オリックスバファローズの背番号1番!歴代の選手と傾向を紹介!

背番号の意味

こんにちは、当ブログの管理人、元高校球児のみっつです!

プロ野球で200勝をあげたピッチャーは、超一流の選手として誰もが認めるところですね。今の先発ピッチャーは、しっかりと間隔を空けて登板するので、200勝するのは至難の業と言えるかもしれません。

ですので、300勝なんていうと、どんだけ登板したら達成できるのか、見当もつきません。そんな300勝以上あげたピッチャーが日本には6人もいます。

今回は、そのうちの1人である鈴木啓志選手もつけていた、オリックスバッファローズの背番号1番を特集します。前身球団を含めて全ての背番号1番の選手名と、特に活躍した3選手の経歴をご紹介しますので、楽しみにしてくださいね。




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歴代の背番号1番を背負った選手をご紹介

オリックスの歴代の背番号1番を付けた選手を、旧阪急ブレーブスと旧近鉄バッファローズの創立時から、一気にご紹介します。

旧阪急
年 度年 数球 団 名選 手 名
1936年~1938年3年阪急軍宮武三郎選手
1939年~1945年7年阪急軍空 白
1946年~1948年3年阪急軍~阪急ブレーブス日比野武選手
1949年~1953年5年阪急ブレーブス西村正夫選手
1954年1年阪急ブレーブス野口二郎選手
1955年~1958年4年阪急ブレーブス木織武美選手
1959年1年阪急ブレーブス青田昇選手
1960年1年阪急ブレーブス空白
1961年1年阪急ブレーブス大下弘選手
1962年1年阪急ブレーブス小川博選手
1963年~1973年11年阪急ブレーブス山口富士雄選手
1974年1年阪急ブレーブス空白
1975年~1980年6年阪急ブレーブスバーニー・ウィリアムス選手
1981年~1987年7年阪急ブレーブス蓑田浩二選手
1988年~1997年10年阪急ブレーブス        ~オリックス・ブレーブス    ~オリックス・ブルーウェーブ福良淳一選手
1998年1年オリックス・ブルーウェーブ藤本博史選手
1999年~2001年1年オリックス・ブルーウェーブ加藤伸一選手
2002年0.5年オリックス・ブルーウェーブ戎信行選手
2002年~2003年1.5年オリックス・ブルーウェーブ副島孔太選手
2004年1年オリックス・ブルーウェーブ後藤光尊選手
旧近鉄
年  度年 数球 団 名選 手 名
1950年1年近鉄パールス空白
1951年1年近鉄パールス和田久太郎選手
1952年1年近鉄パールス中田庄治郎選手
1953年~1957年5年近鉄パールス武智修選手
1958年~1959年2年近鉄パールス~近鉄バッファロー加藤晃郎選手
1960年~1961年2年近鉄バッファロー平井三郎選手
1962年1年近鉄バッファローズ木塚忠助選手
1963年~1965年3年近鉄バッファローズ矢ノ浦国満選手
1966年~1985年20年近鉄バッファローズ鈴木啓示選手
1986年~2004年19年近鉄バッファローズ~大阪近鉄バッファローズ空白
統合後
年  度年 数球 団 名選 手 名
2005年~2006年2年オリックス・バッファローズ後藤光尊選手
2007年~2008年2年オリックス・バッファローズテリー・コリンズ選手
2009年~2013年5年オリックス・バッファローズ後藤光尊選手
2014年1年オリックス・バッファローズユニエスキー・ベタンコート選手
2015年~2018年4年オリックス・バッファローズ中島 裕之選手
2019年~2021年3年オリックス・バッファローズスティーブン・モヤ選手
2022年~オリックスバファローズ福田周平選手

旧近鉄バッファローズの背番号1番を背負った選手が少ないのは、日本プロ野球の歴史に名を残す大投手、鈴木啓二選手が20年間に渡り付けていたからです。

そして、鈴木選手の引退後は、球団が消滅をするまでの19年間、永久欠番として扱われていたからになります。

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背番号1番を背負って活躍した3選手のご紹介

次に、旧阪急ブレーブスからこれぞ背番号1番と呼べる2名の選手、そして旧近鉄バッファローズからは鈴木選手をピックアップし、経歴をご紹介しますので、是非参考にしてください。

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鈴木啓示選手

生年月日  1947年9月28日
出身地   兵庫県
投/打   左/左
プロ野球歴 近鉄バッファローズ(1966年~1985年)
タイトル  最多勝3回、最優秀防御率1回、最多奪三振8回

まずは最初にご紹介しました、鈴木選手からです。鈴木選手は、チームのエース投手が背番号18番を付けることが多い中で、背番号1番を付けて活躍をした大投手です。

その鈴木選手は、高校出身ながらも、ルーキーシーズンから15年連続で2桁勝利を挙げると、通算317勝を達成し、ノーヒットノーラン2回の記録も残しました。

鈴木選手は、座右の銘の「草魂(そうこん)」のとおり、常にひた向きに野球に取り組み、当時、パ・リーグのお荷物球団と呼ばれていた近鉄バッファローズの中で、孤軍奮闘の活躍をしました。

通算勝利数は4位の317勝ですが、先発での勝利数288勝というのは日本プロ野球の歴代1位となっています。逆にセーブはたった2個であり、鈴木選手がいかに先発にこだわっていたかがわかる数字です。

鈴木投手が付けていた背番号1番は、引退した1985年に所属していた近鉄バッファローズが永久欠番としました。これはパ・リーグ最初の永久欠番となり、当時、地味なイメージの強かったパ・リーグのファンに大変喜ばれたのです。

しかし、2004年に近鉄バッファローズとオリックス・ブルーウェーブの間で、球団合併が行われると、オリックス・ブルーウェーブには、背番号1番を付けていた選手がいたことから、パ・リーグ唯一の永久欠番でもあった鈴木選手の1番は消滅することになりました。

私は自分が左利きという事もあり、左投げや左打ちの選手に親近感を感じる事が多いです。勝手に仲間意識が芽生えるというか(^_^;)

鈴木選手にも親近感を感じていたのですが、何と元々は右利きであったという事実を知りました。何でも4歳の頃に右腕をケガして、父親から左利きにさせられたのだとか。

確かに何となく投球フォームが『機械的』な感じはしていたんですよね(笑)この左利きへの転向が、鈴木選手の人生を大きく変える出来事になったのは、間違いないでしょうね!

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蓑田浩二選手

生年月日  1952年3月11日
出身地   広島県廿日市市
投/打   右/右
プロ野球歴 
阪急ブレーブス(1976年~1987年)
読売ジャイアンツ(1988 年~1990年)
表彰    ベストナイン:3回、ゴールデングラブ賞:8回

蓑田選手は小柄ながらも、走・攻・守すべてにバランスのとれたオールラウンダーとして、1983年には打率0.312・本塁打32本・盗塁35本を記録し、トリプルスリーを達成をした選手です。

その蓑田選手の高校時代は、甲子園への出場経験はありませんでしたが、南海ホークスのスカウトの目に止まり、ドラフト4位で指名を受けました。

しかし、プロ野球でプレイする自信が持てなかったことから入団を拒否し、三菱重工三原に入社します。すると、社会人野球では都市対抗野球大会に4度出場するなど活躍を見せた蓑田選手は、1976年に阪急ブレーブスから再びドラフト指名を受け、プロ野球入りを決意しました。

入団1年目は、中々試合出場の機会に恵まれませんでしたが、2年目にレフトを守る大熊選手がケガで離脱したことから、レギュラーに定着をいたします。

2番打者を任されていた蓑田選手でしたが、当時の上田監督に好打者としての素質を見出されると、3番打者として活躍をするようになります。また、強肩で鳴らした蓑田選手は、8年連続でゴールデングラブ賞にも輝きました。

オールラウンダーの蓑田選手は、三拍子などではなく「四拍子も揃った選手」と称されることもありました。

私が蓑田選手で最も印象に残っているのは、トリプルスリーに関してです。プロ野球でトリプルスリーというと、一般的には最初にご紹介した打率3割以上、ホームランと盗塁数が30以上を指します。

しかし蓑田選手は、1980年に別のトリプルスリーを達成しているのです。これはホームラン、盗塁に加えて、打率ではなく犠打30以上で、ホームラン31本、39盗塁、31犠打で達成しました。

2019年8月現在でこのトリプルスリー達成しているのは、蓑田選手のみ、とても貴重な記録として残っています。そして1983年には、0.312、32ホームラン、35盗塁を記録して、史上4人目の一般的なトリプルスリーをも達成しました。

この記録こそが、蓑田選手の選手としての特徴を表していますよね!




福良淳一選手

生年月日  1960年6月28日
出身地   宮崎県延岡市
投/打   右/右
プロ野球歴 オリックス・ブルーウェーブ(1985年~1997年)
表彰    ベストナイン:2回

福良選手は社会人野球から当時の阪急ブレーブスに、ドラフト6位で入団をしました。ドラフト下位指名ながら、堅実な守備と、勝負強いバッティングにより、2年目にはレギュラーの座を掴み取ります。

すると、打率0.309の好成績を残し、入団2年目まで権利のある新人王争いに名乗りを上げましたが、西武ライオンズに入団をしたスーパールーキーの清原選手にタイトルを奪われてしまいました。

1989年、球団が阪急ブレーブスからオリックスに変わると、ブルーサンダー打線と呼ばれる強力打線が誕生します。そこでも、福良選手は1番松永選手から3番ブーマー選手、4番門田選手へのつなぎ役の2番打者として活躍をいたしました。

また、福良選手の堅実な守備を示すものとしては、1994年に日本記録を樹立した、連続守備機会無失策836回がありますが、この記録は2塁手として現在も残っています。

福良選手は社会人野球から当時の阪急ブレーブスに、ドラフト6位で入団をしました。ドラフト下位指名ながら、堅実な守備と、勝負強いバッティングにより、2年目にはレギュラーの座を掴み取ります。

すると、打率0.309の好成績を残し、入団2年目まで権利のある新人王争いに名乗りを上げましたが、西武ライオンズに入団をしたスーパールーキーの清原選手にタイトルを奪われてしまいました。

1989年、球団が阪急ブレーブスからオリックスに変わると、ブルーサンダー打線と呼ばれる強力打線が誕生します。そこでも、福良選手は1番松永選手から3番ブーマー選手、4番門田選手へのつなぎ役の2番打者として活躍をいたしました。

また、福良選手の堅実な守備を示すものとしては、1994年に日本記録を樹立した、連続守備機会無失策836回がありますが、この記録は2塁手として現在も残っています。

私の福良選手のイメージと言うと、とにかく地味・渋い・玄人受けするプレーと言った感じです。連続無失策記録は、最も福良選手らしい記録かなと思います。

しかし記録を調べてみると、打率3割を3回も記録して首位打者争いをしてみたり、満塁ホームランを打ったりと、派手な面もありました。
そして年俸も最大で1億円超えていて、とても地味とは言えない活躍をしていたようです。

勝手に地味なイメージを持ってしまっていて、福良選手ゴメンナサイ(^_^;)

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背番号1番を付けた選手の傾向とは?

「1」という数字は、物事のトップを表すことから、プロ野球選手からも人気のある番号です。日本プロ野球においても、投手・野手に関係なく、チームの顔と呼べる選手が背番号1番を付ける傾向があります。

オリックスにおける背番号1番は、旧阪急ブレーブス、旧近鉄バッファローズからみても、圧倒的に野手の傾向があります。特に、打線の中心として活躍した選手に多い傾向があり、これまでに3人の外国人選手が付けているのも特徴です。

その中でも、旧阪急ブレーブスの背番号1番を背負った、バーニー・ウィリアムス選手、蓑田浩二選手、福良淳一選手は、1970年代後半から1980年代にかけてのチームの黄金期を支えた選手に受け継がれました。

一方で、旧近鉄バッファローズでは、唯一投手として背番号1番を背負った鈴木啓二選手が、パ・リーグ初の永久欠番になったことが大きな特徴といえます。

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おわりに

今回は、オリックスバッファローズの背番号1番を前身球団からご紹介しましたが、いかがだったでしょうか?300勝投手の鈴木選手を除けば、野手がつけてきた傾向がわかりましたね。

オリックスバッファローズになってから、背番号1番を長くつけて活躍した選手はいません。プロ野球でも人気のある1番、今後オリックスでどのような選手が歴史に名を刻んでいくのか、注目していきたいと思います。

最後までお読みいただき大感謝!みっつでした。

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