こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
プロ野球界のみにとどまらず、スポーツ界において長年1つのチーム一筋で活躍した選手は、「ミスター〇〇」と呼ばれることが多々あります。
プロ野球界のロッテオリオンズ~マリーンズでも何人かの選手が「ミスター」と呼ばれました。今回はその中の2人の「ミスター」がつけた千葉ロッテマリーンズの背番号8番の特集です。
歴代の8番の全選手や特に印象深い3選手、さらに8番をつけてきた選手の傾向にも迫っていきたいと思います。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号8番を背負った選手をご紹介
まず、千葉ロッテマリーンズの背番号8番をつけてきた選手をご紹介します。
初代は戸倉勝城選手です。35歳で新規球団の立ち上げに参加し、パ・リーグ第1号本塁打を記録している選手です。
2代目は山内一弘(和弘)選手です。打点王や首位打者など打撃タイトルを獲得し、オリオンズの黎明期を支えた選手です。
3代目・西山和良選手は、阪神タイガースから移籍してきた外野手です。引退後はコートや球団職員を歴任しました。
4代目・森徹選手は、東京六大学を代表するホームランバッターとしてファンを沸かせ、プロでも長距離砲として活躍しました。
5代目の有藤道世選手は、選手時代から監督時代まで20年以上に渡ってオリオンズ一筋を貫いた「ミスターロッテ」です。
6代目のマックス・ベナブル選手は、有藤選手以降空白となっていた背番号8番を引き継ぎましたが期待されたような成績は残せませんでした。
7代目は平野謙選手です。中日・西武時代は俊足と犠打の名手として活躍しました。晩年はロッテに在籍しました。
8代目は定詰雅彦選手です。背番号8番への変更となりましたが、すぐさまトレード移籍となったためそのユニフォームに袖を通すことはありませんでした。
9代目は清水将海選手です。背番号8番は定詰選手の移籍に伴い、同じポジションだった清水選手が急遽引き継ぐこととなりました。
10代目・波留敏夫選手は、横浜時代はマシンガン打線の2番打者として活躍した選手です。引退前の2年はロッテに在籍しました。
11代目・今江敏晃選手は、「ゴリ」の愛称で親しまれ、長年ロッテの三塁手として活躍しました。第1回WBCでは日本代表に選出されました。
12代目の中村奨吾選手は、内野手です。チャンスに強いバッティングと固い守備が持ち味です。
背番号8番を背負って活躍した3選手のご紹介
次に、歴代の千葉ロッテマリーンズの背番号8番の選手のうち、私が特に印象深く思う、山内選手、有藤選手、そして今江選手をご紹介したいと思います。
山内一弘(和弘)選手
出身地 愛知県一宮市
投/打 右/右
プロ野球歴
毎日オリオンズ~毎日大映オリオンズ(1952年~1963年)
阪神タイガース(1964年~1967年)
広島東洋カープ(1968年~1970年)
タイトル等 首位打者1回・本塁打王2回・打点王4回
MVP1回・ベストナイン10回・オールスター出場16回・野球殿堂
山内選手は、多くの打撃タイトルや表彰を受けた昭和の偉大な打者の一人です。愛知県出身の山内選手は、旧制中学時代の起工業学校(現起工業高校)の野球部でプレーしました。
当時から非凡な才能があった山内選手でしたが、高2の時に中日の入団テストを受け不合格となってしまいます。結果的に高卒プロ入りはかなわず社会人野球の川島紡績に進みました。
都市対抗野球に出場しますが、その際、球審だった井野川氏(後のフライヤーズ監督)に誘われ、オリオンズのテスト生としてプロの世界へ飛び込むこととなりました。
入団の経緯は現代では考えられないものとなっています。
プロ1年目では熱心に打撃練習に取り組み、44試合の出場でしたが、打率.336の高打率を残しました。そして3年目には、クリーンアップに定着して不動のレギュラーを確保し、打点王のタイトルを獲得します。
以降10年間に渡ってオリオンズの中軸打者として活躍し、2度の本塁打王、4度の打点王、4年連続最高出塁率など輝かしい成績を残しました。
その後、阪神、広島でも活躍を見せました。
山内選手は、川上哲治選手に次ぐ史上2人目の2000本安打を達成した打者です。
引退後は各球団で監督やコーチを歴任しましたが、オリオンズ監督時代には落合博満選手をドラフト指名し、大打者としての土台を叩き込みました。
また、現役時代はどの球団でも背番号8番をつけていましたが、最後の在籍となった広島では、その背番号を山本浩二選手が受け継ぎました。
山内選手の大打者のDNAとも言える部分は、様々な形で次世代の打者に受け継がれてきています。
有藤通世選手
出身地 高知県土佐市
投/打 右/右
プロ野球歴
ロッテオリオンズ(1969年~1986年)
タイトル等 首位打者1回・新人王・ベストナイン10回
ダイヤモンドグラブ賞4回・オールスター出場13回
有藤選手は、現役時代から監督時代まで、ロッテ一筋を貫いた「ミスター・ロッテ」です。そんな有藤選手は、名門・高知高校でプレーしました。
チームは高3時の夏の甲子園で優勝しましたが、有藤選手は顔面死球の影響で優勝の輪には加われませんでした。卒業後は近畿大に進学し、近大のリーグ戦初優勝などに貢献しています。
1968年のドラフト会議ではオリオンズから1位指名を受け入団しました。山内選手以降、定着していなかった背番号8番を受け継ぐと、1年目から活躍を見せます。
リーグ最多三振を喫するものの、21本塁打、打率.285の成績で新人王を獲得しました。以降はロッテの中心選手として長年活躍します。
毎年3割近い安定した打率を残し、17年連続の2桁本塁打、14年連続2桁盗塁などを記録しました。その間、ベストナインやダイヤモンドグラブ賞などの表彰も受けています。
18年間の現役を終えたあとはそのままロッテの監督に就任しました。しかし、5位・6位・6位と低迷し、3年間で愛用したユニフォームを脱ぐこととなります。
有藤選手と言えば、パリーグの大卒選手としては初の2000本安打を達成したり、多くの選手に影響を与えた選手の1人です。
多くの功績のため、有藤選手以降は背番号8番が5年もの間欠番になるなど、間違いなくロッテ史に残る大打者の1人です。
今江敏晃選手
出身地 京都府向日市
投/打 右/右
プロ野球歴
千葉ロッテマリーンズ(2002年~2015年)
東北楽天ゴールデンイーグルス(2016年~2019年)
タイトル等 ベストナイン1回・ゴールデングラブ賞4回・オールスター出場3回
京都府出身の今江選手は、名門・PL学園高校出身で1年生時から4番に座りました。
同級生には後にプロ入りする朝井秀樹選手、桜井広大選手、小斉祐輔選手らがおり今江選手は高3の時のドラフト会議でロッテから3位指名を受け入団しています。
入団1~2年目こそ1軍出場は数える程度でしたが、3年目はレギュラー争いを繰り広げます。そして4年目には有藤選手らも背負った期待の背番号8番を受け継ぐと覚醒ともいえる活躍を見せました。
打率.310、35二塁打などの活躍でチームのリーグ優勝、日本一に大きく貢献しています。特に日本シリーズでは打率.667の活躍でシリーズMVPを獲得し、翌春の第1回WBCでも侍ジャパンに選出されました。
この年も含めて10年以上に渡ってロッテの中心選手として活躍し、タイトル獲得こそなかったものの4度の打率3割越えや、4年連続のゴールデングラブ賞獲得など好守に渡ってチームを支えました。
その後はFAで楽天に移籍し、4年間プレーし、現役引退しています。
「ゴリ」という愛称や、西岡選手らとともにボビーチルドレンと呼ばれたことなど、記録よりも記憶に残る選手の1人で、近年のロッテを大きく支えた選手の1人です。
背番号8番をつけた選手の傾向とは?
千葉ロッテマリーンズの背番号8番つけてきた選手は、全てが野手登録でほとんどが内野や外野として活躍した選手でした。
ロッテの1桁背番号の中でも、歴代の背負った選手の数が少ない背番号となっています。山内選手の12年、有藤選手の18年、今江選手の11年など長年着用した選手が多いこともその理由の1つです。
それだけ球団も使用する選手を選んでいる感じがあり、助っ人外国人の着用者が1人しかいないことにも表れています。
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⇒背番号別の特徴
今回は千葉ロッテマリーンズの背番号8番を特集してきましたがいかがだったでしょうか。
これまで長年着用してきた選手が多い背番号8番、今後もチームの中心選手が背負っていく事になるでしょう。
最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。