空白の一日って何だったのか?わかりやすく江川事件を解説します!

豆知識

こんにちは、みっつです。

『興奮しないで!冷静にいきましょう!』

もし、江川卓さんのこの言葉をリアルにテレビなどで聞いたとすれば、少なくてもアラフィフという年代ではないでしょうか(^_^;)

私は当時13才の中学1年生、毎日のように野球部でしぼられる日々でした。その野球小僧は、40年経った今でも、この言葉を忘れられません(笑)

当時、世間を大騒ぎさせた、空白の一日といわれた江川事件とは何だったのか、今回はわかりやすく解説していきたいと思います。

ご注意
ご紹介する内容は、筆者の思いや推測が含まれています。また正確さを保証している訳ではありませんので、御理解の上お読みください。

空白の一日と呼ばれた江川事件とは?

1977年から1978年に渡り、プロ野球界はひとりの選手を中心とした騒動で、大きく揺れ動きました。

それが「空白の一日」として、いまなおプロ野球界の伝説として残る事件です。

この騒動の中心にいたのが、「昭和の怪物」と呼ばれた、江川卓選手です。

栃木県の野球の名門、作新学園のエースとして、甲子園のセンバツ大会に出場した江川選手は、大会記録となる60奪三振を記録しました。

その後、法政大学に進むと、1年生からエースを任され、大学通算で47勝を挙げ、奪った三振443個は、当時の奪三振記録でもありました。

こうして迎えた1977年、ドラフトで最大の目玉となった江川選手は、当時福岡に拠点を置いていたクラウンライターライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズ)が交渉権を得ました。

しかし、在京のセ・リーグ球団にこだわる江川選手は、頑なに入団を拒否します。結局、出身母校の作新学院職員としてアメリカに野球留学をし、プロ野球浪人の道を選んだのです。

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実は当時の日本プロ野球協約では、交渉権を獲得した球団は、翌年のドラフト会議の前々日まで交渉が可能でした。

翌年のドラフト会議では、また新たな球団が交渉権を獲得することになりますが、ドラフト会議の前日だけは、どこの球団も交渉権を持たなかったのです。

これが、空白の一日と呼ばれている原因です。

その空白の一日に目をつけた巨人は、1979年11月21日に江川選手と入団交渉をして、契約までしてしまいました。

当時のプロ野球協約に照らし合わせると、巨人が江川選手と入団交渉しても違反にはなりません。しかしながら、違反にならないからといってドラフト制度を揺るがすような交渉をした事が、大きな問題となったのです。

そこで、当時のセ・リーグ会長の鈴木龍二氏が巨人と江川選手との契約を無効としたのです。

空白の一日の翌日、1978年11月22日のドラフト会議で、阪神タイガースが新たに江川選手との交渉権を獲得しました。

空白の一日の前後の流れを表にすると、以下のようになります。

日時交渉権を持つ球団
1978年11月20日までクラウンライターライオンズ
1978年11月21日なし・空白の一日!巨人が交渉
1978年11月22日阪神タイガース

江川選手との契約を無効とされた巨人は、契約が正当なものだとして、リーグ脱退も辞さないと発表して問題が拡大しました。

この事態を受けて、当時のコミッショナー金子鋭氏が、江川選手本人の希望を第一に考えて、一旦阪神に入団をした後、巨人にトレードをすることで決着を図ったのです。

こうして、翌年1978年1月31日に江川は阪神タイガースに入団し、同日に巨人のエースを務めていた小林繁選手との電撃トレードが行われました。

しかし、江川事件はこれで終わりませんでした。というのも、このトレードはプロ野球実行委員会において、協約違反であることが指摘されたのです。

結局は交換トレードも無効となりましたが、協約に違反していない金銭トレードで小林繁選手は阪神に移籍となりました。

そして、江川選手はペナントレースの開幕日4月7日に、あらためて阪神タイガースから巨人にトレードにより入団の形がとられたのです。

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空白の一日後の当事者2人の野球人生

空白の一日といわれた江川事件の後、当事者である江川卓さんと小林繁さんの野球人生はどのようなものだったのか、経歴とともに振り返りたいと思います。

小林繁選手

生年月日  1952年11月14日
出身地   鳥取県
投/打   右/右
プロ野球歴 読売ジャイアンツ(1973年~1978年)
      阪神タイガース(1979年1984年)
タイトル  最多勝1回、最優秀投手2回、沢村賞2回、
表彰    ベストナイン2回

小林選手は1979年1月31日、キャンプ地に向かおうと羽田空港にいたところ、突然、阪神タイガースへの電撃トレードを告げられます。

「私は江川選手との交換トレードではなく、阪神タイガースに必要だといわれて移籍をする」

と、会見での小林選手の言葉に、阪神タイガースのファンだけでなく、多くのプロ野球ファンから共感を集めました。

移籍1年目の小林選手は22勝を挙げる大活躍をし、とくに巨人に対しては8連勝と一度も敗戦投手になりませんでした

「阪神タイガースで優勝をしたい」と語っていた小林選手でしたが、その優勝をまたずに、移籍から4年後に惜しまれつつ引退をいたしました。

江川卓選手

生年月日  1955年5月25日
出身地   福島県
投/打   右/右
プロ野球歴 阪神ターガース(1979年)
      読売ジャイアンツ(1979年~1987年)
タイトル  最多勝2回、最優秀投手2回、最優秀防御率1回、
表彰    ベストナイン2回、  MVP1回、

わがままを押し通した形となった江川選手は、プロ野球界のスーパーヒールとして扱われ、表に出ない差別も受けるなど、心労が耐えない選手生活となりました。

例えば、小林選手が名誉ある沢村賞を2度も受賞したのに対し、江川選手は1980年・1981年と2年連続で20勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得したのにもかかわらず、沢村賞には一度も選出されませんでした。

結局、江川選手は肩の痛みから自慢のストレートに伸びが無くなったとし、入団9年目にして早い引退を決意してしまうのです。

現役通算135勝を挙げる実績を残しましたが、小林選手の通算勝利数139勝には、わずかに及びませんでした。

今も空白の一日は起こり得る?

江川選手の「空白の一日事件」以降、プロ野球協約が改正されて、選手との契約交渉権期間を短縮し、問題となった「空白の一日」はなくなりました。

具体的には、ドラフト会議で得た選手契約交渉権の期限は、翌年3月末までとなります。それまでに、指名をした選手と契約を結ばなければ、契約交渉権は無効となるように改められているのです。

このようにして、日本プロ野球から空白の一日がなくなったのです。

また江川事件以降、ドラフト指名を受けても入団拒否をする選手が続出いたしました。

対応策として、ドラフトで指名後に入団を拒否した場合は、高校卒業の選手ならばその後3年間、大学卒業の選手ならばその後2年間は、指名を受けることができなくなる罰則が設けられています。

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まとめ

今回は、空白の一日といわれた江川事件について特集してきましたが、いかがだったでしょうか?当時13才の中学1年生だった私は、江川卓さんを悪者扱いにしてしまいました。それは記者会見での
『興奮しないで!冷静にいきましょう!』

という言葉と態度が、とても偉そうに感じてしまったからです。

当時14歳の野球小僧であった私にとって、この事件は大好きな野球に裏切られた!と言っても良いくらいに強烈な出来事でした(^_^;)

江川選手だけでなく、巨人に対する失望感のようなものも感じました。球界の盟主である巨人が、規則の網をかいくぐるような事をするなんて、という思いでした。巨人のなりふり構わない態度に、大人の世界を垣間見た気もしましたね(笑)

しかし大人になって考えてみると、江川さんも空白の一日など知らずに逆に被害者なのではないかと考えています。一人の若者が出来るような事ではないですからね。

規則の網をかいくぐるように起こってしまった江川事件、もうこのような事が起こらないように、しっかりとした規則を作り、守って欲しいですね!

最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。