東京ヤクルトスワローズの背番号6番!歴代6番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

1994年9月、東京ヤクルトスワローズを舞台とした映画「ヒーローインタビュー」が公開されました。

真田広之さん演じる、かつてはスワローズの強打者だったのに現在は二軍暮らしの野球選手と、鈴木保奈美さん扮する辣腕新聞記者との恋模様を描いた内容で、スワローズの他当時の横浜ベイスターズもチームとして実名で登場しています。

投手役で岸谷五朗さん、捕手役で江口洋介さんが出演されるなど豪華な出演者が話題を呼び、ヒットしました。

この年、ドラフト会議でスワローズから2位指名を受けたプリンスホテル・宮本慎也選手はチームから提示を受けた背番号5番と6番のうち迷うことなく6番を選択しました。

6番を選んだ理由として、ヒーローインタビューの主人公が6番であり、同じ番号でプレーすることになり張り切っている、と当時の選手名鑑に紹介されています。

今回は、宮本選手もつけた東京ヤクルトスワローズの背番号6番についてお話したいと思います!




■目次(クリックすると飛びます)

歴代の背番号6番を背負った選手をご紹介

まずは、東京ヤクルトスワローズの背番号6番をつけた全選手を、古い順にご紹介していきます。

年  度年 数球 団 名選 手 名
1950年1年国鉄スワローズ岩瀬剛選手
1951年~1955年5年国鉄スワローズ渡辺岩次選手
1956年~1957年2年国鉄スワローズ谷田比呂美選手
1958年1年国鉄スワローズ青山浩選手
1959年~1963年5年国鉄スワローズ赤木健一選手
1964年~1967年4年国鉄スワローズ~サンケイスワローズ~サンケイアトムズ篠田勇選手
1968年~1972年5年サンケイアトムズ~アトムズ~ヤクルトアトムズ中野孝征選手
1973年~1978年6年ヤクルトアトムズ~ヤクルトスワローズ永尾泰憲選手
1979年~1990年11年ヤクルトスワローズ水谷新太郎選手
1991年~1992年2年ヤクルトスワローズレイ選手
1993年~1994年2年ヤクルトスワローズ空白
1995年~2013年19年ヤクルトスワローズ~東京ヤクルトスワローズ宮本慎也選手
2014年~2020年7年東京ヤクルトスワローズ空白
2021年~東京ヤクルトスワローズ元山飛優選手

スワローズ背番号6番と言えばほとんどのプロ野球ファンが宮本選手を思い浮かべるでしょうが、その他にも球史に名を残す選手や、活躍を期待されて球団からプレゼントされた選手など歴史が詰まっています。

まずご紹介したいのが三代目の谷田比呂美選手です。

1948年、現在の阪神タイガースに入団した谷田選手はキャッチャーでしたが、代打での活躍が多く、1953年7月28日の対洋松(現在のベイスターズ)戦ではセリーグの選手として史上初となるサヨナラホームランを記録しました。

1956年にスワローズへ移籍すると金田正一選手の専属捕手として活躍しています。1958年4月5日、プロ野球ファンなら誰でも知っているであろう読売ジャイアンツ・長嶋茂雄選手がデビュー戦で金田選手の前に4打席4三振に打ち取られた試合でも、キャッチャーを務めています。

四代目・赤木健一選手は東京六大学リーグで首位打者経験もある慶応大の外野手です。少年時代、隣家に住んでいたのが国民栄誉賞を受賞した冒険家の植村直己氏であり、赤木選手とは遊び仲間でした。

五代目・篠田勇選手は水戸商から立教大を経て1964年にスワローズへ入団しました。1965年シーズンではケガをした高校の先輩・豊田泰光選手に代わってプレーしています。

篠田選手の後を受け継いだ中野孝征選手は、1967年のドラフト会議で1位指名されました。作新学院高時代は八木沢壮六・加藤斌両投手を擁し春夏連覇したチームの正遊撃手で、社会人を経ての入団でした。

1973年に入団した永尾泰憲選手もドラフト1位選手です。佐賀西高から社会人・いすゞ自動車を経てスワローズに入団し、1978年の初優勝にもセカンドの控えとして貢献します。

1979年には近鉄バファローズ、1982年には阪神タイガーズへと移籍し、1985年の阪神日本一も経験しました。

永尾選手が移籍した後に6番を背負ったのが水谷新太郎選手です。

1972年にドラフト9位で三重高から入団、5年目の1976年にショートのレギュラーに定着。1978年の日本シリーズには全試合で「8番・ショート」で出場、守備で日本一に貢献しました。

1979年から背番号をそれまでの40番から6番に変更しています。スワローズのショートして一時代を築きました。しかし、池山隆寛選手らが台頭してきた1986年頃から出場機会を減らし、1990年に引退しました。

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1991年シーズンからは新外国人選手のレイ選手が6番を使用します。

獲得当初、外野で起用する予定でしたが、レイ選手が拒否、本来の守備位置である二塁手にこだわったため、前年の二塁手レギュラー・飯田哲也選手を外野手にコンバートすることになってしまいました。

しかし、このコンバートにより飯田選手は外野手として完全に覚醒。スワローズ黄金時代の核弾頭として活躍します。
一方のレイ選手は野村克也監督に何度もサボり癖を指摘されるなどパッとしない成績に終始。スワローズが久々の優勝を果たしたのは、レイ選手が退団した翌年のことでした。

そして1994年、宮本選手が入団します。

PL学園高時代は春夏連覇を果たした立浪和義・片岡篤史選手らが1年先輩にいる中でプレー。大学も片岡選手と同じく同志社大へ進みます。

社会人・プリンスホテルで研鑽を積んだのち、逆指名制度を利用してスワローズ入団を果たしました。ドラフト同期には現在のサムライジャパン監督・稲葉篤紀選手がいます。




歴代背番号6番のうち、印象深い3選手のご紹介

東京ヤクルトスワローズの背番号6番をつけた印象深い3選手として、永尾選手、水谷選手、そして宮本選手についてご紹介したいと思います!

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永尾泰憲選手

生年月日  1950年5月2日
出身地   佐賀県佐賀市
投/打   右/左
プロ野球歴 ヤクルトアトムズ~ヤクルトスワローズ(1973年~1978年)
近鉄バファローズ(1979年~1981年)
阪神タイガース(1982年~1987年)
タイトル等 特になし

永尾選手は、佐賀西高から社会人・いすゞ自動車を経て1972年のドラフト1位でプロ入りしました。前年には西鉄ライオンズの3位指名を拒否しており、満を持しての入団でした。

プロ入り当初は遊撃手でした。盗塁王を獲ったこともある東条文博選手や益川満育選手らと競い定位置を掴みかけます。しかし守備力の優れた水谷新太郎選手が台頭してきたこともあり二塁手へコンバートされます。

1977年には規定打席に到達しレギュラーの座を確保しますが、翌1978年にヒルトン選手が入団すると永尾選手は控えに回ります。それでも84試合に出場、チームを陰で支え続けこの年のチーム初優勝・日本一に貢献しました。

翌1979年、マニエル選手と共に2対3の交換トレードで近鉄へ移籍。規定打席には到達しなかったものの打率.310 4本塁打40打点という素晴らしい成績を残します。

死球でアゴを骨折しながらも本塁打王となったマニエル選手とともに今度は近鉄初優勝を成し遂げます。

1980年も近鉄はリーグ連覇を果たしますが、惜しくも広島東洋カープの前に2年連続で敗れ、日本一には届きませんでした。

近鉄移籍後は100試合以上に出場していましたが、1981年は67試合に出場、打率も.215と落ち込みます。

1982年、金銭トレードで阪神へ移籍すると再び打棒が復活。代打を中心に打率.358というハイアベレージをマークします。その後はやや成績が落ち込みますが、1985年、再び永尾選手が輝きます。

この年、首位打者経験もある長崎啓二選手と共に左の代打コンビを形成した永尾選手は打率.327を記録しました。

長打もある長崎選手と出塁率の高い永尾選手。バース・掛布・岡田を中心とした「ダイナマイト打線」がさく裂した年ですが、こういった脇役の活躍も光り、圧倒的な強さで21年振りにリーグを制覇。

勢いのままに日本シリーズでは西武ライオンズをなぎ倒し、阪神は初の日本一の座に就きます。

翌1986年も打率.300を記録した永尾選手でしたが、1987年限りで引退。所属した3チーム全てでリーグ優勝を経験し、うち2チームでは日本一になるという、何とも幸せな現役生活でした。

名球会入りするほどの成績を挙げながらも、ついに優勝を味わうことなく引退する選手もいれば、永尾選手のように移籍する先々で優勝を経験する幸運な選手もいます。

しかも永尾選手の場合は、巨人や1970年代にパ・リーグを席巻した阪急ブレーブスといった常勝球団と呼ばれるチームではなく、優勝に縁遠かったチームで経験しているのですからなおさら強運と言えるでしょう。

引退後は阪神でコーチ、スカウトを務めたのち、母校佐賀西高でもコーチを務めました。2018年からは佐賀県立太良高の監督に就任、甲子園を目指しています。

水谷新太郎選手

生年月日  1953年12月7日
出身地   三重県松坂市
投/打   右/左
プロ野球歴 ヤクルトスワローズ(1972年~1990年)
タイトル等 特になし

辛口で鳴る元スワローズ監督・広岡達朗氏をもうならせた守備力で、スワローズの遊撃手として一時代を築いた水谷選手。1984年には遊撃手としての守備率.991という当時の日本記録を樹立しています。

1971年のドラフト会議で9位指名された水谷選手。この頃のドラフトは10人程度指名することはよくあることで、スワローズは12人、ロッテオリオンズは15位指名まで行っていました。

ちなみに、この年のドラフトでスワローズから3位指名されたのが、徳島海南高・尾崎健夫選手でした。後にプロゴルファーとなります。

プロ入り当初は右打ちでしたが、入団後に左打ちに変更しました。そのせいもあってか、一軍戦初出場はプロ入り4年目のことです。

1970年代中盤、スワローズの遊撃手争いは激しく、ドラフト1位で入団した永尾選手でもおいそれとポジションを掴めず、2・3人の選手がひしめき合っている状況でした。

その争いを制したのが水谷選手です。打撃は弱かったものの、抜群の守備力で定位置を獲得。1978年の日本シリーズでも7試合にフル出場しました。

1979年、背番号を6番に変更してからは不動の遊撃手としてチームに君臨します。

課題だった打撃も徐々に向上し、2割台前半だった打率も2割台中盤まで伸び、1984年には自己最高となる打率.291をマークしました。この年は守備率の記録を作った年でもあります。

水谷選手が気の毒だったのは、当時セ・リーグに人気の遊撃手が多数いたことでしょう。

広島・高橋慶彦、横浜大洋・山下大輔、中日・宇野勝、阪神・平田勝彦・・・といった各選手に囲まれては水谷選手の存在が霞んでしまうのも無理はありません。

1984年はあいにく(?)宇野選手が本塁打王を獲得しベストナインも受賞。ゴールデングラブ賞は平田選手が獲得し水谷選手は無冠に終わってしまいました。

翌1985年、プロ2年目の池山隆寛選手が一軍に定着し始め、1987年には13本塁打を放ちレギュラーを掴みます。水谷選手はセカンドに回り現役を続けますが、こちらも渋井敬一、桜井伸一選手らが成長、世代交代の波がスワローズにやって来ました。

水谷選手は1990年まで現役を続けました。新世代の壁となって、若手選手を鍛えたことは、1990年代のスワローズ黄金期に多大な影響を与えたと言っていいでしょう。

現役生活終盤、池山選手が冗談で「(1978年に)優勝したころのプレーが見たいなー」と水谷選手をからかったところ、優勝記念でもらったペンダントをかざし池山選手を黙らせたというエピソードがあります。

優勝してナンボ。勝たなきゃ意味がない。水谷選手の教えは、現在スワローズ二軍監督を務めている池山監督の胸にしっかりと刻まれていることでしょう。




宮本慎也選手

生年月日  1970年11月5日
出身地   大阪府吹田市
投/打   右/右
プロ野球歴 ヤクルトスワローズ~東京ヤクルトスワローズ(1995年~2013年)
記録他   ベストナイン1回・ゴールデングラブ賞10回・オールスター出場8回

宮本選手は、PL学園高から同志社大、そして社会人野球・プリンスホテルとアマ球界の王道を歩んできました。高校・大学時代にはそれぞれ全国大会優勝を経験し、大学リーグでは首位打者を獲得しています。

大学卒業時にもプロからの誘いはあったものの、当時の評価は4・5位指名という低いものであったため社会人野球に進むことにしました。

スワローズ入団後は1年目から二塁手の守備固めを中心に67試合に出場を果たします。

2年目の1996年シーズン後半からはアキレス腱痛で戦線離脱した池山隆寛選手に代わりショートでスタメン出場するようになります。池山選手が足への負担を考慮されサードへコンバート、その後釜としてレギュラーに定着しました。

プロ3年目の1997年に初のゴールデングラブ賞を受賞、守備では評価が高かった宮本選手でしたが、打撃ではこの年は打率.282と及第点だったものの、翌1998年には.258、1999年は.248と下がっていきました。

しかし2000年に自身初となる打率3割を達成しました。以降は2割台後半から3割を超える打率を残します。

打線における役割も、当初の8番打者から2番に昇格。2001年にはシーズン67犠打を記録。これは現在もプロ野球記録として残っています。

2004年のアテネ五輪では長嶋茂雄監督から直々にキャプテン就任を依頼され受諾しました。この時からオールプロ編成での五輪出場となったため「アマチュア選手の夢を奪ったのだから負けられない」とチームを鼓舞し、銅メダル獲得に繋げました。

以降2006年のWBC、2008年北京五輪と日本代表チームに欠かせない存在に。

2005年にはチームメイトの古田敦也選手からプロ野球選手会の会長職を引き継ぎ、球界全体のリーダーとなりました。

会長就任後最初のシーズンとなった2006年、ケガもあり73試合出場に留まりましたが打率.304を記録、2007年は規定打席に到達し.300で打撃成績10位、翌2008年は.308(同11位)、2009年は.294でベストテン8位に入る活躍ぶり。

この年から三塁手に転向しましたが、さっそくゴールデングラブ賞を獲得しました。遊撃手として6度、三塁手として4度、計10回もゴールデングラブ賞に輝いた宮本選手。守備の名手が揃うポジションでの獲得だけに価値が増します。

2012年シーズン、宮本選手は41歳でしたがそれでも100本近い安打を放ち、ゴールデングラブ賞を受賞したのですから恐れ入ります。

2013年、代打中心の起用となったことで引退を決意。「スタメンで出れなくなった時が退く時だと思っていた」という、いかにも宮本選手らしい引退の弁でした。

引退後は野球解説者を務めたのち2018年からは小川淳司監督の元、ヘッドコーチに就任しました。

小川監督退任後は次期監督とも目されましたが一旦チームを離れ、再び解説者・評論家となりましたが、近い将来、監督に就任するのでは、とファンの間では待望論が根強くあります。




背番号6番をつけた選手の傾向とは?

国鉄・サンケイ・ヤクルトと球団名は変わったものの、一貫して背番号6番を贈る選手の基準にブレがありません。それはポジションを問わず、チームの中心選手となりうる、なって欲しい選手に6番を与えている、ということです。

二代目・渡辺岩次(光央)選手は宇都宮鉄道局からのプロ入りでした。国鉄スワローズ発足当初、選手集めに苦労していた球団は各地の鉄道局から腕自慢の選手を次々とプロ契約しましたが、渡辺選手もそれだけ期待を集めた選手だったということでしょう。

谷田選手は移籍組ですが、捕手難のチームにとって救世主となるべく期待された選手ですし、赤木選手は東京六大学のスター選手として、篠田選手は甲子園のヒーローとして期待を受け、6番を贈られました。

ドラフト制が始まってからは1位指名選手に着けさせ、その後はショートのレギュラーとしてチームを牽引する役割を期待して水谷選手に引き継がせます。

水谷選手が十分にその期待に応えると今度は水谷選手の後継者となるべくの期待を込め、宮本選手へとバトンが渡されました。




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おわりに

今回は、東京ヤクルトスワローズの背番号6番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?

宮本選手が引退してから空白だった背番号6番ですが、2021年からは元山飛優選手がつける事となりました。

東北福祉大学時代には、日米大学野球の日本代表にも選ばれた逸材です。守備にも定評のある元山選手が、同じく守備に定評があった前任者の宮本選手に追いつき追い越せるか、注目していきたいと思います。

最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。

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