阪神タイガースの背番号11番!歴代の11番の選手とその傾向を紹介

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こんにちは、みっつです。

投手にとって最高の栄誉である「沢村賞」。このタイトルは年間で最も優れた先発投手を表彰するものであり、歴代受賞者はそうそうたる選手となっています。

そして、栄誉ある沢村賞を3回も受賞し、その活躍が永久欠番に指定されているのは1人のみです。それが2代目の「ミスタータイガース」村山実選手です。

今回はその村山選手がつけた阪神タイガースの背番号11番の特集です。歴代の11番の全選手や特に印象深い3選手、さらに11番をつけてきた選手の傾向にも迫っていきたいと思います。




■目次(クリックすると飛びます)

歴代の背番号11番を背負った選手をご紹介

まずは、阪神タイガースの背番号11番をつけてきた選手および監督をご紹介します。

年 度年 数球 団 名選 手 名
1936年~1938年3年大阪タイガース藤井勇
1939年~1941年3年大阪タイガース~阪神軍空白
1942年1年阪神軍藤井勇
1943年~1945年3年阪神軍空白
1946年~1949年4年大阪タイガース野崎泰一
1950年1年大阪タイガース御園生崇男
1951年1年大阪タイガース空白
1952年~1954年3年大阪タイガース三船正俊
1955年1年大阪タイガース山中雅博
1956年1年大阪タイガース空白
1957年1年大阪タイガース内司正弘
1958年1年大阪タイガース空白
1959年~1972年14年大阪タイガース~阪神タイガース村山実(昌史)
1973年~1987年15年阪神タイガース空白
1988年~1989年2年阪神タイガース村山実
1990年~阪神タイガース空白

初代は藤井勇選手です。タイガース創設時の選手で、プロ野球公式戦第1号本塁打を記録した選手です。戦争でのプロ野球中断後も長らく活躍しました。

2代目は野崎泰一選手です。戦後タイガースの主力投手として活躍し、引退後は広島のコーチや球団代表なども務め広島球団の発展に貢献しました。

3代目の御園生崇男選手は、最高勝率のタイトルも獲得したことのある名投手ですが、登板のない日は野手としても出場していた二刀流選手です。

4代目の三船正俊選手は、ルーキーながら開幕投手も務めた選手です。速球派の投手でしたが現役は4年に終わりました。

5代目・山中雅博選手は、テスト入団でタイガースに入団した小柄な左腕投手です。1年目に5勝をあげましたが2年目で退団となりました。

6代目・内司正弘選手は、投手で入団した選手ですが、2年目以降は内野手に転向しさらには外野手に転向するなど幅広く活躍しました。

7代目は村山実選手です。「二代目ミスタータイガース」と呼ばれた大投手で、村山選手の実績により背番号11番は永久欠番となりました。また、現役引退後、監督に就任した際に背番号11番を使用しました。




背番号11番を背負って活躍した3選手のご紹介

歴代の阪神タイガースの背番号11番の選手のうち、私が特に印象深く思う、藤井選手、野崎選手、そして村山選手をご紹介したいと思います。

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藤井勇選手

生年月日 1916年10月20日
出身地 鳥取県鳥取市
投/打 左/左
プロ野球歴
大阪タイガース~阪神軍(1936年~1938年、1942年)
パシフィック~大陽ロビンス(1946年~1949年)
大洋ホエールズ(1950年~1958年)
タイトル等 最多安打1回

藤井選手は戦前戦後のプロ野球界を大きく支えた選手の1人です。旧制鳥取一中時代には甲子園に3度出場し、1934年夏には沢村栄治選手がいた京都商業にも勝利しています。

1935年11月に大阪タイガースと契約を結び球団結成に参加すると、翌年から始まったプロ野球リーグ戦に参戦しました。

1936年春の第一回日本職業野球リーグ戦大阪大会では主に2番打者として出場し、5月4日の東京セネタース戦では左中間を破るランニング本塁打を放ち、日本プロ野球公式戦第1号本塁打となりました。

当時は1リーグ制で春と秋にリーグ戦が行われており、1936年秋のリーグ戦ではタイトル表彰前ではあったものの最多安打を記録しました。

その後もタイガース黎明期の主力選手として活躍しますが、1939年に軍に召集されることとなります。1942年には一時チームに復帰したものの、1943年に再び召集され戦争終結まで戦地に残りました。

戦後はパシフィック(ロビンス)で4年間プレーした後、1950年には新球団大洋ホエールズに移籍し、ベテラン選手として4番打者に抜擢されます。

この年は全試合に出場し、打率.327、34本塁打、122打点という素晴らしい成績を残しました。この122打点は1999年にロバート・ローズ選手に破られるまで横浜の球団記録として長く残りました。

その後、選手兼任監督なども務めながら現役を続け42歳となる1958年シーズンまでプレーしました。

日本プロ野球創世期の選手としては長年活躍した選手と言え、日本プロ野球の発展に大きく貢献したことは間違いありません。

野崎泰一選手

生年月日 1923年7月2日
出身地 広島県呉市
投/打 右/右
プロ野球歴
大阪タイガース(1946年~1950年)
東急フライヤーズ(1951年)
広島カープ(1952年~1953年)

広島出身の野崎選手は、旧制呉港中学から専修大学に進学します。当時は戦時中でリーグ戦はほとんど行われておりませんでしたが、当時の東都大学野球リーグの盟主でもあった専修大学で活躍しました。

戦争が終わり、プロ野球が再開されると1946年にタイガースに入団します。当時は戦後間もないということもあり選手不足であり、投手専任は野崎選手ただ一人でした。

その1946年には33試合に先発し7勝を挙げます。

その後、怪我等により調子を落とすシーズンをはさみつつ、ドロップカーブを武器に1948年に12勝、1950年に10勝を挙げるなど主力投手として活躍しました。

その後、肩を痛め、東急を経て地元の広島でプレイしますが活躍はできず現役引退となります。

選手としての野球人生は終えた野崎選手ですが、その後の野球に携わる人生は非常に長いものでした。

引退後の1954年から途中の空白期間を挟みながら投手コーチ・監督代行・二軍監督、球団常務、球団代表など、様々な球団のポストを歴任していき、1991年までの37年に渡って広島カープの発展に貢献しています。

「スカウトの神様」と呼ばれ、後の広島を代表する数々の名選手を発掘した木庭教氏を採用したのも、野崎選手の一言がきっかけと言われています。

大きな記録こそ残した選手ではありませんが、戦後のタイガース、そして当時の新規球団だった広島を大きく支えた人物でした。

村山実選手

生年月日 1936年12月10日
出身地 兵庫県尼崎市
投/打 右/右
プロ野球歴
大阪タイガース~阪神タイガース(1959年~1972年)
タイトル等 最多勝利2回・最優秀防御率3回・最多奪三振2回・最高勝率1回
沢村賞3回・最高殊勲選手(MVP)1回・ベストナイン3回・オールスター出場8回

村山選手は昭和のタイガースを象徴するレジェンド投手です。兵庫県で生まれ育った村山選手は、住友工業高校に進学しますが当時は監督もいない状況でした。

身長が低かったため内野手をしていましたが、期限付き監督に就任した藤田監督に投手の素質を見抜かれ投手に転向しフォークボールを習得します。

エースとなった後は県内でも上位進出するようになりましたが、甲子園出場はなりませんでした。

関西大学進学後は3年時からエースとなると、全日本大学野球選手権でチームを西日本の大学初の優勝に導く活躍を見せました。

この活躍から12球団ほぼ全てから入団の勧誘がくるほどになりましたが、右肩痛が発覚すると各球団とも手を引いていきます。

肩の痛みは解消しますが、各球団手を引いた中でも親身に面倒を見てくれたタイガースへの入団が決定します。

入団1年目のオープン戦でプロ初先発初登板となりますが、この日は初代「ミスタータイガース」藤村富美男選手の引退試合でした。

この試合を皮切りに先発ローテーションに加わり、シーズン18勝、防御率1.19の活躍で最優秀防御率と沢村賞を受賞します。

翌1960年は不本意な成績に終わりますが、フォークに磨きをかけると復調し1961年には24勝を挙げると、1962年には25勝、防御率1.20の活躍で最優秀防御率とリーグMVPも獲得しました。

その後、1964年には25勝、1965年には24勝で2年連続の最多勝利と最多奪三振のタイトルを獲得するなど、1960年代の阪神タイガースの大エースとして他球団にとっての脅威となります。

1969年オフには32歳の若さで選手兼任監督に就任します。そんな中でも1970年には14勝3敗で最高勝率と、防御率0.98で最優秀防御率も獲得しました。

この防御率は、規定投球回数以上での戦後唯一の防御率0点台として、現在まで残る金字塔となっています。

選手兼任監督として次第に成績を落としていく中、1972年シーズンをもって監督退任とともに惜しまれつつも現役引退となりました。

阪神一筋14年間のプロ野球人生で通算222勝を挙げ、通算防御率2.09、3度の沢村賞など偉大な成績を残し、この功績により村山選手が入団から愛用していた背番号11番はタイガースの永久欠番となりました。

その後、監督就任時にも2年間のみこの背番号を使用しています。

1998年に61歳の若さでこの世を去ることとなりますが、村山選手の葬儀には多数のファンが参列し、出棺の際には球団旗を掲げたファンの六甲おろしの大合唱に見送られるなど、阪神ファンに非常に愛され、球団を象徴する選手の1人でした。

巨人長嶋茂雄選手とは、天覧試合でホームランを打たれたりしたものの、節目の通算1500奪三振、2000奪三振を長嶋選手から奪うなど有名なライバル関係にありました。

「サドペック投法」と呼ばれる闘志むき出しで投げる姿や、代名詞のフォークボールは色褪せることがありません。




背番号11番をつけた選手の傾向とは?

阪神タイガースの背番号11番つけてきた選手は、7名しかおりませんがほとんどが投手として活躍した選手でした。

村山選手以前の投手は、怪我等があったりで背番号11番を背負う期間が短い選手が多く、あまり縁起の良い背番号ではなかったようです。

それでも、現在、他球団でエース格の選手が背番号11番を背負うことが多いのは、村山選手の大エースとしての活躍が影響しているかもしれません。

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おわりに

今回は阪神タイガースの背番号11番を特集してきましたがいかがだったでしょうか。

永久欠番は、成績はもちろんのこと、球団に対する貢献度や人気がないと指定されることはありません。球史に名を残す大投手や大打者でも、永久欠番に指定されていない選手も多くいます。

故に村山選手の活躍や功績が偉大なものであったことがよくわかります。今後、阪神タイガースの欠番に指定される選手は出てくるのかなどを考えるとわくわくします。

最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。