こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
中日ドラゴンズに、守備中に飛んできたフライを『ヘディング』して、一躍有名になった選手がいます。その選手とは、宇野勝選手です。
ヘディングで有名になってしまいましたが、実は球史に名を残す強打の遊撃手であるという事が、忘れさられがちなのが気の毒であります。
今回は中日ドラゴンズ背番号7番について特集します。背番号7番をつけてきた全選手や、特に印象深い3選手、さらに7番をつけてきた選手の傾向にも迫りますので、楽しみにしてくださいね。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号7番を背負った選手をご紹介
2020年現在で、中日ドラゴンズの背番号7番は28人の選手がつけてきました。まずは全選手を古い順からご紹介します。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
1936年 | 1年 | 名古屋軍 | 鈴木秀雄選手 |
1937年春~1938年秋 | 2年 | 名古屋軍 | 森井茂選手 |
1939年~1940年 | 2年 | 名古屋軍 | 天野竹一(介一)選手 |
1941年 | 1年 | 名古屋軍 | 空白 |
1942年~1943年 | 2年 | 名古屋軍 | 野口正明選手 |
1944年~1946年 | 3年 | 産業~中部日本 | 空白 |
1947年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 野口正明選手 |
1948年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 空白 |
1949年~1950年 | 1.5年 | 中日ドラゴンズ | 沖実郎選手 |
1950年~1952年 | 2.5年 | 名古屋ドラゴンズ | 松本和雄選手 |
1953年~1957年 | 5年 | 名古屋ドラゴンズ~中日ドラゴンズ | 山崎善平選手 |
1958年~1961年 | 4年 | 中日ドラゴンズ | 森徹選手 |
1962年 | 0.5年 | 中日ドラゴンズ | 中村武敏選手 |
1962年 | 0.5年 | 中日ドラゴンズ | ラリー・ドビー選手 |
1963年~1970年 | 8年 | 中日ドラゴンズ | 伊藤竜彦選手 |
1971年~1978年 | 8年 | 中日ドラゴンズ | 新宅洋志選手 |
1979年~1992年 | 14年 | 中日ドラゴンズ | 宇野勝選手 |
1993年 | 0.5年 | 中日ドラゴンズ | ブルック・ジャコビー選手 |
1993年 | 0.5年 | 中日ドラゴンズ | マット・ステアーズ選手 |
1994年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 横田真之選手 |
1995年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | メル・ホール選手 |
1996年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 山田和利選手 |
1997年~1999年 | 2.5年 | 中日ドラゴンズ | 森野将彦選手 |
1999年~2001年 | 2.5年 | 中日ドラゴンズ | 李鍾範選手 |
2002年~2003年 | 2年 | 中日ドラゴンズ | 谷繁元信選手 |
2004年~2006年 | 2年 | 中日ドラゴンズ | 川相昌弘選手 |
2007年~2009年 | 3年 | 中日ドラゴンズ | 李炳圭選手 |
2010年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | ディオニス・セサル選手 |
2011年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 佐伯貴弘選手 |
2012年~2013年 | 2年 | 中日ドラゴンズ | 山﨑武司選手 |
2014年~2017年 | 4年 | 中日ドラゴンズ | 森野将彦選手 |
2018年 | 1年 | 中日ドラゴンズ | 空白 |
2019年~ | 中日ドラゴンズ | 根尾昴選手 |
初代は鈴木秀雄選手です。1936年名古屋軍入りし、当初は捕手としてプレーしました。
1939年途中にライオン軍、1942年に大和軍へ移籍を繰り返し1944年に産業軍(名古屋軍から改称)へ復帰し内野手へ転向しています。
2代目・森井茂選手は開幕投手を6度も務めた右腕です。プロ10年間で通算53勝を挙げました。最後は広島カープで1年だけプレーしています。
3代目・天野竹一選手は明治大出身の内野手です。プロ生活は2年間のみで、1940年に退団しました。
4代目・野口正明選手は通算83勝を挙げた右投手です。1950年、2リーグ分裂に伴い創立された西鉄クリッパーズに移籍しました。
1952年に23勝を記録し、最多勝を獲得しています。引退後は野球解説者として活動しました。
5代目・沖実郎選手は長野・松本商高から入団した左腕です。プロ1年目の1948年、シーズン最終戦で先発するも勝ち星は挙げられず、通算でも3試合の登板で引退しました。
6代目・松本和雄選手は大陽ロビンス時代に打率3割を打ったことのある遊撃手です。1950年ドラゴンズに移籍し活躍が期待されましたが、ナイターになると打てなくなり、それが理由で出番が減少、引退となりました。
7代目・山崎善平選手は、1952年6月3日の対大洋ホエールズ戦で1試合6盗塁を記録しています。これは1989年に達成した広島・正田耕三選手とともにプロ野球記録として現在も残っています。
8代目・森徹選手はドラゴンズを代表する強打者です。プロ2年目の1959年に本塁打・打点の二冠を獲得しました。
しかし、当時の農人渉監督との関係が悪く、大洋に放出されてしまいます。「メガトン打線」と呼ばれた強力打線の一員として活躍しました。
9代目・中村武敏選手は1962年に入団した捕手です。メジャーリーグの本塁打王経験者ラリー・ドビー選手の入団が決まると背番号7番を譲り、中村選手は58番に変更しました。
10代目のドビー選手はMLBで本塁打王2回、打点王を1回獲得した選手で、1962年にドラゴンズへ入団しています。
1959年に一旦引退しており、3年ぶりの現役復帰でしたが、往年の力は残っていませんでした。しかし、大物元メジャーリーガーとして話題になりました。
11代目・伊藤竜彦選手は地元・中京商高からプロ入りした内野手です。長きにわたり内野手の控えとしてチームをさせ続けました。後年は外野手としても試合に出場しています。
12代目・新宅洋志選手は駒沢大からドラフト2位で入団した捕手です。同時期、攻守に優れた木俣達彦選手がいたためレギュラーにはなれませんでしたが、控え捕手としてチームを支えました。
13代目・宇野勝選手は実力・人気を兼ね備えた大型遊撃手です。1984年に37本塁打でタイトルを獲得、翌1985年も41本塁打を放ちました。
14代目のブルック・ジャコビー選手はMLB通算120本塁打を誇る現役メジャーリーガーです。しかし右ひざのケガが原因で不振に陥り、5月に退団となりました。
15代目のマット・ステアーズ選手はジャコビー選手退団を受け急遽獲得した選手です。日本では6本塁打に終わりましたが、ドラゴンズ退団後にMLBで大活躍しました。
通算265本塁打、1999年にはシーズン38本塁打を記録しています。
16代目・横田真之選手はロッテオリオンズ時代、新人から2年連続で打率3割を記録した左打者です。宇野選手らとの交換トレードでドラゴンズ入りしましたが、まったく不本意な成績に終わってしまいました。
17代目のメル・ホール選手は来日前年はニューヨーク・ヤンキースの4番打者だった選手です。
来日1年目に30本塁打したのはさすがですが、メジャーリーガーのプライドをかざし、格下の選手をいじめるなど性格に難があり、「史上最低の外国人選手」と評する同僚もいました。
18代目・山田和利選手は元々ドラゴンズの選手で、広島にトレードされた選手です。1996年、古巣に復帰しましたが同年限りで引退しました。俳優・山田裕貴さんの父として最近は有名ですね。
19代目・森野将彦選手は背番号が目まぐるしく変わった選手です。背番号56番で入団会見に臨んだものの、星野仙一監督の意向で7番に変更となったのを皮切りに7回も番号を変更しました。
20代目・李鍾範選手は「韓国のイチロー」と呼ばれた、俊足好打の遊撃手です。しかし、日本では思うように活躍はできず、2001年シーズン途中で帰国、韓国プロ野球に復帰されました。
21代目・谷繁元信選手は横浜ベイスターズからFA移籍した捕手です。横浜で13年、ドラゴンズで14年プレーし、通算出場数3021試合はプロ野球記録でとなっています。
2014年からは兼任監督を務めましたが、2016年シーズン途中で休養となりました。
22代目・川相昌弘選手は長年巨人のショートを守ってきた選手です。本来であれば2003年限りで引退するはずでいたが、監督交代のゴタゴタに嫌気が差し、チームを飛び出しドラゴンズへ移籍しました。
23代目・李炳圭選手は韓国プロ野球で首位打者を獲得した左打者です。前任者のアレックス・オチョア選手以上と期待されましたが、日本では本領発揮とはいきませんでした。
24代目のディオニス・セサル選手は当時の森繁和ヘッドコーチがドミニカリーグからスカウトしてきた遊撃手です。しかし、攻守ともに精彩を欠き、1年で退団しました。
25代目・佐伯貴弘選手は横浜で4番を務めたこともある左打者です。横浜球団とは喧嘩別れのような形でドラゴンズに入団。1年プレーし引退後はチームに残りコーチに就任しました。
26代目・山﨑武司選手は両リーグで本塁打王を獲得した強打者です。地元愛工大名電高から1987年にドラゴンズへ入団すると、1996年に本塁打王を獲得します。
その後東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍した2007年、38歳にして本塁打・打点の二冠に輝きました。2012年、10年ぶりにドラゴンズへ復帰し、2013年に44歳で引退。
27代目は再び森野選手が背番号7番を使用します。
そして28代目は現役の根尾昴選手です。大阪桐蔭高時代は甲子園を沸かせたスーパースター候補も、プロではやや苦戦気味です。
しかし、2020年はプロ初ヒットを放つなど、着実に力をつけつつある、ドラゴンズ期待の星であります。
歴代背番号7番のうち、印象深い3選手のご紹介
中日ドラゴンズの背番号7番をつけてきた選手のうち、私が特に印象深く思う宇野選手、李鍾範選手、そして森野選手をご紹介したいと思います。
宇野勝選手
出身地 千葉県八日市場市
投/打 右/右
プロ野球歴
中日ドラゴンズ(1977年~1992年)
ロッテオリオンズ(1993年~1994年)
タイトル等 本塁打王1回・ベストナイン3回・オールスター出場3回
宇野選手は、1976年のドラフト3位でドラゴンズから指名され、プロ入りしました。入団時の背番号は43番です。
プロ2年目の1978年に初本塁打を放ち、翌1979年に背番号7番に変更するとショートの定位置を確保しました。打っては初の2桁となる12本塁打を放ちます。
結局宇野選手は、同年からドラゴンズを退団する1992年まで、14年連続で2桁本塁打をマークし続けました。
平凡なショートフライを捕り損ね、オデコにボールをぶつけた、いわゆる「宇野ヘディング事件」が起きたのは1981年のこと。宇野選手に気の毒なほど、繰り返し珍プレーとしてテレビに取り上げられるため、昭和、平成のファンに抜群の知名度を誇ります。
しかし、宇野選手が残した数字を見ると、野球選手として素晴らしかったんだ、ということを思い知らせてくれるのです。ここから宇野選手が残した数字をご紹介したいと思います。
1984年、37本塁打で阪神タイガース・掛布雅之選手とともに本塁打王を獲得します。遊撃手として史上初の出来事でしたが、タイトルを獲らせようと両球団による敬遠合戦はせっかくの快挙に水を差しました。
1985年にはこれまた遊撃手として史上初となる40本塁打越えとなる41本塁打を記録します。しかしオールスターに出場できず、ベストナインも大洋ホエールズ・高木豊選手に奪われるなど不運な面もありました。
そのショックからか1986年は10本塁打に激減してしまいますが、1987年は30本塁打と復調します。しかし1988年は18本、翌1989年は25本と増減を繰り返しました。
これには守備位置が関係しており、なぜか宇野選手はショート以外を守ると本塁打数が減るのです。
1986年はサード、1988年は立浪和義選手の入団によりセカンドを守りました。1989年は立浪選手が肩を痛め戦線離脱します。宇野選手がショートに戻ると本塁打数が増え・・・という不思議な現象があったのです。
通算78盗塁を上回る96盗塁死を記録するなど、もどかしいプレーの多かった宇野選手。その一方で、毎年8月になると調子を上げ「ミスター・オーガスト」と呼ばれました。
つかみどころのない宇野選手のプレーぶりでしたが、それが多くのファンの心をがっちりと掴んだことは言うまでもありません。
引退後はドラゴンズで打撃コーチを務めたり、名古屋のメディアを中心に解説者として活躍しています。
李鍾範選手
出身地 韓国・全羅南道光州広域市
投/打 右/右
プロ野球歴
ヘテ・タイガース(1993年~1997年)
中日ドラゴンズ(1998年~2001年)
起亜タイガース(2001年~2012年)
タイトル等 MVP1回・首位打者1回・盗塁王4回・最多安打1回
最高出塁率1回・最多得点5回・ゴールデングラブ賞6回
(全て韓国プロ野球でのもの)
李選手は、1993年に韓国プロ野球(以下KBO)のヘテ・タイガースへ入団しています。
1年目からレギュラーとして活躍し、プロ2年目の1994年には首位打者と盗塁王を獲得しました。この年記録したシーズン84盗塁は、現在もKBO記録となっています。
1998年、ヘテの先輩・宣銅烈投手の後を追い、ドラゴンズに入団しました。当初ドラゴンズはロベルト・ペタジーニ選手の獲得を目指していましたが、本拠地がナゴヤドームとなり打ち勝つ野球より守りの野球を目指した星野仙一監督の意向により李選手獲得へ方向転換したのです。
KBOでは打率3割をコンスタントにマークし、盗塁王も4回獲得したことから「韓国のイチロー」と呼ばれていました。当初は前評判に違わぬ活躍を示していましたが、ショートの守りでミスが目立ち始め、6月2日の対阪神タイガース戦で死球を受け骨折すると、勢いが潰えてしまいます。
1999年、大型遊撃手として期待の大きかった福留孝介選手が入団したことで、李選手は外野へとコンバートされました。守備の負担が減ったことで1年を通してスタメンに定着します。
福留選手と関川浩一選手の3人で1~3番を担い、ドラゴンズ11年ぶりのリーグ優勝に貢献しました。
同年は李選手の他に宣投手、そして左腕のサムソン・リー投手の「韓国三銃士」に加え、4番を務めたレオ・ゴメス選手の外国人選手の活躍も話題となりました。
2000年、新外国人選手としてデーブ・ニルソン選手(登録名:ディンゴ)選手が入団します。当時、「外国人野手は1チーム2人まで」というルールがあり、李選手が二軍に行くこととなりました。
しかし、ディンゴ選手が不振で李選手が一軍に呼び戻されると、レギュラーとして活躍します。前年.238だった打率を.275まで上げ、一時期は3番打者を務めました。
2001年、オジー・ティモンズ選手の入団、井上一樹選手の成長、そして横浜ベイスターズから波留敏夫選手が移籍するなど外野陣は充実し、李選手の出番は失われます。シーズン途中で退団し、古巣・起亜タイガース(ヘテから名称変更)へ復帰しました。
ドラゴンズ入団時は背番号8番でしたが、球団に変更を願い出て森野将彦選手と交換して、韓国でつけていた7番になったのが1999年のシーズン途中のことです。
KBO復帰後も背番号7番でプレーし、2012年に引退。その背番号は宣投手に続き球団史上2人目の永久欠番に制定されました。
森野将彦選手
出身地 神奈川県横浜市保土ヶ谷区
投/打 右/左
プロ野球歴 中日ドラゴンズ(1997年~2017年)
タイトル等 ベストナイン1回・ゴールデングラブ賞1回・オールスター出場2回
森野選手は、1996年のドラフト2位で東海大相模高から入団すると背番号56番を与えられ、その番号で入団会見に臨みました。
しかし、星野仙一監督の意向で背番号7番でプレーすることとなった1年目の8月26日、対ヤクルトスワローズ戦でテリー・ブロス選手からプロ初安打となる本塁打を記録。背番号に負けない華々しいデビューを飾りました。
1999年、李鍾範選手の希望で背番号を交換、8番に変更します。
2001年シーズンの開幕直後、横浜ベイスターズから移籍した波留敏夫選手に背番号8番を譲り、森野選手は16番に変更しました。
2003年まで背負った背番号16番時代に森野選手は一軍戦力としての地位を確保します。2003年は守備では内野全ポジションを守り、打っては打率.271 6本塁打を記録しました。
2004年、落合博満新監督より「背番号16番は投手の番号」と言われ8番に戻します。この年から外野守備にも挑戦、一方でベテランとなった立浪和義選手が守るサードの定位置を狙い、出場機会を増やしていきました。
2006年、自身が憧れていた掛布雅之選手と同じ背番号31番に変更し、三塁のポジション奪取への意気込みを現します。熱意は実り、立浪選手からポジションを奪うと初の規定打席にも到達しました。
打率.280、自身初の2桁本塁打となる10本塁打を放ち、飛躍のシーズンとなったのです。
2007年は中村紀洋選手の加入でレフト、2008年は和田一浩選手の入団でセンターとポジションが変わります。2008年には北京オリンピック代表にも選出。シーズンでは自己最高の打率.321を記録しました。
2009年オフ、同年で引退した立浪選手の後継として背番号3番への変更を打診されるも固辞し、30番へ変更します。
2010年はキャリアハイとなる打率.327をマークしトニ・ブランコ選手が不振の際は4番打者を務めるなど、勝負強い打撃を評価され初のベストナインに三塁手として選出されました。
2011年、統一球騒動の影響からか前年から打率を1割近く下げますが、2013年に打率.288 16本塁打と復調。翌2014年からは「原点に立ち返る」として15年ぶりに背番号を7番に戻しました。
2014年、一塁手としてプレーし打率.288 13本塁打を記録します。プロ18年目にしてゴールデングラブ賞を初受賞しました。
2015年以降はケガや高橋周平選手の成長で出場機会が減り、2017年限りで現役を引退しました。
ドラゴンズ一筋21年プレーした森野選手。その間実に6つの背番号を背負ったことは有名ですが、ご紹介の通り守備位置もまたチーム事情により転々と変わりました。
背負った背番号のうち、思い入れのある番号は若手時代の16番で、お気に入りはやはり掛布選手と同じ番号だった31番だったそうです。
背番号7番をつけた選手の傾向とは?
中日ドラゴンズの背番号7番は、宇野選手の退団以降は移籍選手や新外国人選手の番号として使用されてきました。
元々は宇野選手の前任者・正岡選手やその前の伊藤選手のように長年ドラゴンズでプレーし、実績を積んだ選手に贈られる「ご褒美番号」だったのです。
1997年、東海大相模高から入団した森野選手は高卒ルーキーながら背番号7番を贈られ、途中何度か番号変更があったものの、現役最後は再び7番を着け、チームの主力打者として引退していきました。
根尾選手には森野選手、そして宇野選手のように主力選手となってほしい、という球団の期待が見えます。
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おわりに
今回は、中日ドラゴンズの背番号7番のを特集してきましたが、いかがだったでしょうか?
根尾選手は、まだ本来の実力を発揮出来ていないように感じます。
ナゴヤドームの公式戦で駆け回る背番号7番を毎試合見れるようになったとき、きっとドラゴンズは黄金時代を取り戻していることでしょう。