆転できんだろ?」と言い、実際に逆転してみせた様はまさに三冠王の貫禄でした。(最終的には3毛差で古田選手が首位打者)

打撃3部門をきっちり5回ずつ獲得していますが、実は落合選手の真骨頂は「最多出塁率7回」です。

ドラゴンズで共にプレーした宇野勝選手は「落合さんは好き勝手に打っているように見えるけど、一番こだわっているのは出塁すること。落合さんにチームバッティングとは何かを教えてもらった」と話していました。

どんなにタイトルを獲っても、チームが勝たなければ意味がない。落合選手の本質を知っているからこそ、球団は監督就任を要請したのでしょう。

現役時代から「オレ流」と呼ばれ続けた落合選手の野球人生。本人は練習嫌いを装い、マスコミ・ファンもそれを真に受け「天才」などと形容していました。

しかし、陰で猛練習していたことが、監督に就任して明らかになります。監督就任後、選手に課した猛練習は、上手くなるにはそれなりの練習をしなければならないと身を以って知っているからなのです。

井端弘和選手

生年月日  1975年5月12日
出身地   神奈川県川崎市川崎区
投/打   右/右
プロ野球歴
中日ドラゴンズ(1998年~2013年)
読売ジャイアンツ(2014年~2015年)
タイトル等 ベストナイン5回・ゴールデングラブ賞7回
       オールスター出場8回・サイクルヒット達成1回

井端選手は、1996年のドラフト会議でドラゴンズから5位指名されプロ入りしました。

プロ3年目の2001年には「2番・ショート」として全試合出場を果たし、レギュラーを獲得しています。同年オフには背番号をそれまでの48番から6番に変更しました。

同年のシーズン後半から、それまで立浪和義選手が守っていたセカンドのポジションに荒木雅博選手が入るようになります。「アライバ」として注目されるのは落合博満監督が就任後の2004年頃からですが、それ以前からコンビは組んでいたのです。

外野兼任だった荒木選手が内野手一本となった2004年、落合監督にしごかれたアライバコンビはその輝きを発揮し始めます。2人揃って6年連続ゴールデングラブ賞を受賞。長いプロ野球の歴史から見ても「史上最高の二遊間」と落合監督も絶賛しました。

2010年、落合監督の発案により、井端選手と荒木選手の守備位置を交換するコンバートが実施されますが、井端選手は眼の不調を訴え、53試合の出場にとどまります。

翌2011年も不振に終わりますが、原因は眼だけではなく、本当はショートをやりたいというモヤモヤした思いがあったのです。

2012年に就任した高木守道新監督は井端選手の思いを汲み、ショートへ再コンバートします。すると井端選手は息を吹き返し、2009年以来のゴールデングラブ賞に輝きました。

井端選手の魅力は守備だけではなく、勝負強いバッティングにもあります。2005年には規定打席に到達した12球団の選手の中でトップの得点圏打率を残しました。

そして極めつけは2013年3月8日、WBC第一ラウンド対チャイニーズタイペイ戦です。

2対3で日本ビハインドで迎えた9回二死、勇気ある盗塁で二塁に進んだ鳥谷敬選手を置き、打席に入った井端選手は起死回生の同点タイムリーヒットを放ちます!

2014年に読売ジャイアンツへ移籍します。翌2015年オフに同級生ながら敬愛する高橋由伸選手が現役引退し監督就任が発表されると「高橋選手より自分が長く現役を務めることはありえない」と潔く引退し、コーチに就任しました。

残り88本に迫っていた2000本安打より、義理を通した井端選手、ここにもファンに支持された理由がありました。

平田良介選手

生年月日  1988年3月23日
出身地   大阪府大阪市城東区
投/打   右/右
プロ野球歴 中日ドラゴンズ(2006年~)   
タイトル等 ベストナイン1回・ゴールデングラブ賞1回
       オールスター出場2回・サイクルヒット達成1回

平田選手は、大阪桐蔭高時代に甲子園で1試合3本塁打を放ち、注目を集めます。この快挙はPL学園高・清原和博選手が達成して以来史上2人目のことでした。

2005年の高校生ドラフトでドラゴンズが単独指名に成功します。当時の落合博満監督が平田選手の才能に惚れ「鍛えれば俺以上の打者になる」とまで評価していました。

プロ2年目の2007年、シーズン終盤に一軍へ昇格すると、センターのレギュラーだった英智選手の故障もあり、日本シリーズにも出場します。

第5戦、山井大介・ダルビッシュ有両投手による投手戦の中、決勝点となる犠牲フライを放ちます。この試合に勝利し、ドラゴンズは53年ぶりの日本一を達成しました。

翌2008年には一気にレギュラーかと期待されましtが、思うように成績は伸びず、2010年までは足踏みが続きます。

転機は2011年です。入団以来着けていた背番号8番を大島洋平選手に譲り、40番に変更となったことに奮起したのか113試合に出場、打率.255 11本塁打を記録しました。

同年6月4日、5日には2試合続けてサヨナラホームランを放つ活躍で月間MVPを獲得。飛躍のシーズンとなります。

2013年に打率.289 15本塁打55打点をマークし、ドラゴンズの主力打者としての地位を固めるとシーズンオフには背番号を6番に変更しました。2016年からは主将に就任しています。

2017年は右ひざのケガで連続2桁本塁打が6年で止まってしまいましたが、2018年は打撃好調で、一時首位打者争いのトップに立つなど高打率をキープし続けます。

打順も3番か5番を打っていたものの8月ころからは1番打者に定着し、最終的にはリーグ3位となる打率.329をマーク。8月16日の対横浜DeNAベイスターズ戦ではサイクルヒットを達成しました。

2019年は死球によるケガ、2020年は打撃不振で出場試合数は減っていますが、ドラゴンズにとって今や欠かせない存在となった平田選手。再び活躍してくれる日をドラゴンズファンは首を長くして待っています!




背番号6番をつけた選手の傾向とは?

中日ドラゴンズの背番号6番は、歴史に残る大打者・落合選手が着けたことで一気に存在感が増しました。その後、井端選手が着け、現在の平田選手が引き継いだことで、主力選手の番号という印象がより濃くなっています。

一時期、正捕手の野口選手が着けたことにより捕手の番号として定着しかけましたが、基本的には内野手に受け継がれてきた番号です。

上川、井端両選手はドラフト外や下位指名から実績を積み、背番号6番を手に入れました。平田選手も入団時の背番号8番をはく奪され、40番に降格した後に結果を残し6番に返り咲きました。

ドラゴンズの背番号6番は「努力を惜しまず、結果を出した選手に贈られる『ご褒美の番号』」と言えるでしょう。

ルーキー時から一ケタの背番号をもらい、引退までその番号を貫くのも素敵ですが、ファンとしては「〇〇選手の背番号△△時代を知っている」というのはちょっとしたステータスになり、楽しめたりするものですよね。

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背番号別の特徴

おわりに

今回は、中日ドラゴンズの背番号6番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?主に内野手がつけてきた番号という傾向もわかりましたね。

2019年から不本意なシーズンを送っている平田選手ではありますが、まだまだ活躍できる可能性を十分に秘めています。

平田選手が復活すれば、中日ドラゴンズの優勝も見えてくるかと思うので、注目していきたいと思います。

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