埼玉西武ライオンズの背番号6番!歴代の6番の選手とその傾向をご紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

長いプロ野球の歴史の中で「怪童」と呼ばれた選手と言えば、投手では尾崎行雄選手ですね。そして打者では、何といっても中西太選手が有名ではないでしょうか。いずれも、圧倒的な身体能力を持ち、若くして結果を残した偉大な選手です。

今回は、ライオンズの第1次黄金時代を支え、数々の伝説的エピソードを持つ、中西太選手がつけた背番号6番を特集します。埼玉西武ライオンズの歴代の6番の全選手や特に印象深い3選手、さらに6番をつけてきた選手の傾向にも迫るので、楽しみにして下さいね。




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歴代の背番号6番を背負った選手をご紹介

年  度年 数球 団 名選 手 名
1950年〜1951年2年西鉄クリッパーズ〜西鉄ライオンズ上野義秋選手
1952年〜1969年18年西鉄ライオンズ中西太選手
1970年~1972年3年西鉄ライオンズ空白
1973年~1974年2年太平洋クラブライオンズ菊川昭二郎選手
1975年~1976年2年太平洋クラブライオンズ白仁天選手
1977年~1984年8年クラウンライターライオンズ〜西武ライオンズ鈴木治彦(鈴木葉留彦)選手
1985年1年西武ライオンズ空白
1986年1年西武ライオンズ安部理選手
1987年~1999年13年西武ライオンズ田辺徳雄選手
2000年1年西武ライオンズ空白
2001年~2002年2年西武ライオンズ原井和也選手
2003年~2011年9年西武ライオンズ~埼玉西武ライオンズ後藤武敏選手
2012年〜2013年2年埼玉西武ライオンズエステバン・ヘルマン選手
2014年1年埼玉西武ライオンズコーディ・ランサム選手
2015年1年埼玉西武ライオンズアンソニー・セラテリ選手
2016年1年埼玉西武ライオンズ竹原直隆選手
2017年~埼玉西武ライオンズ源田壮亮選手

まずは、埼玉西武ライオンズの背番号6番をつけてきた選手を、古い順にご紹介します。

初代は上野義秋選手です。上野選手は、戦後、西鉄クリッパーズの前身となる西鉄野球部に在籍し、そのまま西鉄クリッパーズの創設時のメンバーとして活躍しました。

2代目・中西太選手は、「怪童」と呼ばれ若くから大活躍した選手です。入団2年目の20歳の時には4番に座り、史上最年少でトリプルスリーを達成しました。

また、29歳の若さで選手兼任監督に就任するなど、現代では考えられない規格外の選手です。

3代目・菊川昭二郎選手は、俊足好守の内野手です。当時の稲尾監督の推薦で、中西太選手以降空白となっていた背番号6番を引き継ぎました。

4代目・白仁天選手は、韓国人プロ野球選手の草分け的存在の選手です。引退後は韓国球界で多くの球団の監督としても活躍しました。

5代目・鈴木治彦(鈴木葉留彦)選手は、シュアなバッティングに定評のあった選手です。球団が西武ライオンズとなった際に登録名を変更しています。

6代目・安部理選手は、代打などで活躍した選手です。規定打席に到達したシーズンが無いものの、18年間も現役を続けました。

7代目・田辺徳雄選手は、1980年代後半から1990年代前半にかけての西武ライオンズの黄金時代を支えた名ショートです。守備の名手のイメージが強いですが、打率3割越えも複数回記録しています。

8代目・原井和也選手は、守備固めなどで活躍した選手です。選手選手兼任コーチとして中国野球リーグにも派遣されました。

9代目・後藤武敏選手は、横浜高校時代に松坂大輔選手とチームメイトで甲子園春夏連覇を成し遂げたパンチ力のある打撃が売りの選手です。ルーキーイヤーには開幕4番に座っています。

10代目・エステバン・ヘルマン選手は、ドミニカ出身で、2年連続40盗塁や最高出塁率のタイトルを獲得するなどの活躍を見せました。ヘッドスライディングなどの全力プレイでもチームを鼓舞しました。

11代目・コーディ・ランサム選手は、アメリカ出身の内野手です。メジャーで10シーズン以上プレイした経験を持ちますが、日本では思うような活躍はできず、わずか38試合の出場にとどまりました。

12代目・アンソニー・セラテリ選手は、アメリカ出身で投手と捕手以外どこでも守れるユーティリティープレーヤーです。スイッチヒッターでもあり器用さを買われて入団しましたが結果は残せませんでした。

13代目・竹原直隆選手は、ロッテとオリックスで計10年プレイした後、入団テストを経てライオンズに入団しました。1年間だけプレイし現役引退となりました。

14代目・源田壮亮選手は、ショートという難しいポジションながら、ルーキーイヤーに全試合フルイニング出場を果たしました。また、ゴールデングラブ賞にベストナインにも輝く活躍をみせています。




背番号6番を背負って活躍した3選手のご紹介

次に、歴代の埼玉西武ライオンズの背番号6番の選手のうち、私が特に印象深く思う、中西選手、田辺選手、そして源田選手をご紹介したいと思います。

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中西太選手

生年月日  1933年4月11日
出身地   香川県高松市
投/打   右/右
プロ野球歴
中日ドラゴンズ(1969年~1987年)
日本ハムファイターズ(1988年~1994年)
タイトル等 首位打者2回・本塁打王5回・打点王3回・最多出塁数1回・最多安打2回(タイトル制定前)
       新人王・MVP1回・ベストナイン7回・野球殿堂競技者表彰・オールスター出場7回

中西太選手は、高松第一高校時代にホームランを量産し「怪童」と呼ばれ、甲子園には3度出場しています。ドラフト制が無かった当時、プロ2球団と大学との争奪戦になりましたが、周囲の後押しもあり、西鉄ライオンズに入団することとなりました。

入団すると、開幕からサードのレギュラーの座をつかみ、打率.281、12本塁打の成績を残して新人王を獲得します。

圧巻なのは2年目の1953年以降です。2年目にはシーズン途中から4番に座り、トリプルスリー(打率.314、36本塁打、36盗塁)を史上最年少で達成しました。

この年から4年連続で本塁打王に輝き、6年連続でベストナインに選出されるなどプロ野球界の大スターとなります。1953年から1958年までの6年間は、数々の打撃タイトルを獲得し、毎年のように三冠王に近い成績を残していました。

しかし、1959年の負傷や1960年に患った腱鞘炎の影響で、常時試合に出場することが困難になってしまいます。そんな中、1962年には29歳の若さで選手兼任監督に就任しました。

8シーズンに渡ってチームを率いましたが、八百長疑惑事件「黒い霧事件」に西鉄の選手が関与していたこともあり、引責の形で現役引退と監督の退任となりました。その後も、7つの球団で通算20年、監督やコーチを務めています。

監督としての実績を評価する声はあまりないのですが、球界のレジェンドクラスのOBが口々にコーチとしては屈指の腕であると評価をしてました。

また、中西選手の豪快な打撃には数々の伝説が残っています。ショートライナーかと思われた打球がそのままスタンドインしたという話や、あまりの打球の速さに内野手がグラブを出すことすらできずに打球が直撃し病院送りになったという話、推定飛距離180~190mのホームランなど、ワクワクするようなものばかりです。

しかし、そのスイングスピードの速さは体への負担も大きく、腱鞘炎となってしまいました。中西選手は通算1262安打・244本塁打を記録していますが、この怪我がなければ倍以上の記録を残せていたと言われています。

通算成績こそ伸ばすことはできませんでしたが、全盛期の活躍やその数々の伝説的なエピソードは、間違いなく昭和の日本球界を彩った偉大な打者として多くの野球ファンに記憶されています。

田辺徳雄選手

生年月日  1966年5月11日
出身地   山梨県富士吉田市
投/打   右/右
プロ野球歴
西武ライオンズ(1985年~1999年)
読売ジャイアンツ(2000年)
タイトル等 ベストナイン2回・ゴールデングラブ賞2回・オールスター出場2回

田辺選手は、山梨県の吉田高校でプレーし、1984年のドラフト会議で西武ライオンズから2位指名を受け入団しています。

入団1年目は2軍で、2年目はアメリカのマイナーリーグに武者修行に行きみっちり鍛えられました。すると、当時の森監督は、ショートのレギュラーだった石毛選手をサードにコンバートさせ、田辺選手には背番号6を与えて石毛選手の後釜として期待をかけます。

「育てながら勝つ」という方針の下、実戦で経験を積み、故障などに悩まされながらも徐々に成績を上げていきました。入団5年目の1989年には打率3割越えに加え、ベストナインとゴールデングラブ賞にも選出されています。

森監督からも「今後、10年間は遊撃守備でチームを支えられる」と言わしめました。その後、打撃不振のシーズンもありましたが、安定した守備でショートのレギュラーはしっかりキープしています。

1992年には、再び打率が3割を超え、キャリアハイとなる13本塁打も放ちました。また、2度目のベストナインとゴールデングラブ賞にダブル選出されました。

打撃の面ではシーズンによってややムラがありましたが、秋山選手や清原選手といった強力なクリーンアップのつなぎ役として活躍しライオンズの黄金期を支えました。

30歳を過ぎたあたりからは衰えが見え始め、奈良原選手や松井稼頭央選手らが成長してきたこともあり、出場機会も減り始めます。2000年にはジャイアンツに移籍しましたが、自身でこの年が現役最後の年になると覚悟していた通り、この年でユニフォームを脱ぐこととなりました。

2002年からはライオンズの2軍打撃コーチに就任し、中村剛也選手や栗山巧選手などの若手を1軍に送り出しました。その後もコーチやフロントを歴任し、2014年の監督代行を経て2015年には正式に1軍監督に就任しています。

監督としては3年連続Bクラスに沈み、2016年のシーズンで辞任していますが、2020年からは再度ライオンズのユニフォームに袖を通し、3軍の統括コーチに就任しました。

1軍監督を務めた人が同じ球団でコーチに就任するのは珍しいケースです。若いコーチが多いライオンズですので、田辺コーチには選手の育成だけでなく、「コーチの育成」にも取り組んでいます。

源田壮亮選手

生年月日  1992年2月16日
出身地   大分県大分市
投/打   右/左
プロ野球歴
埼玉西武ライオンズ(2017年~)
タイトル等 新人王・ベストナイン3回・ゴールデングラブ賞3回・オールスター出場2回

源田選手は、地元の強豪校の大分商業高校時代に、コーチから「強い大学リーグで戦った方がいい」とアドバイスを受け、愛知学院大学に進学します。

大学でも1年秋からレギュラーのの座をつかみ、4年時には主将として活躍しましたがドラフト指名はありませんでした。

社会人野球のトヨタ自動車時代には都市対抗野球での優勝に貢献し、2016年のドラフト会議で埼玉西武ライオンズから3位指名を受け、念願のプロ生活をスタートさせました。

9番ショートで開幕戦を迎えましたが、シーズンを通して新人とは思えぬ活躍を見せつけます。新人野手としとしては史上4人目、ショートでは史上初となる全試合フルイニング出場を果たし、シーズン155安打に37盗塁と、文句なしの成績で新人王を獲得しました。

2年目の2018年以降も安定した活躍と成績を残し、3年連続でゴールデングラブ賞とベストナインに輝いています。

源田選手の凄さは何と言ってもその守備範囲の広さです。ショートゴロなどを処理して打者をアウトにした際は、そのショートに「補殺」という記録がつきます。

源田選手は、ショートのポジションで新人時代から4年連続でリーグ最多の捕殺を記録しており、2018年には日本記録も作っています。これは、通常だったらヒットになる打球をアウトにしていることを表しています。

また、近年、守備力に関しては「リーグにおける同じ守備位置の平均的な選手が守る場合に比べて、守備でどれだけの失点を防いだか」を表す「UZR」という指標で評価するのが一般的となってきていますが源田選手は、このUZRで新人時代から4年連続でセパ両リーグで最高の成績を記録しています。

広島の菊池選手のような派手なプレイはあまりないですが、守備でのチームへの貢献度は非常に高い選手です。打撃に関しては、本塁打の自己最高が4本と1発は無いですが、4年連続で打率2割7分台と安定した成績を残しています。

盗塁数も多く、犠打などの小技もできるため、相手チームにとっては非常に厄介な選手であることは間違いないでしょう。




背番号6番をつけた選手の傾向とは?

埼玉西武ライオンズの背番号6番は、中西太選手がつけたことにより、その背番号の「重さ」が加わりました。以降、鈴木治彦選手や田辺選手など長期に渡って活躍した選手に受け継がれてきています。

一方、あまり結果を残せていない選手は1~2年で背番号が変更になるケースが多い印象があります。傾向としてはショートやサードを守る選手がつけることが多く、そのシーズンのレギュラーとして活躍を期待される選手が背負ってきたのではないでしょうか。




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おわりに

今回は埼玉西武ライオンズの背番号6番を特集してきましたが、いかがでしたでしょうか。

他の球団同様に、ショートやサードを守れる選手が多くつけてきた、そんな傾向もわかりました。

これからもそのような傾向が引き継がれるのか、注目していきたいと思います。

最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。

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