こんにちは、みっつです。
日本プロ野球界で最も歴史のある巨人は、1934年に大日本東京野球倶楽部として発足いたしました。その後、1947年に読売ジャイアンツ(以下、巨人)に球団名を変更し、現在に至っています。
歴史があるだけに、もう他の選手がつけられない番号となった永久欠番も、数多く存在します。
今回は、巨人の全て永久欠番とその選手をご紹介していきますので、楽しみにしてくださいね。
■目次(クリックすると飛びます)
巨人の永久欠番の番号と選手とは
巨人はその長い歴史のなかで、永久欠番の名誉を受けた選手が6人います。背番号順にご紹介しますと
- 背番号1番の王貞治選手
- 背番号3番の長嶋茂雄選手
- 背番号4番の黒沢俊夫選手
- 背番号14番の沢村栄治選手
- 背番号16番の川上哲治選手
- 背番号34番の金田正一選手
となります。
背番号1番の王貞治選手
生年月日 1940年5月20日
出身地 東京都
投/打 左/左
プロ野球歴 巨人(1959年~1980年)
タイトル 首位打者5回、本塁打王15回、打点王13回、
表彰 年間MVP9回 ダイヤモンドグラブ賞9回
制定の日 1989年3月16日
王選手は巨人の9年連続リーグ優勝に大きく貢献し、1977年にはアメリカのハンク・アーロン選手の持つホームラン記録755本を更新しました。
王選手が入団当初から背番号1をもらった背景には、当時の球団社長が「王君の王はワンと読む」と洒落を含めて、1番の数字を与えたといわれています。その証拠に、王選手はニックネームとして「ワンちゃん」と呼ばれ、国民全てから愛される選手になりました。
王選手は現役引退後も助監督から監督へとなりましたが、背番号は常に1番をつけていました。そして、1988年に王監督が巨人を退任すると、その翌年、背番号1が永久欠番に制定されました。
背番号3番の長嶋茂雄選手
生年月日 1936年2月20日
出身地 千葉県
投/打 右/右
プロ野球歴 巨人(1958年~1974年)
タイトル 首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回
表彰 年間MVP5回、新人王、ダイヤモンドグラブ賞2回
制定の日 1974年11月21日
長嶋茂雄は日本プロ野球の発展に最も貢献した選手として、「ミスタープロ野球」の称号が与えられています。
1947年10月14日の引退セレモニーでは、後楽園球場のグラウンドを一周し、ファンの声援に応えました。そして、「私は今日、引退をいたしますが、我が巨人軍は永久に不滅です」の名セリフを残しました。
長島選手の背番号3は、引退の翌年に永久欠番に制定され、まさに背番号3も永久に長嶋選手のものとなりました。後に、巨人軍の監督となった長嶋選手は、2000年のメモリアルイヤーに、永久欠番の背番号3を自ら復活をさせ大きな話題となりました。
背番号4番の黒沢俊夫選手
生年月日 1914年6月20日
出身地 大阪府
投/打 左/左
プロ野球歴 名古屋金鯱軍(1936年~1940年)
大洋軍(1941年)
西鉄軍(1942年~1943年)
巨人(1944年、1946年~1947年)
タイトル 特になし
制定の日 1947年7月9日
黒沢選手は沢村選手と同じく、日本プロ野球で最初に永久欠番の栄誉を受けた選手です。
1947年、体調を崩した黒沢選手は、現役選手のまま入院を強いられました。その後、腸チフスが悪化したことで入院しましたが、わずか1週間後に、33歳の若さで亡くなりました。
当時、チームの4番打者であった、黒沢選手の無念は計り知れず、球団は黒沢選手の思いを重く感じて、背番号4を永久欠番とすることに決めました。ちなみに、日本プロ野球界最初の永久欠番4は、アメリカ大リーグ最初の永久欠番、ルー・ゲーリッグの4番と同じ数字でした。
背番号14番の沢村栄治選手
生年月日 1917年2月1日
出身地 三重県
投/打 右/左
プロ野球歴 巨人(1934年~1937年、1940年~1941年、1943年)
タイトル 最多勝利2回、最優秀防御率1回、最高勝率1回、最多奪三振2回
制定の日 1947年7月9日
沢村選手は黒沢選手と同じく、日本プロ野球で最初に、永久欠番の栄誉を受けた選手です。「不滅の大投手」「伝説の快速球投手」ともいわれる沢村選手ですが、その現役生活はわずか7年(実働5年)になります。
沢村選手は、日本のプロ野球誕生に多大な貢献を果たした選手です。日本職業野球連盟発足のきっかけとなった、全米選抜野球チームとの対戦が前年に行われました。日本代表チームが全敗するなかで、ひとり気を吐いたのが沢村選手だったからです。
その後、沢村選手は戦争に巻き込まれ、わずか27歳のときに、台湾沖で戦死をいたしました。こうして、巨人軍が黒沢選手の背番号を永久欠番にする際、伝説を残して戦死した沢村選手の背番号14も永久欠番といたしました。
背番号16番の川上哲治選手
生年月日 1920年3月23日
出身地 熊本県
投/打 左/左
プロ野球歴 巨人(1938年~1942年、1946年~1958年)
タイトル 首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回、最多安打6回、表彰 年間MVP3回
制定の日 1965年1月18日
川上選手は「打撃の神様」と異名を取る選手です。シュアなバッティングが売り物の川上選手ですが、「ボールが止まって見える」の名言は、現在でも語り継がれています。
川上選手は現役引退後、コーチから監督へと就任をいたしますが、当初は選手時代の背番号16をつけていました。その後、1965年に背番号を77に変更したのをきっかけに、球団は背番号16を永久欠番としました。
奇しくも、背番号を77に変えた昭和40年から、巨人軍の9連覇が始まることになりました。
背番号34番の金田正一選手
生年月日 1933年8月1日
出身地 愛知県
投/打 左/左
プロ野球歴 国鉄(1950年~1964年)
巨人(1965年~1969年)
タイトル 最多勝3回、最優秀防御率3回、最多奪三振10回
表彰 沢村賞3回
制定の日 1970年4月2日
金田選手は日本のプロ野球界において、前人未到の通算400勝を挙げた大投手です。但し、400勝のうち353勝は、ヤクルトスワローズの前身でもある国鉄スワローズ時代に挙げた勝ち星です。
当時のヤクルトスワローズは下位に低迷しており、そのなかで挙げた353勝は多大な評価を受けるものです。
しかし、当時、ヤクルトスワローズには永久欠番の概念が薄く、永久欠番の称号に慣れていた巨人軍が、金田投手の背番号34を永久欠番といたしました。
永久欠番になる条件とは?
プロ野球界では、余りにも偉大な功績を残した選手に対し、その栄光を讃える意味で、付けていた背番号を永久に欠番とすることがあります。ただし、永久欠番になる条件は、偉大な功績だけではありません。
例えば、日本で始めて永久欠番を受けた、黒澤選手と沢村選手の二人は、その成績だけでなく、若くして病気や戦争でなくなったことを讃えて、その背番号を永久欠番としました。
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まとめ
今回はプロ野球の巨人の永久欠番についてご紹介しましたが、いかがだったでしょうか?歴史が長いだけに、6人もの選手がつけていた番号が永久欠番となっていましたね。
50年以上前に制定された背番号も多く、このことからも巨人の歴史を感じさせてくれます。
この文章を書きながら、野球好きな人間として末永くプロ野球が世界中で愛されて欲しい、そのように感じました。
最後までお読み頂き大感謝!みっつでした。