こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
日本のプロ野球界において、背番号0番の40年程度と、他の背番号に比べると歴史は長くありません。そんな中、各球団で0番を印象づけるような選手が生まれてきています。
背番号0番が根付いてきた日本のプロ野球、今回は福岡ソフトバンクホークスの歴代の0番の特集です。歴代背番号0番をつけた全選手や特に印象深い3選手、さらに0番をつけてきた選手の傾向にも迫っていきたいと思います。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号0番を背負った選手をご紹介
まずは、福岡ソフトバンクホークスの背番号0番をつけてきた選手をご紹介します。
初代は立石充男選手です。ユーティリティ性のある選手で、引退後は日台韓の各球団で長年コーチを務めました。
2代目は佐々木誠選手です。首位打者や盗塁王も獲得したことがある選手です。DeNAの佐野選手の伯父にあたります。
3代目の坂口千仙選手は、福岡六大学野球リーグで大活躍し、地元のダイエーホークスにドラフト2位指名で入団した選手です。
4代目の島田誠選手は、長年日本ハムの中心選手として活躍しましたが、現役の最終年に地元の福岡でプレーしました。
5代目・浜名千広選手は、バントなど小技のできる内野手です。一発はないものの、俊足や小技を武器に活躍しました。
6代目・石毛宏典選手は、西武時代に黄金時代を支えた選手の一人です。独立リーグの創始者としても野球界における功績は大きいものがあります。
7代目は鈴木慶裕選手です。俊足の外野手で、日本ハムを戦力外となりテスト入団でダイエーに加入しました。
8代目は大越基選手です。守備や代走としてのイメージが強い選手ですが、仙台育英高校での甲子園準優勝投手として入団しています。
9代目の高橋和幸選手も投手として入団しましたが野手転向した選手です。10年の在籍でしたが長年2軍生活が続きました。
10代目の仲澤忠厚選手は、大型内野手として期待されましたが、プロでは目立った成績を残せませんでした。
11代目・髙田知季選手は、堅実な守備が持ち味の選手です。ホークスの歴代背番号0番の選手の中では最も長い期間この背番号を背負いました。
背番号0番を背負って活躍した3選手のご紹介
次に、歴代の福岡ソフトバンクホークスの背番号0番の選手のうち、私が特に印象深く思う、佐々木選手、浜名選手、そして大越選手をご紹介します。
佐々木誠選手
生年月日 1965年10月3日
出身地 岡山県倉敷市
投/打 左/左
プロ野球歴
南海ホークス~福岡ダイエーホークス(1984年~1993年)
西武ライオンズ(1994年~1998年)
阪神タイガース(1999年~2000年)
タイトル等 首位打者1回・盗塁王2回・最多安打2回
ベストナイン6回・ゴールデングラブ賞4回・オールスター出場6回
佐々木選手は、岡山県出身で水島工業高校時代には投手として活躍しましたが、甲子園出場はなりませんでした。
打者としての才能を見込まれ、1983年ドラフト会議で南海ホークスから6位指名を受けて外野手として入団します。
4年間で通用しなかったら野球をやめるつもりだったと語っていますが、1年目に厳しい練習を積むと2年目には1軍で54試合に出場し、3年目には79試合に出場、4年目にはレギュラーに定着しました。
以降は主に1番や2番打者で出場しチームの中心選手として活躍を見せました。
中でも8年目と9年目の活躍は目覚ましく、8年目の1991年には158安打でリーグ最多安打を放ち、9年目の1992年は164安打で2年連続のリーグ最多安打に加え、打率.322で首位打者、40盗塁で盗塁王にも輝いています。
1993年オフには秋山幸二選手らとの複数トレードで西武に移籍します。西武には5年間在籍し、タイトルは盗塁王1回に終わったものの、ベストナインを獲得するなどの活躍を見せました。
走攻守を兼ね備え、秋山幸二選手とともに「メジャーに一番近い男」と称されたこともあり、現役最終年には米独立リーグにも挑戦して現役引退となりました。
その後はプロのコーチ、社会人の監督等を経ています。
浜名千広選手
出身地 京都府向日市
投/打 右/左
プロ野球歴
福岡ダイエーホークス(1992年~2001年)
ヤクルトスワローズ(2002年~2003年)
千葉ロッテマリーンズ(2004年)
タイトル等 オールスター出場3回
浜名選手は、京都府育ちの選手ですが、高校時代は東京の国士舘高校でプレーし、東京屈指の強打者として注目されました。
大学は名門・東北福祉大で内野手として活躍しましたが、大学の2学年上には佐々木主浩選手、1学年上には矢野燿大選手、同期には斎藤隆選手や金本知憲選手らがおり、プロ野球史に残るそうそうたるメンバーとともにプレーしました。
1991年のドラフト会議では、ダイエーから3位指名を受け入団します。入団後は1年目から1軍に定着し、打率を残すタイプではないものの、バントなどの小技、俊足、守備は非凡なものを見せ、入団から8年は主力選手として活躍しました。
入団9年目の2000年ごろからは持病のヘルニアが悪化し、2軍生活が長くなります。結果、ダイエーを戦力外となり、ヤクルト、ロッテを経て現役引退となりました。
プレースタイルとしては華やかなタイプではなく、いぶし銀といったタイプでしたが、端正なマスクなどでも人気を博した選手でした。
大越基選手
出身地 宮城県七ヶ浜町
投/打 右/右
プロ野球歴
福岡ダイエーホークス(1993年~2003年)
タイトル等 なし
大越選手は、宮城県出身で高校時代は仙台育英高校でエースとして活躍しました。
1989年夏の甲子園では大越選手がエースとして決勝まで進出。しかし決勝では大越選手が9回まで0に抑えるも、打線の援護がなく、延長戦の末に帝京高校に敗れました。
そんな活躍もあり、プロからの誘いもありましたが、「楽しく自由な野球がしたい」と早稲田大学に進学します。1年春からリーグ戦に出場しましたが、大学野球伝統の空気に馴染めず、1年時で野球部を退部し、大学も退学しました。
その後はアメリカの1Aチームでプレイすると、同年秋のドラフト会議で松井秀喜選手の抽選を外したダイエーから1位指名を受け入団しました。
投手としての入団でしたが、なかなか芽が出ないのに加え怪我も重なってしまいました。
そんな中、プロ4年目の1996年には本格的に野手への転向を決断します。翌1997年には投手としての背番号19番から野手としての背番号51番へ変更しましたが、またもや怪我で思うような結果が残せません。
ようやく1軍で活躍できたのは背番号を0番にした1999年で、主に代走や守備要員となりましたが82試合に出場しました。
2003年に現役引退後は教員資格取得するため、山口県の東亜大学に入学ています。
背番号0番をつけた選手の傾向とは?
福岡ソフトバンクホークスの背番号0番のまだ浅く、11名の選手しか使用にとどまっています。
佐々木選手や石毛選手のような実績のある選手も背負ってきた背番号ではありますが、長い年数使用したわけではなく、「ホークスの0番と言えば」というイメージの薄い背番号でもあります。
ただし他球団と同様、俊足や守備のうまい選手が使用しているケースが多いのもわかりました。
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おわりに
福岡ソフトバンクホークスの背番号0番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?
長年使用した選手が少ない背番号でしたが、近年では仲澤選手が7年、高田選手が10年と比較的長期間使用しています。しかし両選手とも1軍でバリバリ活躍したというわけではありません。
今後、背番号0番を背負う選手の活躍が期待されます
最後までお読みいただきありがとうございました!