中日ドラゴンズの背番号1番!歴代の1番の選手とその傾向を紹介

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

♪1番高木が塁に出て~2番谷木が送りバント~
3番井上タイムリー4番マーチンホームラン!
いいぞ頑張れドラゴンズ!も~えよドラゴンズ♪

これって中日ドラゴンズの応援歌の1つである『燃えよドラゴンズ』の初期バージョンの歌詞です。

1974年に発表された燃えよドラゴンズ、この年は巨人の10年連続優勝を阻み中日が優勝した事もあり、レコードは40万枚も売れたそうです。

ここに出てくる高木守道選手は、20年間もの間、中日ドラゴンズの背番号1番をつけて活躍しました。

今回は高木選手もつけていた、中日ドラゴンズの背番号1番を特集します。背番号1番をつけた全ての選手と、特に活躍した3選手の紹介と、1番をつけた選手の傾向にも触れますので、楽しみにしてくださいね!




歴代の背番号1番を背負った選手をご紹介

2019年のシーズン開幕時点で、これまでに中日ドラゴンズの背番号1番を背負った選手は、合計16名です。まずは、中日ドラゴンズの背番号1番を背負った歴代の選手を、古い順から一挙ご紹介します。

年  度年 数球 団 名選 手 名
1936年0.5年名古屋軍小島茂男選手
1936年0,5年名古屋軍丹羽淑雄選手
1937年~1938年1.5年名古屋軍小島茂男選手
1938年~1940年2,5年名古屋軍戒能朶一選手
1941年~1946年6年名古屋軍空白
1947年~1948年2年名古屋軍~産業軍大沢紀三男選手
1949年~1951年3年中部日本軍坪内道典選手(改名:道則)
1952年1年中部日本ドラゴンズ空白
1953年~1958年6年中部日本ドラゴンズ~名古屋ドラゴンズ~中日ドラゴンズ牧野茂選手
1959年~1960年2年中日ドラゴンズ本多逸郎選手 
1961年~1962年2年中日ドラゴンズ濃人貴実選手
1963年~1982年20年中日ドラゴンズ高木守道選手(1981年からコーチ)
1983年1年中日ドラゴンズ空白
1984年~1987年4年中日ドラゴンズ藤王康晴選手
1988年~1991年4年中日ドラゴンズ近藤真一選手(改名:真市)
1992年~1997年6年中日ドラゴンズ種田仁選手
1998年1年中日ドラゴンズ空白
1999年~2007年9年中日ドラゴンズ福留孝介選手
2008年~2014年7年中日ドラゴンズ堂上直倫選手
2015年~2018年4年中日ドラゴンズ友永翔太選手
2019年~中日ドラゴンズ京田陽太選手

やはり、高木選手の20年というのが目立っていますね。1981年からは選手としてではなくコーチとして、中日ドラゴンズの1番を背負いました。

こんな事からも、高木選手がミスタードラゴンズと呼ばれていた理由がわかりますね。

背番号1番を背負って活躍した3選手のご紹介

次に、これぞ中日ドラゴンズの背番号1番と呼べる3名をピックアップし、経歴をご紹介いたしますので、是非参考にしてください。

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高木守道選手

生年月日  1941年7月17日
出身地   岐阜県岐阜市
投/打   右/右
プロ野球歴 中日ドラゴンズ(1960年~1980年)
タイトル  盗塁王:3回
表彰    ベストナイン:7回、ダイヤモンドグラブ賞:3回

高木選手は中日ドラゴンズの背番号1を代表する選手です。なんといっても、中日ドラゴンズ一筋21年間の現役生活の中で、18年間も背番号1番を背負っていたからです。

その高木選手は、高校野球の名門、岐阜県立岐阜商業高等学校から、1960年に中日ドラゴンズに入団をしました。

実は、髙木選手がプロ野球選手となるきっかけを作ったのは、ミスタープロ野球の長嶋茂雄選手です。当時、東京六大学野球のスーパー・スターであった長嶋選手が、高木選手が通う高校野球部に、特別コーチとして訪問したのがきっかけです。

まだ高校1年生の髙木選手でしたが、内野守備に上手さに一目ぼれした長嶋選手は、1週間みっちりと個人指導をしたといわれています。この経験こそが、高木選手のプロ野球選手となる、心の支えとなりました。

髙木選手の俊敏な内野守備は、名二塁手として称えられています。また、打撃面においても、2番打者として通算2274本の安打を放つ一方で、236本のホームランを記録するなど、長打力も持ち合わせていました。

走行守3拍子揃った高木選手は、「ミスター・ドラゴンズ」の名に相応しい活躍を見せ、のちに野球殿堂入りを果たしています。

私の高木選手のイメージは、ダイアモンドグラブ賞を3回獲得しているように、鉄壁な守備と堅実なバッティングといった感じでした。燃えよドラゴンズでも♪1番高木が塁に出て~♪と謳われていた通り、塁に出るために『いやらしいバッティング』をするというイメージです。

盗塁王3回が示す通り足が速いが長打力はあまりない、そんな私のイメージは236本ものホームランを打っている事実を突きつけられて、もろくも崩れ去りました(^_^;)

現代の1番バッターはホームランを年間で20本程度打てる選手が少なくないですが、高木選手はそのレジェンドのような存在だったのでしょうね。

種田仁選手

生年月日  1971年7月18日
出身地   大阪府八尾市
投/打   右/右
プロ野球歴 
中日ドラゴンズ (1990 年~2001年)
横浜ベイスターズ (2001年~2007年)
埼玉西武ライオンズ (2008年)
表彰    カムバック賞(2000年)

種田選手は大阪の野球の名門上宮高校で1年からベンチ入りをすると、後に巨人で活躍した元木大介選手と一緒に、3度の甲子園出場を果たしました。

その後、種田選手は中日ドラゴンズから6位指名を受け入団をすると、1年目から1軍に定着をし、2年目には二塁手としてレギュラーの座を掴み取りました。

種田選手といえば、両足を大きく外側に開き、腰を低く落とした「ガニマタ打法」がとても有名です。ただし、種田選手の「ガニマタ打法」は入団時からではなく、プロ11年目に生み出された打法であり、自分の悪い癖を直すために自ら考案をしたものです。

多くの子供たちが、種田選手のバッティング・フォームを真似るようになり、一躍有名にもなりました。ちなみに、種田選手はガニマタ打法ではなく「ダイヤモンド打法」と呼んでいるそうです。

種田選手の選手生活は、決して順調ではなかったように私は思います。高校卒業して4年目までは良かったものの、5年目以降はケガや他の選手の台頭もあり、出場機会が減ってしまったからです。

種田選手自身も、5年目から10年目のシーズンは苦しいものだったのではないでしょうか。現役引退も覚悟していたかもしれません。

しかし、「ガニマタ打法」を編み出して状況が一変したのは、種田選手が諦めない心で野球に取り組んでいたからでしょうね。11年目の2000年に受賞したカムバック賞は、種田選手にとって勲章に違いありません。

福留孝介選手

生年月日  1977年4月26日
出身地   鹿児島県曽於郡
投/打   右/左
プロ野球歴 
中日ドラゴンズ (1999年~2007年)
シカゴ・カブス (2008年~2011年)
クリーブランド・インディアンス (2011年)
シカゴ・ホワイトソックス (2012年)
阪神タイガース (2013年~)
タイトル  首位打者:2回
表彰    最高出塁率:3回、MVP:1回、ベストナイン:4回、ゴールデングラブ賞:5回

福留選手は、PL学園高校で活躍をした立浪和義選手に憧れて、鹿児島県から遠く離れたPL学園に入学をしました。すると、強豪PL学園の中でも、1年の秋から4番打者を任されるほど、ずば抜けた野球センスを発揮します。

高校屈指のスラッガーとして注目を集めた福留選手は、高校生の選手としては過去最大の7球団がドラフト1位で指名がありました。

ただし、福留選手自身は、憧れの先輩でもある立浪選手が所属する中日ドラゴンズか、巨人以外には入団拒否を表明していたことから、このドラフトではトラブルとなります。

結局、ドラフト会議では、近鉄バファローズが抽選により交渉権を射止めますが、福留選手は頑なに入団を拒否し、社会人野球へと進みました。そして、3年後に逆指名制度を利用し、晴れて福留選手は憧れの中日ドラゴンズに入団を果たしています。

入団当初、福留選手は打撃こそ合格点となる成績を残すものの、三振が多いことも指摘されました。その後は、打撃フォームの改革に取り組み、広角打法を意識することで、長距離打者よりもアベレージ・ヒッターを目指します。

そして、三振王の汚名を返上すべく、打席では粘り強く出塁率にこだわり、四球を選べる選手に変貌しました。

2018年シーズン終了時点で、福留選手は安打2,306本、本塁打312本を放っており、間違いなく日本プロ野球界に名を残す選手として、活躍を続けています。

そして、2019年で現役生活21年目を迎えている福留選手ですが、益々の記録の更新に期待がもたれています。

福留選手は、私はPL学園高校時代から知っている、全国的に有名な選手でした。今は残念ながら廃部になってしまいましたが、40代以上の高校野球ファンにとってPL学園は憧れでもあり、日本一野球が強い高校という強烈なイメージです。

そんなPL学園で1年生の夏から5番を任され、新チームになった秋からは4番に抜擢されるなんて、センスの塊以外何ものではありません(^_^;)

もちろん福留選手の努力も大きいとは思いますが、同じように高校で野球をやってきた私から言わせてもらうと、いくら努力しても勝てる訳がない、といった存在でしたね(笑)

背番号1番を付けた選手の傾向とは?

「1」という数字は、物事のトップを表すことから、プロ野球選手からも人気のある番号です。日本プロ野球においても、投手・野手に関係なく、チームの顔と呼べる選手が背番号1番を付ける傾向があります。

中日ドラゴンズの背番号1番は、内野手として活躍をした選手の傾向があります。福留選手も入団当初は内野手ですが、その後に外野にコンバートされました。

そして背番号1番を付けた内野手には、いぶし銀の選手から、長距離砲のスラッガーまでが揃っています。

また、中日ドラゴンズの背番号1番は、12球団の中でも最もチームリーダーとして活躍した選手の傾向があります。特に、選手を引退後に監督やコーチを努める選手が多い傾向もあります。

戦後、中部日本軍時代に活躍をした坪内道典選手、引退後に巨人の参謀としてV9 に貢献をした牧野茂選手、1960年代に活躍をした濃人貴実選手や高木守道選手も、引退後に監督を歴任しています。

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背番号別の特徴

おわりに

今回は、中日ドラゴンズの背番号1番を特集してきましたが、いかがだったでしょうか?中心選手であるとともに、現役引退後は指導者になる選手が多いのが、中日の1番をつけた選手の特徴だという事がわかりました。

2019年からは京田陽太選手が、背番号1番をつけて活躍しています。大学卒とはいえ、3年目という速さで背番号1番を任されたという事は、球団の京田選手にどれほど期待しているかがわかります。

京田選手と同じようなプレースタイルで、20年間も背番号1番をつけてきた高木選手を超えるような大活躍が出来るのか、今後に期待していきたいと思います。

最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。