こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
プロ野球界において、ある背番号が一人の選手によって重みを増し、その球団はおろか他球団でさえ背番号〇〇といえば〇〇選手、といったイメージがある背番号があります。
例えば、あのイチロー選手がつけていたオリックス・ブルーウェーブの51番、や松井秀喜選手がつけていや読売ジャイアンツの55番です。
そして、同じく読売ジャイアンツの背番号10番も、阿部慎之助選手によって背番号10番と言えば阿部選手、といったイメージが強くなりました。
今回は、阿部選手がつけていた巨人の背番号10番について、歴史を辿っていきます。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号10番を背負った選手をご紹介
まずは、巨人の背番号10番を背負ってきた全選手を、古い順からご紹介します。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
1935年 | 1年 | 東京巨人軍 | 山本栄一郎選手 |
1936年 | 1年 | 東京巨人軍 | 中山武選手 |
1937年~1938年 | 1.5年 | 東京巨人軍 | 空白 |
1938年~1939年 | 1年 | 東京巨人軍 | 中山武選手 |
1939年 | 0.5年 | 東京巨人軍 | 倉信雄選手 |
1940年~1942年 | 3年 | 東京巨人軍 | 隈部一郎選手 |
1943年~1945年 | 3年 | 東京巨人軍 | 空白 |
1946年 | 1年 | 東京巨人軍 | 戸田吉蔵選手 |
1947年 | 0.5年 | 読売ジャイアンツ | 伊藤昭二選手 |
1947年 | 0.5年 | 読売ジャイアンツ | 佐藤雅康選手 |
1948年 | 1年 | 読売ジャイアンツ | 空白 |
1949年 | 1年 | 読売ジャイアンツ | 丸木重信選手 |
1950年~1953年 | 4年 | 読売ジャイアンツ | 宇野光雄選手 |
1954年 | 12年 | 読売ジャイアンツ | 空白 |
1955年~1963年 | 9年 | 読売ジャイアンツ | 堀内庄選手 |
1964年 | 1年 | 読売ジャイアンツ | 宮寺勝利選手 |
1965年~1966年 | 2年 | 読売ジャイアンツ | 宮本洋二郎選手 |
1967年~1968年 | 2年 | 読売ジャイアンツ | 高倉照幸選手 |
1969年~1970年 | 2年 | 読売ジャイアンツ | 田中章選手 |
1971年~1975年 | 5年 | 読売ジャイアンツ | 阿野鉱二選手 |
1976年~1979年 | 4年 | 読売ジャイアンツ | 張本勲選手 |
1980年~1982年 | 3年 | 読売ジャイアンツ | ロイ・ホワイト選手 |
1983年 | 1年 | 読売ジャイアンツ | ヘクター・クルーズ選手 |
1984年~1985年 | 2年 | 読売ジャイアンツ | 三宅宗源選手 |
1986年 | 1年 | 読売ジャイアンツ | 加藤英司選手 |
1987年 | 1年 | 読売ジャイアンツ | 岡本圭右選手 |
1988年~1993年 | 6年 | 読売ジャイアンツ | 駒田徳広選手 |
1994年~1996年 | 3年 | 読売ジャイアンツ | 吉岡雄二選手 |
1997年~1999年 | 3年 | 読売ジャイアンツ | 広沢克選手 |
2000年 | 1年 | 読売ジャイアンツ | 空白 |
2001年~2019年 | 19年 | 読売ジャイアンツ | 阿部慎之助選手 |
2020年 | 1年 | 読売ジャイアンツ | 空白 |
2021年(6月まで) | 読売ジャイアンツ | ジャスティンスモーク選手 |
|
2021年8月~ | 読売ジャイアンツ | 中田翔選手 |
2リーグ分裂以降、最初に背番号10番を背負ったのは宇野光雄選手です。元々は慶應大学の内野手・監督で、1947年に巨人へ入団したものの肩を壊し退団します。
その後、1950年に二軍監督として巨人に復帰し指導しているうちに肩が良くなったので選手としてプレーし、クリーンアップを務めました。後に国鉄スワローズへ移籍、一軍監督にまで昇格します。
1955年から背負ったのは堀内庄投手です。長野・松商学園高から1954年に入団、翌1955年に背番号を47番から10番に変更しました。
1956年には14勝4敗、勝率.778で勝率1位となり、日本シリーズでも活躍した右腕です。引退後は同僚だった広岡達朗氏に招聘され、ヤクルトスワローズの投手コーチに就任。1978年の日本一に貢献しました。
堀内投手引退後の1964年には宮寺勝利捕手が13番から変更して10番を受け継ぎます。
巨人では4年在籍し、計23試合の出場でしたが、西鉄ライオンズにトレードされるといきなり正捕手に抜擢。オールスターにも2回出場するなど、移籍することで花開いた選手でした。
1965年、宮寺選手は新入団選手である宮本洋二郎投手に10番を譲ります。
早稲田大から入団したものの、2年間で2勝しか挙げられず、広島カープへトレードとなってしまいます。後にスカウトに就任、前田健太投手らの獲得に尽力されました。
1967年からは、宮本投手と入れ替わりで西鉄から入団した高倉照幸選手が10番を引き継ぎます。西鉄時代は1番打者、またキャプテンを務め、「キャップ」の愛称で人気選手だった高倉選手でしたが、球団の赤字対策の一環で巨人へトレードされました。
移籍1年目はONに引けを取らぬ、勝負強いバッティングで5番打者を務めますが、翌1968年に成績が低迷するとサンケイスワローズへ移籍、1年間プレーしたのみで引退します。豪傑揃いの西鉄にあって、機械いじりが趣味という異色の選手でした。
高倉選手の後を受けたのは、田中章投手です。社会人・日本通運から1968年のドラフト2位で入団しました。
1年目から中継ぎとして35試合に登板しますが、2年間プレーした後、西鉄へトレードされます。西鉄でも中継ぎとして活躍、1973、74年には2ケタ勝利を挙げるなど主力投手として活躍。1976年には大洋ホエールズに移籍、2年間プレーし引退しました。
1971年からは阿野鉱二捕手です。1969年のドラフト会議で2位指名を受け入団。当初の背番号は33番でしたが、2年目から10番に変更しました。
ドラフト同期1位は同じく早大の小坂敏彦投手です。他に中日・矢沢健一選手ら阿野選手の早大同期生は7人もの選手がプロ入りしました。
阿野選手は後にトレーニングコーチに就任。関係の著書も出すほどその手腕は高く評価されました。
1976年、日本ハムファイターズから張本勲選手が移籍、代名詞である背番号10番を巨人でも着用します。移籍1年目から首位打者争いを演じ、前年球団史上初の最下位に沈んだチームを優勝へと導きました。
1980年からは、ロイ・ホワイト選手が読売ジャイアンツの背番号10番を背負いました。
MLBニューヨーク・ヤンキース一筋に15年プレーしたメジャーリーガーで、「外国人選手はまず人柄重視」という巨人のお眼鏡に適った人格者ぶりも話題となった選手です。
1983年はヘクター・クルーズ選手がつけています。
シーズン大半は控え選手でしたが、日本シリーズで大爆発し、特に第5戦では2対2の同点からサヨナラ3ランを放ちチームはシリーズ制覇に王手をかける一打となりました。
しかし、ウォーレン・クロマティ選手の獲得が決まったことを受け解雇、1年のみの在籍でした。
1984年、三宅宗源投手がロッテオリオンズから移籍し、10番を着用します。
王貞治選手の控え、または代打の切り札だった山本巧児選手との交換トレードでやってきた韓国出身の左腕でしたが、球は早いがコントロールは・・・という投手で、巨人では一軍戦に出場していません。
1985年、加藤英司選手が10番を継ぎます。
阪急ブレーブス黄金期の3番打者も、広島から近鉄、そして巨人と渡り歩いていました。通算二千本安打まであと少しでしたが1年で戦力外となり南海ホークスへ入団。悲願は大阪球場で達成されました。
1986年は岡本圭右選手が10番を使用しました。南海ホークスの準レギュラー格の左打者でしたが、巨人ではほぼ出番がなく、1年で退団、そのまま引退となりました。
1988年からは駒田徳広選手が50番から変更し、10番を着用します。
番号変更の記者会見で、「僕が巨人の10番を定着させます!」と張り切っていた駒田選手でしたが、その6年後に横浜ベイスターズへFA移籍します。巨人から他球団へ移るということで話題になりました。
1994年、吉岡雄二選手が長嶋茂雄監督の肝いりで61番から10番へ背番号変更しました。長嶋監督は吉岡選手の長打力に大変期待していましたが、花開いたのは近鉄バファローズに移籍してからのことです。
1996年、広沢克選手が80番から背番号10番に変更しました。ヤクルトスワローズ時代は8番を着けていた広沢選手ですが、原辰徳選手がいたため80番をつけました。
ケガで連続試合出場が止まってしまったことを受け背番号変更や登録名変更などしてみたものの効果はあまりなく、2000年からは阪神タイガースへ移籍。2020年現在、巨人と阪神の両球団で4番を務めた唯一の選手となっています。
2001年、ドラフト1位で入団した阿部慎之助選手が10番を着用しました。ようやく背番号10番は安住の地を得たのでした。
歴代背番号10番のうち、印象深い3選手のご紹介
次に、巨人の背番号10番をつけた選手の中で、私が印象深く思う、張本選手、駒田選手、そして阿部選手についてご紹介したいと思います!
張本勲選手
出身地 広島県広島市
投/打 左/左
プロ野球歴
東映フライヤーズ~日拓ホームフライヤーズ~日本ハムファイターズ(1959年~1975年)
読売ジャイアンツ(1976年~1979年)
ロッテオリオンズ(1980年~1981年)
タイトル等 首位打者7回・MVP1回・新人王(1959年)・オールスター出場18回・通算安打3085本(日本記録)
張本選手は、日本記録の3085安打、生涯打率日本人第2位となる.319、NPB史上ただ一人の通算成績トリプルスリーなどなど、日本を代表する大選手と言っても過言ではありませんね。
今回は、巨人移籍前後を中心に、活躍ぶりをご紹介したいと思います。
1974年、日拓ホームフライヤーズを買収した日本ハムは球団名をファイターズと変え、フライヤーズ時代「駒沢の暴れん坊」と言われたチームカラーの払拭に乗り出します。
1974年オフに大杉勝男・白仁天の両選手が放出され「次は自分だ」と思った張本選手は、1975年のシーズン終了後、自らチームを去る意思があることを表明しました。
すると同シーズン最下位に沈んだ巨人・長嶋監督が獲得の意思を示し、左腕エースだった高橋一三投手と「法大三羽カラス」の一人、富田勝選手との1対2の交換トレードで巨人入りしました。
移籍1年目の1976年。中日・谷沢健一選手と火の出るような首位打者争いを演じます。しかし終盤、張本選手は手首に不調をきたしました。
東映時代であれば試合を休み、打率を維持していた張本選手でしたが、巨人に移籍しどんな状況・試合であっても打席に立ち続ける王貞治選手と、それを当然として起用し続ける長嶋監督に感銘を受け、張本選手は不調を抱えたまま試合に出続けます。
結果、谷沢選手打率.3548、張本選手は打率.3547という僅差で敗れますが、張本選手は首位打者を取れなかった悔しさより、最後まで試合に出続けた満足感・達成感の方が勝ったのだそうです。
翌1977年はヤクルトスワローズ・若松勉選手と首位打者を争い、1978年はプロ野球記録として未だ破られていない16回目のシーズン打率3割を達成しました。
セ・リーグでも強打を披露した張本選手でしたが結局首位打者は獲得できませんでした。1979年は目の疾患により規定打席に届かず、打率も.263に終わります。
ここで巨人は39歳となった張本選手を来季の構想から外します。この決定に張本選手とは同級生で親友だった王選手はフロントに対し「巨人のユニフォームで3000本安打を達成させてあげて欲しい」と懇願しますが聞き入れてもらえませんでした。
通算2961安打と史上初の3000本安打目前の張本選手は当然ながら現役を続行し、ロッテオリオンズへ移籍します。
1980年5月28日。阪急ブレーブス・山口高志投手から本塁打を放ち、3000本安打を達成します。翌1981年まで現役を務め引退しました。
張本選手はプロ入り直後、コーチから「打率も残せて、本塁打が打てて、なおかつ走れる選手を目指せ」とハッパを掛けられていました。
ライバルでもある王選手が次々とホームランを放ち注目を浴びる中、通算504本塁打319盗塁を記録、コーチの期待に応えました。通算打率も3割を超えていますので、生涯成績でトリプルスリーを達成しているのです。
引退後は解説者一筋で活躍してきました。1992年から中日・大豊泰昭選手が取り組んだ一本足打法の臨時コーチとして指導しています。その成果もあって1994年に大豊選手は本塁打・打点の二冠王に輝きました。
平成から令和になっても、いまだ「喝!」を入れている張本氏。時に批判を浴びることもありますが、それ以上に楽しみにしているファンがいるのも事実です。
駒田徳広選手
出身地 奈良県磯城郡三宅町
投/打 左/左
プロ野球歴
読売ジャイアンツ(1981年~1993年)
横浜ベイスターズ(1994年~2000年)
タイトル等 ベストナイン1回・ゴールデングラブ賞10回・オールスター出場6回
駒田選手は、奈良・桜井商高時代は投手で4番でしたが、特に注目されたのはそのバッティングでした。3年の春季大会決勝では名門・天理高と対戦。無死満塁の場面で敬遠された、というエピソードは有名ですね。
ちなみにこの試合で再び回ってきた満塁の場面で、駒田選手は本塁打を放ちますが、その後、投手として満塁本塁打を打たれ、結局は8対13で敗れはしますがスカウトにその存在を知らしめました。
1980年のドラフト会議で巨人は1位で原辰徳選手を獲得、2位で駒田選手を指名します。
一軍デビューはプロ3年目の1983年4月10日、後楽園球場での対大洋ホエールズ戦。7番ファーストでスタメンし、公式戦初出場を果たした駒田選手に初回、いきなり打席が回ります。
場面は二死満塁。ここで駒田選手は何と満塁本塁打を放ちます!プロ初打席で満塁本塁打を放った選手は、NPBの日本人選手では駒田選手のみです。
その後も満塁では無類の強さを発揮、いつしか「満塁男」の愛称が定着しました。
191cmというプロ野球選手の中でも大柄な駒田選手だけに、当然周囲は長打を期待し、当時の王貞治監督は自身と同じように一本足打法の習得を勧められ、挑戦してみたものの挫折してしまいました。
その反省から無理に長打を狙わないバッティングスタイルがハマり、1987年後半からはレギュラーとして外野手、一塁手として出場機会を増やしていきます。
1988年、背番号をそれまでの50番から10番に変更しました。移籍してきた選手が着けることの多かった10番を「自分の番号にする」と宣言したシーズンで初の3割となる.307をマーク、これはリーグ4位の好成績でした。
1989年、平成最初の日本シリーズでは近鉄バファローズ相手に奮闘します。3連敗し後がなくなったチームにあっていい意味で開き直り、チームは駒田選手・岡崎郁選手らの活躍、原選手の意地の満塁ホームランなどで4連勝!
日本シリーズを制し、駒田選手はMVPに選出されました。
第7戦、「巨人はロッテより弱い」という趣旨の発言をしたとされる近鉄・加藤哲郎投手から本塁打を放った際、ベースを回りながら何かを叫んだ駒田選手。後に何と言っていたのかと質問されると真顔でこう答えました。
「ありがとう」
爆笑が起こったのは、言うまでもありません。
1994年、落合博満選手がFAで巨人入りするのが確実な情勢となり、自身の待遇に不満を持った駒田選手はFA移籍を決断し横浜入りします。
巨人に入りたいという選手が大勢いる中、その巨人から自らの意思で出るということで驚きをもって報道されました。しかし、1998年、横浜37年振りの日本一にキャプテンとして貢献したのですから、駒田選手の決断は正しかったと言えます。
2000年に引退後は横浜や楽天でコーチを務め、2016年からは四国アイランドリーグplus、高知ファイティングドックスの監督に就任。2019年まで4年間務めました。
阿部慎之助選手
出身地 千葉県浦安市
投/打 右/左
プロ野球歴 読売ジャイアンツ(2001年~2019年)
タイトル他 最優秀選手1回・首位打者1回・打点王1回
ベストナイン9回・ゴールデングラブ賞4回・オールスター出場13回
阿部選手は、中央大学時代に全日本代表にも選ばれ、早くから注目を浴びていました。
辛口で鳴る評論家の豊田泰光氏をして「打撃は全く問題ない、プロで活躍できる。問題は捕手としてのリードだ」と言わしめるほど、アマチュア時代から打撃には定評がありました。
2001年、ルーキーながら開幕スタメン捕手に抜擢されます。この起用は実力というよりも、村田真一捕手の後継者を育成するという、当時の原辰徳コーチの強い進言により長嶋茂雄監督が決断したものでした。
1年目は13本塁打するなど打撃では結果を残したものの、リードに関しては豊田氏の指摘通り不満が残るシーズンとなります。その評価は酷評という表現を使っていいほどのものでした。
しかし、長嶋監督、そして後を継いだ原監督は辛抱強く阿部捕手を起用。村田選手が引退して迎えた2002年には打率.298 18本塁打を記録し、リード面でのマイナスを打撃で取り返していきます。
4年目の2004年には開幕33試合目で何と20本塁打を放つという超ハイペースで活躍。もはや阿部選手に批判の声は上がらず、むしろ称賛の声が集まり始めました。
その後も強打の捕手として、4番打者まで務めます。巨人の捕手が4番を務めた例としては1992年の大久保博元選手やV9時代には森昌彦捕手も経験していますが、いずれも数試合のみです。
阿部選手のように、実力を認められて4番打者となった例は巨人史上初の捕手と言っていいでしょう。
打撃ばかりに注目が集まりますが、捕手としての能力も成長を遂げ、最優秀バッテリー賞には史上最多タイ、古田敦也氏と並ぶ6回選出されました。
上原浩治、内海哲也、そして菅野智之各投手といった日本人エースとはもちろん、セス・グライシンガー、ディッキー・ゴンザレス両投手といった外国人選手とも表彰されていることが、阿部選手のリーダーシップ、コミュニケーション能力の高さを表しています。
2012年の日本シリーズで試合に集中しきれず、サインを見落とした大学の後輩、沢村拓一投手をマウンド上でポカリとやってしまいます。批判はもちろん集まることを覚悟の上でそれでも喝を入れたあの姿勢こそ、真のリーダーの姿だったのではないでしょうか。
2019年シーズンをもって引退、将来の一軍監督候補としての活躍が期待されます。
背番号10番をつけた選手の傾向とは?
巨人の背番号10番を「移籍してきた選手の番号」と認識している方は多いと思います。事実、ある時期までは移籍選手専用の番号といってもいいくらいでした。
昭和の時代は「移籍してきた選手」や「あっという間にトレードされた選手」の番号でした。平成に入り、駒田選手が10番を落ち着かせるかと思いきや、まさかのFA移籍となり、再び10番の歴史は混迷の渦に吸い込まれます。
25人もの選手がつけて、長年固定されていなかった巨人の背番号10番でしたが、阿部選手がつけた事により、10番は安住の地を得る事となりました。
2019年オフ、正捕手候補として期待を集める大城卓三選手が原辰徳選手から10番の着用を打診されたものの、辞退しました。結局は前監督・高橋由伸氏の24番を継承したのですから大いに楽しみな存在ですね。
⇒読売ジャイアンツの話題
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おわりに
今回は、読売ジャイアンツの背番号10番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?
昭和の時代には移籍してきた選手がつける傾向がありましたが、阿部選手がつけてからは背番号10番と言えば阿部選手、というイメージがつくほどになりました。
大城選手が辞退した事でもわかりますが、阿部選手によって背番号10番は「付ける人を吟味される」番号に昇格し、つける選手もプレッシャーがかかる番号となりました。
2020年からは空白となっていますが、次にどのような選手がつけるのか楽しみです。阿部選手のイメージを一新するような選手が現れると事を願っています。
最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。