日本ハムファイターズの背番号7番!スピードスターもつけた歴代の7番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

2021年まで北海道日本ハムファイターズの背番号7番をつけて活躍したのは、智弁和歌山高校出身の西川遥輝選手です。

プロ2年目には早くも一軍に定着、4年目の2014年には初タイトルとなる盗塁王を獲得しています。

打撃、走塁だけでなく守備でも2017年から3年連続でゴールデングラブ賞を獲得。ファイターズ伝統の鉄壁外野陣の中心としてチームに貢献してきたのはご存知の通りです。

今回は西川選手が背負っていたファイターズ背番号7番の歴史についてまとめてみました。どうぞ最後までお付き合いください!




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歴代の背番号7番を背負った選手をご紹介

1946年のチーム創設から現在の西川選手まで、ファイターズとその前身球団で背番号7番を背負った選手は15名います。では、メンバーを見てみましょう。

年  度年 数球 団 名選 手 名
1946年~1947年2年セネターズ大沢喜好選手
1948年1年東急フライヤーズ金山次郎選手
1949年~1954年6年東急フライヤーズ常見昇選手
1955年~1956年5年東映フライヤーズ蓑原宏選手
1956年~1966年10年東映フライヤーズ西園寺昭夫選手
1967年~1974年8年東映フライヤーズ白仁天選手
1975年~1976年2年日本ハムファイターズ内田順三選手
1977年~1988年12年日本ハムファイターズ岡持和彦選手
1989年~1995年7年日本ハムファイターズ中島輝士選手
1996年~2002年7年日本ハムファイターズ中村豊選手
2003年~2010年8年日本ハムファイターズ坪井智哉選手
2011年~2012年2年北海道日本ハムファイターズ糸井嘉男選手
2013年~2014年2年北海道日本ハムファイターズ大引啓次選手
2015年1年北海道日本ハムファイターズハーミッダ選手
2016年~2021年6年北海道日本ハムファイターズ西川遥輝選手
2022年1年空白
2023年~北海道日本ハムファイターズ松本剛選手

歴代背番号7番のうち、印象深い3選手のご紹介

次に、北海道日本ハムファイターズの背番号7を付けてプレーした15名の選手の中から特に印象深い3名の選手を選んで紹介します。

キーワードは「東映最後の生き残り」・「史上二人目の快挙」・「元祖は俺だ」です。これらの単語であの選手だ!と分かった方は、かなりのプロ野球通と言えるでしょう!

岡持和彦選手

生年月日  1951年9月9日
出身地   東京都豊島区
投/打   左/左
プロ野球歴 東映フライヤーズ(1970年~1988年)
タイトル等 特になし 

岡持選手は、立教高時代は左腕投手として活躍、プロ入りも投手としての入団でした。プロ1年目のシーズンには早くも1軍で登板していますが、素質を見込まれ打者に転向、外野手となります。

入団以来19年間、トレードにも出されずフライヤーズ・ファイターズ一筋に過ごした岡持選手ですが、実は一度も規定打席には到達したことがありません。

毎年コンスタントに試合出場し、それなりの成績は挙げるものの、レギュラーとしてはいささか寂しい数字がゆえに球団は外国人選手を入団させます。

しかし、その助っ人がケガや不調となると再び岡持選手の出番となり・・・という流れが毎年のように繰り返され、岡持選手はファイターズとってなくてはならない存在となったのです。

どれほど岡持選手が重宝されていたかというと、東映フライヤーズでプレーしたことのある選手で、最後までファイターズに残ったのは岡持選手だった、ということからもお分かりいただけるかと思います。

日本ハムが球団買収したのをきっかけに、東映時代の主力選手は次々と放出されました。チームの顔でもあった張本勲選手は巨人、本塁打王・大杉勝男選手はヤクルト、リードオフマン・大下剛史選手とエース・高橋直樹選手は広島へそれぞれトレードで移籍します。

「駒沢の暴れん坊」というニックネームを誇り、ちょっとコワモテなイメージのある東映というチームカラーを日本ハムが嫌い、選手を一掃するのが狙いでしたが、その中でも岡持選手はトレードされませんでした。

決してレギュラーとはいえない存在だった岡持選手が背番号を7番に変更したのはプロ8年目、26歳の時です。その時すでにチームはファイターズとなっていました。

「他チームに行ったらレギュラーなのに・・・」という選手はよくいます。岡持選手もその一人かも知れません。しかし、結果的に一つの球団で現役生活を全うできたのですから、岡持選手にとっては幸せな野球人生だったと言えるでしょう。

中島輝士選手

生年月日  1962年7月27日
出身地   佐賀県神埼郡三田川町
投/打   右/右
プロ野球歴
日本ハムファイターズ(1989年~1995年)
近鉄バファローズ(1996年~1998年)        
タイトル他 オールスター出場1回 

福岡・柳川高時代は投手として「テルシー」のニックネームで人気者だった中島選手。当時の九州高校野球界には熊本に八代高・秋山幸二選手、熊本工・伊東勤選手など後にプロ野球で大活躍する選手がいましたが、中島選手の評価はその一段上でした。

社会人野球・プリンスホテルに入社後、ケガで投手を断念するものの、打者転向し全日本の四番を務めるまでになった中島選手。1988年のソウル五輪でも四番打者として出場、銀メダルを獲得します。

ちなみにこのソウル五輪日本代表チームは野茂英雄投手や古田敦也捕手ら豪華メンバーが揃ったチームで、選手20人中後に13人がプロ入り、そのうち7人がドラフト1位入団という華々しいチームでした。

銀メダルチームの主砲としてファイターズにドラフト1位で入団した中島選手。ルーキーながら開幕戦に「7番・ライト」で先発出場します。

その試合は自身の出身地・九州に新しく出来た福岡ダイエーホークス戦。実は中島選手、ドラフトでファイターズだけでなく新生ホークスからも指名を受け、抽選でファイターズ入りしたという経緯もあり、何かと因縁のある対戦となりました。

9回裏、これまで2安打3打点を挙げていた中島選手が打席に入ります。スコアは4-4の同点。ランナーが一人いました。マウンドには相手エースで開幕投手の山内孝徳選手。

山内投手の決め球・シュートをうまく腕を畳んで打った一打は何とサヨナラホームラン!デビュー戦でいきなり猛打賞の活躍に「さすがテルシー」と絶賛の声が上がりました。

新人の開幕戦サヨナラホームランはプロ野球史上二人目。最初に記録したのは南海ホークス・穴吹義雄選手とうことで、またまたホークスとの因縁が続きました。

その後の中島選手は、プロ4年目にオールスター出場を果たしたものの、あの開幕戦で放ったまばゆい輝きはなかなか見ることが出来ませんでした。

チーム関係者が付けた中島選手の愛称は「佐賀の殿様」。決して誉め言葉ではなく、のんびりとした性格の中島選手を揶揄したものでしたが、あの輝きを知るファンは「いつか、もう一度」、「今年こそブレイク」と信じて中島選手を応援し続けました。

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坪井智哉選手

生年月日  1974年2月19日
出身地   東京都江東区
投/打   左/左
プロ野球歴
阪神タイガース(1998年~2002年)
日本ハムファイターズ(2003年~2010年)
オリックスバフローズ(2011年)
米独立リーグ(2012年~2014年)
タイトル等  オールスター出場2回

父親が元プロ野球選手(中日などでプレー)ということで、ドラフト指名時から注目されていた坪井選手。もう一つ話題を集めたのはそのバッティングフォームでした。

坪井選手が阪神にドラフト4位指名された1997年の秋、オリックスブルーウェーブ・イチロー選手は4年連続の首位打者を獲得。スーパースターの地位を不動のものとしていました。そのイチロー選手の代名詞である「振り子打法」を坪井選手も採用していたのです。

報道陣からイチロー選手を真似たのかと質問された坪井選手は「僕の方が(イチロー選手より)先にやっていた」と答えました。つまり、俺が元祖だ、と。

この坪井選手のやりとりを聞いたイチロー選手はかなりムカついた、と言っていましたが、後年坪井選手とイチロー選手は自主トレを共にするなど親交を深めます。

阪神ではルーキーイヤーから2年連続3割を打つなど遺憾なく実力を発揮していた坪井選手ですが、自身のケガ、そして赤星憲広選手らの入団により活躍の場が狭まっていた2002年、野口寿浩選手との交換トレードでファイターズ入り。

すると、持ち前の巧打が蘇り、自身最高となる打率.330をマークし見事復活を遂げます。
2006年シーズンオフ、再びケガに見舞われた坪井選手にファイターズは戦力外通告をします。しかし同僚選手らが坪井選手の野球に対する姿勢・情熱を訴えた結果、何とファイターズは坪井選手と再契約することにしました。
現役引退時にはそれまで面識のなかった巨人・原辰徳監督から直々に労いの言葉を掛けられるなど野球を愛し、野球に真摯に向き合った坪井選手。

引退後は横浜DeNAベイスターズの打撃コーチとしてラミレス監督から厚く信頼を得ています。第2の坪井選手を見られる日も、そう遠くはないでしょう。




背番号7番をつけた選手の傾向とは?

プロ野球で背番号7番というと、元々は世界の盗塁王こと元阪急ブレーブスの福本豊選手や元読売ジャイアンツの柴田勲選手に代表されるような俊足巧打の外野手というイメージが一般的でした。

その後は、元読売ジャイアンツでファイターズでもプレーした二岡智宏選手や、阪神タイガースで活躍した今岡誠選手のように強打の内野手が付けるようにもなっています。

北海道日本ハムファイターズでの背番号7番の歴史を見てみますと、主に外野手が付けてきた傾向があります。

外野手の番号として定着しているファイターズの背番号7番。歴代の選手を見ても、6代目の西園寺昭夫選手、7番を付けていた糸井嘉男選手との交換トレードでファイターズ入りした大引啓次選手外は全て外野手が付けています。

厳密には7代目の白仁天選手や岡持選手は一塁を守ったことはあるのですが、基本的には外野手でした。

面白いのは7番がほぼ日本人選手で受け継がれているということです。2015年はハーミッダ選手が付けましたし、前述の白選手は公式記録上は日本人選手となっていました。しかし、本人は外国人選手として扱って欲しいと要望しています。(白選手は韓国の出身)

この2名の選手以外は偶然なのか日本人選手が付けているのが特徴です。

取り上げた3選手以外でもドラフト1位でファイターズ入りした中村豊選手や、大卒逆指名で投手として入団したものの打者に転向、主軸打者として成長した糸井選手、そして西川選手とチームの屋台骨を担うであろう選手に7番を渡しているのがよく分かります。

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