こんにちは、みっつです。
ストライキというと、50代の私は鉄道会社のストライキをイメージしてしまいます(^_^;)今では鉄道会社のストライキも、ほとんどなくなった感じなので、ストライキをする事を見かけなくなってしまいました。
しかし、21世紀にはいってから、プロ野球でストライキが起こってしまったのです。
ほぼなくなっていたストライキが、なぜプロ野球で起こってしまったのか、その原因や結果、メジャーリーグでのストライキを特集します。
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プロ野球のストライキはなぜ起こったのか?
2004年9月18日から19日の2日間に渡り、日本プロ野球史で初めて、選手会によるストライキが実行されました。
ストライキとは、労働者による争議行為のひとつです。プロ野球界におけるストライキは、選手が出場することを拒否し、試合の開催を妨げたりすることを指します。ストライキに至る原因となったのが、パ・リーグ球団が主導したプロ野球界再編問題にあります。
同年6月、オリックス・ブルーウェーブと近鉄バッファローズの、球団合併構想が表面化したことが始まりです。突然、沸き起こった合併構想に、球団と選手は激しく対立をいたしました。
その翌月には、千葉ロッテマリーンズとヤクルトスワローズの合併交渉が、水面下で進行していると報道されます。
更には、西武ライオンズ、千葉ロッテマリーンズ、北海道日本ハムファイターズ、そして福岡ダイエーホークスの、4球団による統合の模索まで報道されました。次々と新たな合併問題が湧き出る中で、「10球団による1リーグ制」の話題が現実味を帯び始めます。
そして、混乱する球界再編問題に止めを刺したのが、読売ジャイアンツの当時のオーナーで、「プロ野球界のドン」と囁かれていた渡邉恒雄氏の発言です。
渡邉恒雄氏は、「パ・リーグ球団が6球団から4球団に減少した際は、巨人がパ・リーグに移籍をする」と発言したことで、混乱が更に広がりました。
こうした球界再編問題の背景には、パ・リーグ球団とセ・リーグ球団の人気差があります。パ・リーグはセリーグと比較して人気が低いことで、ファンの獲得が難しく、球団経営が厳しくなりがちでした。
球団再編問題が、選手の意向を尊重することなく進められる議論に、選手会は強い不満をあらわします。
そこで、当時の選手会長をしていた、ヤクルトスワローズの古田敦也会長が先頭になり、1リーグ制への移行に、強い反対姿勢を示します。
古田選手会長は弁護士グループとも連携をし、各球団経営者と粘り強い交渉を進めました。
なぜ選手会は1リーグ制に反対したのか?
プロ野球選手会が、1リーグ制への移行に反対する理由は、球団数の減少が大量の解雇選手を生み出すことに繋がるからです。憧れのプロ野球選手を目指して厳しい練習を続けてきた各選手にとって、選手生命の死活問題でもありました。
また、プロ野球選手を目指す少年たちの、夢を削り取る行為にもなるからです。しかし、球団経営側と選手会側との交渉が難航をすることから、ついに選手会側はストライキの実行を示唆いたします。
その内容は、「オリックスと近鉄の合併が1年間凍結されなければ、9月の毎週土・日の試合をストライキする」というものでした。
ストライキが行われた結果
1回目のストライキを予定した同年9月11日及び12日は、経営側と選手会側で協議交渉が進んだことで回避されました。しかし、翌週の協議交渉では、新規参入球団の時期について対立したことで、9月18日及び19日の2日間に渡って、日本プロ野球史で初めてのストライキが実行されました。
なお、2日間のストライキにより、計12試合が中止となっています。
それまでの経緯を見守ってきたファンは、選手側の主張に賛同する意見が多かったことから、ストライキ当日も目立った混乱は起きませんでした。
それよりも、試合中止にもかかわらず球場に足を運んでくれたファンに対し、選手会はサイン会を開催するなど、様々なファンサービスが実施いたしました。逆に、選手とファンが触れ合う機会にもなり、ファンから激励の声が直接選手に届けられる結果となったのです。
このストライキの様子を見守った経営側は、ファンの大多数が選手会を支持していることを知り、事態収拾に向けて一気に動き出しました。
ちなみに、近鉄とオリックスの合併により、最も犠牲となったのは近鉄の選手です。
当時、近鉄の選手会長を努めていた磯部公一選手は、「球界の発展の為に、今回、戦いに幕を下ろすことを決めました」と涙ながらにファンへ謝罪しました。
今回の騒動の中で、大阪の名門球団の近鉄バッファローズが、1949年から55年間続いた歴史に幕を下ろしたのです。
今回のストライキが実行された結果、選手会の存在意義は一気に高まり、また選手とファンとの絆も強まることになりました。
メジャーリーグでのストライキ
アメリカのメジャーリーグでは、1954年に選手会が発足した以降、これまでに5回のストライキが実行されています。
その中から、3つの事案を紹介いたします。その3つとは
- メジャーリーグ初のストライキ
- 選手の権利を賭けたストライキ
- 史上最悪のストライキ
となります。
メジャーリーグ初のストライキ
1972年、メジャーリーグの選手会がストライキを実行する原因となったのが、選手の年金基金問題です。
当時、アメリカでは高度成長の真っ只中で、激しいインフレが起きていました。こうした社会背景の中で、選手会は引退後の生活を支える年金基金について、インフレに見合った引上げを要求しました。
全24球団の選手の中から、各2名の代表者が選出され、球団経営側との話し合いに望みました。しかし議論が難航をしたことから、48名中47名の賛同を得て、メジャーリーグ初のストライキが実行されました。
13日間に及ぶストライキにより、86件の試合が中止となり、球団経営側は大きな損失を計上することになりました。
選手の権利を賭けたストライキ
選手は球団と契約を交わすことで、一定の縛りを球団から受けることになります。例えば、選手は自由に球団を移籍することができなくなります。選手の立場にすると、自分を高く買ってもらえる球団や、自分が思いを寄せる球団でのプレーを望みます。
こうした選手の思いを叶える制度が、フリーエージェント制度になります。しかし、球団経営側にとっては、大切に育てた選手が他球団に奪われるのは快くはありません。
1981年のストライキとは、フリーエージェント制度の形骸化を願う球団経営側と、フリーエージェント制度を守りたい選手側の思いの違いが引き起こしたものでした。
ストライキは約2ヶ月間続き、中止となった試合数は713にもなりました。
史上最悪のストライキ
球団は選手の活躍を願い、スター選手が生まれることを望みます。その反面、選手の年俸が高騰をすると、球団経営が成り立たなくなってしまいます。
そこで、球団経営側は球団経営の利益に対する、契約する選手の年俸総額を、一定割合までとするという、サラリーキャップ制度の導入を図ろうとします。しかし、サラリーキャップ制度に選手会が強く反対をし、ストライキにまで発展しました、
1994年8月にストライキが始まると、そのままシーズンの終了まで続き、ポストシーズンまでも中止となりました。更に、シーズンオフも続くこう着状態は、1995年のシーズン開幕でも解決を見ることが出来ずにいました。
このことで、ファンからは球団経営側と選手会側の両者に向けて大きなブーイングが浴びせられます。ようやく決着の目処がつくと、1995年4月25日に通年よりも一ヵ月遅れでシーズンの開幕にこぎ着けました
232日間にも及んだ史上最悪のストライキですが、これを教訓としたメジャーリーグでは、それ以降にストライキは実行されていません。
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まとめ
今回は、プロ野球でのストライキについて特集しましたが、いかがだったでしょうか?
プロ野球に限らず、私達にも守りたい利益があり、守るために行動を起こすのは自然な流れかなとは思います。
しかしプロスポーツは、ファンがあって成り立つもの。ファンを無視するような行動は避けないとなりませんよね。
プロ野球に限らず、ファンあってのプロスポーツだという事を、忘れないで欲しいと願うばかりです。
最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。