中日ドラゴンズの背番号5番!歴代5番の選手と傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

プロ野球の野手にとって、2000本安打というのは、超一流の証かもしれません。80年以上もの歴史がある日本プロ野球で50人強、日米で活躍した日本人選手を含めても60人程度しか達成していないのですから。

そんな中で、2000本安打を史上最年長で達成した選手をご存じですか?その選手とは、42歳11か月で達成した中日ドラゴンズの和田一浩選手なのです。プロ野球生活19年目での快挙でした。

今回は、和田選手がつけた中日ドラゴンズ背番号5番の特集です。歴代の5番の全選手や特に印象深い3選手、さらに5番をつけてきた選手の傾向にも迫りますので、楽しみにしてくださいね。




■目次(クリックすると飛びます)

歴代の背番号5番を背負った選手をご紹介!

まずは、中日ドラゴンズの背番号5番をつけた選手をご紹介します。

年  度年 数球 団 名選 手 名
1936年1年名古屋軍ハーバート・ノース選手
1937年春0.5年名古屋軍岩田次男選手
1937年春~1937年秋0.5年名古屋軍西沢道夫選手
1938年春~1938年秋1年名古屋軍白木一二選手
1939年1年名古屋軍加藤正二選手
1940年~1941年2年名古屋軍牧常一選手
1942年1年名古屋軍空白
1943年1年名古屋軍加藤正二選手
1944年~1945年2年産業空白
1946年~1947年2年中部日本~中日ドラゴンズ加藤正二選手
1948年~1952年5年中日ドラゴンズ~名古屋ドラゴンズ近藤貞雄選手
1953年~1954年2年名古屋ドラゴンズ~中日ドラゴンズ木下貞一選手
1955年1年中日ドラゴンズ伊藤庄七選手
1956年1年中日ドラゴンズ丹波一幸選手
1957年~1958年2年中日ドラゴンズ加藤進選手
1959年~1960年2年中日ドラゴンズ片岡宏雄選手
1961年~1962年2年中日ドラゴンズ小淵泰輔選手
1963年1年中日ドラゴンズボブ・ニーマン選手
1964年~1969年6年中日ドラゴンズ葛城隆雄選手
1970年1年中日ドラゴンズジム・バビー選手
1971年~1972年2年中日ドラゴンズ日野茂選手
1973年~1974年2年中日ドラゴンズジミー・ウィリアム選手
1975年~1976年2年中日ドラゴンズ神垣雅行選手
1977年~1987年12年中日ドラゴンズ大島康徳選手
1988年~1995年8年中日ドラゴンズ仁村徹選手
1996年~2007年12年中日ドラゴンズ渡辺(渡邉)博幸選手
2008年~2015年8年中日ドラゴンズ和田一浩選手
2016年~2022年7年中日ドラゴンズ阿部寿樹選手
2023年~中日ドラゴンズ村松開人選手

初代はハーバート・ノース投手です。1936年の名古屋軍創立にバッキー・ハリス捕手、日系二世の高橋吉雄選手と共に入団しました。

プロ野球初の公式戦で勝利投手になったことで名を残しています。

2代目・岩田次男選手も名古屋軍創立時のメンバーです。プロ野球初の満塁本塁打を放った選手として、こちらも名を残しました。

3代目・西沢道夫選手は首位打者と打点王を獲得した、ドラゴンズの主砲だった選手です。後に背番号を15番に変更し、この番号は永久欠番となりました。

4代目・白木一二選手は戦前のチームで4番を務めた外野手です。残念ながら戦争で帰らぬ人となりました。

5代目・加藤正二選手は中央大からプロ入りした右打者です。大学時代に残した、シーズン打率.577は現在も残るリーグ記録として残っています。プロでは1943年に本塁打王を獲得しました。

6代目・牧常一選手は外野手です。シーズン途中で退団した加藤選手の後を受け、背番号12番から5番へ変更しました。

7代目はチームに復帰した5代目の加藤選手が、再度着用しています。

8代目の近藤貞雄選手は後に監督となり、リーグ制覇を果たした方です。現役時代は投手で、元々は巨人のエース級だった選手です。

ケガが原因で解雇されドラゴンズに移ると選手からコーチ、そして監督へと上り詰めました。現在では一般的な「投手分業制」をいち早く取り入れたことでも有名です。




9代目・木下貞一選手は阪神とドラゴンズに在籍した選手です。戦前は阪神で投手、戦後はドラゴンズで外野手としてプレーしました。

10代目・伊藤庄七選手は毎日オリオンズ・東映フライヤーズとパ・リーグのチームを渡り歩きドラゴンズに移籍した外野手です。1年だけプレーし、引退しました。

11代目・丹波一幸選手は1953年にドラゴンズへ入団した内野手です。入団4年目に背番号52番から5番へ変更しました。

12代目・加藤進選手は慶応大出身の捕手です。レギュラーとはいきませんでしたが、貴重な二番手捕手として活躍しました。

13代目・片岡宏雄選手は立教大出身の捕手です。大学では長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾の3選手と同期でした。

ドラゴンズで2年プレーした後国鉄スワローズに移籍しています。引退後はスカウトを経て編成部長の要職を務めました。

14代目・小淵泰輔選手は西鉄ライオンズから移籍した内野手です。ドラゴンズ移籍後はあまり活躍は出来なかったものの、国鉄へ移籍するとレギュラーを獲得、打率3割をマークしました。

15代目のボブ・ニーマン選手はメガネを掛けた風貌から「月光仮面」とあだ名された外野手です。36歳でドラゴンズに入団し、主に5番を打ち打率.301 13本塁打を記録したものの、1年で退団しました。

16代目・葛城隆雄選手は「ミサイル打線」と恐れられた大毎オリオンズの5番打者です。ドラゴンズに移籍後は4番を打つこともありました。最後は阪神に移籍し、引退しました。




17代目のジム・バビー選手は日本でのデビュー戦で満塁本塁打を放った選手です。しかし、シーズン通算で打率.188と低迷し、1年で退団しました。本名は「ジム・バビエリ」です。

18代目・日野茂選手は社会人野球・松下電器から入団した内野手です。ドラゴンズではあまり活躍の場はなく、後に移籍した太平洋クラブライオンズでは一時期レギュラーとして起用されました。

19代目のジミー・ウィリアム選手はメジャー経験はありませんが、当時の与那嶺要監督らが直々にスカウトした選手です。しかし、リーグ最多三振を喫するなど粗さが目立ち、日本でも成功はしませんでした。

20代目・神垣雅行選手は近畿大からドラフト2位で入団した内野手です。しかし宇野勝選手の台頭で出番を失い、近鉄バファローズへ移籍しました。

21代目・大島康徳選手は本塁打王を獲得したこともある強打者です。レギュラー獲得までは時間がかかったものの、ドラゴンズと日本ハムファイターズで43歳までプレーしました。

引退後は日本ハムの監督に就任しています。初年度にチームを3位に導きました。

22代目・仁村徹選手は投手から野手に転向し活躍した内野手です。東洋大時代はアンダースロー投手で、プロでも1勝を挙げています。

プロ2年目からは内野手にコンバートされ、1988年の星野仙一監督率いるドラゴンズでは「6番・サード」として驚異的な勝負強さで優勝に貢献しました。

23代目・渡辺(渡邉)博幸選手は守備の達人としてチームを支えた選手です。主に一・三塁を守り、2004年には一塁手としてゴールデングラブ賞に輝きました。

24代目は前段でご紹介した和田一浩選手です。岐阜出身の和田選手。小さい頃からの憧れの球団ということで、ドラゴンズへの入団はほぼ即決でした。

そして25代目は現役の阿部寿樹選手です。2016年に入団したものの、特に目立つ活躍もなかったのですが、入団4年目の2019年、突如としてブレイクしました。

規定打席に到達し、打率.291をマークしています。背番号5番の前任者・和田選手もブレイクしたのは30歳になってから。阿部選手もここからが選手生活のピークとなるか、注目されています。

26代目は村松開人選手です。静岡高校時代には2度の春の甲子園出場経験があります。明治大学では3年春からセカンドのレギュラーに定着し、主将も務めました。

2022年のドラフト会議で2位指名を受け、大学の先輩で中日のセカンドを守った阿部選手の背番号5を引き継ぎました。

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歴代背番号5番のうち、印象深い3選手のご紹介

歴代の中日ドラゴンズの背番号5番の選手のうち、私が特に印象深く思う、大島選手、仁村選手、そして和田選手をご紹介したいと思います。

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大島康徳選手

生年月日  1950年10月16日
出身地   大分県中津市
投/打   右/右
プロ野球歴
中日ドラゴンズ(1969年~1987年)
日本ハムファイターズ(1988年~1994年)
タイトル等 本塁打王1回・最多安打1回(タイトル制定前)
      オールスター出場4回

大島選手は、1968年の「歴史に残る大豊作」と言われたドラフト会議でドラゴンズから3位指名されました。ちなみにドラゴンズの1位指名は、のちに監督となる星野仙一さんです。

プロ3年目の1971年に7本塁打を放ち頭角を現すと、翌1972年には規定打席に到達し14本塁打をマークします。ドラゴンズの次世代を担う長距離打者として期待を集めますが、レギュラー確保には至りませんでした。

1974年10月10日、巨人・長嶋茂雄選手の引退試合でドラゴンズの選手を代表して花束を渡す大役を務めましたが、同日ドラゴンズの主力は名古屋市で優勝パレードに参加していました。実はこの時は、大島選手はまだ主力組ではなかったのです。

転機は1976年、大島選手のお兄さんが白血病となり、急死したことでした。この年、代打で結果を残し、ファンにチヤホヤされていましたが、悲報を聞いた瞬間から心を入れ替え、レギュラーとして結果を残すべく練習に励みます。

翌1977年、打率.333 27本塁打71打点を残し、サードの定位置を確保しました。1979年には打率.301 36本塁打101打点を記録。当時はタイトル表彰されていませんでしたが、リーグ最多となる159安打を記録しています。

1982年9月28日の地元ナゴヤ球場で行われた巨人戦。優勝を占う大一番で天敵、江川卓投手を相手に5対2のビハインドから逆転サヨナラ勝利を収め、ドラゴンズは激戦の優勝争いから抜け出します。

この試合で、江川投手の後を受けた角三男投手からサヨナラヒットを放ったのは大島選手です。

1983年には36本塁打で本塁打王を獲得しました。1984年には谷沢健一選手に代わりドラゴンズの4番を任されるなど、ドラゴンズを代表する選手に成長します。

長打力と勝負強さを兼ね備えた打撃の一方、調子にムラがあり、さらにお世辞にも上手いといえないサードの守備という脆さもあった大島選手。同年代に活躍した宇野勝選手とともにファンは歯がゆい思いをしましたが、逆にそこが人気の秘訣でもありました。

1987年オフ、ドラフト同期の星野監督により日本ハムへトレードされます。当時37歳で活躍を疑問視する声もありました。

いかし、それを跳ね返す見事な活躍を見せ、1990年8月21日に2000本安打を達成。39歳10か月での記録達成は当時の最年長記録でした。

43歳まで現役を務め、通算2204安打、382本塁打という素晴らしい成績を残し引退。野球を始めたのが遅かった分、プロ入り後に野球が上手くなった、という感覚があったそうです。

引退後は日本ハム監督に就任しました。

最近ではご自身がガンに罹患していることを公表しています。それにもめげず、野球解説やブログなどで活躍されているのには頭が下がりますね。

仁村徹選手

生年月日  1961年12月26日
出身地   埼玉県川越市
投/打   右/右
プロ野球歴
中日ドラゴンズ(1984年~1995年)
千葉ロッテマリーンズ(1996年~1997年)

1988年のドラゴンズ優勝は「日替わりヒーロー」と言われるほど、多くの選手が活躍しました。その中でも傑出した勝負強さを発揮していたのが、仁村選手だったのです。

投手から転向し、1987年にセカンドのレギュラーを獲得しました。翌1988年はヒザのケガで出遅れますが、仁村選手が一軍に復帰するとチームは快進撃を開始します。

1番から彦野利勝、ルーキー・立浪和義、ゲーリー・レーシッチ、落合博満、宇野勝の各選手が並ぶ「強竜打線」にあって当初は7番を打っていましたが、勝負強さを買われ6番に昇格します。

新人ながらショートの定位置に入った立浪選手に押し出されるように宇野選手はセカンド、そして仁村選手はサードにコンバートされていました。

規定打席には到達しなかったものの、同年の仁村選手の成績は打率.306 7本塁打52打点という素晴らしいもの。狙い澄ました右打ちで、チャンスを広げたり、ランナーを還したり。その活躍ぶりは「影のMVP」を呼ぶにふさわしいものでした。

さらに同年には実兄の仁村薫選手がドラゴンズに加入します。薫選手は前年まで巨人でプレーしていましたが、戦力外通告を受けての入団でした。

薫選手は外野の控えでしたが、左投手相手のスタメンで登場したり、守備固めとして優勝に貢献します。スコアボードには「仁村兄」・「仁村弟」と表示されましたが、これに徹選手の幼い娘さんから「パパは弟じゃない。徹です」とクレームが入るなど話題となりました。

ヒザのケガはその後もつきまとい、フル出場は叶いませんでしたが、それでも主将に任命されるなど人望を集めます。

1996年に千葉ロッテへ移籍し、2年プレーした後、指導者となることを理由に現役を引退。1998年、ドラゴンズに戻り二軍監督に就任。2000年にはチームをファーム日本一に導きました。

東北楽天ゴールデンイーグルスでもコーチを務めた後、2020年からは再びドラゴンズで二軍監督を務められています。

和田一浩選手

生年月日  1972年6月19日
出身地   岐阜県岐阜市
投/打   右/右
プロ野球歴
西武ライオンズ(1997年~2007年)
中日ドラゴンズ(2008年~2015年)   
タイトル等 MVP1回・首位打者1回・最多安打1回・最高出塁率1回
      ベストナイン6回・オールスター出場6回

和田選手は岐阜県出身です。県立岐阜商行時代には甲子園出場を果たしています。東北福祉大学から神戸製鋼を経て、1996年のドラフト会議で西武ライオンズから4位指名を受け入団しました。

捕手として西武ライオンズに入団するも、伊東勤選手の厚い壁に阻まれたこともあり、1998年からは外野手にも挑戦を始めます。

2002年からは外野手に専念して、初めて規定打席に達しました。2007年まで6年連続で規定打席に到達、うち5回は3割をクリアし、2005年には首位打者を獲得しています。

2007年オフ、取得したFA権を行使して、中日ドラゴンズへと移籍しました。移籍を決断したときは既に35歳、年齢的に活躍を不安視する声もありました。

しかし、和田選手はあの独特な打撃フォームで、そうした雑音を振り払って見せたのです。

移籍1年目に打率.302を残し、翌2009年にも同じく打率.302で本塁打は前年の16本から29本へとほぼ倍増させるなど、懸念を払拭して余りある活躍を見せてくれます。

圧巻だったのは2010年です。この年、打率.339 37本塁打93打点という素晴らしい成績を残し、チームをリーグ制覇に導き、MVPを獲得しました。

実はこの年、和田選手は自打球を足に当て、骨折したままプレーしていたのです。当時の落合博満監督が「打席ではレガースを着けるように」と指示していたにも関わらず、和田選手は着けていませんでした。

骨折したことを報告しに行くと、落合監督は「休み休み試合に出るならファームに行け。代わりはいくらでもいる」と和田選手に通告。そこまで言われたら試合に出ないわけにはいかなかたようです。

2011年、「今のままの打撃フォームでは腰を痛める」という落合監督のアドバイスを受けフォームを改造しますが上手くいかず、成績は急降下してしまいました。

そこで翌年には元に戻し、本塁打は9本に終わったものの、打率は.285をマークするまでに復活します。

2013年、41歳にして打率.275 18本塁打、翌2014年には打率.281 16本塁打をマークし、まだまだ健在である事をアピールしました。

しかし2014年からは出場機会が減っていき、2015年6月11日、史上最年長となる42歳11か月で2000本安打達成を花道に同年をもって現役引退を決意。

上段に構えたバットを振り下ろし、テニスラケットのように振り抜く和田選手の打撃フォームは良い意味で「変態打法」などと呼ばれました。落合監督がアドバイスしたように、この打法を貫くと腰が持たないので誰も真似できませんでした。

引退後はNHKで野球解説者として活躍。分かりやすい話し方がとても好評を得ています。

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背番号5番をつけた選手の傾向とは?

中日ドラゴンズの背番号5番は、大島選手が背負い、主砲として活躍したことから一気に認知度が上がったと言えます。和田選手が入団するまでは、「ドラゴンズの背番号5番と言えば大島」という独占状態でした。

大島選手以降、仁村選手、渡邊選手そして和田選手と優勝に貢献した選手に受け継がれると同時に、息の長い活躍を見せてくれる傾向にあります。また、渡邊選手からは大卒・社会人経由の選手に受け継がれているのも特徴と言えるでしょう。

大島選手は背番号5番にした年に初めてレギュラーを獲り、仁村選手は同じく番号変更した年に「影のMVP」と言われるほどの活躍をしました。

ドラゴンズにとって、背番号5番は「ラッキーナンバー」と言えるかもしれません。




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背番号別の特徴

おわりに

今回は、中日ドラゴンズの背番号5番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?近年は息の長い選手に受け継がれてきた傾向もわかりましたね。

かつて落合博満監督が築いたAクラス常連の座は崩れ去り、Bクラスに甘んじているドラゴンズ。しかし、根尾昴・石川昴弥両選手を筆頭に、若い力で再び黄金時代を取り戻そうとしています。

その流れに「マスター」阿部選手らベテランの力が加われば・・・。ドラゴンズの未来は、決して悲観するものではないのです。阿部選手のさらなる活躍に期待しましょう!

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