中日ドラゴンズの背番号8番!歴代8番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

2009年、中日ドラゴンズ新入団戦手会見で大島洋平選手は「開幕から1軍で試合に出場したい。レギュラーを獲得し、立浪和義選手のように40歳まで野球がしたい」と宣言しました。

大卒社会人経由で25歳でのプロ入りに加え、すでに結婚もし長男が誕生していた大島選手。他のルーキーが「チームを代表する選手に」とか「夢はメジャーリーガー」など大きな夢を語る中、現実を見据えた大島選手の決意表明は頼もしさを感じたものです。

プロ入りから10年。大島選手はトップバッターとしてチームをけん引し続け、打率3割を何度も達成するリードオフマンに成長しました。入団会見での決意表明は、現実のものとなったのです。

今回は、中日ドラゴンズの背番号8番の特集です。歴代の8番を背負った選手や特に印象深い3選手、さらに8番をつけてきた選手の傾向も探りますので、楽しみにしてくださいね。




歴代の背番号8番を背負った選手をご紹介!

2020年現在で、中日ドラゴンズの背番号8番は、19人の選手がつけてきました。さっそく歴代の選手をご紹介していきましょう。

初代・浅原直人選手は地元愛知出身の右打者です。1936年の球団創立と同時に入団しましたが、その年に大東京軍へ移籍しています。

戦後は35歳でプロに復帰し、サイクル安打を達成するなど活躍しました。

2代目・小阪三郎選手は、1944年に記録した1試合で3盗塁死は現在も残る、やや不名誉なプロ野球記録保持者です。引退後は国鉄スワローズでマネージャーを務められました。

3代目・村瀬一三選手も愛知出身の選手です。好守の内野手でしたが、やや打撃に難がありました。

4代目・三村勲選手は初代セ・リーグ王者の2番打者として名を残す選手です。1946年に中部日本に入団後、チーム移籍を繰り返し、1950年にプレーした松竹ロビンスで初代チャンピオンに輝きました。

5代目・原田徳光選手はドラゴンズ初の日本一に貢献した外野手です。打率3割を記録した打撃もさることながら、外野手として強肩とポジショニングの巧みさで活躍しました。

その上手さは同時期にプレーした読売ジャイアンツ・千葉茂選手が「アイツさえいなければ俺の生涯打率は3割を超えていた」とボヤくほど。ちなみに千葉選手の通算打率は.284です。

6代目・江藤慎一選手はドラゴンズを代表する強打者です。ON全盛期の1963年、1964年に2年連続で首位打者を獲得しました。

ロッテオリオンズに移籍した1971年にも首位打者を獲り、史上初となる「両リーグでの首位打者」を達成。現在でも江藤選手と内川聖一選手しかこの記録は達成していません。

7代目・川畑和人選手は江藤選手と交換でロッテから移籍した投手です。シーズン途中での移籍だったため、暫定的に野手がつけるケースが多い背番号8番でプレー。翌年、投手らしい11番に変更しました。

8代目・島谷金二選手はドラフト指名を3度断ったことで有名な選手です。守備を買われ、1年目からレギュラーに定着、その後打力も増し、6年連続2桁本塁打を記録しました。

1977年阪急ブレーブスに移籍すると、ドラゴンズ時代には超えられなかった打率3割の壁をクリアし、4番打者として活躍しました。

9代目・森本潔選手は島谷選手らとの交換トレードで阪急から移籍した選手です。森本、島谷両選手ともレギュラー三塁手であること、森本選手は直近の日本シリーズで活躍していたこと、さらに3対4という大型トレードだったことで話題を呼びました。

森本選手はドラゴンズ移籍後3年で引退。野球解説者として長く活躍しました。

10代目・田野倉正樹選手は名手・高木守道選手の後を受けセカンドのレギュラーに抜擢された選手です。プロ8年目にして2桁本塁打を達成、背番号を8番に変更した1981年には打率.27814本塁打の好成績をマークしています。

上川誠二選手の台頭後、ロッテに移籍し、準レギュラーとして活躍しました。




11代目・大石友好選手は田尾安志選手との交換トレードで左腕・杉本正投手とともに西武ライオンズからやってきた捕手です。ドラゴンズでは二番手捕手として活躍。プロ入り初登板の近藤真一投手と組み、ノーヒット・ノーランを達成しました。

12代目・彦野利勝選手は1988年、星野ドラゴンズ初優勝時の1番打者です。長打力もあり、同年は15本塁打を放っています。

13代目・李鍾範選手は「韓国のイチロー」とも呼ばれた、俊足好打の遊撃手です。ドラゴンズ入団時は背番号8番でしたが、韓国時代に慣れ親しんだ背番号7番へ変更を希望し、森野将彦選手と番号交換しました。

14代目は森野選手です。高卒ルーキーながら背番号7番でプレーし、プロ初本塁打を記録しています。李選手と番号を交換し8番を背負いますが、その後も目まぐるしく背番号が変わるとは本人も思っていなかったでしょう。

15代目・波留敏夫選手は横浜ベイスターズより移籍した外野手です。

1998年の横浜日本一ではマシンガン打線の2番打者でしたが種田仁選手らとの交換トレードでドラゴンズ入りしましたが成績は低迷。後にロッテへ移籍しました。

16代目・森岡良介選手はドラフト1位ルーキーです。やや小柄な左打者で内野を守るということで、立浪選手の後継者として期待されましたが、首脳陣と衝突し戦力外に。

トライアウトを経て入団した東京ヤクルトスワローズでは貴重なサブプレイヤーとしてチームに貢献。移籍選手ながら選手会長を務めるなど、人望を集めました。

17代目は再び森野選手が8番を着用します。波留選手の入団で背番号8番を譲り、16番に変更しましたが、落合博満新監督に「16番は投手の番号だ」と言われ8番に戻しました。

しかし、ドラフト1位ルーキーに背番号8番を贈りたい球団の事情により31番に再変更します。31番は森野選手の憧れ・掛布雅之選手と同じ番号にしました。

18代目は森野選手から8番を譲られた、平田良介選手です。大阪桐蔭高時代、甲子園で1試合3本塁打した期待のドラ1でしたが、活躍し始めたのは背番号40番になってからでした。

そして19代目、現役の大島選手です。ルーキー時から「ドラゴンズで1番守備が上手い」と落合監督から評された守備力と、コンスタントな打撃成績でトップバッターとしてチームをけん引。プロ11年目で1500安打を達成しました。

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歴代背番号8番のうち、印象深い3選手のご紹介

中日ドラゴンズの背番号8番をつけてきた選手のうち、私が特に印象深く思う大石選手、彦野選手、そして大島選手をご紹介したいと思います。

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大石友好選手

生年月日  1954年1月15日
出身地   徳島県海部郡宍喰町
投/打   右/右
プロ野球歴
西武ライオンズ(1980年~1984年)
中日ドラゴンズ(1985年~1991年)
タイトル等 オールスター出場1回

大石選手は徳島県立海南高時代、プロゴルファーに転向した尾崎健夫投手とバッテリーを組んだものの甲子園には届きませんでした。その後、神奈川大を経て社会人野球・河合楽器に入社を果たしています。

1979年の都市対抗野球では大昭和製紙に補強され本大会に出場しています。このチームでエースを務めていた杉本正投手とはプロでチームメートになるばかりか、共にドラゴンズへトレードされるなど何かと縁がありました。

同年のドラフト3位で西武ライオンズに入団し1年目から77試合に出場すると、2年目にはレギュラー格になります。

しかし、南海ホークスから移籍した黒田正宏選手や、ルーキー・伊東勤選手らに出番を押され、1985年のキャンプイン直前、田尾安志選手電撃トレードの交換相手として、杉本選手とともにドラゴンズへ移籍します。

移籍当時は中尾孝義選手がレギュラー捕手として君臨、その後は中村武志選手が台頭したこともあり、大石選手はレギュラーとはいきませんでした。

しかし、ケガや不調になることの多い中尾選手、また中村選手もまだまだ若手だったこともあり、大石選手の存在はとても貴重で、ドラゴンズ捕手陣になくてはならない存在でした。

前述しましたが、1987年8月9日対巨人戦で、ルーキー・近藤真一選手の初登板初先発でのノーヒット・ノーラン達成の際のキャッチャーでした。

さらに自身と同じく西武から移籍した小野和幸選手をリードし最多勝を獲得させたり、抑えの切り札・郭源治選手が登板するとセットで「リリーフ捕手」を務めるなど、多彩な起用に応えます。

中村捕手が一本立ちしたのを見届けて1991年に引退しました。

引退後はドラゴンズや古巣西武、そして福岡ダイエーホークスでバッテリーコーチを務め、さらにドラゴンズ時代の監督だった星野仙一氏が東北楽天ゴールデンイーグルス監督に就任するとm、コーチとして声がかかり二軍コーチに就任しています。

2019年からは元広島東洋カープの高橋慶彦氏とともに、高橋氏の母校・城西大付属城西高で特別コーチとして活動されています。




彦野利勝選手

生年月日  1964年10月12日
出身地   愛知県名古屋市港区
投/打   右/右
プロ野球歴 中日ドラゴンズ(1983年~1998年)
タイトル等 ベストナイン1回・ゴールデングラブ賞3回・オールスター出場3回
      オールスターMVP1回(1989年第2戦)・カムバック賞(1994年)

彦野選手は、愛知県出身です。愛知高校時代には甲子園出場も果たし、1982年のドラフト会議で中日ドラゴンズに指名され入団しました。

当時の中日ドラゴンズのセンターを守っていたのは、平野謙選手でした。強肩を生かした外野守備は名手と謳われ、盗塁王にもなった俊足、そしてバント成功率の高さを誇り、「最高の2番打者」とまで評された選手です。

その平野選手が死球によるケガで戦線離脱している間に台頭したのが、彦野選手でした。

それまで公式戦30試合に出場、1本塁打のみだった彦野選手でしたが、同年は101試合に出場、打率.254ながら11本塁打30打点を記録します。彦野選手の成長に手ごたえを感じた星野仙一監督は平野選手放出を決断、西武ライオンズ・小野和幸選手との交換トレードを成立させました。

1988年、平野選手に代わり「1番・センター」に定着します。切込み隊長として113試合に出場、打率.273 15本塁打47打点を記録しました。長打力のある1番打者として他球団の脅威となり、同年のドラゴンズ6年ぶりリーグ制覇に貢献しています。

打撃だけでなく、守備でも強肩のセンターとして活躍し、1988年から3年連続でゴールデングラブ賞を獲得しました。

1989年は長打力に磨きがかかり、26本塁打を記録しました。得点もリーグ最多の83を挙げ、オールスターに初出場を果たします。第2戦では決勝ホームランを放ちMVPを獲得しました。この年はベストナインにも選出されています。

しかし1991年6月18日、対大洋ホエールズ戦でサヨナラホームランを放った際、1塁ベースを回ったところで転倒。その場でうずくまってしまいます。何と右ひざの靭帯を切断してしまっていました。

大けがからの復帰にかける1992年、それまでの背番号57番から心機一転8番に変更します。

1993年に95試合、1994年には118試合に出場し打率.284 6本塁打49打点をマークしレギュラーに復帰しました。同年10月8日に行われた優勝決定戦、いわゆる「10.8決戦」にも「7番・ライト」で先発出場しています。

1995年以降は代打を中心とした起用となります。ここ一番でコールされる「代打・彦野」は相手を威嚇するには十分、切り札と言える存在を示しました。

背番号を入団当時の57番に戻した1998年限りで現役を引退を表明。

引退後は長く地元名古屋で解説者を務めていましたが、2012年に16年ぶりにコーチとして現役復帰し、話題となりました。




大島洋平選手

生年月日  1985年11月9日
出身地   愛知県名古屋市緑区
投/打   左/左
プロ野球歴 中日ドラゴンズ(2010年~)   
タイトル等 盗塁王1回・最多安打1回・ベストナイン1回
      ゴールデングラブ賞7回・オールスター出場4回・サイクル安打達成1回

大島選手は愛知県出身で、享栄高校から駒沢大学へと進みました。大学時代には首位打者を獲得するなど活躍を見せて、卒業後は日本生命に入社します。

社会人になっても日本選手権で首位打者になる活躍をし、2009年のドラフト会議で中日ドラゴンズに指名され、入団しています。

2009年のドラゴンズ外野陣はレフト・和田一浩選手は不動で、残り2ポジションを野本圭、李炳圭、井上一樹、蔵本英智、そして藤井淳志に平田良介の各選手が争う大激戦でした。

その外野争いに果敢に挑んだのがドラフト5位ルーキー・大島選手です。当時の落合博満監督が「守備力なら大島が一番」と評し、2010年の開幕戦では新人ながら「1番・センター」でスタメン出場。同年は104試合に出場し即戦力との期待に応えました。

翌2011年にはゴールデングラブ賞を初受賞、3年目の2012年には打率3割を達成し盗塁王を獲得しています。

井端弘和選手に代わり2番打者あるいは1番打者としてスタメンに定着しました。その一方、規定打席に到達しながら打点13という少なさが課題とされました。

2013年、2014年とケガに悩まされ、監督を退任しGMとなっていた落合氏からは「今年の守備じゃ使えない」、「お前がそんなだから、ドラフトで社会人外野手を獲った」と厳しい言葉を浴びせられます。

落合GMの叱責に対し、2015年は自己最高の6本塁打、2016年には7月20日対広島戦でサイクル安打を達成、打率.292と結果を出しました。同年中に国内FA権を取得し、動向が注目されましたが、ドラゴンズに残留します。

大島選手が名古屋出身で小さいころからドラゴンズに憧れていたこと、そして駒沢大の先輩である森繁和新監督が直々に説得に当たったことが決め手となりました。

2017年、開幕当初は1番打者でしたが、4月19日の阪神タイガース戦で初の3番に抜擢されます。8月に死球によるケガで戦線離脱するまで3番に定着し、打率.313、リーグ2位となる23盗塁を決めました。同年には1000本安打を達成しています。

2018年は自己最高を更新する7本塁打57打点、2019年は自身4度目となる打率3割をマークしました。そして2020年4月には1500安打を達成しています。

好調を維持すれば、史上4人目となる「大卒社会人経由の2000本安打」も十分に狙えそうです。

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背番号8番をつけた選手の傾向とは?

6代目の江藤選手によって「主力選手の背番号」と認識されたドラゴンズの背番号8番。8代目・島谷選手によってさらに印象が強くなりました。

江藤選手は入団時から背番号8番でしたが、大島選手や10代目・田野倉選手や12代目の彦野選手のように実績を積み、主力打者として認められた選手がその証として手にすることのほうが多いのも特徴です。

入団時は捕手でその後は一塁手や外野手としてプレーした江藤選手、強打の三塁手として鳴らした島谷選手、そして彦野選手や大島選手は外野手です。

なので、特にポジションにこだわることなく、打線に欠かせない選手に贈られる番号という傾向がみられます。

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背番号別の特徴

おわりに

今回は、中日ドラゴンズの背番号8番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?チームに欠かせない強打者が主につけてきた傾向もわかりましたね。

大島選手の後を受ける未来のドラゴンズ背番号8番の選手は、どんなポジションを守るレギュラー選手なのでしょうか。

石川昴弥選手の2番、根尾昴選手の7番とともに、10年後のドラゴンズで光輝いているに違いありません!

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