巨人軍の背番号0番!歴代の0番の選手とその傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

読売ジャイアンツが輩出した世界に誇る選手として真っ先に名前が挙がるのが「世界のホームラン王」王貞治選手です。王選手が放った868本のホームランは今後も破られることがないであろう偉大な記録です。

そんな中で、もう一つの世界記録があるのをご存知でしょうか。川相昌弘選手が記録した通算533犠打はギネスブックにも記載されている偉大な世界記録です。

今回は川相選手も使用した読売ジャイアンツの歴代の0番の特集です。歴代背番号0番をつけた全選手や特に印象深い3選手、さらに0番をつけてきた選手の傾向にも迫っていきたいと思います。




■目次(クリックすると飛びます)

歴代の背番号0番を背負った選手をご紹介

まず、読売ジャイアンツの背番号0番をつけてきた選手をご紹介します。

初代は長岡久夫選手です。ジャイアンツで最初に背番号0番をつけた選手として知られていますが、1軍出場はありませんでした。

2代目は川相昌弘選手です。通算533本の犠牲バントは世界記録で、「バント職人」「バントの神様」と呼ばれました。

3代目の川中基嗣選手は、内外野の全ポジションを守れる強肩・俊足のユーティリティープレイヤーとして活躍した選手です。

4代目の木村拓也選手は、球界屈指のユーティリティープレーヤーで、内外野だけでなく緊急時は捕手としての出場もありました。

5代目・工藤隆人選手は、プロ14年間で4球団を渡り歩きました。大村三郎選手の加入によりシーズン途中で背番号0番を明け渡しました。

6代目・大村三郎選手は、長年在籍したロッテでは「サブロー」の登録名でお馴染みの選手です。巨人では本名での登録となりました。

7代目は藤村大介選手です。2007年の高校生ドラフト1位で入団し、2011年には盗塁王のタイトルを獲得するなど俊足が武器の選手でした。

8代目は吉川尚輝選手です。入団当初は背番号0番を背負いましたが現在は背番号が2番になり、二塁手のレギュラーに定着しました。

9代目の増田大輝選手は、育成出身のユーティリティープレーヤーです。毎年期待の選手に挙げられていますが代走や守備固めでの出場が目立ちます。




背番号0番を背負って活躍した3選手のご紹介

次に、歴代の読売ジャイアンツの背番号0番の選手のうち、私が特に印象深く思う、川相選手、木村選手、そして増田選手をご紹介します。

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川相昌弘選手

生年月日 1964年9月27日
出身地 岡山県岡山市
投/打 右/右
プロ野球歴
読売ジャイアンツ(1983年~2003年)
中日ドラゴンズ(2004年~2006年)
タイトル等 ベストナイン1回・ゴールデングラブ賞6回・オールスター出場2回

川相選手は、通算533犠打の正解記録を持つ選手です。岡山南高校時代には投手として甲子園にも出場し、高3時の1982年のドラフト4位で巨人に入団しました。

入団から6年ほどは守備要因としての出場が目立ち、犠打はシーズンで数回ほどでした。一気にブレイクを果たしたのは7年目の1989年です。確実性のある小技を磨き、2番・ショートの座を勝ち取ります。

規定打席には届かなかったものの、持ち前の守備能力でゴールデングラブ賞も獲得しました。翌年には58犠打のプロ野球新記録を更新、さらに翌年にはその記録を66犠打まで伸ばしています。

それ以降もレギュラーとして活躍した期間で7度のシーズン最多犠打を記録するなど「バントの名手」としての地位を確立しました。

若手選手の台頭などで次第に出場機会は減りましたが、1998年には通算452犠打のプロ野球新記録を樹立。2003年には通算512犠打を達成し、エディ・コリンズ選手のMLB記録を超え、ギネス世界記録にも認定されました。

同年には現役引退し、コーチ就任が決定的となっていましたが、当時の原監督の退任に伴い引退宣言を撤回し、元同僚の落合博満が監督に就任した中日ドラゴンズに入団テストを経て、移籍が決まりました。

中日では3年間の在籍でしたが、バント要員や守備要因としての出場が主で通算犠打を533まで伸ばしています。

木村拓也選手

生年月日 1972年4月15日
出身地 宮崎県宮崎市
投/打 右/両
プロ野球歴
日本ハムファイターズ(1991年~1994年)
広島東洋カープ(1995年~2006年)
読売ジャイアンツ(2006年~2009年)
タイトル等 オールスター出場2回

木村選手は宮崎県出身で、宮崎南高校時代には強肩強打の捕手として活躍しました。ドラフト外入団が認められていた最終年の1990年にドラフト外で捕手として日本ハムに入団しました。

そんな経緯もあって一時は支配下登録から外れたこともありましたが外野手に転向すると次第に出場機会を増やします。

広島にトレード移籍後は出場機会に恵まれませんでしたが、内野手の守備に加え、スイッチヒッターにも挑戦すると転機が訪れます。

プロ10年目の2000年ごろには上位打線に定着してチームの主力選手として活躍しました。

ブラウン監督に代わると出場機会が減り、出場機会を求めてトレードを志願しましたが、移籍先は戦力が充実している巨人となりました。

絶対的なレギュラーとまではいかないまでも広島と同様、ユーティリティーさを武器に重宝されました。

巨人には4シーズン在籍し、その後はそのままコーチに就任しました。そしてその年、プロ野球ファンを悲しませるニュースが飛び込みます。

木村コーチはシートノック中にグラウンドで倒れると、そのままくも膜下出血で帰らぬ人となってしまいました。

シーズン打率3割もゴールデングラブ賞も獲得したことはありませんが、「俊足・強肩・巧打」と、攻守ともに優れた球界屈指のユーティリティープレイヤーとして非常に重宝された選手でした。

増田大輝選手

生年月日 1993年7月29日
出身地 徳島県徳島市
投/打 右/右
プロ野球歴
読売ジャイアンツ(2016年~)
タイトル等 なし

増田選手は、徳島県出身で高校は地元の小松島高校で投手として活躍しましたが、惜しくも甲子園には届きませんでした。大学は近畿大に進学しますが、2年時に退学しています。

帰郷し一旦は野球の道を諦めましたが、高校のコーチの薦めで四国アイランドリーグのトライアウトを受験し、徳島インディゴソックスから3位指名を受け入団しました。

ルーキーイヤーの2014年は、二塁手のレギュラーとして定着し、チームの独立リーグ日本一に貢献しました。翌年にはNPBのドラフト会議で育成ドラフト1巡目で読売ジャイアンツから指名を受け入団しています。

1年目の2016年には、支配下登録はなく主に三軍での出場となりましたが当時の川相三軍監督から「成長株」として名を挙げられました。

2年目には支配下登録は掴んだものの一軍出場はかないませんでした。3年目にも1軍出場はありませんでしたが2軍での出場機会を増やします。

4年目の2019年には初の1軍出場を果たし、チームトップの15盗塁を決めました。同年オフには背番号0番に変更されました。

翌年以降も代走・守備要因としての出場が主となりますが、内外野を守れるユーティリティプレーヤーとして重宝されました。




背番号0番をつけた選手の傾向とは?

読売ジャイアンツの背番号0番をつけた選手は、まだ9名の選手しか使用していません。

本格的に背番号0番を背負った川相選手のイメージが強く、川相選手のように、小技ができてユーティリティ性のある選手が代々受け継いできたと言っていいでしょう。

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おわりに

読売ジャイアンツの背番号0番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?

川相選手、木村選手らのいぶし銀タイプの選手が背負ってきた背番号ですが、近年では、藤村選手、吉川選手、増田選手らの期待の若手選手がつけるイメージも定着しています。

巨人の一桁背番号の中ではチームの顔的な選手の使用はまだなく、今後背番号0を背負う選手の活躍に注目です。