こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
1992年10月17日の午後4時37分、ヤクルトスワローズ対西武ライオンズの日本シリーズ第1戦。明治神宮野球場のライトスタンドは、かつて聞いたことのないような歓声に包まれていました。
3対3で迎えた延長12回裏、一死満塁のチャンスです。野村克也監督が絶好の場面で送った代打は背番号9番、大ベテランの杉浦亨選手です。
西武の守護神・鹿取義隆選手が投げた3球目の内角高めのボール気味の球を一振りすると、打球はライトスタンドへ一直線。日本シリーズの長い歴史でも史上初となる「代打サヨナラ満塁ホームラン」でした。
今回は杉浦選手がつけていた、東京ヤクルトスワローズ背番号9番についてお話したいと思います。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号9番を背負った選手をご紹介
まずは、東京ヤクルトスワローズの背番号9番を背負った全選手を、古い順にご紹介していきます。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
1950年 | 1年 | 国鉄スワローズ | 土屋五郎選手 |
1951年~1952年 | 2年 | 国鉄スワローズ | 川島孝選手 |
1953年~1958年 | 6年 | 国鉄スワローズ | 大久保英男選手 |
1959年 | 1年 | 国鉄スワローズ | 友川賢次選手 |
1960年~1963年 | 4年 | 国鉄スワローズ | 中村修一郎選手 |
1964年~1966年 | 3年 | 国鉄スワローズ~サンケイスワローズ~サンケイアトムズ | 倉島今朝徳選手 |
1967年~1972年 | 6年 | サンケイアトムズ~アトムズ~ヤクルトアトムズ | 城戸則文選手 |
1973年 | 1年 | ヤクルトアトムズ | アルト・ロペス選手 |
1974年 | 1年 | ヤクルトスワローズ | 空白 |
1975年 | 2年 | ヤクルトスワローズ | 松井優典選手 |
1976年~1977年 | 2年 | ヤクルトスワローズ | 中村国昭選手 |
1978年~1993年 | 16年 | ヤクルトスワローズ | 杉浦亨選手 |
1994年 | 1年 | ヤクルトスワローズ | 空白 |
1995年~1996年 | 2年 | ヤクルトスワローズ | ヘンスリー・ミューレン選手 |
1997年 | 1年 | ヤクルトスワローズ | ルイス・オルティス選手 |
1998年 | 1年 | ヤクルトスワローズ | エリック・アンソニー選手 |
1999年~2002年 | 4年 | ヤクルトスワローズ | ロベルト・ペタジーニ選手 |
2003年~2007年 | 5年 | ヤクルトスワローズ~東京ヤクルトスワローズ | 鈴木健選手 |
2008年~2017年 | 10年 | 東京ヤクルトスワローズ | 飯原誉士選手 |
2018年~ | 東京ヤクルトスワローズ | 塩見泰隆選手 |
3代目・大久保英男選手は徳島・鳴門高時代の1951年のセンバツ大会では優勝も経験している内野手です。スワローズ入団後はショートのレギュラーを掴んだ時期もありましたが、プロで6年間プレーし引退しました。
5代目・中村修一郎選手は長野県・松商学園時代に甲子園出場経験があります。社会人野球を経ての入団で即戦力として期待されましたが守備・走塁にやや難があり代打としてチームに貢献しました。
6代目・倉島今朝徳選手は長野県・上田松尾高時代に甲子園へ出場したことのあるキャッチャーです。
明治大を経てプロ入りした後は捕手または一塁手としてプレーしました。引退後はフロント入りし球団代表になりました。契約更改等のニュースでお名前を知っているファンの方もいらっしゃるのではないでしょうか。
7代目・城戸則文選手は西鉄ライオンズから移籍してきました。西鉄の四番打者・中西太選手がケガで常時出場が困難となると代わって三塁手を務めたこともある選手です。
1967年に金銭トレードでスワローズ移籍後は、ユーティリティープレーヤーとして7年間プレー。西鉄の11年と合わせ、18年間のプロ生活を送りました。
8代目・ロペス選手は、東京オリオンズからの移籍してきました。
オリオンズ入団時、球団は右打ちの「ヘクター」・ロペス選手と契約したつもりが、実際来日したのは左打ちの「アルト」・ロペス選手だった、という逸話が残り、「偽ロペス」などと当時の新聞に書かれたそうです。
しかし、どうしてどうして、このロペス選手は打率3割、20本塁打を確実にマークする「当たり」だったのです。
9代目・松井優典選手は、和歌山県・星林高時代に甲子園出場を果たしたこともある内野手です。
南海ホークスから移籍してきた選手です。後に野村監督の「懐刀」としてヘッドコーチに就任。野村監督が阪神へ移籍した際も行動を共にしました。同じホークスの小久保裕紀選手は高校の後輩に当たります。
松井選手と背番号交換をして9番を新たに背負ったのが中村国昭選手です。大分県・津久見高2年の夏に甲子園に出しました。当時の3年生エースは後にプロ野球でもエースとなる高橋直樹選手です。
高校卒業後、社会人野球でプレーしていた1966年、巨人からドラフト指名されますが拒否、1969年にドラフト外でスワローズへ入団、新人ながら開幕スタメンを務めた内野手でした。
中村選手の後を受けて、杉浦選手が55番から背番号変更で9番を背負い16年間使用した後は、外国人選手の使用が続きます。
1995年からはミューレン選手です。「恐怖の八番打者」と呼ばれ、打率は低いものの30本近い本塁打を量産しました。引退後は母国・オランダ代表の監督を務めています。
1997年オルティス選手、1998年アンソニー選手を経て1999年からはペタジーニ選手が使用しました。巨人・松井秀喜選手のライバルとして、あるいは上原浩治選手の「涙の敬遠」の相手として印象に残っているファンも多いことでしょう。
2003年からは日本人選手に戻り、西武から移籍してきた鈴木健選手が9番を着けました。
西武では4番打者を務めていたこともある選手でしたが不振等が重なりスワローズへトレードされます。心機一転打ちまくり、カムバック賞を受賞しました。
2008年からは飯原誉士選手が46番から変更し9番を背負います。俊足巧打の外野手としてスワローズ一筋でプレーしました。
2018年、ドラフト4位ルーキーの塩見泰隆選手が9番を引き継ぎました。
歴代背番号9番のうち印象深い3選手のご紹介
次に、東京ヤクルトスワローズの背番号9番をつけた選手のうち、私が印象深く思う杉浦選手、ペタジーニ選手、そして飯原選手をご紹介したいと思います。
杉浦亨選手
出身地 愛知県西尾市
投/打 左/左
プロ野球歴 ヤクルトスワローズ(1971年~1993年)
タイトル等 ベストナイン2回・オールスター出場3回・カムバック賞(1987年)
杉浦選手は、愛知高時代は速球派のサウスポーとして活躍し、ドラフト10位で投手として指名されました。
社会人・富士重工業に内定していた杉浦選手は進路に悩みますが、高校2年生の時にお父様が亡くなり、苦労してきたお母様をラクにしてあげたいとプロ入りを決断します。
すぐ打者に転向し、プロ2年目の1972年には早くも一軍戦に出場するなど期待の若手選手となりました。
打者転向当初は一塁手を務めていましたが、日本ハムファイターズから本塁打王経験のある大杉勝男選手が移籍してきたことで外野手へ再転向となります。1978年の5月から「6番・レフト」に定着し打率.291 17本塁打67打点を記録、スワローズ初の日本一に大いに貢献しました。
翌1979年には22本塁打、1980年には打率.311と自身初の3割を達成しました。この年からは5番打者、時には4番を務めるなどスワローズの主砲として活躍し始めます。
1985年、打率.314 34本塁打81打点と打撃3部門でいずれも自己最高の成績を残し、4番打者として君臨しました。ベストナインにも選出され絶頂期を迎えます。
1986年は故障に苦しみ、わずか5本塁打に終わってしまいますが、翌1987年、打率.304 24本塁打73打点と復活しカムバック賞を受賞します。
この年は「赤鬼」ホーナー選手が入団し、ホーナー旋風が吹き荒れた年でしたが、杉浦・ホーナー・レオン、そして6番打者には広沢克己選手が座るという強力打線を形成。前年までの5年間で4度最下位に沈んでいたチームが久々に4位と躍進しました。
1988年までレギュラーを務め、1989年からは代打の切り札としてチームに貢献します。右の代打の切り札・1歳年上の八重樫幸雄選手とともに野村監督を迎え世代交代が進むチームを支え続けました。
そして、西武ライオンズとの日本シリーズ第1戦である1992年10月17日、代打の切り札としての杉浦選手が最も輝いた瞬間がやってきました。
当時、常勝を誇り、ペナントレースも独走で制した西武に対し、スワローズは阪神タイガースとの息詰まるデッドヒートを辛くも切り抜け、シリーズへ駒を進めましたが、下馬評は圧倒的に西武有利と言われていました。
しかし、野球は何が起こるか分かりません。スワローズ・岡林洋一投手の力投もあり、3対3で迎えた延長12回裏。一死満塁。野村克也監督が絶好の場面で送った代打は背番号9番、大ベテランの杉浦亨選手でした。
いつものようにファーストストライクは悠然と見逃し、2球目も見送り。2ストライクと追い込まれたかに見えた杉浦選手でしたが真骨頂はここからです。
3球目は内角高め、見逃せばひょっとしてボール球だったかも知れません。マウンドいた西武の守護神・鹿取義隆選手にしてみれば体を起こす狙いの投球だったのではないでしょうか。
そのボールを杉浦選手が一閃!打ったというより何かに跳ね返されたかのような打球はライトスタンドへ一直線。日本シリーズの長い歴史でも史上初となる「代打サヨナラ満塁ホームラン」でした。
満面の笑みを浮かべ、ダイヤモンドを一周する杉浦選手の背番号9番に、意地とプライドが凝縮されているような、そんなシーンでした。
この年、一度は引退を決意するものの、日本シリーズの本塁打を見た野村監督に強く慰留され現役を続行します。翌1993年、前年のリベンジを果たし、自身二度目となる日本一を手土産に八重樫選手と共に現役を引退しました。
ロベルト・ペタジーニ選手
出身地 ベネズエラ
投/打 左/左
プロ野球歴(NPBのみ)
ヤクルトスワローズ(1999年~2002年)
読売ジャイアンツ(2003年~2004年)
福岡ソフトバンクホークス(2010年)
タイトル等 MVP1回・本塁打王2回・打点王1回・ベストナイン4回・オールスター出場3回
元阪神のバース選手、元近鉄バファローズ・ローズ選手など「史上最強の助っ人」と謳われた外国人選手は数多くいますが、ペタジーニ選手もその一人として名前が挙がるだけの活躍をした選手と言えるでしょう。
来日前はMLBで通算10本塁打でしたが、1999年にスワローズに入団するといきなり打率.325 44本塁打112打点を記録します。巨人の松井選手の42本塁打を上回り二年連続本塁打王を阻止しました。
以降、松井選手と熾烈な本塁打王争いを繰り広げ、松井選手がMLBニューヨーク・ヤンキースへ移籍する2002年までの4年間、キング争いの1・2位は松井選手とペタジーニ選手の指定席でした。
2000年は42本塁打対36本塁打で松井選手が勝ち、2001年は39本対36本でペタジーニ選手が制します。
そして松井選手が結果的にNPB最終年となった2002年、セ・リーグでは1985年バース選手以来、日本人セ・リーグ選手となると実に1977年の王貞治選手以来となる50本塁打を松井選手が放ち、41本塁打のペタジーニ選手を圧倒し、海を渡りました。
2003年、巨人は松井選手が抜けた穴を埋めるべく、ペタジーニ選手を獲得しました。前年までのライバル選手を引き抜く形で補強する巨人の手法に賛否の声が上がります。
そんな中、ペタジーニ選手は清原和博選手らとの併用で出場試合数が減ったにも関わらず打率.323 34本塁打81打点を記録しました。チームは3位に終わり、就任2年目だった原辰徳監督が突然退任表明するなど、モヤモヤとしたシーズンに終わってしまいました。
翌2004年、堀内恒夫新監督の元で打率.290 29本塁打84打点という成績を残しますが、チーム事情により退団しMLBへ戻ります。
一旦は引退を表明しますが韓国プロ野球で現役復帰し、2010年には6年振りのNPB復帰とるソフトバンクへ入団を果たしました。
しかし打率.261 10本塁打54打点と全盛期には遠く及ばない成績に加え、39歳という年齢もネックとなり1年で退団。現役生活を終えました。
ペタジーニ選手と言えば25歳年上の奥様が有名でした。一説には離婚したというウワサもありましたが、2019年7月のスポーツ紙記事によれば結婚生活は続いているそうです。
飯原誉士選手
出身地 栃木県小山市
投/打 右/右
プロ野球歴 ヤクルトスワローズ(2006年~2017年)
タイトル他 特になし
飯原選手は、栃木県・小山高時代は好投手としてプロも注目する存在でしたが、肩をケガしてしまったため投手を断念しました。進学した白鴎大で外野手へ転向します。
大学時代の一時期、視野を広げるという意味で内野手(遊撃手)を務めましたが、その経験が後にプロで活かされることになります。
大学4年時に出場した大学日本選手権大会で、後に巨人入りする東北福祉大・福田聡志選手から2本塁打したことで注目を集め、2005年の大学生・社会人ドラフト会議でスワローズから5巡目指名を受けプロ入りします。
背番号は母校・白鴎大で客員教授を務めていた現北海道日本ハムファイターズ・栗山英樹監督の現役時代と同じ46番となりました。
ルーキーイヤーの2006年から28試合に出場、打率.324を記録し順調なスタートを切りました。翌2007年にはMLBタンパベイ・レイズへ移籍した岩村明憲選手の後釜として、大学時代以来の内野手へ挑戦します。
この年、三塁手として118試合に出場しましたが、リーグワーストの18失策を記録したこともあり、2008年以降は外野手に専念しました。背番号も9番に変更します。
2008年には打率.291 9本塁打62打点28盗塁と活躍し、背番号9番を贈った球団・首脳陣の期待に応えました。2010年には打率.270 15本塁打を記録しスワローズの主力選手の一員となるかと期待されましたが2011年からは不振が続きます。
2013年後半からやや復調の兆しを見せ始め、2014年には96試合に出場し打率.306をマークしますが、2015年は雄平選手、上田剛史選手らが台頭しわずか18試合の出場に留まります。
スワローズは優勝を果たしますが、その波からはやや削がれる形となりました。
2016年には代打として出塁率が3割を超えたものの、2017年には17試合の出場に終わりシーズンオフに戦力外通告を受けます。
2018年からは地元・栃木に戻りBCリーグ・栃木ゴールデンブレーブスにコーチ兼任選手として入団。2年連続で打率3割を超えるなどさすがの貫録を見せています。
東北楽天ゴールデンイーグルス・岡嶋豪郎選手など数多くのプロ野球選手を輩出している白鴎大ですが、最初のプロ野球選手となったのが飯原選手です。そういった意味では、プロ野球の歴史を作ったとも言えるでしょう。
背番号9番をつけた選手の傾向とは?
スワローズの背番号9番は、杉浦選手が長年主力打者を務めたことにより、一気に格の上がりました。
杉浦選手が着けるまでは主力と言える選手が着ける番号ではありませんでした。それまでは比較的地味な選手が使用してきたのですが、杉浦選手以降は外国人選手であったり、移籍してきた選手であったり、いずれも「主力として期待している」という証の番号となりました。
ペタジーニ選手がスワローズを退団したのは18年も前、2002年のことですが、未だにスワローズの9番=ペタジーニ選手というイメージがファンの脳裏には焼き付いています。それだけインパクトのあった活躍だったという証左ですね。
そして、歴代の選手にみられる特徴は「甲子園経験者が多い」ということです。
平成に入り、ペタジーニ選手の活躍でますます重みが増した番号となり、着ける選手には長打力が期待されるような選手がつけています。その意味においては、2018年から9番を着けてプレーしている塩見泰隆選手はまさにうってつけの存在と言えるでしょう。
⇒東京ヤクルトスワローズの話題
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⇒球団別背番号の話題
おわりに
今回は、東京ヤクルトスワローズの背番号9番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?
ご紹介した通り、2018年からは塩見選手が背番号9番をつけています。
2019年シーズン、ファームで打率.310 16本塁打52打点を記録した塩見選手のバッティングを見ると、新しい時代はすぐそこまで来ていると感じさせました。
一軍ではその力を発揮できずにいる塩見選手ですが、2020年こそはブレイクをと期待されています。
最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。