こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!
1986年9月8日、今はなき後楽園球場での巨人対大洋戦でのプレーは、全国のプロ野球ファンがあっと驚かせました。
8回裏、巨人は二死一塁三塁という勝ち越しのチャンス!打席には有田修三選手が入ります。
この場面で、有田選手は何と二死だというのにセーフティスクイズを敢行、三塁手が捌き一塁へ送球するも判定はセーフ。
一塁手はセーフのコールにグラウンドにグローブを投げつけ抗議、大洋近藤昭雄監督も血相を変えて抗議に出てきました。
一塁手がボールの入ったグローブを放ったらかしにしているのを巨人コーチは見逃さず、三塁走者に続き、一塁ランナーもホームインという何とも印象的なシーンでした。
今回は、そんなプレーを演出した有田選手がつけていた、巨人の背番号9番についてお話したいと思います。
■目次(クリックすると飛びます)
歴代の背番号9番を背負った選手をご紹介
まずは、歴代の9番の選手を、古い順にご紹介していきます。
年 度 | 年 数 | 球 団 名 | 選 手 名 |
---|---|---|---|
1935年 | 1年 | 東京巨人軍 | 青柴憲一選手 |
1936年~1942年 | 7年 | 東京巨人軍 | 山本栄一郎選手 |
1943年 | 1年 | 東京巨人軍 | 大屋克已選手 |
1944年~1945年 | 2年 | 東京巨人軍 | 空白 |
1946年 | 0.5年 | 東京巨人軍 | 渡部弘選手 |
1946年 | 0.5年 | 東京巨人軍 | 小池繁選手 |
1947年 | 1年 | 読売ジャイアンツ | 橋沢俊夫選手 |
1948年~1950年 | 3年 | 読売ジャイアンツ | 藤原利美選手 |
1951年 | 0.5年 | 読売ジャイアンツ | 南温平選手 |
1951年~1952年 | 1年 | 読売ジャイアンツ | 長島進選手 |
1952年 | 0.5年 | 読売ジャイアンツ | 久保木清選手 |
1953年 | 0.5年 | 読売ジャイアンツ | 藤尾茂選手 |
1953年 | 0.5年 | 読売ジャイアンツ | 山崎弘美選手 |
1954年~1965年 | 12年 | 読売ジャイアンツ | 藤尾茂選手 |
1966年~1968年 | 3年 | 読売ジャイアンツ | 田中久寿男選手 |
1969年~1984年 | 16年 | 読売ジャイアンツ | 吉田孝司選手 |
1985年 | 1年 | 読売ジャイアンツ | 空白 |
1986年~1989年 | 4年 | 読売ジャイアンツ | 有田修三選手 |
1990年 | 1年 | 読売ジャイアンツ | マイク・ブラウン選手 |
1991年~2001年 | 4年 | 読売ジャイアンツ | 村田真一選手 |
2002年~2008年 | 7年 | 読売ジャイアンツ | 清水隆行選手 |
2009年~2021年 | 3年 | 読売ジャイアンツ | 亀井義行選手 |
2022年~ | 読売ジャイアンツ | 松原聖弥選手 |
1リーグ時代から2リーグ初期にかけては2代目・山本栄一郎外野手が長く付けていたこともあり外野手や内野手の番号でしたが、1953年に入団した藤尾茂捕手によって捕手の番号というイメージが定着しました。
後の三冠王・野村克也選手が生前、プロ入りに際しての回想で「巨人ファンだったから巨人に入りたかったけど、藤尾さんがいたから無理と思って諦めた」と言うほどの存在でした。
強肩に加え、捕手でありながら俊足を誇った藤尾選手に打つだけなら分がありそうですが、俊足と強肩は野村選手には無かった要素ですので、南海ホークス入団は賢明な判断だったということでしょう。
藤尾選手は高卒2年目の1955年に突如日本シリーズで3番打者に大抜擢され、そこで本塁打を打ったことをきっかけにレギュラーを掴みます。やがて森昌彦選手が台頭してくると、身体能力を買われ外野手に転向。
走攻守三拍子揃った藤尾選手を「巨人軍最強の捕手」と評する声もありますが、それは阿部慎之助選手が入団する以前の話です。ここは評価の分かれるところであり、プロ野球ファンの楽しみでもある「結論を求めない議論」にはもってこいの話題ですね。
藤尾選手引退後は西鉄ライオンズから移籍してきた田中久寿男外野手が9番を引き継ぎます。
ON以下盤石の布陣に見えた巨人の黄金期にあって唯一の弱点だったのが「5番打者」、毎年のように他球団から選手を獲得してみるものの、活躍選手は出ずじまいでした。
この田中選手も西鉄の中心打者でしたが、巨人ではONと肩を並べる活躍は出来ず、3年間プレーした後、西鉄へ復帰します。
同時期には西鉄の1番打者にして人気もあった高倉照幸選手も巨人へ移籍してくるなど、西鉄の経済事情と巨人の補強ポイントが合致したトレードが続きました。
田中選手退団後は吉田孝司捕手が49番から9番へ背番号を変更します。
市立新港高時代に甲子園出場歴のある吉田選手は1965年に巨人へ入団しました。当時は森捕手が正捕手として君臨しており、吉田選手は2番手捕手としてV9を支え続けます。
10連覇を逃した1974年、森選手と入れ替わり正捕手となり、山倉和博選手が台頭する1980年頃までその座を死守しています。
現役晩年には兼任コーチとなり、1984年で引退、巨人でバッテリーコーチを長く務めたのち、現在は横浜DeNAベイスターズフロントに移籍。スカウト部長を経て現在は球団顧問を勤めていらっしゃいます。
1年の空白を経て1986年からは有田選手が9番を着けます。近鉄時代は梨田昌孝捕手とともに「あり・なしコンビ」として正捕手の座を争っていました。その特徴は強気のリードです。300勝投手・鈴木啓示投手に対しても自分の意見を通す気の強さが持ち味です。
鈴木選手が1985年シーズン途中で引退したことで出番が激減しトレードとなりましたが、巨人移籍後も強気のリードは変わりませんでした。オーソドックスなリードをする山倉選手とは対照的な存在で、槙原寛己投手の一本立ちに大いに貢献しました。
1987年、マイク・ブラウン選手が1年間着用したのを挟み、1988年からは村田真一捕手が56番から9番へ背番号を変更しました。
村田選手はケガが原因で捕手としては肩が弱かったものの、その思い切りのいいバッティングと、打たれても一切投手の責任にしない性格から絶大な信頼を得ていきました。移籍組や新人など次々とライバルが現れましたが、結局最後に残ったのは村田選手です。
阿部選手入団を機に控えに回り現役を引退。東京の球団である巨人にあって、ナニワ魂を感じさせる貴重な存在でした。
2002年からは清水隆行選手が9番を継承。ここから9番は外野手が使用する番号となります。
プロ1年目から打率.293をマークし、ドラフト同期の仁志敏久選手と激しく新人王を争います。入団時の35番から9番に変更した2002年、一番打者として191安打を放ち最多安打のタイトルを獲得、チームの日本一にも大きく貢献しました。
スイングの速さ、打球の速さは驚異的なものがあり、「弾丸ライナー」という形容詞がまさにぴったりだった清水選手の打球は、ファンの心に強く焼き付いています。
2009年、亀井義行選手が清水選手から9番を引き継ぎました。
この年のWBCに選出された際は、「なぜ?」という声も多かった亀井選手ですが、その声に反発するかのようにシーズンでは打率.290 25本塁打を記録。巨人の主力打者入りをします。
翌2010年からはひと桁の本塁打数が続きましたが2018年、2019年と13本のホームランを放ち、ベテラン外野手として気を吐きました。
2022年からは、引退した亀井善行選手に代わり、松原聖弥選手が背番号9番を引き継ぎました。
2021年には球団の育成出身の野手としては初の規定打席に到達し、育成ドラフト出身者としては史上最多となる12本塁打を記録しています。
俊足巧打の外野手として巨人には欠かせない選手の1人ではありますが、絶対的なレギュラーというわけではありません。
今年シーズンのさらなる飛躍に期待がかかる選手です。
歴代背番号9番のうち、印象深い3選手のご紹介
次に、歴代の9番の選手のうち、私が特に印象深く思う村田選手、清水選手、そして亀井選手についてご紹介したいと思います。
村田真一選手
出身地 兵庫県神戸市
投/打 右/右
プロ野球歴 読売ジャイアンツ(1982年~2001年)
タイトル等 ベストナイン1回・最優秀バッテリー賞2回(1994年:桑田真澄投手と、1996年:斎藤雅樹投手と)・オールスター出場2回
1981年の巨人のドラフトは、球団史に残る大豊作年となりました。
1位指名で槙原投手、3位指名で吉村禎章選手、そして5位に村田選手です。4位指名の橋本敬司投手はローテーションの谷間に先発する左腕でした。
さらに6位の仁村薫選手も一軍でプレーした外野手で後に中日ドラゴンズに移籍、弟の徹選手とともに1988年の中日優勝に貢献しています。
2位指名の山本幸二捕手は名古屋電気高で工藤公康投手とバッテリーを組み、甲子園で活躍した選手。槙原・吉村の両選手も甲子園に出場し注目されていた存在です。
甲子園出場歴もなく、プロからも注目度の低かった村田選手はこの状況に委縮することなく、逆に「絶対に負けたくない」と思ったそうです。
そんな熱い思いを胸に入団した村田選手ですが、当時の巨人は山倉和博選手が正捕手として君臨していました。村田選手が入団した1982年当時、山倉選手は27歳という若さで、向こう10年は巨人の正捕手は安泰、と言われていた時期です。
プロ3年目の1984年には一軍戦初出場を果たしますが、同時期に右肩を故障してしまいます。捕手としては致命的ともいえるケガに、一塁手への転向も検討されますが村田選手が拒否し、捕手としてプロを生き抜くことを決意しました。
1985年に右肩を手術。山倉選手が衰えを見せ始めた1989年頃からは再び一軍戦に顔を見せ始め、1990年には藤田元司監督のもと正捕手に抜擢され84試合に出場を果たします。13本塁打を放ち「打てる捕手」として一気に台頭しました。
続く1991年には111試合に出場し17本塁打をまーくしました。大久保博元選手の活躍で1993年には34試合出場のみに終わってしまいますが、1994年には120試合に出場と完全に正捕手奪還に成功し、2000年までの7年間を巨人の正捕手としてチームに貢献しました。
2001年、阿部慎之助選手が入団してきます。村田選手は、後を託せる捕手にバトンを渡す形でこの年に引退を表明しました。
2001年9月30日、対横浜ベイスターズとの引退試合では7回裏に代打で登場。万雷の拍手の中、杉本友投手から痛烈な673本目の安打となるレフト前ヒットを放ち、最後は共に引退する槙原投手、そして斎藤投手をリードしました。
試合終了後のセレモニーでは、この年で勇退する長嶋茂雄監督、斎藤、槙原の両選手とともに参加、翌2002年から監督となる原辰徳コーチから「泥だらけになって練習する姿、忘れません」とねぎらいの言葉をかけられました。
ニックネームはドロネズミのように練習し真っ黒になる姿からついた「チュウ」です。どんなに投手が失投で打たれても自分の責任だと言い張り、デッドボールで顔面を骨折しても何食わぬ顔で打席に立ちました。
新人や移籍選手が挑んでも挑んでも、破れなかった村田選手の壁、それは一朝一夕には出来ない、村田選手への信頼度が成せる技だったことは、言うまでもありません。
引退後はコーチ、解説者として活躍しています。高橋由伸前監督の元ではヘッドコーチとして、身を挺して批判を一身に浴びる姿は現役時代そのままでした。
清水隆行選手
出身地 東京都足立区
投/打 右/左
プロ野球歴
読売ジャイアンツ(1996年~2008年)
埼玉西武ライオンズ(2009年)
タイトル等 最多安打1回・ベストナイン1回・オールスター出場2回
1993年のシーズンオフからフリーエージェント(FA)制度導入されました。巨人はこの制度を駆使し、各球団の4番打者を次々に獲得していきます。
ドラフトでは松井秀喜、高橋由伸両選手を獲得するなど、超重量打線を編成しペナントレースを戦っていました。
そんな巨人にあって、入団1年目からレギュラーとして活躍したのが清水選手です。
1995年のドラフト会議で3位指名を受け巨人へ入団しました。同期の仁志敏久選手が「1番・セカンド」として開幕スタメンを果たし、清水選手も4月14日の対横浜戦で「6番・レフト」として初スタメン、最終的に107試合で打率.293を残します。
新人王には114試合に出場、打率.270ながら守備を含め総合的に評価された仁志選手が選ばれましたが、ルーキーとしては十分すぎる活躍をしました。2年目以降も打率は3割、本塁打は10本前後をコンスタントにマークし続けます。
1998年からは超重量打線の一員として、当時流行していた「バントをしない2番打者」を任されます。2000年には「規定打席に到達し、かつ併殺打0」という記録を達成します。長嶋監督の目論見通り、強打の2番打者として活躍していました。
2001年、原辰徳新監督の構想により、1番打者に抜擢されるとリーグ最多の191安打、打率.324をマークします。原監督就任1年目での日本一達成にも大きく貢献、ベストナインにも選出されました。
2003年は成績を下げましたが、2004年には復調。打率も3割に載せ、翌2005年も3割を残します。
しかし、原監督が復帰した2006年には極度の不振に見舞われます。「清水と(高橋)由伸は別格」と原監督から絶大な信頼を得ていたのですが不振が続き、ついにプロ11年目にして初めてイースタン・リーグの試合に出場するなどそのポジションが揺らぎ始めます。
2007年シーズン後半には復調の兆しを見せますが、翌2008年は全くの不振に陥り出場機会が激減。本塁打も0本に終わってしまいました。
2008年、自ら志願して埼玉西武ライオンズへ金銭トレードされます。しかし、往年の輝きは取り戻すことは出来ず、1年間プレーしたのみで引退しました。
全盛期の清水選手と言えば「弾丸ライナー」。同僚の松井選手をも上回るスイングスピードから繰り出される打球は恐怖すら覚えました。
清水選手といえば、2005年の西口文也投手のノーヒット・ノーランを打ち砕いた本塁打が有名ですね。
さらにその翌年、2006年6月4日の交流戦で対戦したときは初回に先制ホームランを西口投手から放ち、同点の9回裏にはサヨナラ犠牲フライを打っています。
いつも悲しげな顔をして投球する西口投手が犠牲フライを打たれる前、いつもにも増して悲しそうな顔をしていたのが印象的でした。
引退後は解説者や巨人の打撃コーチとして活動しました。ぜひ「清水二世」を誕生させ、あの球場が震撼するような打球をもう一度見せて欲しいですね。
亀井義行選手
出身地 奈良県大和郡山市
投/打 右/左
プロ野球歴 読売ジャイアンツ(2005年~)
記録他 ゴールデングラブ賞1回
ケガをしなければ、どんなに凄い選手なんだろう。どれだけの数字を残すんだろう。プロ野球には、そういう選手がたくさんいました。
千葉ロッテマリーンズ・荻野貴司選手などはその最たる例で、2010年にプロ入りしてから満足にフルシーズン戦ったことがなく、「妖精」などというありがたくもないニックネームで呼ばれたりもしていました。
しかしついに2019年、規定打席に初到達し打率.315をマーク、その実力を証明してみせました。
2020年現在の巨人の背番号9番、亀井選手もまたケガの多い選手なのです。
亀井選手は、2004年のドラフト会議で巨人から4巡目指名を受け入団しました。当時のドラフトは「自由獲得枠」があった頃で、巨人は2枠を使い、野間口貴彦・三木均の両投手を獲得しています。
巨人は他に高校生投手二人と大学生捕手を獲得しました。野手は充実していて指名が少ない時期に入団してきたのが、亀井選手なのです。
プロ1年目から一軍戦に出場し、4年目の2008年には96試合に出場しました。1番打者としての活躍が期待されながらケガに悩まされ、谷佳知選手と併用されます。
2009年、その守備能力と肩の強さを買われWBCメンバー入りします。そこで当時北海道日本ハムファイターズ・稲葉篤紀選手のバッティングを間近でみて参考にし、自己最高の25本塁打を記録しました。
2009年のブレイクを受け期待された2010年、5番打者として期待されるも不振とケガで打率.186、本塁打は前年の25本から5本に激減してしまいます。
以降もケガ続きで2013年には「義行」から「善行」へ登録名変更するも状況は変わらず。2009年の活躍はフロックだったのかと囁かれ、トレードの噂も絶えませんでした。
しかし、2017年後半からスタメンに定着し始め、2018年には実に9年振りの規定打席に到達し、打率.254ながら13本塁打49打点を記録します。
そして2019年、131試合に出場し打率.284 13本塁打55打点を残し、日本シリーズでも2打席連続本塁打で敢闘賞を受賞するなど復調を果たしました。
シーズンオフにはプロ15年目にして1億円プレイヤーの仲間入りを果たしています。
背番号9番をつけた選手の傾向とは?
巨人の背番号9番というと、捕手の番号と認識している方と、外野手の番号という印象を持たれている方に二分されるかと思います。
大まかに分類すると、昭和時代は捕手、平成以降は外野手が着用しており、どちらのイメージも正しいのです。
昭和の時代は「正捕手の象徴」という印象が強かったです。村田選手が9番を手に入れた時のコメントが「やっぱり9番が欲しかった」というものだったことからも、巨人の捕手にとっては憧れの番号だったことがうかがい知れます。
平成に入り、大物新人捕手である阿部選手が10番を背負いプレーし、正捕手となって以降も番号変更することなく10番のままでしたので、9番は外野手である清水選手が着けました。
淡口憲治選手からの流れを汲む「背番号35番の左の強打者」としてすっかり定着していた清水選手でしたが、9番に変更したとたんにタイトルを獲得する大活躍。一気に背番号9番の歴史を塗り替えました。
亀井選手も一時期35番を着けてプレーしており、淡口選手の系譜と言える選手でした。その亀井選手も9番に変更したとたんにブレイク、今なお巨人の中心打者として活躍を続けています。
清水選手も亀井選手も決して長距離打者ではなく、「ヒットの延長がホームラン」というタイプの打者ですが、こういう選手が1番、あるいは5・6番にいるチームはまず間違いなく強いチームですね。
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