埼玉西武ライオンズの背番号4番!歴代の4番の選手とその傾向をご紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

高校野球の経験がある私にとって、背番号4番と言えば、セカンドの選手がつけている印象が強いです。また、上背はあまりないものの、守備がうまく、小技ができる、そんなイメージがあります。

埼玉西武ライオンズの背番号4番は、どのような選手がつけ、どのような傾向があるのでしょうか?

今回は、埼玉西武ライオンズの歴代の4番の全選手や特に印象深い3選手、さらに4番をつけてきた選手の傾向にも迫りますので、楽しみにしてくださいね。




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歴代の背番号4番を背負った選手をご紹介

まずは、埼玉西武ライオンズの背番号4番をつけてきた選手をご紹介します。

年  度年 数球 団 名選 手 名
1950年1年西鉄クリッパーズ林幹雄選手
1951年〜1957年7年西鉄ライオンズ空白
1958年~1959年2年西鉄ライオンズ平塚宝選手
1960年~1962年3年西鉄ライオンズ空白
1963年~1967年5年西鉄ライオンズトニー・ロイ選手
1968年〜1978年11年西鉄ライオンズ〜太平洋クラブライオンズ~クラウンライターライオンズ基満男選手
1979年1年西武ライオンズジャック・マルーフ選手
1980年1年西武ライオンズ大北敏博選手
1981年1年西武ライオンズ空白
1982年~1986年5年西武ライオンズ片平晋作選手
1987年〜1997年11年西武ライオンズ笘篠誠治選手
1998年1年西武ライオンズブライアン・ラービー選手
1999年1年西武ライオンズアーキー・シアンフロッコ選手
2000年~2008年9年西武ライオンズ~埼玉西武ライオンズ高木浩之選手
2009年1年埼玉西武ライオンズ清水崇行選手
2010年~2013年4年埼玉西武ライオンズ美沢将選手
2014年~2015年2年埼玉西武ライオンズ鬼崎裕司選手
2016年1年埼玉西武ライオンズフェリペ・ポーリーノ選手
2017年~2018年2年埼玉西武ライオンズ空白
2019年~埼玉西武ライオンズ山野辺翔選手

初代は林幹雄選手です。内野を守った選手ですが、翌年からは背番号を34番に変更しており、3年間在籍しました。

2代目・平塚宝選手は外野手です。5年間のプロ野球生活のうち最後の2年間、背番号4番のユニフォームに袖を通しています。

3代目・トニー・ロイ選手はアメリカ出身の選手です。中軸打者として活躍し、三塁手部門のベストナインも獲得しました。

4代目・基満男選手は、打率3割台、2桁本塁打を打つ打力がありながら最多犠打をマークしたり、ゴールデングラブ賞を獲得したりと攻守にとても器用な内野手です。

5代目・ジャック・マルーフ選手は、西武ライオンズとしては初めての外国人選手です。1年間の在籍でしたが俊足巧打のトップバッターとして活躍しました。

6代目・大北敏博選手はジャイアンツから交換トレードで入団してきた内野手です。

7代目・片平晋作選手は一本足打法で話題となった選手です。大卒選手ながら3球団で18年間の現役生活を続けました。

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8代目・笘篠誠治選手は、ライオンズ一筋で15年間プレイした俊足・好守のユーティリティープレーヤーです。

9代目・ブライアン・ラービー選手は、アメリカ出身の内野手です。思うような活躍はできず1年間で現役引退となりました。

10代目・アーキー・シアンフロッコ選手は、パワフルな打撃と守備のうまさを買われて入団しましたが、わずか3か月ほどで自由契約となっています。

11代目・高木浩之選手は、堅実な守備と小技が得意ないぶし銀の選手です。引退後も10年以上に渡ってライオンズで後輩の育成にあたりました。

12代目・清水崇行選手は、長年ジャイアンツの上位打線に座り活躍した選手です。当時の登録名の「清水隆行」の方がお馴染みかもしれません。

13代目・美沢将選手は、右投げ右打ちの内野手です。プロではあまり活躍できませんでしたが、引退後は警察官となっています。

14代目・鬼崎裕司選手は、スワローズとライオンズでプレイした内野のユーティリティ選手です。ライオンズのコーチを歴任しています。

15代目・フェリペ・ポーリーノ選手は、ドミニカ出身の巨漢選手です。

16代目・山野辺翔選手は内野手です。2021年シーズンは、試合中に全治3か月の怪我を負い出遅れてしまいました。




背番号4番を背負って活躍した3選手のご紹介

歴代の西武ライオンズの背番号4番の選手のうち、私が特に印象深く思う、基選手、笘篠選手、そして高木浩之選手をご紹介したいと思います。

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基満男選手


*横浜大洋ホエールズ時代の写真です。

生年月日  1946年11月10日
出身地   兵庫県神戸市
投/打   右/右
プロ野球歴
西鉄ライオンズ~太平洋クラブライオンズ~クラウンライターライオンズ(1967年~1978年)
横浜大洋ホエールズ(1979年~1984年)
タイトル等 
ベストナイン2回・ダイヤモンドグラブ賞1回・オールスター出場6回

基選手は、兵庫県出身で、報徳学園高校から駒澤大に進学しましたが中退し、その後プロテストを経て当時の西鉄ライオンズに入団しました。

野球を本格的に始めたのが中学3年時で、その翌年には名門・報徳学園高校のレギュラーを獲得したということから、ずば抜けた野球センスの持ち主だったことが想像できます。

また、学費が払えず駒澤大学を中退し、プロテストを経てのプロ入りするなど、現代の野球選手では見られない異色の経歴です。

入団1年目からショートやセカンドとして1軍に定着し、期待打席未到達で打率も2割台前半ながら124試合に出場するなど、当時の中西太監督が大きく期待を寄せていたようです。

2年目にはセカンドのレギュラーを獲得し、打率こそ.235だったもののリーグ最多となる26犠打を記録しました。この入団2年目からは背番号を4に変更しており、以後退団までの11年間にわたって使用したことが、後のライオンズの背番号4番の系譜につながっていきます。

さらに、3年目には打率.295でリーグ最多の34の二塁打を放つなど、打撃面でも確かに成長を見せつけ、金田正一選手からも評価を受けました。

そして入団6年目の1972年には、犠打数こそ減ったものの、打率.301、20本塁打、25盗塁の成績を残してベストナインを獲得し、リーグを代表するセカンドとなりました。

その後、移籍などもありましたが、打って良し・守って良し・走って良しの3拍子揃った選手として、18年のプロ野球生活を終えました。

プロ野球選手は成績として残る「数字」が重要視されますが、基選手は数字にあまり興味がなく、それよりもチームを優先し2000本安打などにも未練がなかったようです。

引退後はコーチを務める傍ら、野球解説者としてもプロ野球ファンに親しまれてきました。

基選手に関する逸話として、二塁手がバックハンドで打球をさばいた際に、グラブ内のボールを拳で叩いて送球するという「ウッドペッカートス」を最初に実践したと言われています。

また、ライオンズ時代に同僚だった名手・真弓明信選手は、守備から打撃から基選手に野球を教わったと語っています。

基選手は「どうすればチームに貢献できるか、ファンに喜んでもらえるか。」をベースとした考えを持っており、これは時代が変わった現代の選手も模範にしてほしい考えですね。

笘篠誠治選手

生年月日  1964年6月22日
出身地   大阪府茨木市
投/打   右/右
プロ野球歴
西武ライオンズ(1983年~1997年)

笘篠選手は、当時の大阪の名門校の上宮高校で1年生の時からレギュラーを獲得し、1982年のドラフト会議で西武ライオンズから2位指名を受け入団しました。

入団当初は背番号40を背負い、ルーキーイヤーにわずかながら1軍出場も果たしています。2年目は1軍出場がありませんでしたが、翌1985年はアメリカマイナー1Aに野球留学し本場の野球を経験しました。

5年目の1987年には、背番号を4番に変更しましたが、同年、セカンドの絶対的レギュラーだった辻選手が故障で離脱すると1軍定着を果たします。

辻選手が復帰すると出場機会が減ることとなりますが、一塁や外野も守り、俊足・好守のユーティリティプレイヤーとして活躍します。

プロ14年目のシーズン終了後にはFA宣言するも残留し、翌年の1997年で現役を引退しました。ライオンズ一筋の15年間のプロ野球生活でした。

笘篠選手はピッチャーのクセを盗むのがうまく、野茂英雄選手がトルネード投法で振りかぶって打者に背中を見せた時に、背中の横から手のボールの握りが見え、「右手の小指が立って見えるときはストレート、小指がボールに隠れて見えないときはフォークボール」というクセを発見したという逸話も残っています。

引退の翌年の1998年からはライオンズの守備走塁コーチに就任し、10年に渡って後輩の育成にあたりました。その後も、中日・ソフトバンク・楽天・ヤクルトの4球団でコーチをしています。

高木浩之選手

生年月日  1972年10月14日
出身地   愛知県稲沢市
投/打   右/左
プロ野球歴
西武ライオンズ(1995年~2008年)
タイトル等
ベストナイン1回・ゴールデングラブ賞1回・オールスター出場2回

高木選手は、愛知県出身で享栄高校から駒澤大学でプレーしました。高校時代はエースとして甲子園出場も果たしていますが、大学では主に内野手として活躍することが多くなります。

当時から打撃の方で大活躍とは言えませんでしたが、主将を務めた経験や守備力の高さから、1994年のドラフト会議で西武ライオンズから4位指名を受けました。

1995年のルーキーイヤーから1軍での試合出場を果たすと、次第に9番セカンドの定位置を確保します。2002年のシーズンには開幕から一貫して9番セカンドとして出場し、初の規定打席到達しました。

また、このシーズンではリーグ2位となる得点圏打率に三振数もわずかに26と、勝負強い打撃でリーグ優勝に貢献し、ベストナインとゴールデングラブ賞の表彰も受けています。

2005年からは視力障害を患い、戦線から離脱することが多くなりますが、2007年には西武ライオンズとして9人目となる通算1000試合出場を達成しました。

残念ながら2008年に視力障害が悪化し、現役引退することとなります。前に紹介した笘篠選手と同様、ライオンズ一筋14年間のプロ野球生活でした。

172cmと小柄ながら、勝負強い打撃にバントなどの進塁打も得意で、堅実な守備もある、まさにいぶし銀の選手でした。

引退試合では、同い年の同期入団でエースとして活躍した西口選手から花束を受け取りましたが、西口選手の引退試合では逆に高木選手が花束を渡しています。

引退の翌年からは、球団の編成の方で5年間勤務し、その後、2013年から2軍の野手総合コーチや1軍の打撃コーチを務めました。




背番号4番をつけた選手の傾向とは?

西武ライオンズの背番号4番は、ほとんどが内野手の選手が背負ってきました。中でも、先ほど紹介した基選手・笘篠選手・高木浩之選手は、それぞれ11年・11年・9年と長年背番号4を使用しており、イメージを確立してきた選手です。

この3選手に共通するのが、二塁手を守る機会が多かったということだけでなく、チームバッティングや守備が上手で、献身的なプレイでチームに貢献する、いぶし銀タイプの選手だったということです。

まさに、私が何となくイメージする背番号4番の姿にぴったりの選手たちがつけてきたと言えます。

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おわりに

今回は埼玉西武ライオンズの背番号4番を特集してきましたが、いかがでしたでしょうか?

近年では、山田哲人選手や浅村栄斗選手などのスラッガータイプの二塁手も活躍しています。

しかし、個人的には広島の菊池選手やロッテの中村奨吾選手のような選手の方が、古くからの「二塁手のイメージ」に近いような気がします。

ライオンズでは「イメージどおりの二塁手」の選手たちが背番号4を背負ってきました。今後のライオンズの背番号4を背負う選手も、いぶし銀タイプの選手がつけていくのか、注目していきたいと思います。

最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。

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