こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
甲子園では毎年スター選手や人気選手が生まれます。浪商のドカベン・香川選手もその1人でした。
バッテリーを組んだ牛島投手は夏の甲子園100回大会でレジェンド始球式も務めたことから、当時の人気・実力はかなりにものだったことがわかります。
今回はそんな香川選手も使用した福岡ソフトバンクホークスの歴代の2番の特集です。歴代背番号2番をつけた全選手や特に印象深い3選手、さらに2番をつけてきた選手の傾向にも迫っていきたいと思います。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号2番を背負った選手をご紹介
まずは、福岡ソフトバンクホークスの背番号2番をつけてきた選手をご紹介します。
初代は吉川義次選手です。ホークスの前身である南海軍からチームを支えた捕手で、戦争によるプロ野球中断後もチームに復帰しました。
2代目は室井豊選手です。1941年に復員し南海に入団した選手です。戦後はブラジルで野球指導を行った功績があります。
3代目の鈴木芳太郎選手は、専修大時代に東都の名投手と呼ばれ、1938年の南海軍の開幕投手も務めました。
4代目の筒井敬三選手は、戦後のグレートリング~南海ホークス時代の選手で、野村克也選手が入団するまで正捕手でした。
5代目・有友敏選手は、若手の投手で通算4シーズン南海に所属しました。1952年途中に背番号を52番に変更しています。
6代目・小畑正治選手は、先発・救援で活躍し1955年には48試合登板、13勝4敗と好成績を記録してリーグ優勝に貢献しました。
7代目はジョン・サディナ選手です。リーグ優勝時にチームメイトとビールかけをしたことが日本球界でのビールかけの元祖となりました。
8代目は小池兼司選手です。ホークスの背番号2番をつけた選手の中で最長となる15年使用し、ショートのレギュラーとして活躍した選手です。
9代目の鶴崎茂樹選手は、ショートのレギュラー争いをした翌シーズンから背番号2番を背負いましたが、その後はあまり活躍できませんでした。
10代目の香川伸行選手は、横幅の広いキャッチャーで、漫画・ドカベンの山田太郎に似ていたことから、高校時代からドカベンの愛称で親しまれました。
11代目・大野久選手は、俊足巧打のスイッチヒッターの外野手です。1991年には盗塁王のタイトルも獲得しました。
12代目・城島健司選手は、歴代でも屈指の打てる捕手の1人です。メジャーでも日本人初の捕手として活躍しました。
13代目は今宮健太選手です。華麗な守備と球界屈指の強肩が有名ですが、多くの犠打を記録している犠打の名手です。
14代目はスチュワート・ジュニア選手です。高校時代はメジャーのドラフト1巡目指名を受けましたが契約合意に至らず、日本球界でプレ-しています。
背番号2番を背負って活躍した3選手のご紹介
歴代の福岡ソフトバンクホークスの背番号2番の選手のうち、私が特に印象深く思う、香川選手、城島選手、そして今宮選手をご紹介します。
香川伸行選手
出身地 大阪府大阪市
投/打 右/右
プロ野球歴
南海ホークス~福岡ダイエーホークス(1980年~1989年)
タイトル等 ベストナイン1回・オールスター出場2回
香川選手は小学生時代に徳島県から大阪府に移り住みました。浪商高校時代には、中日やロッテで活躍した牛島和彦選手とバッテリーを組み甲子園に3度出場するなど活躍しています。
甲子園大会通算5本塁打は清原選手に抜かれるまで最多記録でした。高校時代からその活躍ぶりや、野球漫画「ドカベン」の山田太郎選手とポジションが同じで体型が似ていたことから、プロに入ってからもドカベンの愛称で親しまれました。
1979年のドラフト会議では南海ホークスに2位指名を受け入団します。1年目の7月にプロ初出場を掴むと初打席で場外ホームランを放つ鮮烈なデビューを果たしました。
その後、絶対的な正捕手の座を掴むことができず、プロ10年間で規定打席に到達したシーズンはありませんでした。
4年目の1983年には105試合に出場し打率.313、15本塁打を記録し、ベストナインに選出されるなど打撃面を中心にある程度の活躍を見せたシーズンはありましたが、高校時代の活躍からすると少し物足りないものだったかもしれません。
引退後は野球評論家を務めたり、福岡県でクラブチームを結成するなど野球界には携わっていましたが、病気がちになったり送った人生は波乱万丈でした。
そして2014年には52歳の若さで惜しまれつつこの世を去ってしまったのです。
ドカベン香川と言えば野球ファンにとって知らない人はいないほど愛された存在でした。
城島健司選手
出身地 長崎県佐世保市
投/打 右/右
プロ野球歴
福岡ダイエーホークス~福岡ソフトバンクホークス(1995年~2005年)
シアトル・マリナーズ(2006年~2009年)
阪神タイガース(2010年~2012年)
タイトル等 最優秀選手1回・ベストナイン6回・ゴールデングラブ賞8回・オールスター出場9回
城島選手は球界屈指の強打のキャッチャーとして活躍した選手です。長崎県出身でありますが、大分の別府大附属高校に進学し、強肩を見込まれ捕手に指名されました。
高校では1年生時から4番打者として起用され、高校通算70本塁打を記録するなど活躍しましたが、惜しくも甲子園出場はありませんでした。
進路は駒沢大への内定が決まっていましたが、本心はプロ入りと呼んだ福岡ダイエーが城島選手をドラフトで強行指名。憧れの王選手が次期監督となること、その王監督から誘いを受けたことで入団を決めました。
入団2年ほどは2軍での教育が中心となりましたが、3年目には1軍で才能が開花します。高卒3年目で捕手のレギュラーを掴むだけでなく、打率.308、15本塁打と打撃面でもかなりの成績を残しました。
以降のホークスの絶対的捕手として活躍は数字を挙げればキリがないほどです。この間、2003年の打率.330、34本塁打、119打点に2004年の打率.338、36本塁打、91打点を記録します。
打撃タイトルを獲得していてもおかしくない成績を筆頭に、9年連続2桁本塁打に6度の打率3割越えなど、打撃面での活躍が印象的です。
しかし、6度のベストナインに7年連続のゴールデングラブ賞という、キャッチャーとしての評価もピカイチでした。
そしてFA権を行使し、2006年からはメジャーリーグのシアトルマリナーズに移籍し、日本人捕手初のMLB選手となりました。
入団2年間はレギュラーとして活躍し、打撃面でも充分と言っていい成績を残しました。3年目以降は怪我の影響等もあり成績が悪化し、2010年から阪神タイガースで日本球界復帰となります。
日本復帰1年目こそかつてと遜色のない活躍を見せましたが、以降は怪我の影響により試合出場が激減。2012年シーズンをもって現役引退となりました。
古田敦也選手、阿部慎之助選手らと並び、平成時代を代表する打てる捕手として輝いたほか、日本人捕手初のメジャーリーガーとなった点、2009年のWBC優勝に貢献した点など大きな功績のある選手でした。
今宮健太選手
出身地 大分県別府市
投/打 右/右
プロ野球歴
福岡ソフトバンクホークス(2010年~)
タイトル等 ベストナイン3回・ゴールデングラブ賞5回・オールスター出場5回
大分県出身の今宮選手は、地元の明豊高校で1年時からショートや投手として活躍しました。
高校通算62本塁打を記録した強打のショートしてだけでなく、3年夏の甲子園では投手として最速154キロを記録するなどポテンシャルの高さを見せつけています。
そうした活躍から2009年のドラフト会議ではホークスから1位指名を受け入団しました。
同年、城島選手が日本球界復帰の際、ホークスではなく阪神への入団となったため城島選手のために空けておいたと言っても過言ではない背番号2番が今宮選手に与えられることになります。
今宮選手の明豊高校は、城島選手の別府大附属高校の流れを継いでおり、ホークスの背番号2番は同高校の選手にバトンタッチされた形となりました。
プロ入り後は3年目から頭角を現し始めます。しかし、高校時代のような強打といったプレイスタイルではなく犠打などのつなぎ役や、身体能力を生かした広い守備範囲や強肩の守備職人といった形でした。
4年連続2桁本塁打を記録したこともあるパンチ力のある打撃も持ち味ですが、打撃タイトルではないものの、4度のシーズン最多犠打を記録しているバント職人としての活躍はとても印象的です。
史上最年少での通算200犠打、300犠打を達成しており、現在まで現役最多・史上4位の通算犠打を記録しています。、また、体は小さいものの身体能力はかなり高く、アクロバティックな守備でファンを魅了しています。
成績にはややムラがあり、年齢的にもベテランの域に達しつつあるものの、2022年にはキャリアハイとなる打率も記録し、ベストナインも獲得するなど今後も活躍が期待されます。
背番号2番をつけた選手の傾向とは?
福岡ソフトバンクホークスの歴代背番号2番をつけた選手の傾向として、やはりイメージ通り捕手登録の選手と意外なことに投手登録の選手も多いことがわかりました。
背番号2番を使用した年数が長く人気のあった香川選手や城島選手の捕手のイメージの強い背番号でしたが、今宮選手が入団からブレイクするまで使用したことから内野手のイメージもつきつつあります。
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