東京ヤクルトスワローズの背番号2番!歴代2番の選手と傾向を紹介

カテゴリー

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

スワローズの背番号2番の選手と問われ、あなたは誰を思い浮かべますか。

2019年限りで引退した大引啓次選手はもちろんのこと、横浜ベイスターズから移籍し正捕手を務めた相川亮二選手や強打の二番打者・リグス選手などもファンの記憶にある選手でしょう。

昭和を知るファンであればレオン選手、さらに遡って監督まで務めた武上四郎選手の名を挙げる方ももしや居るかもしれません。

しかし、一番多い意見は飯田哲也選手ではないでしょうか。

「ID野球の申し子」と言われ、その俊足と目を見張るような強肩で平成初期のスワローズ黄金期を文字通り牽引した飯田選手。その存在はスワローズファンにとっては頼もしく、他球団を応援する方にしてみれば攻守に厄介な存在として強く印象に残っています。

今回はスワローズの背番号2番の特集です。歴代の2番の全選手や特に印象深い3選手。さらに2番をつけた選手の傾向にも迫りますので、楽しみにして下さいね。




歴代の背番号2番を背負った選手をご紹介

まずは、東京ヤクルトスワローズの背番号2番の全選手をご紹介します。

年  度年 数球 団 名選 手 名
1950年~1952年3年国鉄スワローズ石川尚任選手
1953年1年国鉄スワローズ空白
1954年1年国鉄スワローズ土屋伍郎選手
1955年~1957年3年国鉄スワローズ小松原博喜選手
1958年1年国鉄スワローズ土屋章助選手
1959年1年国鉄スワローズ杉山悟選手
1960年~1964年5年国鉄スワローズ平井嘉明選手
1965年~1966年2年国鉄スワローズ岡嶋博治選手
1967年~1975年9年サンケイアトムズ武上四郎選手
1976年~1978年3年ヤクルトスワローズ杉村繁選手
1979年~1980年2年ヤクルトスワローズ空白
1981年1年ヤクルトスワローズチャーリー・マニエル選手
1982年1年ヤクルトスワローズデビッド・デンドン選手
1983年1年ヤクルトスワローズ空白
1984年~1985年2年ヤクルトスワローズクリス・スミス選手
1986年~1987年2年ヤクルトスワローズレオン・リー選手
1988年~1990年3年ヤクルトスワローズ空白
1991年~2004年14年ヤクルトスワローズ飯田哲也選手
2005年~2008年4年ヤクルトスワローズアダム・リグス選手
2009年~2014年6年東京ヤクルトスワローズ相川亮二選手
2015年~2019年5年東京ヤクルトスワローズ大引啓次選手
2020年1年東京ヤクルトスワローズアルシデス・エスコバー選手
2021年~東京ヤクルトスワローズ中村悠平選手

1950年、プロ野球2リーグ分裂を機に誕生したスワローズ。当時はヤクルトではなく、現在のJRが球団を経営しており「国鉄スワローズ」という球団名でした。

チームが増えたことに加え、リーグの盟主の座を狙う動きも絡み合い、この時選手も頻繁に引き抜きや選手の争奪戦が勃発します。スワローズはチームを作ったものの、集まったプロ選手は1人だけでした。

後はノンプロの強豪だった鉄道局の選手をそのままプロ選手として採用したり、プロに属していないアマチュア選手をかき集めたものの目ぼしい選手は既にプロ入りしており、スワローズは貧打に悩まされることになります。

何とか選手層を厚くしようと他球団から獲得しますが、放出されるのは大抵が選手生命の峠を過ぎた選手ばかり。それでもスワローズはそんな選手を入団させ、何とか上位進出を、と目論んでいました。

背番号2番の歴史にもそれは現れており、初代の石川尚任選手、2代目の土屋伍郎選手こそ生え抜き選手ですが、3代目の小松原博喜選手から7代目岡嶋博治選手までの時代は、主に他球団から移籍してきた選手の番号でした。

8代目の武上選手が9年間使用した後の1976年、「東の原、西の杉村」と言われた甲子園のスター選手、杉村繁選手が2番を引き継ぎます。ちなみに「東の原」とは現読売ジャイアンツ監督の原辰徳選手で、杉村選手はそれだけ期待を集めた選手でした。

1980年代に入ると2番は外国人選手の番号となります。1984年入団のスミス選手はかつて江川卓選手が南カルフォルニア大に野球留学した時のルームメイトでした。また、1986年大洋ホエールズから移籍してきたレオン選手はかつて実兄のリー選手とともにロッテオリオンズで強打を振るっていた選手です。

1990年、飯田選手が2番を背負いスワローズ黄金期が幕を開けます。14年もの間プレーした飯田選手の後を引き継いだのは、再び外国人選手のリグス選手です。

1年目から打率3割、2年目には2番打者ながら39本塁打を記録。3年目以降も期待を集めましたが不振に終わりました。

2009年、スワローズ初のFA獲得選手として相川選手が入団。正捕手不在のチームを救いました。2015年にはFA選手第2弾として大引選手がファイターズから移籍。宮本慎也選手引退後のスワローズ内野陣を引き締めました。

MIZUNO SHOP ミズノ公式オンラインショップ

歴代背番号2番のうち、印象深い3選手のご紹介

東京ヤクルトスワローズの背番号2番をつけた選手のうち、私が特に印象深いと思う武上選手、飯田選手、そして相川選手をご紹介したいと思います。

✓Check
各選手の紹介に合わせて、楽天市場やAmazonで販売されている商品の写真を添えています。Amazonの販売ページへのリンクが入っていますので、詳しく見てみたい場合はカードをクリック・タップしてみてください

武上四郎選手

生年月日  1941年4月8日
出身地   宮崎県宮崎市
投/打   右/右
プロ野球歴 サンケイアトムズ・ヤクルトスワローズ(1967年~1975年)
タイトル等 新人王
      オールスター出場4回

武上選手は、平成のプロ野球ファンの中には、巨人の打撃コーチとして覚えている方も多いかと思います。長嶋茂雄監督時代に計5年間、コーチを務めました。

1967年、ドラフト8位で当時のサンケイアトムズに入団します。宮崎大宮高から中央大、そして社会人・河合楽器を経て26歳でのプロ入りです。

1年目から打率.299を記録、新人王に選出されます。この年、阪神タイガースの高卒ルーキーでのちの名球会投手・江夏豊選手を抑えての受賞でした。

以降二塁手としてチームを牽引。上背はないものの攻守ともに闘志あふれるプレーぶりが人気を呼びます。入団4年目の1970年、当時の別所毅彦監督が解任されるとフロントから選手兼任監督の打診を受けるなど幹部候補生としての地位を早くから築いていました。

典型的な2番打者タイプの武上選手は入団2年目の1968年にはリーグ最多となる19犠打決めましたが、翌1969年には選手層の薄さから中軸を任され、自己最多の21本塁打を記録します。

しかし、その長打狙いのバッティングは武上選手本来のものではなく、却ってスランプを招いてしまいました。その影響からか現役生活は9年で終了します。

それでも最後まで第一線でプレーを続け、9年間の現役生活中、出場試合数が100試合を切ったのは故障で戦列を離れた1年だけでした。

引退後もスワローズに残りコーチに就任します。引退から5年後の1981年にはスワローズ初のはえ抜き監督に39歳の若さで就任しました。1978年に日本一となったものの翌1979年には最下位に沈んだチームを立て直し、1年目からチームを2位に押し上げます。

しかし、1982年から2年連続で最下位に沈み、1984年も開幕から絶不調が続いたため、4月26日に辞任。翌月5月からは当時スワローズが提携していたサンディエゴ・パドレスへ客員コーチとして入団。

その年、パドレスは優勝しワールドシリーズへ進出したため「ワールドシリーズで初めてベンチ入りした日本人」となりました。

パドレス退団後は野球解説者・評論家を務めたのち、1995年からは巨人で打撃コーチを務めます。1997年に一旦退団するものの1998年にはコーチに復帰。しかし、1999年から健康面で異変が生じ、2000年にはその病状が深刻さを増し退団。療養に努めます。

それからわずか2年後の2002年。61歳という若さで亡くなられました。

現役時代のあだ名は闘志あふれるその姿から「ケンカ四郎」。学生時代には子分が40人もいたと伝えられますが、それだけ慕われる人柄だったということなのでしょう。

飯田哲也選手

生年月日  1968年5月18日
出身地   東京都府中市
投/打   右/右
プロ野球歴
ヤクルトスワローズ(1987年~2004年)
東北楽天ゴールデンイーグルス(2005年~2006年)
タイトル等 盗塁王1回・ベストナイン1回
      ゴールデングラブ賞7回・オールスター出場2回

飯田選手は、千葉・拓大紅陵高時代から俊足と強肩で注目を集めていました。遠投100m以上という肩の強さを買われ2年生で外野手から捕手へコンバートされます。3年時には春夏の甲子園に連続して出場。プロ入りも捕手としての入団でした。

入団当時のスワローズ捕手陣は長年正捕手を務めた「八重樫打法」で有名な八重樫幸雄選手が現役晩年に差し掛かり、後継者作りが急務という状況です。

その筆頭候補であった秦真司選手はバッティングはいいのですが肩が捕手としては弱く、チャンスは飯田選手にも訪れ、高卒3年目ながら早くも一軍マスクを被るなど期待の若手捕手でした。

しかし、1990年、監督に野村克也氏が就任します。同時にドラフト2位で社会人・トヨタ自動車から古田敦也選手が入団したことで飯田選手の運命は大きく変わりました。

古田選手に捕手としての可能性を確信した野村監督は飯田選手の足の速さに注目します。捕手を断念させ、外野手転向を命じました。

さらに前年の新人王でこの年も正二塁手として期待されていた笘篠賢治選手が不振と見るやその代役に飯田選手を起用します。飯田選手は二塁手としての練習をロクにしないまま試合に出場し続けました。最終的には117試合に出場、打率.279 29盗塁を記録しています。

翌1991年は新外国人選手のレイ選手が二塁手だったこともあり外野手へと転向。これがハマり天職とまで呼ばれるほど飯田選手はセンターとして不動の地位を築きます。この年、初のゴールデングラブ賞に輝くと1997年まで7年連続で受賞しました。

1992年は不動の1番打者としてチームの14年振り優勝に貢献、盗塁王にも輝きました。ですが、この年の日米野球で右肩を脱臼してしまいます。翌年以降のプレー、特に飯田選手の特徴でもある強肩に陰りが出るのではと心配されました。

1993年、ケガは予想よりはるか早く治り戦列復帰しますが、打撃不振に陥ります。守備でも全力のバックホーム送球を制限されていました。

しかし、二年連続で出場した日本シリーズでその封印を破り70mのダイレクト送球で走者を封じます。チームは日本一、シリーズでは打撃も復調した飯田選手は優秀選手賞を獲得しました。

その後ケガや真中満選手ら若手の台頭、高橋智選手や佐藤真一選手ら移籍組の活躍、更には自身のケガも重なり出場機会が徐々に減っていきます。2006年から2年間は東北楽天ゴールデンイーグルスでプレーしたのち現役を引退しました。

引退後はスワローズに戻りコーチに就任します。退団後は福岡ソフトバンクホークスでコーチを2019年シーズンまで務めました。

共に日本一を勝ち取った高津臣吾新監督となったスワローズに飯田コーチの力が必要になるときはきっと来ます。飯田選手の現役時代を彷彿とさせるような、強肩俊足の外野手がスワローズに出現することを楽しみにしましょう!




相川亮二選手

生年月日  1976年7月11日
出身地   千葉県市川市
投/打   右/右
プロ野球歴
横浜ベイスターズ(1995年~2008年)
東京ヤクルトスワローズ(2009年~2014年)
読売ジャイアンツ(2015年~2017年)
記録他  オールスター出場5回・全球団から本塁打(史上27人目)

相川選手は、千葉・東京学館高入学時は俊足強肩の外野手でした。2年生の冬にその強肩を見込まれ捕手に転向します。足が速かったこともあり、捕手としては珍しい1番打者として活躍していましたが、甲子園出場はなりませんでした。

1994年のドラフト会議で横浜から捕手として5位指名されプロ入りした相川選手。捕手としての経験は1年未満ということを考えれば異例の指名と言えますが、それだけ素材に光るものがあったのでしょう。

プロ入り後は改めて捕手としての基礎を学びましたが、打撃の方は評価が高く、ファームでは安定した成績を残しています。しかし、当時横浜には谷繁元信選手という強力な正捕手がおり、相川選手の打撃を活かすため外野手としての練習も行っていました。

2002年、谷繁選手が中日ドラゴンズへFA移籍。相川選手は開幕スタメンに起用されるなど正捕手としての期待されましたが、その座は谷繁選手と入れ替わるような形で移籍してきた中村武志選手が掴みます。

2003年も中村選手との併用は続いたものの徐々に頭角を現し、2004年にアテネ五輪出場。その帰国後から好調をキープし、2005年には144試合に出場、ついに正捕手となりました。

2007年には打率.302を記録しました。これはホエールズ時代を含め、横浜の捕手としては史上最高打率となっています。2008年オフにはMLB移籍を試みるも結局はスワローズに移籍しました。

2007年に古田選手が引退して以降、正捕手不在に苦しんでいたスワローズにとって、まさに相川選手の移籍は最高の補強となりました。

また相川選手もその期待に応え、移籍1年目から122試合に出場と正捕手の座にどっかりと座り、移籍2年目の2010年には打率.293、自己最多の11本塁打65打点を挙げる活躍。チームを2位へと導きました。

2012年以降は自身のケガもあり出場機会が減少。2013年9月14日の対阪神タイガース戦ではマートン選手のラフなタックルに激高、退場処分を受けました。このプレーをキッカケのひとつとして導入されたのがコリジョンルールです。

マートン選手へ激高したのには伏線があり、チームメートである田中雅彦選手がマートン選手のラフプレーで鎖骨骨折の重傷を負ったことで「次にやってきたら、俺がやり返してやる」と約束していたのです。

2014年、中村悠平選手の成長もあり二度目のFA宣言を行い巨人へ移籍します。小林誠司選手のサポートして3年間プレーしたのち現役を引退。実に23年という現役生活でした。

スワローズ退団時も、巨人で引退時もコーチ就任の打診がありましたが、「他人の人生を預かるからには、自分がしっかり勉強してからにしたい」という理由で辞退します。

引退後は評論家生活の傍らメンタルトレーナーの資格を取得しました。2019年からは巨人でバッテリーコーチに就任。早速リーグ優勝を果たし、チームに貢献しました。

暴力は許されることではありませんが、「熱い心」を持った相川選手。その存在は巨人捕手陣にとって、強力な「兄貴」として、力強い存在であることは間違いまりません。

ちなみに、高校時代の1学年下に、のちにチームメートとなる石井弘寿選手がおり、バッテリーを組んでいました。相川選手と石井選手は2004年アテネ五輪でともに日本代表に選出され銅メダルを獲得しています。

高校の同窓がプロで同じチームになる、ということはよくある例ですが、日本代表となるとなかなか珍しいケースですね!

さらに、2001年5月3日の対スワローズ戦で放ったプロ初ホームランは石井選手から放ったものですし、石井選手現役最後のマウンドでバッテリーを組んだのは相川選手、とプロになってからも何かと縁のある二人でした。

MIZUNO SHOP ミズノ公式オンラインショップ

背番号2をつけた選手の傾向とは?

選手集めに苦心した創成期、外国人選手頼みだった1980年代、黄金期を迎えた1990年代、そしてFA導入で弱点をピンポイントで補強できるようになった平成期・・・。

背番号2番の歴史は、そのままスワローズの歴史と言えます。

武上選手の着用により、スワローズ主力選手の番号として認知されました。

相川選手はスワローズへの入団交渉の席で、古田選手の背番号であり準永久欠番扱いとなっている27番を提示されます。相川選手が固辞し、それならば、と背負うことになったのが2番だったのです。期待通りの活躍を示し、中村悠平選手という後継者を残してスワローズを去りました。

大引選手は浦直亨選手や広岡大志選手の成長を促し、その存在は後まで語り継がれることでしょう。




Check
当ブログでは、他にも東京ヤクルトスワローズや球団別の背番号に関しての話題を提供しています。よろしければご覧になってみてくださいね。
東京ヤクルトスワローズの話題
当ブログでは、野球に関する話題も多数お届けしています。よろしければ、ご覧になってみてくださいね。
野球に関する話題はこちらからどうぞ
背番号別の特徴に関しての話題を提供しています。よろしければご覧になってみてくださいね。
球団別背番号の話題

おわりに

今回は、東京ヤクルトスワローズの背番号2番を特集しましたが、いかがだったでしょうか?

スワローズでも監督を務めた野村克也さんが生前おっしゃっていた言葉をふと思い出しました。

「金を残すのは三流。名を残すのは二流。人を残すのは一流」

相川選手も、大引選手も「一流」の存在であったのですね!

2021年から2番を背負う中村悠平選手、歴代の2番の選手の様に輝ける存在となれるのか、注目していきたいと思います。

最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。