こんにちは、みっつです。
東京ヤクルトスワローズ、通称ヤクルトスワローズの球団としての変遷は、1949年の国鉄スワローズが始まりです。
その後サンケイ時代を経て、1970年にヤクルトアトムズ、1973年よりヤクルトスワローズ、2006年からは球団名の前に地域名を加えた、「東京ヤクルトスワローズ」が正式名称となりました。
プロ野球には、大活躍した選手の功績をたたえるために、その選手が付けていた背番号を永久に他の選手が付けられなくする永久欠番や、将来その番号を受け継ぐにふさわしい選手が現れるまで欠番とする準永久欠番があります。
今回は、そんな東京ヤクルトスワローズの永久欠番と準永久欠番について、ご紹介していきたいと思います。
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ヤクルトスワローズの永久欠番の番号を調べると…
ヤクルトスワローズの永久欠番を調べようと一覧を見てみると…2018年5月現在で永久欠番はないという意外な結果となりました。それでは過去にさかのぼっても永久欠番がないか調べてみると、背番号8番を付けていた大杉勝男選手が保留欠番となっていた事が判明。
大杉選手は1983年に引退していますが、その際に保留欠番という扱いで欠番となっています。そして1984年オフシーズンのドラフト会議で指名された広澤克実選手に、自身の後継者という事で背番号8番をゆずっているのです。
この保留欠番については、永久欠番であるという見方と準永久欠番ではないかという見方に分かれています。私も保留欠番が永久欠番に当たるのかどうか調べてみましたが、はっきりとした結論は見つかりませんでした。
Weblio辞書では、大杉選手の欠番について以下のような見解を記載しているので、参考までにご覧ください。
大杉勝男の8番について、 後年の文献では一旦永久欠番となった後広沢克己に禅譲したため失効したと、記述している物が見受けられるが(ベースボール・マガジン社『週刊プロ野球データファイル』等)、1983年11月9日の引退表明を1面で大きく扱ったサンケイスポーツ(東京版・1983年11月10日付)では、「球団は「背番号8」を保留欠番とし、来春3月下旬に引退試合を行うことを決めた。」とあり、明らかに誤りである。この発表からも、この段階で将来的には相応しい選手に与える意向があったとみられる。
引用元: Weblio辞書
上記のどちらが正しいかはわかりませんが、ヤクルトスワローズの長い歴史の中で他に永久欠番と思われる番号がないという事は、永久欠番を認めにくい球団であるのかもしれませんね。
大杉勝男選手の経歴について、ご紹介しておきますね。
大杉勝男選手
生年月日 1947年4月17日
出身地 岡山県
投/打 右/右
プロ野球歴 東映フライヤーズ(1965年~1972年)
日拓ホームフライヤーズ(1973年)
日本ハムファイターズ(1974年)
ヤクルトスワローズ (1975年~1983年)
タイトル 本塁打王2回、首位打者2回
表彰 ダイヤモンドグラブ賞2回、ベストナイン5回
大杉勝男選手は、1965年に東映フライヤーズに入団してプロ野球選手としてデビューを果たしています。東映フライヤーズ時代に本塁打王と打点王に輝き、1975年にヤクルトスワローズに移籍、背番号8番を付けました。
ヤクルトスワローズに移籍した1975年は成績が良くありませんでしたが、1976年からは本来の姿を取り戻し大活躍しています。そして1978年には、ヤクルトスワローズのセリーグ初優勝に貢献しました。
続く日本シリーズではMVPに輝く大活躍で、ヤクルトスワローズを初の日本一に導いています。
1983年には史上初となるセパ両リーグでの1000本安打を達成、両リーグでの200本塁打にもあと1本まで迫ります。しかし、持病である不整脈が悪化し、200本塁打目前にして引退しました。
ヤクルトスワローズは永久欠番を作らない?
先程もご紹介しましたが、ヤクルトスワローズは永久欠番を作らない方針なのかもしれません。
ヤクルトスワローズの前身でもある国鉄スワローズ時代には、背番号34番で活躍した金田正一投手がいました。金田選手は球団が低迷するなか、15年間で353勝を上げた偉大な投手です。
ヤクルトスワローズから読売ジャイアンツにトレードされて引退した事から、彼が付けていた背番号34番はヤクルトではなく読売ジャイアンツの永久欠番になっています。
355勝もあげれば間違いなく永久欠番として認められますよね。現代では200勝をするのも困難です。しかし、ヤクルトスワローズでは金田選手の34番は永久欠番として認められていません。
なぜ認められなかったかというと、当時のヤクルトスワローズには永久欠番を取り入れる考えがなかったためであると言われています。
永久欠番と準永久欠番についての詳しい解説はこちらからどうぞ。
⇒プロ野球の準永久欠番とは?永久欠番との違いと主な該当選手をご紹介
ヤクルトスワローズの準永久欠番
お伝えした通り、ヤクルトスワローズには永久欠番がありません。しかし、その一方で、準永久欠番の選手は3人います。その3人とは背番号順に
- 若松勉選手
- 古田敦也選手
- 宮本慎也選手
となります。
若松勉選手
生年月日 1947年4月17日
出身地 北海道
投/打 右/左
プロ野球歴 ヤクルトスワローズ(1971年~1989年)
タイトル 首位打者2回
表彰 ダイヤモンドグラブ賞2回
準永久欠番 1
小柄な身体からシャープなバッティングが魅力の若松選手は、19年間の現役生活で12回も3割を超える打率を残しました。雪国で鍛えた足腰の強さを武器とし、1972年と1977年の2回、首位打者に輝いています。
若松選手の引退後は、その活躍を讃えて背番号1番を空き番号としました。しかし、その2年後に、「ブンブン丸」と呼ばれ、若手で伸び盛りの池山隆寛選手が、自身の希望から背番号1を受け継いでいます。
ヤクルトスワローズの背番号1は、若松選手以降、「ミスター・スワローズ」の称号を受け継いだ、チームを代表する選手が付けることになりました。
2018年現在では、2015年に打率3割・本塁打30本・盗塁30個・100打点という素晴らしい成績を残した山田哲人選手が、2016年より付けています。
宮本慎也選手
生年月日 1970年11月5日
出身地 大阪府
投/打 右/右
プロ野球歴 ヤクルトスワローズ(1995年~2013年)
タイトル 特になし
準永久欠番 6
宮本選手は「守備の人」として名を馳せた選手です。遊撃手としての連続守備機会無失策463は当時の日本記録であり、三塁手としての連続守備機会無失策257は日本記録として残っています。
また、宮本選手の人望の厚さには定評があり、日本代表チームのキャプテンや、日本プロ野球選手界の会長など、要職を歴任いたしました。
宮本選手は球団だけでなく球界への功績が認められ、付けていた背番号6は名誉番号として欠番になっています。
古田敦也選手
生年月日 1965年8月6日
出身地 兵庫県
投/打 右/右
プロ野球歴 ヤクルトスワローズ(1990年~2007年)
タイトル 首位打者1回、最多安打1回
表彰 年間MVP2回、ゴールデングラブ賞10回
準永久欠番 27
古田選手は野村克也監督の下で、徹底した配球法を教え込まれ、「ID野球の申し子」と呼ばれた名捕手です。
古田選手は現役時代にプロ野球選手会長としても活躍しました。また、現役選手の最後の2年間は、選手兼任監督を務めるなど、とてもクレバーで知性に溢れたイメージの強い選手でしたね。
ヤクルトスワローズの背番号27番は前身の国鉄スワローズ時代から、大矢明彦選手をはじめ名捕手と呼ばれる選手が付けてきました。
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⇒プロ野球の永久欠番と準永久欠番!球団ごとに意味と全選手をご紹介
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まとめ
今回は、ヤクルトスワローズの永久欠番と準永久欠番についてご紹介しましたが、いかがだったでしょうか?お伝えした通り、2018年5月現在でヤクルトスワローズに永久欠番はありません。
これは該当する選手がいなかった、というよりも永久欠番を認めにくい球団であるのではないかと思います。
今後、ヤクルトスワローズから永久欠番の選手が出るのかどうか、といった事に注目してみても面白いかもしれませんね。
最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。