北海道日本ハムファイターズの背番号9番!歴代の9番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

プロ野球の北海道日本ハムファイターズ、その歴史は1946年のセネターズから始まりました。チーム創設から2019年現在までに、北海道日本ハムファイターズとその前身球団で背番号9番を背負った選手は24名います。
背番号9番をつけた24番目の選手は、北海道日本ハムファイターズの背番号9番は、ショートのレギュラーとしてすっかり定着した中島卓也選手となっています。

今回は、北海道日本ハムファイターズの背番号9番について特集です。歴代の背番号9番をつけてきた全選手と特に印象深い3選手のご紹介、そして9番をつけてきた選手の傾向もご紹介しますので、楽しみにしてくださいね。




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歴代の背番号9を背負った選手をご紹介

まずは、背番号9番をつけてきた24人の選手を、歴史の古い順番にご紹介します。

年  度年 数球 団 名選 手 名
1946年1年セネターズ根津弘司選手
1947年~1948年2年東急フライヤーズ清家忠太郎選手
1949年1年東急フライヤーズ清原初男選手
1950年1年東急フライヤーズ常見茂選手
1951年~1952年2年東急フライヤーズ金城政夫選手
1953年~1954年2年東急フライヤーズ千頭久米夫選手
1955年~1957年3年東映フライヤーズ福岡常男選手
1958年~1960年3年東映フライヤーズ今井康夫選手
1961年~1964年4年東映フライヤーズ吉田勝豊選手
1965年1年東映フライヤーズ山崎正之選手
1966年~1971年6年東映フライヤーズ鈴木悳夫選手
1972年~1981年10年東映フライヤーズ千藤三樹男選手
1982年~1987年6年日本ハムファイターズ木村孝選手
1988年~1991年4年日本ハムファイターズデイエット選手
1992年1年日本ハムファイターズマーシャル選手
1993年~1994年2年日本ハムファイターズシュー選手
1995年1年日本ハムファイターズマッキントッシュ選手
1996年1年日本ハムファイターズ空白
1997年~1998年2年日本ハムファイターズブルックス選手
1999年~2003年5年日本ハムファイターズ荒井修光選手
2004年~2005年2年北海道日本ハムファイターズ阿久根鋼吉選手
2006年1年北海道日本ハムファイターズマシーアス選手
2007年~2009年2年北海道日本ハムファイターズ小田智之選手
2010年1年北海道日本ハムファイターズ空白
2011年~2013年3年北海道日本ハムファイターズホフパワー選手
2014年~北海道日本ハムファイターズ中島卓也選手




歴代背番号9番のうち、印象深い3選手のご紹介

背番号9番を付けてプレーした24名の選手の中から特に印象深い3名の選手を選んでみました。

千藤三樹男選手

生年月日  1947年9月28日
出身地   岐阜県岐阜市
投/打   左/左
プロ野球歴 東映フライヤーズ(1972年~1981年)
タイトル等 オールスター出場1回

県立岐阜商高を経て早稲田大に入学した千藤選手。当時の東京六大学は法政大に田淵幸一、山本浩二、富田勝各選手の「三羽カラス」、明治大のエースは星野仙一投手という同学年の選手らが鎬を削る、華やかな頃でした。

その一学年下となる千藤選手の同級生も豪華で、エースの小坂敏彦投手と阿野鉱二手は揃ってドラフト1・2位で巨人に指名され大卒で入団しています。

主軸を打っていた谷沢健一選手もドラフト1位で大学から中日入りし名球会選手、そして荒川尭選手は矢沢選手らと同じトラフトで大洋1位指名されたものの拒否、後に「荒川事件」の被害者となってしまった選手です。

他にも安田猛投手、小田義人選手そして千藤選手は社会人を経由してプロ入りを果たし、何と同期で7人もの選手がプロ入りしたことになります。

ドラフト7位という低い順位での指名にも関わらず、プロ野球選手になれる喜びが勝り入団を決めた千藤選手。その実力は確かなものがあり、ルーキーイヤーの1972年には開幕スタメンに抜擢されます。さらに2年目からはレギュラーに定着。外野手としてチームに貢献します。

プロ7年目の1978年には規定打席不足ながら103試合に出場で打率.305を記録、オールスターにも選出されます。しかし、翌1979年には同じく左打ちで機動力のある島田誠選手が台頭、レギュラーを奪取したことで千藤選手の出番は減少していきます。

1981年、ファイターズ初のリーグ優勝を手土産に引退。引退後はコーチを10年間務めたのち解説者に転身。北海道の放送局を中心に活躍されています。

千藤選手は現役時代よりファンをとても大切にすることで有名な方でした。芸能人の伊集院光さんは千藤選手が快くサインしてくれたことをキッカケにファイターズファンとなったそうです。

ファンサービスが充実していることで知られる北海道日本ハムファイターズのルーツは、千藤選手にあったのかも知れませんね。




木村孝選手

生年月日  1958年9月18日
出身地   大阪府東大阪市
投/打   右/両
プロ野球歴 日本ハムファイターズ(1981年~1987年)
タイトル他 特になし 

木村選手は、近大付属高から近畿大を経て、1980年のドラフト会議でファイターズに3位指名され入団しました。

ちなみに、この年のドラフトではファイターズは秋田商・高山郁夫選手を1位指名したものの拒否され高山選手は社会人・プリンスホテル入りしています。

同じく阪急ブレーブス1位指名の松商学園・川村一明選手も指名拒否→プリンスホテル入りしたことから、西武ライオンズの策略かと賛否が渦巻いたドラフトとなりました。

プロ1年目の1981年シーズンから100試合に出場し、外野手として岡持和彦選手らとレギュラー争いをしていました。

しかし、翌1982年に二村忠美選手が入団。二村選手は持ち前の強打で外野のレギュラーとなり新人王を獲得するなどの活躍をみせます。
二村選手の活躍により、木村選手の出番は代走や守備固めが主となりました。それでも毎年90試合程度出場し活躍を続けていましたが、1986年以降はほとんど出番がなくなり1987年に引退。引退後は外野守備走塁コーチを務めたのち、スカウトに転身します。

木村スカウトの最大の功績は、大学の後輩でもある糸井嘉男選手を入団させたことです。

大学時代は投手で、プロ入りも投手としての入団でしたが、打者としての素質を当時の高田繁GMに見初められ、投手を2年で断念し打者に転向。その後の活躍は説明するまでもありません。

当初の思惑とは違った形となりましたが、プロで大成功を収めたのですから木村スカウトを称えるべきでしょう。

2014年でスカウトを辞した後は、アマチュアの指導者となるべく学生野球資格の回復講習会を受講し、2015年に回復が認定されると愛知学院大学野球部監督に就任しています。

ちなみに愛知学院大OBのプロ野球選手には埼玉西武ライオンズ・源田壮亮選手などがいますし、かつて監督を務めた方には、ドラフト史上唯一、巨人の1位指名を拒否した小林秀一氏がいらっしゃいます。

就任早々、愛知学院大をリーグ優勝に導き、全日本選手権大会に出場させた木村監督でしたが、2018年に部員の不祥事が発覚し指導を自粛したのち、退任されました。

再び指導者として、球界に復帰していただきたいです。

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中島卓也選手

生年月日  1991年1月11日
出身地   福岡県糟屋郡宇美町
投/打   右/左
プロ野球歴 北海道日本ハムファイターズ(2009年~)
タイトル他 盗塁王1回
      ベストナイン1回

中島選手は、2008年のドラフト会議でファイターズから5巡目に指名され入団しました。

高校時代のチームメイトに現在横浜DeNAベイスターズで活躍する三嶋一輝選手がおり、多くのスカウトが三嶋選手目当てに視察に訪れる中、ファイターズだけは中島選手に目を付けていたといいます。

中島選手をマークしていることを他球団のスカウトに悟られにように、いかにも三嶋選手の視察に訪れているんですよ、というフリをしていた、と後に担当だった岩井スカウトが述懐していました。、

それだけファイターズは中島選手を欲していた、ということなのでしょう。

無事、ファイターズに入団した中島選手は、プロ1年目の2009年シーズンから積極的に2軍で出場機会を与えられます。

というのも、当時ファイターズのショートを守っていた金子誠選手の後継者育成が必要となっており、ファイターズはその役目を中島選手に担わせようとしていました。

中島選手もその期待に応え、プロ3年目には早くも1軍戦に出場、4年目の2012年には代走・守備要員ながら105試合に出場しました。

翌2013年には当時のセカンドレギュラー・西川遥輝選手が故障で戦線離脱したことをきっかけとしてスタメンとして起用されるようになります。

西川選手が復帰してもポジションを譲らないほど主に守備と走塁面で評価され一気にブレイク、シーズンオフには背番号を「56」から「9」に変更しました。

2014年は主にセカンドを守り、2015年からはショートとして全試合に出場。この年初タイトルとなる盗塁王に輝き、ベストナインにも選出されました。2016年には全試合フルイニング守備に就くなど、不動のレギュラーとして定着しています。

決して打率は高くなく、長打力にも乏しいですが、それを補って余りあるバントの正確さと代名詞となりつつあるきわどいボールをカットする能力で、簡単には凡退してくれない打者として相手投手にすれば非常にやっかいな選手となりました。

2018年シーズン以降は石井一成・平沼翔太両選手が中島選手の牙城を崩そうと挑戦していますが、まだまだ壁は崩れていません。

中島選手のようなドラフト下位指名ながらレギュラーに定着した選手というのは、ある意味プロのだいご味、ドラフトの旨味でもあります。これからも、息の長い活躍を願わずにはいられません。




背番号9番をつけた選手の傾向とは?

球団創設以来、投手を始めすべてのポジションの選手が使用した背番号9番。どちらかと言えば外野手の使用頻度が高いようです。
しかし、1976年から6年間背負った鈴木悳夫選手や、1999年から5年間使用した荒井修光選手など捕手が使用することも多い番号でもあります。

1988年からは4代続けて外国人選手が使用しました。まず最初に着けたデイエット選手は在籍期間が4年と外国人選手としては長めですが、100試合以上に出場した年はなく、第3の外国人選手(当時は一軍戦に出場できる外国人選手は2名までとの規定がありました。

3人以上の外国人選手を抱えているチームは、選手のケガなどに備えた「保険」としての域を脱しない選手でもあったのです。

1992年に入団したシュー選手は、1990年からファイターズでプレーし、人気者だったウィンタース選手とのコンビで活躍(24本塁打79打点、打率.270)、チームを久々のAクラスとなる2位に押し上げました。しかし、翌年は成績が低迷、チームも最下位に転落してしまいました。

2004年、北海道日本ハムファイターズ初代の背番号9を背負った阿久根鋼吉選手には、ちょっとした事情がありました。

この年、MLBニューヨーク・メッツから新庄剛志選手がファイターズへ入団することが決定。新庄選手が背番号1を希望したため、前年まで1番をつけていた阿久根選手が譲り、自身は9番に変更したのです。

荒井選手の後を受けて9番を背負った阿久根選手から内野手が使用しています。阿久根選手は前述の通りの経緯で背番号を変更した二塁手でした。

変更する前年は82試合に出場していましたが、9番に変更した2004年にケガをしてしまい、2005年で惜しくも引退します。

2007年からは小田智之選手が9番を使用します。小田選手は一塁手で、早くからそのバッティング技術に注目が集まる期待の選手でしたが、ケガが多く、なかなかその力をフルに発揮することは出来ませんでした。

背番号変更も小田選手の心機一転を願ってのものでしたが、2009年で引退。ファイターズファンのみならず、小田選手引退を惜しむ声がありました。

2010年、新外国人選手ホフパワー選手が9番を背負います。名前からして力強いこの選手も、一塁手でした。しかし、左打者のホフパワー選手は左投手相手にスタメンを外れるなど苦戦し、3年間在籍したものの傑出した成績は残せませんでした。

以上の背番号9番を付けた選手を振り返ってみても、遊撃手で9番を付ける中島選手がやや異質であるということがおわかりいただけるかと思います。もちろん、固定概念にとらわれることはなく、むしろファイターズの9番=ショート・中島選手というイメージを定着させた中島選手は素晴らしいの一言です。

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おわりに

今回は、北海道日本ハムファイターズの背番号9番について特集してきましたが、いかがだったでしょうか?外野手やキャッチャー、外国人選手が多くつけてきた傾向もわかりましたね。

2014年から、24代目の北海道日本ハムファイターズの背番号9番をつけた中島選手、その活躍がチームの成績にかかわるような中心選手となっているだけに、さらなる活躍が期待されますね!

最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。

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