こんにちは、みっつです。
数字の21というと、どのようなイメージがありますでしょうか?今は21世紀なので、それをイメージする方が一番多いかもしれませんね!
主な野球の背番号について特集している当ブログ、今回は背番号21番について特集します。
背番号21番を背負う意味や、21番をつけた名選手を、投手と野手に分けてご紹介していきますので、楽しみにしていてくださいね。
■目次(クリックすると飛びます)
背番号21番を背負う意味って?
日本プロ野球の歴史を見ても、背番号21番は圧倒的に投手の背番号です。エースナンバーとしては、背番号18番が定着しています。しかし、その次に、エースと呼ばれる選手が多いのは背番号21番です。
特に、パ・リーグの西武ライオンズ、日本ハムファイターズ、そしてソフトバンクホークスの3球団は、過去から背番号21番をエースナンバーとして使用してきた傾向があります。
その他にも、巨人はチームのエースナンバーを背番号18番とし、左投手のエースナンバーを背番号21番とする慣習がありました。
この背番号21番をつけた投手には、偉業の達成者も多くいます。
巨人の加藤初投手、日拓の高橋直樹投手、最近ではオリックスの西勇輝投手等、ノーヒット・ノーラン達成者が多くいます。また、これまでに完全試合を達成した15人の投手の中で、背番号21番の投手が2人も含まれています。
その他にも、年間MVPを獲得した投手が多いなど、背番号21番はラッキーナンバーとして選手には好まれている番号です。
ちなみに、アメリカ大リーグの背番号21番は野手の番号として定着しており、本塁打王を2回も獲得した、サミー・ソーサ選手などが有名です。
背番号21番の歴代名投手をご紹介
エース級のピッチャーがつける背番号21番、その中でも大活躍した選りすぐりの5人をご紹介しますね。
東尾修選手
生年月日 1950年5月18日
出身地 和歌山県有田郡
投/打 右/右
プロ野球歴 西武ライオンズ(1969年~1988年)
タイトル 最多勝2回、最優秀防御率1回
表彰 年間MVP2回、ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞5回
東尾投手は打者に闘争心を燃やし挑んだ投手です。
東尾投手の決め球はスライダーですが、それを生かすために投じていたシュートの切れ味は、当時のプロ野球界でもNo1と言われていました。
東尾投手は「インスラ」と呼ばれるシュートで打者の腰を引かせると、次に外へ逃げていく「外スラ」と呼ばれるスライダーを投げ込み、三振を量産いたしました。
その一方では、右打者の内角ぎりぎりに狙うことから、デッドボールの多い投手でもありました。東尾投手が、現役で与えた165個のデッドボールは、プロ野球記録として残っています。
低迷する西鉄ライオンズから、西武ライオンズの黄金期まで、エースピッチャーとして活躍し、通算251勝を挙げました。
今井雄太朗選手
生年月日 1949年8月4日
出身地 新潟県長岡市
投/打 右/右
プロ野球歴 阪急ブレーブス1971年~1990年
福岡ダイエーホークス(1991年)
タイトル 最多勝2回、最優秀防御率1回、
表彰 ベストナイン2回、
今井選手は1978年8月31日のロッテオリオンズとの試合で達成した、完全試合が有名です。
その一方では、「酒仙投手」とも呼ばれました。気が弱くアガリ症の性格を克服するために、当時の上田監督が本人の好きなお酒を飲ませてから登板させたことが由来です。
この登板を機に、眠っていた才能が開花した今井選手は、阪急ブレーブスの黄金期を支える投手のひとりとなりました。
高橋一三選手
生年月日 1946年6月9日
出身地 広島県府中市
投/打 左/左
プロ野球歴 読売ジャイアンツ(1965年~1975年)
日本ハムファイターズ(1976年~1983年)
タイトル 最高勝率1回、最多勝1回
表彰 ベストナイン2回、沢村賞2回、ゴールデングラブ賞5回
高橋選手は、その名前をもじり「ミスター・ワンスリー」と呼ばれていました。しかし、本当の由来は、コントロールがそれほど良くなく、打者に対してストライク1つにボール3つの、いわゆる「ワンスリー」のカウントが多かったことから来ています。
例えば、1973年、左腕から繰り出される速球とスクリューボールを武器に、リーグ最多の238奪三振を記録する、その一方では、リーグ最多の139四球も与えました。
巨人のV9時代に左腕のエースとして活躍し、日本ハムに移籍後は江夏投手と左腕コンビを組むと、初のリーグ優勝に貢献をいたしました。
杉浦忠選手
生年月日 1935年9月17日
出身地 愛知県豊田市
投/打 右/右
プロ野球歴 南海ホークス(1958年~1970年)
タイトル 最多勝1回、最優秀防御率1回、最高勝率1回
表彰 年間MVP1回、新人王、ベストナイン1回、
杉浦選手は、南海ホークスの監督をしていた鶴岡一人氏に惚れ込み入団した選手です。
1959年、入団2年目には38勝4敗、防御率1.40の信じられない好成績を残し、チームの優勝に大きく貢献しました。その年の日本シリーズでは、4連投4連勝の偉業を成し遂げ、宿敵巨人を破って日本一にもなっています。
杉浦選手はアンダースローから浮き上がる快速球を武器に、西鉄ライオンズの大下弘選手・中西太選手そして豊田泰光選手を要した、当時の最強のクリーンナップを完全に封じ込めました。
残念ながら、入団4年目に右腕の血行障害を発症し、選手生命は13年と短いものになってしまったのです。
それでも通算187勝を挙げており、血行障害がなければ300勝を超える成績を残せたと語られています。
加藤初選手
生年月日 1949年12月20日
出身地 静岡県富士市
投/打 右/右
プロ野球歴 太平洋クラブライオンズ(1972年~1975年)
読売ジャイアンツ(1976年~1990年)
タイトル 最高勝率1回
表彰 新人王
加藤選手はドラフト外で当時の西鉄ライオンズに入団をしました。豪快なフォームから快速球を武器にし、入団1年目から17勝を挙げる活躍を見せます。
入団5年目には巨人に移籍をすると、1年目にフォークボールを覚えたことで、ノーヒット・ノーランを達成します。
マウンド上では、ピンチでも動揺を顔に出さない、ポーカーフェイスから「鉄火面」とも呼ばれることがありました。
意外?背番号21番の名野手たち
エース投手のイメージが強い背番号21番ですが、打者として活躍した選手や、これからの活躍が期待できる打者もいます。
関川浩一選手
生年月日 1969年4月1日
出身地 東京都調布市
投/打 右/左
プロ野球歴 阪神タイガース(1991年~1997年)
中日ドラゴンズ(1998年~2004年)
東北楽天ゴールデンイーグルス(2005年~2007年)
タイトル ベストナイン1回
大学時代は強肩強打の捕手として活躍し、大学リーグベストナインにも2回輝く選手でした。しかしプロ入り後は、捕手としての出番は少なく、外野手にコンバートされます。
1997年には中日ドラゴンズにチームメイトの久慈選手と、2対2の交換トレードで移籍、2004年には東北楽天ゴールデンイーグルスの新規参入に併せて移籍しました。シュアなバッティングと堅守を武器にし、17年間に渡って第一線で活躍をいたしました。
清宮幸太郎選手
生年月日 1999年5月25日
出身地 東京都
投/打 右/左
プロ野球歴 日本ハムファイターズ(2018年~)
清宮選手は早稲田実業高校で高校通算本塁打111本の史上最多を記録し、公式戦の通算打率405の驚異的な成績を残しました。
そして、ドラフトでは7球団から1位指名を受け、鳴り物入りでプロ野球界に入りました。
清宮選手がエース投手の番号として定着している背番号21番を付けることになった背景には、「野球界の枠に捉われない、大きな選手になって欲しい」という、願いが込められています。
まとめ
今回は、日本のプロ野球における背番号21番をご紹介しましたが、いかがだったでしょうか?背番号18番とならんで、エース級のピッチャーがつける番号として、定着していましたね。
そんな中で、野手として大活躍が期待されている清宮選手が、今後どのように成長していくのか、注目してみたいと思います。
最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。