横浜DeNAベイスターズの背番号7番!歴代の7番の選手とその傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

プロ野球界ではヒットメイカーのことを「安打製造機」と呼ぶことがあります。初代は榎本喜八選手というのが定説ですが、以降、張本選手、イチロー選手などがそう呼ばれてきました。

彼らのようにプロ野球記録を作るほどではないもの、数シーズンは彼らに匹敵した選手は、「〇〇の安打製造機」と呼ばれることがあります。

マシンガン打線でヒットを量産した横浜の鈴木尚典選手は「ハマの安打製造機」と呼ばれました。

今回は鈴木選手もつけた横浜DeNAベイスターズの背番号7番の特集です。歴代の7番の全選手や特に印象深い3選手、さらに7番をつけてきた選手の傾向にも迫っていきたいと思います。




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歴代の背番号7番を背負った選手をご紹介

年 度年 数球 団 名選 手 名
1950年~1953年4年大洋ホエールズ~大洋松竹ロビンス安井亀和
1954年1年洋松ロビンス神田昌男
1955年~1956年2年大洋ホエールズ浜田一男
1957年~1958年2年大洋ホエールズ二宮政昭
1959年~1960年2年大洋ホエールズ近藤晴彦
1961年~1976年16年大洋ホエールズ長田幸雄
1977年~1984年8年大洋ホエールズ~横浜大洋ホエールズ長崎慶一(啓二)
1985年1年横浜大洋ホエールズ空白
1986年~1990年5年横浜大洋ホエールズカルロス・ポンセ
1991年~1997年7年横浜大洋ホエールズ~横浜ベイスターズ宮里太
1998年~2006年9年横浜ベイスターズ鈴木尚典
2007年~2009年3年横浜ベイスターズ仁志敏久
2010年~2019年10年横浜ベイスターズ~横浜DeNAベイスターズ石川雄洋
2020年1年横浜DeNAベイスターズ空白
2021年~横浜DeNAベイスターズ佐野恵太

まずは、横浜DeNAベイスターズの背番号7番をつけてきた選手をご紹介します。

初代は安井亀和選手です。南海と大洋の初期や立ち上げに参加した内野手で、プロ野球初期に活躍した選手です。

2代目は神田昌男選手です。高校時代にバッテリーを組んだ吉成選手とともに大洋に入団し、主に中継ぎとして活躍しました。

3代目の浜田一男選手は、小柄の内野手でしたが現役生活は2年間で出場機会にも恵まれなかったようです。

4代目の二宮政昭選手は、俊足巧打の外野手です。大映でプレイした後、大洋ホエールズで2年間プレーし引退しました。

5代目・近藤晴彦選手は、早稲田大学時代に活躍し、強肩好打の外野手として期待され入団しましたが打撃が低迷し2年での引退となりました。

6代目・長田幸雄選手は、大洋一筋で16年間プレーしずっと背番号7番を背負っています。パンチ力のある打撃に定評がありました。

7代目は長崎啓二選手です。大洋の中心打者として長年活躍し、1982年には首位打者のタイトルも獲得しました。

8代目はカルロス・ポンセ選手です。ホームラン王1回、打点王2回、最多安打1回と打撃タイトルを何度も獲得し、中心打者として活躍しました。

9代目の宮里太選手は、捕手として入団しましたが同期入団に谷繁選手がおり、外野手に転向し活躍しました。

10代目の鈴木尚典選手は、「ハマの安打製造機」の異名でマシンガン打線の中核を担ったヒットメイカーです。

11代目・仁志敏久選手は、巨人のリードオフマンとして活躍しましたが、横浜でも開幕から28試合連続出塁記録を樹立するなどの活躍がありました。

12代目・石川雄洋選手は、横浜高校から横浜へ入団し、全盛期は俊足と二遊間を守れるユーティリティ性を武器に活躍しました。

13代目は佐野恵太選手です。毎年のように高打率を残してきました。




背番号7番を背負って活躍した3選手のご紹介

歴代の横浜DeNAベイスターの背番号7番の選手のうち、私が特に印象深く思う、長田選手、長崎選手、そして鈴木尚典選手をご紹介したいと思います。

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長田幸雄選手

生年月日 1939年2月24日
出身地 山梨県富士吉田市
投/打 左/左
プロ野球歴
大洋ホエールズ(1961年~1976年)

横浜ベイスターズの歴代背番号7番の選手の中で最も長く7番を背負ったのが長田選手です。

山梨県出身の長田選手は中学時代まで野球をするかたわらスピードスケートに熱心に取り組んでいました。

進学した吉田高校で本格的に野球に始めると、1年時から4番に座るなど強打者の片りんを見せます。甲子園には縁がありませんでしたが、プロからの誘いも受けました。

高校卒業後は社会人野球のリッカーミシンを経て1961年に大洋ホエールズに入団しました。

プロでは1年目からコンスタントに試合に出場し、2年目には外野のレギュラー格の選手となります。5年目には初の規定打席に到達し打率.288の好成績を残しました。

また1967年~1968年にはそれまで1桁しか打てていなかった本塁打数を2桁に乗せパンチ力も見られるようになりました。

その後も、打撃タイトル争いをするなどの華々しい成績はおろか、規定打席に到達したのも1965年の1度のみでしたが、16年間のプロ野球人生を全うしました。

記録だけ見ると凄い記録は残っていないのですが、その風貌からポパイの愛称で親しまれした。

また外野スタンドからウイスキー瓶を投げられたことに激怒して、外野フェンスをよじ登ってスタンドに乱入したというエピソードがあったり、金田選手、堀内選手と言った大投手を相手に当時のセリーグ記録の5試合連続本塁打を記録したりなど記録よりも記憶に残る選手の見本のような選手と言えます。

打撃力を巨人の川上監督に買われ、トレードを持ち掛けられた際も固辞するなど大洋ホエールズ一筋の野球人生でした。

また、引退後はコーチ就任のオファーが何度もあったそうですが居酒屋経営に熱中して断るなどまさに「昭和の野球選手」といったイメージのファンから愛された選手でした。

長崎啓二選手

生年月日 1950年5月13日
出身地 大阪府大阪市
投/打 左/左
プロ野球歴
大洋ホエールズ~横浜大洋ホエールズ(1973年~1984年)
阪神タイガース(1985年~1987年)
タイトル等 首位打者1回
ベストナイン1回・オールスター出場1回

大阪・北陽高校時代には学校初の甲子園にも1年生ながらレギュラーで出場した長崎選手。高校3年時には地元球団で自身もファンであった阪神タイガースから8位指名を受けましたが、親の意向もあり入団には至りませんでした。

高校卒業後は法政大に進学するとリーグ屈指の好打者に成長します。1972年のドラフト会議では大洋ホエールズから1位指名を受け、念願のプロ野球人生をスタートさせました。

入団1年目こそ1軍と2軍を行ったり来たりしていましたが、2年目には1軍定着を果たし、規定打席には到達しなかったものの、打率.356、13本塁打の好成績を残します。

3年目からは主力打者として活躍しますが、大下弘コーチのもとアベレージヒッターに転身しこれが成功しました。

長崎選手の活躍の中では1978年に自己最多となる21本塁打を放ったシーズンのほか、1982年には田尾安志選手と歴史に残る首位打者争いを繰り広げたのが有名です。

この首位打者争いがペナントレースの首位争いにも影響を与えることとなり賛否両論が巻き起こりました。

大洋で12年活躍した後、トレードで阪神に移籍することとなりますが、1985年の阪神初の日本一にも貢献しました。

首位打者も獲得し、アベレージヒッターのイメージの強い選手ですが、意外にも3割を超えたシーズンは2度のみでした。

しかし、長崎選手以降、背番号7番は巧打者に受け継がれており、横浜の背番号7番のイメージを作り上げた選手といっていいでしょう。

鈴木尚典選手

生年月日 1972年4月10日
出身地 静岡県浜松市
投/打 右/左
プロ野球歴
横浜大洋ホエールズ~横浜ベイスターズ(1991年~2008年)
タイトル等 首位打者2回・最多勝利打点2回
ベストナイン2回・オールスター出場4回

静岡県出身の鈴木選手ですが、中学時代のチームの監督が横浜高校の渡辺監督の後輩だったことから横浜高校に入学しました。高校で才能を開花させ、非凡な打撃の才能を見せ1990年のドラフト会議で横浜から4位指名を受け入団します。

プロ1年目は2軍でもほとんど出場がありませんでしたが、2年目からは2軍で頭角をあらわし始めます。4年目のシーズン終盤に1軍定着すると5年目から中軸を担う機会が激増します。

1996年には初の規定打席に到達し、最終戦でヒットを打てずに打率が下がってしまいますが、打率.299の好成績を残しました。

翌1997年には打率.335で首位打者を獲得し、横浜の生え抜き選手では初の1億円プレイヤーになりました。さらにそれまでの背番号51番から背番号7番に変更し1998年シーズンを迎えます。

1998年シーズンは、マシンガン打線と呼ばれた好調のチームの3番打者として大活躍。最多安打こそ同僚の石井琢朗選手に1本差で敗れましたが、キャリアハイとなる打率.337で2年連続の首位打者を獲得しました。

またチームも38年ぶりの日本一に輝いています。

その後も1990年代後半から2000年代前半にかけて球界屈指のアベレージヒッターとして活躍しました。

「ハマの安打製造機」と呼ばれ、生涯打率(4000打数以上).303はNPB歴代16位で、横浜の球団歴代1位の成績です。




背番号7番をつけた選手の傾向とは?

横浜DeNAベイスターズの背番号7番つけてきた選手は、ほとんどが野手の選手でした。70年以上の歴史の中で使用してきた選手は13人とほかの背番号に比べると少なめです。

初期の10年こそ選手の入れ替わりが多かった印象ですが、長田選手が16年、長崎選手が8年使用して以降はチームのアベレージヒッタータイプの主力打者に引き継がれてきました。

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おわりに

今回は横浜DeNAベイスターズの背番号7番を特集してきましたがいかがだったでしょうか。

歴代の背番号7番の選手を見てみると、ポンテ選手や仁志選手を除き生え抜きの選手が多いことも特徴的でした。

今後も生え抜きの選手に受け継がれていくのか、注目したいと思います。

最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。