こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
日本のプロ野球において、背番号12番というとどのようなイメージをお持ちでしょうか?10番台という事もあり、ピッチャーがつけるイメージかもしれませんね。
当ブログではプロ野球の背番号について特集していますが、今回は北海道日本ハムファイターズの歴代の12番を取り上げます。
歴代背番号12番をつけた全選手や特に印象深い3選手、さらに12番をつけてきた選手の傾向にも迫っていきたいと思います。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号12番を背負った選手をご紹介
まずは、北海道日本ハムファイターズの背番号12番をつけてきた選手をご紹介します。
初代は貫井丞治選手です。明治大の先輩だった青バットの大下弘選手らの勧誘を受け、セネタース創設時のメンバーとなりました。
2代目は片山博選手です。左サイドの投手で1949年には16勝をあげ、延長20回を1人で投げぬく試合もありました。
3代目の斎藤宏選手は、俊足巧打の内野手です。1952年には打率3割越えでチームトップの打率を記録しました。
4代目の三船正俊選手は、阪神時代にはルーキーながら開幕投手を務めた選手ですが、フライヤーズでは1軍登板はありませんでした。
5代目・富永格郎選手は、ルーキー時代から先発投手陣の一角を担い、先発・リリーフと様々な場面で活躍しました。
6代目・伊藤芳明選手は、巨人時代には沢村賞なども獲得した選手です。フライヤーズでは中継ぎとして活躍しました。
7代目は片岡建選手です。ドラフト1位で入団した投手でしたがあまり登板機会には恵まれませんでした。引退後は球団職員なども務めています。
8代目は藤原眞選手です。多彩な変化球が武器の投手で、自らトレードを志願してフライヤーズに入団した経緯があります。
9代目の中原勇選手は、左の中継ぎとして活躍した選手です。背番号12番を背負った晩年は怪我に苦しみました。
10代目の宮本好宣選手は、選手時代は目立った成績を残せませんでしたが、スカウト時代に大学の後輩でもある片岡選手、岩本選手の獲得に携わりました。
11代目・田中幸雄選手は、中継ぎなどで活躍した投手です。。ミスター・ファイターズと呼ばれた同姓同名はまた別の選手になります。
12代目・舟山恭史選手は、中継ぎ投手でしたが1軍定着はできませんでした。引退後は教員免許を取得し公立校の野球部を指導しています。
13代目は上田佳範選手です。1990年代後半のファイターズの外野陣を支えた走攻守揃った選手で、スタメン以外でも代打代走守備固めと様々な起用がありました。
14代目は関根裕之選手です。逆指名でファイターズに入団し、先発として2年連続2桁勝利をおさめるなど活躍しました。
15代目の沼田浩選手は、サイドスローからの癖球を武器とした投手です。一時先発ローテーションに入るなどの活躍がありました。
16代目の加藤竜人選手は、高校時代は川上憲伸選手の控え選手でした。ファイターズでは左の中継ぎ投手として活躍しました。
17代目・鎌倉健選手は、高卒3年目に先発ローテーションに入るなど期待されましたが、故障により5年の現役生活でした。
18代目・歌藤達夫選手は、プロ1年目のオリックス時代には57試合に登板するなどセットアッパーとして活躍しました。
19代目はバディ・カーライル選手です。メジャーだけでなく阪神や韓国リーグでもプレイした経験のある選手ですが、ファイターズでは目立った成績はありませんでした。
20代目はウィルフィン・オビスポ選手です。ドミニカ出身の最速160キロに迫るストレートが武器の投手です、巨人時代にはオビちゃんの愛称で親しまれました。
21代目の松本剛選手は、2022年に首位打者に輝く活躍で一気にブレイクしました。
22代目の矢澤宏太選手は、日体大時代に二刀流で注目を集め昨年のドラフト1位でファイターズに入団しました。
背番号12番を背負って活躍した3選手のご紹介
次に、歴代の日本ハムファイターズの背番号12番の選手のうち、私が特に印象深く思う、富永選手、伊藤選手、そして田中選手をご紹介したいと思います。
富永格郎選手
出身地 京都府京都市
投/打 右/右
プロ野球歴
東映フライヤーズ(1956年~1965年)
サンケイアトムズ(1966年)
富永選手は京都府出身の投手です。立命館高校時代には夏の甲子園に出場し、大会屈指の好投手として活躍。全日本高校選抜チームの一員としてハワイ遠征にも参加しました。
高校卒業後は東映フライヤーズに入団し、1年目から先発投手陣の一角として活躍を見せます。26試合に先発し、11勝、防御率2.97という好成績でした。
翌2年目にも6勝をあげますが、15敗と大きく負けこんでしまいます。以降は中継ぎに回るシーズンもありましたが、主に先発として出場した1961年~1962年シーズンにはともに8勝をあげるなどの活躍がありました。
東映で10年プレーした後は、サンケイアトムズで1年プレーし現役引退となりました。
速球に威力があった投手です。
ファイターズでは松本剛選手の11年に次ぐ10年の間、背番号12番背負っており、背番号12番を代表する選手の1人となっています。
伊藤芳明選手
出身地 静岡県浜松市
投/打 左/左
プロ野球歴
読売ジャイアンツ(1959年~1965年)
東映フライヤーズ(1966年~1969年)
タイトル等 最高勝率1回・沢村賞1回
オールドルーキー出場3回
伊藤芳明選手は、静岡県北浜村(現浜松市)の出身で、興誠商業高校では2年生からエースとして活躍しました。
中央大に進学後は1年時からリーグ戦に登板し、大学3年時にはリーグ史上4人目のノーヒットノーランを達成しています。日本生命を経て1959年に巨人に入団しますが、同期入団の王貞治選手とは同部屋でした。
プロ1年目から開幕投手を任され、26試合に先発するなどの活躍を見せました。プロ2年目からは5年間で4度の2桁勝利をおさめエース格としてチームに貢献します。
中でも3年目の1961年には13勝6敗で最高勝率のタイトルを獲得、5年目の1963年には19勝8敗、防御率1.90でリーグ優勝に貢献し沢村賞も獲得しました。
1965年には故障によりシーズン2勝に終わると、同年オフにはトレードでフライヤーズに入団します。フライヤーズでも先発を務める機会もありましたが中継ぎでの登板が増えました。
3年連続でシーズン30試合以上登板するなど一定の成績は残しましたが、巨人時代ほどの輝きは見せることができず、フライヤーズで4年プレーした後現役引退となりました。
田中幸雄選手
出身地 千葉県流山市
投/打 右/右
プロ野球歴
日本ハムファイターズ(1982年~1989年)
中日ドラゴンズ(1990年~1991年)
田中幸雄選手は1980年代のファイターズで活躍した投手です。珍しいことにファイターズの後輩には、同姓同名の内野手で
ファイターズ一筋22年で名球会入りもした田中幸雄選手がおり、同時期にプレーしていました。
投手の田中選手は千葉県出身で高校時代は流山高校でプレーしました。
甲子園には縁遠い学校でしたが、対戦校の銚子商業の監督の目にとまったことがきっかけで、高校卒業後は電電関東で野球を続けることとなりました。
それまでは内野手でしたが、投手に転向すると才能が花開き、インターコンチネンタルの日本代表に選出されるまで成長を見せます。1981年のドラフト会議では日本ハムファイターズから見事に1位指名を受け入団しました。
1年目から一軍で先発を中心に活躍します。
4年目の1985年からは中継ぎでの登板が増えましたが、プロ野球史上55人目のノーヒットノーランも達成しています。このノーヒットノーランがキャリアで唯一の完封勝利となりました。
ファイターズに8年在籍した後、中日で2年プレーしましたが1軍登板はなく現役引退となりました。
引退後はファイターズのスカウト・コーチの他、社会人野球・BCリーグのコーチ、韓国の大学のコーチなど様々なキャリアを経験しました。
背番号12番をつけた選手の傾向とは?
日本ハムファイターズの歴代背番号12番の選手は22名おりますが、20名近くが投手登録の選手と投手が背負ってきました。
最初に触れましたが、やはり北海道日本ハムファイターズでも投手の番号と言えるでしょう。
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おわりに
今回は北海道日本ハムファイターズの背番号12番を特集してきましたがいかがだったでしょうか。投手の背番号ということがわかりましたが、チームの顔ともいえるような選手が少なかった印象です。
今後どのような選手が背負っていくのか、注目していきたいと思います。
最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。