こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
野球殿堂
野球ファンなら、聞いた事はあるよ!という方が多いのではないでしょうか?私も『野球に貢献した人が選ばれる』程度の事は知っていても、詳しくはわかりませんでした。そんな方がきっと大いに違いありませんね(^^;)
という事で、今回は野球殿堂について詳しく調べてみました。まずは、野球殿堂の意味や日本での殿堂入りの条件・決め方についてご紹介します。
そして、殿堂入りした人や野球殿堂博物館についても触れていきますので、楽しみにしてくださいね。
■目次(クリックすると飛びます)
野球殿堂ってなに?
野球殿堂とは、野球で素晴らしい成績を残した選手や監督・コーチの他、野球の発展に大きく貢献したと認められた人物を顕彰するためアメリカで1939年に創設され、日本では1959年に創設されました。
野球殿堂はカナダ・メキシコにもあり、特にアメリカではレッドソックス野球殿堂やマリナーズ野球殿堂など、チームに貢献した選手のための殿堂を持つ球団や、学生野球殿堂という高校や大学で素晴らしい活躍をした選手を称える殿堂もあります。
日本の野球殿堂は読売ジャイアンツの本拠地・東京ドームに併設されている野球博物館内にあり、多くの野球ファンが来場し、その功績に触れています。
では、どのようにして殿堂入りの人物は選定されているのでしょうか。日本の野球殿堂入り選考についてまとめてみました!
野球殿堂入りの条件とは?
野球殿堂入りするためには、「野球界に大きく貢献すること」が必要です。
前にも述べた通り、選手や監督などでなくても殿堂入りすることは出来ます。実際に殿堂入りした人の中には野球経験のない人も多くいます。
その人たちはチームのオーナーだったり、政治家だったり、アナウンサーとして表彰された人もいます。政治家でもコミッショナーを務めた人や球団経営に携わったなど、野球に関わったことがあり、なおかつ貢献したと認められれば殿堂入りは可能です。
選手の殿堂入りに関しては、名球会のように「投手は200勝または250セーブ以上、打者は2000本安打以上」という明確な条件はありません。もちろん、名球会入りした選手の多くは殿堂入りを果たしていますが、それ以外の選手でも多く殿堂入りしています。
記録よりも記憶に残る選手は、殿堂入りする可能性が高いと言えるでしょう。
殿堂入りの候補者の決め方
殿堂入りする方法には、
・競技者表彰
・特別表彰
の2つがあります。簡単に言うと、競技者表彰は元選手や監督など、特別表彰はそれ以外の人、という分け方です。
競技者表彰は2007年までは1部門でしたが、2008年からは、
・プレーヤー部門
・エキスパート部門
という2つにわかれました。これも簡単に言うと、プレーヤー部門は引退してから5年以上20年以下の元選手、エキスパート部門は引退してから21年以上経った元選手、ということになります。
競技者表彰の各部門ごとに候補者が選ばれます。その人数はプレーヤー部門が30人、エキスパート部門は10人です。候補者はそれぞれ該当する期間内の元選手から殿堂入りに相応しい人物をピックアップしていきます。
どのように殿堂入りを決めているの?
殿堂入りは、それぞれ選出委員が投票して決めます。この選出委員もそれぞれの表彰によって違います。主なものを簡単にまとめてみました。
競技者表彰
競技者表彰は、プレーヤー部門とエキスパート部門とで選考委員が異なっています。
プレーヤー部門
野球報道(スポーツ紙や雑誌など)に15年以上の経験がある人。
エキスパート部門
殿堂入りした元選手。
競技者表彰は候補者の中か選出委員が3名を選んで投票します。その結果、選出委員の75%以上の得票を得た人が殿堂入りとなります。
競技者表彰を受けるにはまず候補に選ばれなければならず、選ばれたとしても投票で落とされることがあります。殿堂入りする選手が、いかに優れたプレーヤーであるかはこのことからも分かりますね。
特別表彰
特別表彰は、野球役員および学識経験者。(14人)
特別表彰は候補者がないので、選出委員は自由に自分が殿堂入りさせたい人を3人選んで投票します。その結果、選出委員の75%以上の得票を得た人が殿堂入りできます。
殿堂入りした人たちのご紹介
ここで、野球殿堂入りという名誉に輝いた人たちを、部門ごとにご紹介しますね。
競技者表彰部門
まずは2007年まで1部門だった、競技者表彰からです。
年 度 | 氏 名 | 経 歴 |
---|---|---|
1960 | スタルヒン | NPB初の300勝投手。シーズン最多勝利記録(42勝)、通算最多完封試合数(83試合)の記録保持者。 |
1962 | 池田 豊 | 東京六大学野球の審判を経てプロ野球・名古屋軍初代監督に就任。退任後はプロ野球の審判となる。 |
1963 | 中島 治康 | 戦前の1リーグ時代に巨人の4番打者を務め、史上初となる三冠王を達成。後に監督も兼任した。 |
1964 | 若林 忠志 | 戦前のタイガースのエース。「七色の変化球」を駆使し、打たせて取るピッチングで45歳まで現役を続けた。 |
1965 | 川上 哲治 | 巨人軍選手時代は「打撃の神様」と呼ばれ首位打者5回獲得、監督としては九年連続日本一に輝いた。 |
鶴岡 一人 | 南海ホークスで監督兼任選手としてMVP獲得。その後長きにわたり監督を務める。監督通算1773勝は日本記録。 | |
1969 | 苅田 久徳 | 創成期のプロ野球において、最上級の守備と謳われた二塁手。社会人野球でも監督を務めた。 |
1970 | 天知 俊一 | 1954年、中日ドラゴンズを日本一に導く。杉下茂投手にフォークボールを伝授したと言われている。 |
二出川延明 | 結成当初の巨人軍に選手として参加、のち審判に転身。「俺がルールブックだ」のセリフはあまりにも有名。 | |
1972 | 石本 秀一 | 広島カープ初代監督。選手集めから奔走、文字通り一からチームを作り上げた。阪神・大洋などでも監督を歴任。 |
1974 | 藤村富美男 | 高校時代からプロ生活前半までは投手、のち三塁手。「物干し竿」と言われた長尺バットで本塁打を量産した。 |
藤本 定義 | 戦前の巨人を皮切りに、5球団で監督を務めた。監督として通算1657勝、リーグ優勝は9回達成した。 | |
1976 | 中上 英雄 | スライダーの元祖。日本初の完全試合を達成した。引退後は新聞記者に転身。スカウトとしても活動した。 |
1977 | 水原 茂 | 巨人監督として3年連続日本一を達成。後に東映フライヤーズも日本一に導く。中日でも監督を務めた。 |
西沢 道夫 | 戦前は投手。戦後は打者として活躍。16歳と4日という史上最年少で公式戦出場を果たす。背番号15は永久欠番。 | |
1978 | 松木謙治郎 | 創立したばかりの阪神タイガースに入団、主将と4番打者を任される。後に阪神、毎日オリオンズの監督となった。 |
浜崎 真二 | 45歳でプロ入り、48歳4か月で勝利投手になるなど年長記録を次々と生み出した「小さな大投手」。 | |
1979 | 別所 毅彦 | 南海のエースだったが、「別所引き抜き事件」により巨人へ移籍。史上二人目の300勝を達成した。 |
1980 | 大下 弘 | 戦後のプロ野球界に颯爽と現れたホームランバッター。西鉄ライオンズ三連覇に4番打者として貢献した。 |
小鶴 誠 | 2リーグ分裂初年度の1950年、松竹ロビンズの3番打者として51本塁打をマーク、「水爆打線」の中心を担った。 | |
1981 | 飯田 徳治 | 走攻守揃った南海ホークスの主力打者。10年選手制度で国鉄スワローズへ移籍。通算1246試合連続出場した。 |
岩本 義行 | セ・リーグ初代王者・松竹ロビンズの4番打者。「神主打法」でトリプルスリーと1試合4本塁打を初めて達成した。 | |
1983 | 三原 脩 | 「三原魔術」と言われた選手起用で西鉄・大洋を日本一に導いた。その後サンケイ、近鉄でも監督を歴任した。 |
1985 | 杉下 茂 | 日本で初めてフォークボールを投げた投手。1954年の中日ドラゴンズ日本一にはエースとして奮投した。 |
白石 勝巳 | 1リーグ時代の巨人で正遊撃手を務める。2リーグ分裂で誕生した郷里の球団・広島カープに選手権監督として移籍。 | |
1985 | 荒巻 淳 | 社会人野球の強豪・星野組から毎日オリオンズへ入団した「火の玉投手」。いきなり26勝を挙げ最多勝を獲得した。 |
1988 | 長嶋 茂雄 | ミスター・プロ野球。巨人V9の立役者。監督として1994年に初の日本一に輝く。2000年には監督同士でON対決。 |
別当 薫 | 慶大から阪神に入団。2リーグ制移行の際に毎日オリオンズへ引き抜かれる。4球団で5度監督を務めた。 | |
西本 幸雄 | 毎日オリオンズから阪急、近鉄の監督を歴任。いずれも優勝に導いたが悲願の日本一獲得は果たせなかった。 | |
金田 正一 | 通算400勝、4490奪三振は不滅の大記録。ロッテで監督を務め、巨人V10を阻止した中日を倒し日本一となった。 | |
1989 | 島 秀之助 | セ・リーグ初代審判部長。天覧試合で球審を務める。後輩審判の指導役も務めた。 |
野村 克也 | 史上2人目、2リーグ制移行後初との三冠王を獲得。監督として南海、ヤクルトでリーグ優勝、ヤクルトでは日本一に。 | |
野口 二郎 | 「鉄腕」と呼ばれ、延長28回を投げ抜いたことも。また、打者としては31試合連続安打は当時の日本記録だった。 | |
1990 | 真田 重蔵 | 甲子園優勝投手としてはプロ最多の178勝を記録。現役引退後、高校野球監督を務め、甲子園で優勝を果たした。 |
張本 勲 | 首位打者7回、通算3085安打は日本記録。504本塁打という長打力、14年連続2ケタ盗塁の脚力も備えていた。 | |
1991 | 牧野 茂 | 巨人V9時代のヘッドコーチ。大リーグ・ドジャースを参考にバントシフトなどを考案、川上監督を支えた。 |
筒井 修 | 巨人の主力打者として活躍していたが、戦争で負傷し、審判に転身。史上2人目の通算3000試合出場を達成した。 | |
島岡 吉郎 | 37年にわたって明大野球部監督を務めた「島岡御大」。その精神論野球は、明大の代名詞となった。 | |
1992 | 広岡 達朗 | 現役時代は巨人のショートで大人気選手だった。監督としてヤクルト、西武それぞれで日本一に輝いた。 |
坪内 道則 | 日本球界初の1000試合出場、これまた日本初の1000本安打を達成した。引退後、背番号「15」が永久欠番となった。 | |
吉田 義男 | 現役時代は阪神の名ショート。監督としては阪神を初の日本一へと導いた。フランスでも野球指導経験あり。 | |
1993 | 稲尾 和久 | ルーキーでいきなり21勝、防御率1.06をマークした「怪童」。シーズン42勝は不滅の大記録。 |
村山 実 | 「ザトペック投法」で大人気を博した二代目ミスター・タイガース。フォークボールを武器とした。 | |
1994 | 王 貞治 | 説明不要、「世界のホームラン王」。監督として記念すべき第一回WBCで世界一に導いた。巨人などでも監督歴任。 |
与那嶺 要 | 通称「ウォーリー与那嶺」。俊足好打の巨人外野手だった。監督として古巣・巨人のV10を止めた。 | |
1995 | 杉浦 忠 | プロ2年目の1959年、38勝4敗でリーグ優勝に貢献した、南海ホークスのエース。ダイエー初代監督を務めた。 |
石井藤吉郎 | 早大では強打の外野手、社会人野球でも活躍。早大監督として多数のプロ野球選手を輩出した。 | |
1996 | 藤田 元司 | 「悲運のエース」・「球界の紳士」と呼ばれた現役時代を経て長嶋監督解任後の巨人監督を務め、日本一に輝いた。 |
衣笠 祥雄 | 骨折にもめげず、2215試合連続出場という大記録を達成。2000本安打、500本塁打も記録した強打の内野手。 | |
1997 | 大杉 勝男 | 「月に向かって打て」とホームランを飛ばした強打者。両リーグで1000安打達成は史上初の快挙。 |
1999 | 中西 太 | 高卒2年目で早くもホームラン王を獲得。引退後はコーチ、監督としてプロ野球界に多数の弟子を持つ存在となった。 |
広瀬 叔功 | 南海の遊撃手のち外野手。盗塁だけでなく首位打者も獲得した。監督に昇進するも1年で辞任した。 | |
古葉 竹識 | 1975年、広島カープ初優勝時の監督。1979年にはついに広島を日本一に導いた。翌年も日本一を達成。 | |
近藤 貞雄 | 中日投手コーチ時代、「投手分業制」を考案、実践した。大洋、日本ハムで監督を務めた。 | |
2000 | 米田 哲也 | 入団当時は弱小チームだった阪急を常勝軍団に造り上げた阪急右のエース。通算350勝は史上2位。 |
2001 | 根本 陸夫 | 広島、西武、ダイエーそれぞれの球団でチーム造りの土台を担った。ドラフト・トレードでも担当した「寝業師」。 |
小山 正明 | 阪神へはテスト入団。「針の穴をも通す」と言われたコントロールを武器に通算320勝。のち大毎、大洋へと移籍。 | |
2002 | 山内 一弘 | 毎日オリオンズの主砲。「世紀のトレード」で阪神移籍。のち広島カープへと移った。コーチとしても大活躍した。 |
鈴木 啓示 | 近鉄のエースとして速球を武器に活躍。後に技巧派に転向し、通算317勝を挙げた。最多被本塁打の記録保持者。 | |
福本 豊 | 通算1065盗塁、シーズン106盗塁、13年連続盗塁王。阪急黄金期を支えた「世界の盗塁王」。 | |
田宮謙次郎 | 阪神入団時は投手。肩を壊し打者転向、首位打者を獲得した。のちに毎日オリオンズへ移籍、優勝を経験した。 | |
2003 | 上田 利治 | 1975年から3年連続で阪急を日本一に導く。日本ハム監督時代は「ビックバン打線」を完成させた。 |
関根 潤三 | 法大から投手として入団、65勝を挙げる。その後打者転向し、1137安打。大洋、ヤクルトで監督を務めた。 | |
2004 | 仰木 彬 | 現役時代は西鉄の二塁手。近鉄監督として「10.19」を体験。オリックス監督としてはイチロー選手を抜擢した。 |
2005 | 村田 兆治 | ロッテのエース。「マサカリ投法」と呼ばれる投球フォームから速球とフォークボールで勝負した。 |
森 祗晶 | 選手時代は巨人V9を支えた正捕手。監督としては西武ライオンズを6度、日本一に導いた。 | |
2006 | 門田 博光 | 40歳で本塁打王と打点王の二冠を獲得した「不惑の大砲」。通算567本塁打は史上3位の記録。 |
高木 守道 | 走攻守兼ね備えた中日ドラゴンズの名二塁手。歴代最強の二塁手とも言われ、バックトスは名人芸とまで言われた。 | |
山田 久志 | アンダースロー投手として歴代最多の284勝。12年連続開幕投手はプロ野球記録。3年連続MVPを獲得した。 | |
2007 | 梶本 隆夫 | 阪急ブレーブスの左腕エース。米田哲也投手と「ヨネ・カジ時代」を築き、阪急を常勝球団へ押し上げた。 |
競技者表彰プレーヤー部門
次に、2008年からのプレーヤー部門です。
年 度 | 氏 名 | 経 歴 |
---|---|---|
2008 | 山本 浩二 | 走攻守が高いレベルで揃ったプレイヤー。広島初優勝の1975年には初の首位打者を獲得、MVPにも選ばれる。 |
堀内 恒夫 | 高卒ルーキーながら13連勝をマーク、沢村賞を獲得。以降、巨人V9のエースとしてチームを支え続けた。 | |
2009 | 若松 勉 | 通算打率.319は日本人第1位。常に打率トップテンに居た「小さな大打者」。監督としても日本一達成した。 |
2010 | 東尾 修 | チームの戦力不足に喘ぎながらも攻めの投球を貫き、通算251勝を挙げたライオンズのエース。 |
2011 | 落合 博満 | 史上唯一の三冠王を3回獲得した。首位打者、本塁打王、打点王それぞれ5回ずつ獲得している。 |
2012 | 北別府 学 | 高卒1年目から勝ち星を挙げ、広島のエースとして君臨。正確無比なコントロールを武器に通算213勝を挙げた。 |
津田 恒実 | 入団時は先発だったが、ケガによりストッパー転向。そのマウンド捌きは「炎のストッパー」と呼ばれ、人気を博した。 | |
2013 | 大野 豊 | 軟式野球出身ながら広島左のエースとして活躍。100勝100セーブをマーク、43歳まで22年間、現役を続けた。 |
2014 | 野茂 英雄 | 近鉄時代はルーキーから4年連続で最多勝。MLBドジャーズ移籍し新人王。日本人メジャーリーガーのパイオニア。 |
秋山 幸二 | 1987年に本塁打王、1990年には盗塁王を獲得。これは史上初の快挙。「メジャーに一番近い男」と言われた。 | |
佐々木主浩 | 1998年、横浜ベイスターズを38年振りの日本一に導いた「大魔神」。日米通算で381セーブを記録した。 | |
2015 | 古田 敦也 | プロ2年目で捕手としては史上2人目の首位打者を獲得。強肩強打でヤクルト黄金時代を支えた。 |
2016 | 斎藤 雅樹 | 11試合連続完投勝利はプロ野球記録。2年連続20勝、沢村賞3回受賞は日本記録。「平成の大エース」。 |
工藤 公康 | 西武、ダイエー、巨人と所属するチームすべてを日本一に導いた。ソフトバンク監督としても二年連続日本一。 | |
2017 | 伊東 勤 | 西武ライオンズ黄金時代を支えた正捕手。の監督就任後1年目でいきなり日本一を達成。のちロッテでも監督。 |
2018 | 松井 秀喜 | NPBで50本塁打をマーク、MLBではワールドシリーズMVPと日米双方で活躍した「ゴジラ」。 |
金本 知憲 | 1492試合フルイニング出場は世界記録。475本塁打は史上9位。阪神監督も務めた「鉄人」。 | |
2019 | 立浪 和義 | 高卒ルーキーでゴールデングラブ賞を獲得は史上初。2000本安打、1000打点も達成。通算二塁打記録保持者。 |
競技者表彰エキスパート部門
エキスパート部門の方はこちら。
年 度 | 氏 名 | 経 歴 |
---|---|---|
2009 | 青田 昇 | 巨人、阪急、大洋でプレー、ホームラン王を5回獲得した「じゃじゃ馬」。コーチとしても功績を残した。 |
2010 | 江藤 慎一 | 中日の主砲として二年連続首位打者。ロッテに移籍し、史上初の両リーグで首位打者を獲得した。 |
2011 | 皆川 睦雄 | 南海の主戦投手として通算221勝を挙げる。1968年には30勝。以降30勝投手は出現していない。 |
2013 | 外木場義郎 | プロ入り初勝利はノーヒットノーラン。都合3回のノーヒットノーラン達成は沢村栄治投手と並ぶプロ野球記録。 |
2016 | 榎本 喜八 | 高卒1年目から3番打者に定着。史上最年少(31歳7か月)で2000本安打に到達した「安打製造機」。 |
2017 | 平松 政次 | 「カミソリシュート」で巨人に立ち向かった大洋ホエールズのエース。通算200勝も達成した。 |
星野 仙一 | 中日のエースとして巨人10連覇を阻止。中日、阪神の監督を経て楽天で悲願の日本一を奪取した。 | |
2018 | 原 辰徳 | 巨人の四番打者として長く活躍したのち、監督に就任。一年目から日本一に輝く。第二回WBCでは世界一に導く。 |
2019 | 権藤 博 | 中日、近鉄などで投手コーチを歴任したのち、横浜ベイスターズ監督として38年振りの日本一に導いた。 |
2020 | 田淵 幸一 | NPBで通算474本のホームランを記録。 |
特別表彰
年 度 | 氏 名 | 経 歴 |
---|---|---|
1959 | 正力松太郎 | 巨人軍を創設、黎明期の日本プロ野球界を牽引した「プロ野球の父」。正力賞にその名を残している。 |
平岡凞 | 日本初の野球チーム「新橋アスレチックス」を創設。また、日本で初めてカーブを投げた人物と言われている。 | |
青井 鉞男 | 旧制一高(現東京大学)時代、アメリカの野球チームと対戦、29-4で一高が勝利した時の勝ち投手。 | |
安部 磯雄 | 早稲田大学野球部初代部長。アメリカ遠征を敢行し、持ち帰った練習法などを日本全国に広めた。 | |
橋戸 信 | 都市対抗野球大会創設者。その功績を称え、都市対抗最優秀選手賞は「橋戸賞」と命名された。 | |
押川 清 | 日本初の職業野球チーム「日本運動協会」や中日ドラゴンズの前身・名古屋軍などの設立に関わる。 | |
久慈 次郎 | プロからの誘いを断り、アマチュアの発展に貢献しようとするも試合中の不慮の事故で死去した名捕手。 | |
沢村 栄治 | プロ野球史上初のノーヒットノーランを達成。初代MVPに輝いた伝説の名投手。沢村賞の由来。 | |
小野三千麿 | 都市対抗野球大会の「補強選手」を考案した。功績を称え、都市対抗野球に「小野賞」が創設された。 | |
1960 | 飛田 忠順 | 「飛田穂洲」の名で学生野球を評論、発展に寄与した「学生野球の父」。「一球入魂」という言葉を造る。 |
河野安通志 | 中日ドラゴンズの前身・名古屋軍初代総監督。後楽園イーグルス設立にも関与した。 | |
桜井弥一郎 | 第一回早慶戦の勝利投手。慶応野球部初のアメリカ遠征では監督を務める。のち東京六大学リーグ理事。 | |
1962 | 市岡 忠雄 | 早稲田大学野球部監督、のち東京読売巨人軍初代総監督、さらには初代巨人軍代表を務めた。 |
1964 | 宮原 清 | 日本野球連盟の前身・日本社会人野球協会の設立に寄与。のちアジア野球連盟会長も務めた。 |
1965 | 井上 登 | 最高裁判所判事を定年退官後、第二代プロ野球コミッショナーに就任。プロ野球発展に尽力した。 |
宮武 三郎 | 戦前、慶大で投手・打者どちらでも活躍した。六大学リーグ通算38勝は現在でも慶大投手の最多記録。 | |
景浦 将 | 1リーグ時代の阪神タイガース4番打者。巨人・沢村投手との名勝負で人気を博す。投手としても活躍した。 | |
1966 | 守山恒太郎 | 旧制一高時代、外国人野球チームと対戦、惜敗するも猛練習を重ね、1年後に完封でリベンジを果たした。 |
1967 | 腰本 寿 | 日系二世の二塁手。慶大野球部監督としては「腰本式」と呼ばれる練習方法で黄金時代を築いた。 |
1968 | 鈴木惣太郎 | 戦前~戦後にかけ、日米の野球交流に多大な尽力を果たした。ベーブ・ルースとの交渉役も務めた。 |
1969 | 田辺 宗英 | 後楽園スタヂアム社長の他、日本ボクシングコミッション初代コミッショナーも務めた。 |
1970 | 小林 一三 | 巨人軍や阪神タイガーズに対抗し、阪急ブレーブスの前身・大阪阪急野球協会を設立した。 |
1969 | 三宅 大輔 | 巨人軍や阪急で監督を務める。また、都市対抗野球大会第一号本塁打記録者でもある。 |
田部 武雄 | 驚異的な足の速さに加え、美男子で人気も高かった。巨人入団後背番号「3」のち「1」の両方を背負った。 | |
森岡 二朗 | 警察官僚退任後、日本野球連盟会長に就任。戦時中のプロ野球存続に尽力した。 | |
島田 善介 | 慶大の強肩捕手。小野三千麿投手とバッテリーを組み、大リーグ選抜相手に勝利した。 | |
有馬 頼寧 | 戦前、東京セネタースのオーナーを務めた。競馬のG1レース・有馬記念にも名を残している。 | |
1970 | 田村駒治郎 | 2リーグ分裂後、最初のセ・リーグ優勝チームとなった松竹ロビンズのオーナー。社会人野球でも貢献した。 |
直木松太郎 | アメリカのルールブックを翻訳、日本語版ルールブックを完成させた「野球博士」。慶応式スコアブック記入法発案者。 | |
中馬 庚 | それまで「底球」(ていきゅう)と言われていたベースボールを「野球」、ショートストップを「遊撃手」と訳した。 | |
1971 | 小西 得郎 | プロ野球監督などを歴任したのち、野球解説者となる。独特の表現が人気を博し、解説者のパイオニアとなった。 |
水野 利八 | 野球用具メーカー・ミズノの創業者。戦前からグローブ・ボールなどを販売し、戦後復興を道具提供で支えた。 | |
1972 | 中野 武二 | 旧制一高時代は名二塁手として活躍。審判に転じ活躍を続け、当時の花形試合・早慶戦などでは主審を務めた。 |
太田 茂 | スポーツジャーナリストの草分け的存在。野球批評という分野で球界の発展に多大なる尽力を果たした。 | |
1973 | 内海 弘蔵 | 明大野球部初代部長。のちに六大学野球最高顧問を務める。プロ球団・名古屋金鯱軍創設にも関わった。 |
天野 貞祐 | 第二代学生野球協会会長。吉田茂内閣で文部大臣を二年間務める。大臣退任後も教育の復興に尽力した。 | |
広瀬 謙三 | 職業野球誕生とともに公式記録員に就任。野球記録の整理・分類などで大きな功績を残した。 | |
1974 | 野田 誠三 | 甲子園球場の主任設計者。のち阪神電鉄社長、会長を歴任、阪神タイガースオーナーも務めた。 |
1976 | 小泉 信三 | 学徒出陣する学生への餞として、いわゆる「最後の早慶戦」を軍部などからの圧力にも屈せず開催した。 |
1977 | 森 茂雄 | 大阪タイガース初代監督。のち母校・早大の監督を務め黄金時代を築く。さらに大洋ホエールズ球団社長に転じた。 |
西村 幸生 | 戦前、タイガースのエースとして同郷の巨人・沢村栄治投手との対戦で一時代を築く。1944年、戦死した。 | |
1978 | 伊丹 安広 | 早大では捕手として活躍、首位打者にもなった。卒業後は審判、社会人野球の監督を務めた。 |
吉原 正喜 | 強肩と闘志あふれるプレースタイル、卓越したリーダーシップで巨人を牽引した伝説の名捕手。 | |
岡田源三郎 | 明大が東京六大学リーグで初優勝した時の監督。後にプロ野球・名古屋金鯱軍でも監督権選手としてプレーした。 | |
1979 | 平沼 亮三 | 慶大野球部では4番打者を務め活躍、後に東京六大学野球連盟会長となった。横浜市長なども歴任。 |
谷口 五郎 | 早大時代にはエースとして活躍。社会人野球監督やプロ野球巨人、大洋で投手コーチを務めた。 | |
1980 | 千葉 茂 | 「猛牛」との異名を取った巨人の二塁手。のち近鉄監督に就任。今に続くバファローズの由来となった人物。 |
1981 | 佐伯 達夫 | 高野連会長として高校野球のレベルアップ、教育に貢献。一度殿堂入りを辞退したことのある唯一の人物。 |
小川正太郎 | 早大時代はエース投手として人気を博す。後に社会人野球協会を結成し、社会人野球の発展に貢献した。 | |
1982 | 鈴木 龍二 | 戦前、プロ野球球団・大東京軍の球団代表に就任。1952年からは32年に渡り、セ・リーグ会長を務めた。 |
外岡茂十郎 | 出陣学徒壮行早慶戦開催に携わる。戦後は日本学生野球協会の副会長として、アマチュア野球発展に貢献した。 | |
1983 | 内村 祐之 | 日米の野球事情に精通していた第3代コミッショナー。オーナー陣と意見が対立し、職を辞した。 |
1984 | 桐原 真二 | 戦前の一時期開催が中止されていた早慶戦を復活させた慶大主将。走攻守揃い、時には投手も務めた。 |
1985 | 田中 勝雄 | 早大では3度の首位打者を獲得。人より重いバットを振り、「ベーブ田中」の異名を誇った。 |
山内以九士 | 「記録の神様」の異名を持つ、プロ野球記録の整理・分類の第一人者。防御率、自責点などの用語を開発した。 | |
1986 | 中河 美芳 | 「タコ足」と呼ばれるほど体が柔軟な一塁手。両足が180度開脚し、どんな送球でも捕球できた。 |
松方 正雄 | 大阪タイガース初代取締役。戦前、タイガース対阪急軍の対戦を「関西の早慶戦」と名付け、人気カードにした。 | |
1987 | 藤田 信男 | 戦前、法政大野球部監督を務め、黄金時代を築く。戦後も野球部部長として長年貢献した「法大野球部の父」。 |
山下 実 | 慶大では首位打者を獲得するなど活躍し、「和製ベーブ」と呼ばれた。29歳で阪急軍に入団、プロでも活躍した。 | |
1988 | 横沢 三郎 | 戦前から六大学野球で審判として活躍。のちにプロ野球審判に転じ、初代パ・リーグ審判部長を務めた。 |
芥田 武夫 | 新聞記者からプロ野球解説者を経て、近鉄パールスの監督に就任。退任後は再び解説者となった。 | |
永田 雅一 | 大毎オリオンズオーナーとしてパ・リーグの発展に尽力した。私財を投げ打ち、東京スタジアムを造った。 | |
1989 | 池田 恒雄 | 「週刊ベースボール」を刊行、プロ野球発展に書籍で大いに貢献した。雑誌記者としては初の殿堂入りとなった。 |
伊達 正男 | 全日本代表としてベーブ・ルースらのいた大リーグ選抜と対戦。あわやというところまで追い詰めた投手。 | |
1990 | 佐伯 勇 | 近鉄パールス創設から30年以上オーナーを務めた。1989年、前年10.19の雪辱を果たす場面を見ることなく他界。 |
1991 | 中沢 良夫 | 第二代日本中等学校野球連盟会長。春夏の甲子園大会の基盤を造るなど、学生野球発展に尽力した。 |
1992 | 吉田 正男 | 中京商業時代、夏の甲子園を三連覇した投手。甲子園通算23勝は今も残る最多記録。 |
1994 | 広岡 知男 | 東京帝大時代には首位打者を獲得。日本学生協会会長、全日本アマチュア野球連盟会長職を長く務めた。 |
1995 | 呉 昌征 | 戦前の巨人軍で2年連続首位打者。戦後は阪神でプレーし、1946年は投打の二刀流で活躍した。 |
村上 実 | 阪急軍創設に関わったのち監督に就任、さらにパ・リーグ理事も歴任。フランチャイズ制などを確立させた。 | |
1996 | 牧野 直隆 | 第4代日本高等学校野球連盟会長に就任、外国人学校に甲子園予選参加を認めるなど改革を断行した。 |
保坂 誠 | 後楽園スタヂアム社社長として、日本初の屋根付き球場・東京ドームを完成させた。 | |
1997 | 山本英一郎 | 野球の国際化に務め、オリンピックでの野球競技開催に尽力した。日本野球連盟会長などを歴任した。 |
1998 | 井口新次郎 | 全日本軟式野球連盟理事を35年もの間務めた。他に選抜高校野球大会の選考委員なども歴任した。 |
中尾 碩志 | 歴代の巨人軍左腕で最多の209勝を誇る。ノーヒットノーランを2回達成。引退後は二軍コーチ、スカウトを歴任。 | |
1999 | 吉国 一郎 | 第9代日本プロ野球コミッショナー。その任期は歴代最長の3期9年に及んだ。プロ野球国際化にも尽力した。 |
2000 | 福島慎太郎 | 毎日オリオンズ球団社長を務め、後にパ・リーグ会長に就任。一旦会長を辞任するも再度会長職に就いた。 |
2001 | 武田 孟 | 学生野球協会会長を20年もの間務め、、日米大学野球選手権開催など、学生野球の国際化に尽力した。 |
長谷川良平 | 広島創成期のエース。身長167センチだったことから「小さな大投手」と呼ばれる。通算197勝で引退した。 | |
2002 | 中沢不二雄 | パ・リーグ初代専任会長。昭和天皇が観戦された1959年の「天覧試合」では解説役を務めた。 |
生原 昭宏 | 通称アイク生原。ドジャーズ球団職員として、ベロビーチキャンプ開催など日米の野球交流に多大なる貢献をした。 | |
正岡 子規 | 俳人、歌人。野球をこよなく愛し、実際に捕手としてプレーした。「新世紀表彰」で殿堂入りを果たした。 | |
オドール | 首位打者も獲得したメジャーリーガー。球団にニックネームをつけることを提案した。「新世紀表彰」での殿堂入り。 | |
2003 | 松田 耕平 | スピードガンの導入、カープアカデミー創設など球団強化に尽力した広島東洋カープのオーナー。 |
ウィルソン | 現在の東京大学で英語を教えていた教師。その際に生徒へ野球を教えた功績を称え「新世紀表彰」で殿堂入り。 | |
鈴鹿 栄 | 少年が安心して野球が出来るように、と軟式ボールを開発、その功績を称え「新世紀表彰」で殿堂入りした。 | |
2004 | 秋山 登 | 「明大五人衆」の一人として大洋ホエールズに入団、即エースとなる。大洋初優勝時にはMVPに選出される活躍。 |
2005 | 志村 正順 | NHKのアナウンサーとしてプロ野球中継を担当。小西得郎とのコンビで人気を博す。大相撲や五輪中継も担当。 |
2006 | 豊田 泰光 | 西鉄ライオンズの主力打者。引退後は雑誌で長く連載を持ち、舌鋒鋭く野球界を批評し続けた。 |
川島 広守 | セ・リーグ会長を長く務めたのち、第3代プロ野球コミッショナーに就任。プロアマの雪解けに尽力した。 | |
2007 | 松永 怜一 | 法大野球部監督として黄金時代を築く。ロサンゼルス五輪では公開競技ながら監督として金メダルを獲得した。 |
2008 | 嶋 清一 | 夏の甲子園大会で全5試合完封勝利、うち準決勝、決勝戦はノーヒットノーランを達成した伝説の左腕投手。 |
2009 | 大社 義規 | ファイターズをこよなく愛した名物オーナー。優勝時に身にまとったユニフォームの背番号「100」は永久欠番。 |
君島 一郎 | 野球が日本に伝わった経緯や、日本野球の歴史をまとめた「日本野球創世記」を刊行した。 | |
2010 | 古田 昌幸 | 都市対抗野球大会へ13年連続16回の出場歴を誇る「ミスター社会人野球」。監督兼任でもプレーした。 |
2012 | 長船 騏郎 | 全日本アマチュア野球連盟会長として、シドニーオリンピックでプロ・アマ合同チーム作成に尽力した。 |
大本 修 | 金属バットを開発、安全基準の認定にも関わる。後に木製バットの安全基準作成にも従事、品質向上にも寄与した。 | |
2013 | 福島 一雄 | 旧制小倉中学時代、三連覇を狙った夏の甲子園決勝で敗れ、甲子園の土を持ち帰った最初の球児。 |
2014 | 相田 暢一 | 早稲田大学在学中、出陣学徒壮行早慶戦開催に尽力。戦後は早大監督を務めたのち、審判に転身した。 |
2015 | 林 和男 | アメリカで作られたリトルリーグを日本に紹介し、実際にリトルリーグチームを結成、世界一に導いた。 |
村山 龍平 | 朝日新聞社社長として夏の甲子園大会を創設。第一回大会では羽織袴姿で始球式を行った。 | |
2016 | 山中 正竹 | 法政大時代、東京六大学リーグで挙げた48勝は現在も最多記録。バルセロナ五輪で野球日本代表監督を務めた。 |
松本 瀧蔵 | 政治家としてGHQと接点があり、戦後のプロ野球再開に尽力。野球に限らず様々なスポーツの戦後復興に貢献。 | |
2017 | 鈴木 美嶺 | プロ・アマで分かれていたルールブックを「公認野球規則」に統一した。毎年の改正にも携わった。 |
郷司 裕 | 1969年夏、青森・三沢高対松山商の決勝再試合など、甲子園決勝戦の多くで球審を務めた名審判。 | |
2018 | 瀧 正男 | 中京商、中京大を全国レベルの強豪に押し上げる。プロ・アマの指導者育成にも尽力した。 |
2019 | 脇村 春夫 | 元東大野球部主将、元日本高校野球連盟会長。プロとアマの交流に道筋を付けた。 |
2020 | 前田 祐吉 | 慶應大学監督・アジア野球連盟事務局長を歴任。 |
石井 連藏 | 元早稲田大学監督、日米大学野球開催に貢献した。 | |
2021 | 川島 勝司 | アトランタ五輪代表監督、都市対抗野球では3度の優勝を誇る。 |
佐山 和夫 | 日本高野連顧問として活躍。 |
野球殿堂博物館について
野球博物館には、プロ野球のみならず、野球に関するあらゆる資料・ユニフォームなどが収蔵されており、その数は何と3万品にものぼります。そのうち、約2000品が展示されています。
展示は「プロ野球」・「アマチュア野球」・「野球の歴史」・「野球の科学」の4つのブースに分けられています。ブースごとの展示内容をご紹介します。
プロ野球
プロ野球は現代の活躍している選手のユニフォームや、レジェンド選手の使用した道具などが展示がメインです。
アマチュア野球
アマチュア野球のブースでは甲子園で活躍した選手のグッズや大学野球・社会人野球も含め記念のボールや道具が展示されています。
野球の歴史
野球の歴史では、アメリカで野球が始められてから近代野球への変遷を年表形式で見ることが出来ます。
野球の化学
野球の科学コーナーでは、プロ投手との疑似対戦、元巨人・松井秀喜さんの足型を展示してプロ野球選手の凄さを体験できます。また、プロ野球公式データを検索するパソコンがあり、平成・昭和のプロ野球をデータで振り返ることが可能となっています。
松坂大輔選手の横浜高校や「かばい旋風」を巻き起こした佐賀北高校、吉田輝星投手を中心に平成最後の夏に快進撃した金足農業高校などの選手が着用したユニフォームやグローブなどを見る事ができます。
他には「都市対抗野球90回のあゆみ」と題した企画展が開催された事もありました。
プロ野球だけでなく、アマチュア野球の歴史も学べる野球博物館。野球ファンならばぜひ一度は足を運んで、野球の歴史や先人の功績などに触れてみたいものです。あっという間に一日が過ぎてしまうこと間違いなし、です!
>>>野球殿堂博物館のHPはこちらからどうぞ<<<
おわりに
今回は、野球殿堂についてご紹介してきましたが、いかがだったでしょうか?
日本に野球が伝わって約150年、様々な歴史を刻んできました。日本の野球がここまでになったのは、発展に大きく貢献した人々のお陰ですよね。
そんな人を称える野球殿堂、これからもずっと歴史を刻んでいってほしいと願わずにはいられません。
最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。